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日時 : 2004年6月15日(火)15:15〜16:45 場所 : 福祉パルみやまえ会議室 司会 : 茅島 真遠子(RUMAH・セシエン職員) |
(講師紹介) 香野英勇さんのプロフィールを簡単に紹介させていただきます。昭和43年に埼玉県でお生まれになり、昭和61年に統合失調症を発病なさっています。その後、「やどかりの里」にお通いになっています。「やどかりの里」に通いながら、当事者活動に強い関心をもつようになり、当事者活動についての勉強を重ねられています。現在は「やどかり情報館」というところにお勤めになっています。「やどかりの里」のことはご存知の方も多いと思いますが、1970年に活動を開始しています、私たちの大先輩に当たります。非常に先駆的で、すばらしい活動を展開してきています、私たちアピエみやまえの立ち上げが1993年ですので、親子ほど年がはなれています。「やどかりの里」の理念に導かれるようにして、私どもも活動をしてきたかなあという風に思っています。それでは香野さんよろしくお願いします。 (講演内容) 皆さんこんにちは、香野英勇です。今日は、ざっくばらんにお話させていただきます。 僕は1968年生まれで、現在35歳です。18歳で発病し、19歳の時から埼玉県大宮にある「やどかりの里」に通っています。私の名前は「英勇」ですが、病気をした時は非常に親を恨みました。「英知があって、勇ましく」という希望がこめられていますが、僕は挫折をしてこの病気になっていますから。僕はアメリカに留学していて卒業できずに帰国し、発病して入院をしています。名前負けをしている、と。今では自分の名前にふさわしいと思っています。こんな感じで傲慢な男です(笑)。 現在、僕は厚生労働省の「精神障害者の地域生活支援の在り方に関する検討会」や、さいたま市の障害者施策推進協議会に呼ばれたり、講演会で全国各地を回りながら生業を立てています。 私が精神分裂病と診断を下されたのは、25、6歳のときです。それまでは薬を飲みながら診断を下さず様子を見る状態だったのですが、自分では「絶対分裂病だろう」と思っていて、非常に葛藤した時期が続いていました。そのようなわけで、僕の病気の15年間は最初の5年、真ん中の5年、最後の5年で心の動きを区切ることができると思います。今では自分の障害を受け入れていて、逆にプラスに考え、病気を逆手にとって生きていこうと思っています。しかし、それまでは非常に弱々しく、体は大きいけど線の細い19歳の男でした。 まず、大事なこととしては、18歳で精神病院に入院をしてこの病気と付き合いだしたわけですが、実際には、親も僕も気がついていなかったけれど、小・中・高とおかしなことやこだわりすぎたことがあったということです。僕は小学校でつらいいじめを受けて、中学校では別の人にいじめをしていました。15、6歳の高校受験の頃からおかしくなっています。僕は、当時いわゆるつっぱりになっていて普通の友達からは敬遠されていましたが、帳尻を合わすようにアチーブメントテストではいい点数を取ろうとしていました。横浜市の場合、公立のいい高校に入ることがいい進学につながっていたので、私立高校を受けずに実力より高い高校に入ることにこだわりだします。先生や親は無理かもしれないと思っていたのですが、僕は「いいんだ、中学浪人するんだよ」と言っていました。今考えると、これは固執だと思います。 実際には私立高校に進学しましたが、腹痛が起きたりして行けなくなりました。母親が高校のスクールカウンセラーに相談したところ、「このままだとずっとひきこもりになる可能性がある。だったら本人の希望であるアメリカに行かせてやり、むこうで学校に行かせればいいのでは」という枠からはずして楽にさせてやるようなアドバイスをくれました。僕は一人息子だったので、16〜8歳はアメリカで過ごしました。 アメリカでは、自分に厳しいところで高度教育を受けるのだと、あえて日本人のいない田舎町を選びました。そこで僕は孤立するわけです。僕の病気の原因はもろもろのいじめもありましたが、最終的にはアメリカでの孤独感を味わい、実際に孤立していたことでした。本来、統合失調症になりうる要素を持っていたとしても、ストレスをたくさん溜め込まなければ発病しないということもあります。が、僕の場合は、あえて自分の首をしめてしまったということです。そんな時自殺を図りました。 僕は風邪薬をほとんど吐いてしまい命は助かったものの、次の日ほとんど耳が聞こえませんでした。2、3日したら聞こえるようになりましたが。そのようなことをやっていても、ホストファミリーは問題としてとらえていませんでした。だからまた我慢して学校に通いました。「やどかり」には200名の仲間がいますが、僕もそうですが、基本的にはクソまじめなんですね。 僕は日本に一時帰国して、今度はアメリカの都会に留学します。そこで留年してしまい、3年間もアメリカにはいられないと思いました。親はお金を出すと言っていたのですが、「もう1年も経済援助してもらって勉強するのは申し訳ない」と嘘を言って帰国します。 帰国と同時に、自分の思考と行動が合わなくなり、眠れなくなります。そして日本の精神病院に入院しました。親も僕も同意の上で入院したのですが、ドアをバシャンと閉められて中に入ったとき、「大きな間違いをおかした」とわかりました。戸塚区あたりの国道1号線沿いのいい場所にある病院でした。施設特有の臭いがし、周りの患者さんが受け入れられませんでした。僕は、統合失調症になるまでそういう病気のことを別世界のことだと思っていました。目の前の患者が怒っていて殴られるんじゃないかと思うけど、殴らないで笑っている。何も映っていないテレビを見て笑っている人がいる。僕が患者なのに、ほかの患者を受け入れられないのです。「すぐに出してくれ」と僕は言いました。その返事は、「出せるわけありませんよ。先生は、来週にならないと来ません」です。「とんでもない!ここには自分の意志で入ったのだから、出られる権利があるはずだ」と押し問答をしているうちに感情が高まってきて、「自傷他害」の恐れがあるというお決まりのものさしで、看護人に体をつかまれ鉄格子のある完全閉鎖病棟の保護室にバシャーン、ガチャガチャと入れられました。そしてそこで3ケ月過ごします。ここでのことは長くは言いませんが、そのあと病棟で3ケ月間過ごすうちに自分の病気のことを受け入れられるようになります。そして受け入れがたかった仲間、年をとった社会的入院患者の方のことも受け入れ、病院で生きていくためには彼らから病院のオキテを学ばなくてはいけないということを知ります。かつ、看護師の言うことも聞き、まるで泳いで渡るような生活でした。 そしてやっと6ケ月経って退院します。僕は退院して実家に戻ることを当たり前のことだと思っていました。でも僕が病院で親と面会してちょっとケンカなんかをすると、中高年の入院患者の人が「そんなふうにケンカをしていると、あなたのお父さんやお母さんが本当に自分のことを悪く思っているのだと取って、あなたを諦めちゃうかもしれないよ」と言われました。つらい入院体験でしたが、あれがなければ親のありがたさもわからなかったと思います。統合失調症になったことは決して嬉しいことではないですが、人生いいときに苦労を味わったし、苦労のおかげでいろんなことが分かり、自分の人生に厚みを増したと思えるようになりました。 次に、「地域で生きるとは何か」ということですが、地域社会の中でお互いを認め合うことをしなくてはならないと思います。僕はとなりの家のオバサンが怖かったのです。実家に戻った後、近所のオバサンたちが僕のことを白い目で見ているのではないかと被害妄想的に思っていて、ひきこもりのような状態になっていました。突破口を開いてくれたのは父と母で、世間体を気にせず外に連れ出してくれたのが母でした。「親が変わらなくては子も変わらない」といった家族会の研修で聞いたようなことを実践していたわけです。僕には「あんた最近太ったから洋服でも買ったら。お金をだしてあげるわよ」と言うのです。「じゃあ行くよ」と少しずつ外出するようになり、次第にどんどん出て行くようになりました。あるとき、偶然、となりのオバサンに会います。僕は「あんた精神分裂病でしょ」と言われるのを一番恐れていました。今、考えてみれば、ありえないです。実際にそのオバサンがなんと言ったかというと、「こんにちは。この頃、英勇くん太ったみたいだけど、暑いからビール腹なの」ということでした。褒められてはいませんが、うれしくなるような言葉でした。それほど周りの人間は気にしていないということがわかったのです。父も、「他人はそれほどお前を気にしていないよ。自分のことで手一杯なんだよ。だから統合失調症であろうとも、そのことを理由に何かしたいことをやめたりせず、自分の思うようにやりなさい」と言ってくれました。 それでも、その後の5年間は、自分の病気を呪ったり、親を恨んだり、社会に戻れないと諦めもしていました。しかし、その後の5年間は、「やどかり」の作業所に通いながら通信制の高校に通ったり、さらにはアルバイトをするようになりました。今の精神障害者のおかれている現状をみとめながらも、少しでも前に行こうという姿勢に変わったのです。学校のほか、料理を作る作業所に通い、一日に2、3時間働く時給1,000円のプールの監視員をしていました。精神障害者になって抜け落ちてしまった青春時代のようなものを、20歳すぎて全部取り戻すような感じでした。人間性を回復するプロセスがあったわけです。そして通信制高校を5年かけて卒業する頃に、もっと勉強しようと、障害者である自分が福祉を学んだらもっと仲間のために役立つかもしれないと考え、推薦が取れたので専門学校に行きました。そこでは体育祭などは休み、自分ができることだけをやって、要領もよくなってさぼることを覚えました。あまりいいことではないかもしれませんが、この病気と付き合うにはこのような要領のよいずる賢さが必要なのだと気がつき始めました。そして2年間で卒業することができました。 卒業時、知的障害者の施設で働かないかという申し入れがありました。もちろん、障害者であることは隠してです。同時に、「やどかりの里」に福祉工場ができ、最低賃金が保障されるという話もありました。僕は、今までの経験上、知的障害者の施設でも頑張れば務まるが、1、2年で再入院してしまうだろうと考えました。僕は体験から経験にしていったのです。月7、8万の最低賃金はいやだと思いましたが、年金を月約7万もらい、親からの月2万程度の援助をしてもらえば、一人暮らしができたのです。僕は3万5,000円くらいのアパートに住んでいました。でもお金だけではないだろう、福祉工場だったら精神障害者であることを明らかにして働けると前向きに考えたのです。その後は、すべてを前向きにとらえることによって、世間の負け組でもいいじゃないかと価値を見出せるようになりました。今年で8年目になります。福祉工場での仕事の内容は、やどかり出版の編集作業や、やどかり印刷で本を作って販売しています。自分が精神障害者であることを持ち味にして、自分に求められる仕事をしています。実は、病気になる前の僕の夢は本を書くことだったのですが、『マイベストフレンド』という本を出しています。未だに信じられないことです。自分が認められる体験をしているので、自信はつきますし、やる気がみなぎってきます。仕事は1年目は苦労しましたが、2年目から順調に働けるようになり、その頃に妻と結婚し、3年目にはお腹に赤ちゃんができ、4年目に生まれました。世の中では当たり前のことが、統合失調症ということでいかにタブー視されてきたかを痛烈に感じますし、変えていかなくてはと思います。Think globally、Act locally というように地球規模で考え、地域規模で活動をしていくことが大切だと思います。当事者も自発的に学べるということを分かってもらい、皆で協働し、学び合いながら何ができるのだろうと考えていけるようになれば、と思っています。 最後にひとつ。いろんなところで自分の体験を語り、世の中を変えていこうとしている当事者が多くいます。しかし、厚生労働省や国は非常に計算づくで会議をすすめたりもしますので、このような純粋な思いがもろくも崩れさることがあります。ですから、強い思いだけではなく、具体的にどのようにどのようにしていけるのかという意識をもっていく必要があると思います。そして当事者の方たちは、自分たちが精神保健領域の専門家なのだという意識を持ち、この町は自分たちの町だ、自分たちが市民として認められてこそはじめて地域ができるのだ、ということを思ってもらえればと思います。 (質疑応答) ○ お子さんがおられるということですが、精神病の親でも子供は五体満足で生まれてくるのですか。 ―― それも社会でタブー視されてきたことだと思います。医者の中には、遺伝するのだという人もいます。解放出版社から出ている『精神障害者の一問一答』などを読むと、明らかに遺伝の数値のレベルではありません。ご質問の根底にあるのは、精神障害者の親を持ったことに対する差別があるのではないかということと、精神障害者が子供を作ること自体いかがなものかということがあるかと思います。後者については、僕の場合、相思相愛で、当然のことだったからです。心配を考えればきりがないですが、大事なことは統合失調症の自分や、自分が好きになった相手を大切に思えるかということだと思います。その後、必然のこととして子供が生まれて、もし、その子が病気になったり、親のことで後ろ指をさされたりしたら、アドバイスもするし、助けもします。精神障害の親だからこんないい子が育ったとしていけるようにしたいと思います。 ○ 最近薬が減ってきて、医者もアルバイトができるというのですが、こういう病気をしているとできないことがあるので、どうやっていけばいいのでしょうか。アドバイスがあれば教えてほしい。 ―― 自分がやれそう、やりたいと思ったり、その後体調を崩し、入院したとしてもいいというような覚悟があったり、リスクを取る事を恐れずに前にすすめるのか等といった色々な基準があるかと思います。大事なことは、あなた自身がどうしたいか、どう判断するかということです。成功の秘訣は自分ができそうだと思ったときに自分でやるということ。嫌なのに無理してやることはないです。薬の件は、減らしているということはよくなっているとも言えますが、治っていくことではなく、今まで以上のストレスがかかれば再発するので、バランスを取りながら慎重にすべきだと思います。 ○ 僕は精神病で近所の人の目が気になっていました。でも、ある時、裏のおじさんが亡くなりお線香をあげにいきました。そしたら陰口を言っていたおばさんが挨拶をしてくれるようになりました。この地域がもっと楽しく、偏見がなくなればと思います。宮前ハンズで生田病院に行き、最初は怖そうなところだと思いましたが、患者さんが楽しそうにしていてこのようなこともいいのではないかと思いました。 ○ なんでアメリカに行きたくなったのでしょうか。 ―― 厳密には行きたくなって行ったのではないと思います。理由としてはもともと留学したかったのと、父が貿易商のため海外に興味があったのと、中学の途中まで英語が得意だったからだと思います。留学は挫折した訳ですが、今ではサンディエゴに学会に行ったり、アメリカの当事者と仲良くしたりしています。障害によって諦めたことがあるなら、それは諦める必要はないと思います。 ○ アメリカで成功しようとしたのでしょうか。子供は何人欲しいですか。 ―― 帰国子女枠で簡単に大学に入ろうとしたのです。子供は気がむいたら、ポンポンということで。 ○ アメリカ・欧米の精神医療について教えてください。 ――僕が留学した時代(1986年頃)は、レーガン政権で「脱施設化」が言われていました。福祉に予算をつけずに、一気に施設を閉鎖したために、当事者はホームレスになってしまいました。ホームレスに支援がまわってやっと薬が飲める状態になりました。今は、1990年代に「脱施設化」が完了し、日本より進んでいます。但し、州立病院は終のすみかのようになっています。アメリカはその時々でいいか悪いかが決まるようで、僕や他の先生は実際に向こうに住もうとは思っていません。 ○ 現在、生活保護を受けています。自分としては仕事をしたいのですが、どうすればいいのですか。 ――僕の周りで一生懸命働いて生活保護を返上した人がいましたが、これはまれです。どういう形が一番いいのかというと、生活保護の金額が減らされてもリハビリだと思って働き、働けるような体力を回復していくこと。道のりは長いですから、まずは生活保護を受けながら、自分の体の限界を知ることが第一歩だと思います。 以上 |
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