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ラジオに目覚めたのいつだったか?
たしか小学校5年(1967年)の秋頃で、青森の八戸市に住んでいる頃だった。

【八戸市河原木二階堀】
最初に作ったのはやっぱりゲルマラジオ。
千葉に出張した父親が秋葉原で買ってきたもの。
μ同調式で、300円くらいだったか?今でもある。
買って来てくれと頼んだのかどうかは忘れた。


家では電灯線アンテナで聞いたが
隣の畑に何かを乾かすために長いワイヤーが張ってあって
それにつなぐと良く聞こえた。
またそのゲルマラジオを6石のホームラジオの上に乗せて
クリスタルイヤホンに息を吹きかけると
6石のスピーカーが鳴るという珍現象を発見。
ワイヤレスマイク状態だった。今でも理由はわからず。
それから『子供の科学』(1冊手元にあります)を愛読し始める。

【『子供の科学』1968年12月号】
親父に頼んで次の関東出張の時に、秋葉原で
ゲルマを1石に改造するパーツを買ってきてもらった。
ポリバリコン、2SB110、コンデンサー、抵抗のほかに
2mmのビスを1本頼んだのだが
秋葉の店のおじさんがただでくれたという。
近くの人に読み終わった『初歩のラジオ』を何冊か(1967年7,10,11月号)
譲ってもらい、食い入るように眺めていた。

【『初歩のラジオ』1967年10月号】
6年のときに2石レフレックス・ラジオ・キットを作り
最初に聞いたのがビートルズの「バックインザUSSR」と
いしだあゆみの「ブルーライト横浜」。
ちょうどその頃は八戸港が見える丘に引っ越したばかりだった。

【八戸市河原木八太郎山から太平洋を望む
右端の木立の向こうが八戸港】
夜11時の前田武彦と榊原るみの番組を毎晩聞いていた。
『子供の科学』1967年10月号から4回にわたって掲載された
JA1HMN野川清三郎OMの記事に従って
4球スーパー(シリコン整流)を作り始めたのはその頃だった。
小遣いが1日10円だったので、専用シャーシを買うのにも1か月分必要だった。
シャーシと真空管ソケットを買ったら1文無しで
何もすることがないのでアースとヒーターだけ配線して
それを2,3ヶ月毎日眺めていた。
正月のお年玉でトランスやらIFT(TRIO T-6)やらを買う。

【TRIO IFT T-6】
真空管はもらった物(6AQ5)や拾ったもの(6BE6, 6AV6)。
あいにく中間周波増幅用の6BA6も6BD6がなかった。
隣に住む自衛隊のおじさんからもらった軍用の52という球が
6BA6のピン配置と同じだったので使ってみたら、うまくいった。
形と大きさは6AK5と同じだが、リモートカットオフかどうかも分らなかった
いっしょに6AK5も数本もらった。当時はおそろしく高価な球で
文字通りお宝のように大事にし、いつかプリセレかクリコンを作ることを
夢見ていた。40年後の今もこの球は、使われることを待っている
この4球スーパーが完成して鳴ったときの喜びは無線の原点である。
モガモガをどうしても検波したくて
BFO回路、プロダクト検波回路(結局うまくいかず)など組み込む。
スプレッドバリコンを取り付けたり専用ケースを作った。
その後は、10〜30MHzの自励コンバーターやら
中波の2球ワイヤレスマイクやらも作る(これは結構飛んだ)。
自励コンバーターは6U8のMIX/OSCのみ。
よく聞こえたが、バリコンが430PFx2だけで
おまけに安定が悪く、ハムバンドの受信は至難の業。
クリコン作りたくても、水晶は目玉が飛び出すほどの高嶺の花だった。
よく行く市内の電気屋のカウンターの後ろに、当時発売されたばかりの
ピカピカのTX-88Dが飾ってあり、いつも涎を垂らして見ていた。
その後中学2年の時、八戸から千葉の柏市近くに転居したが
ある日家に帰ってみると、勉強机の上に、なんと!
そのTX-88Dと、VFO-1それにSM-5Dが鎮座しているではないか!!!
夢幻かとわが目を疑う。

【トリオのTX-88D】
親父が同僚からもらってきたものだった。
そのOMさんは出た直後のFT-101に乗り換えたとのことだった。
またSM-5Dは間違って渡したことも分かり、後にCC-26に交換された。
ほんの数日だけうちにあった。
このSM-5Dをもらっていれば、その後モガモガマンになっていたかも。
CC-26だったので6mAMマンになった!?
TX-88Dにはオリジナルより2まわりもデカいトランス(山水P-90B)が
乗っていて、鉄のシャーシにファイナルの穴が1個追加されていた。
変調基板、コイル、VCは付いていたが、CR等の小さな部品はほとんどなし。
SSB用のリニアに改造する途上だった。
高校で理科部無線班に入りにライセンスを取る。
先輩が「電信も受けろ!」としつこく言うから、ちょびっと練習して受験した。
うかりっこないと思ってたが、後日、合格証が来たのにはおどろいた。
試験会場は蒲田だった。
無線部では3.5のAMなんかやっていた。9R-59とTX-88A+水晶だった。
このとき使い倒したので、この機械には今は興味はない。
一度QSO中にファイナルのRFCあたりからもくもくと煙が上がったのには驚いた。
10Wの高周波に感電して、その恐ろしさを知ったのもこのリグだった。
この一回で高周波の電撃には懲りた。
100Wだったら死んでいたんじゃないかと今でも思う。
コンテストでは卒業した先輩が持ち込んだ八重洲の100Bラインに
校舎と校舎のあいだに張った7MHzのワイヤー2エレで出たりした。
(この2エレは後日CQ出版の『アンテナ・ハンドブック』に紹介された)
あんまり強力なのでほんとに10Wライセンスなのかと他局に疑われた。
送信機はFL-200Bだったから、もちろんウンWだった。時効。
無線部の他の連中はIC-71やらTS-311,310ラインやらを親に買ってもらっていた。
ことに先輩が持っていて一度だけ使わせてもらったTS-511にはしびれた。
今から思うと過渡期の非常に中途半端な機械だが、今でもそのフェイスには弱い。
高校2年の夏休みだったか、ジャンク部品と大枚はたいて買った
オーディオ・アンプ用の倍電圧整流用電源トランス(山水PV-270)を
使って、TX-88Dを組み立て直した。
受信機は小学校の時に作った4球スーパーをばらして組み直した中2だった。
局発にはFET(2SK19)とタイトボビンのコイルを使った。

【開局時のリグ】
秋に局免を取って6mAMでオンエアした。
それまで、小遣い以外、親に金をせがんだことはなかったが、
この時だけは、5エレの八木に出資してもらった(秋葉原で買って電車で持ち帰った)。
コンジット・パイプを2本つないで二階のベランダの手すりに縛りつけ
ナイロンロープで三方向にステイを張って、アンテナ・ポール代わりにした。
ESで五島列島の福江市の局とQSOし、興奮した。
この頃はプリフィックスが1年足らずで新しくなっていた。
今は昔の1973年のことである。
これにておしまい。