英米文学理論の推奨書

 

入門書(批評理論全般)

Catherine Belsey, Critical Practice 2nd ed. (New York: Routledge, 2002)(格好の入門書)

 

テリー・イーグルトン『文学とは何か』大橋洋一訳(岩波書店) Terry Eagleton, Literary Theory: An Introduction (Oxford: Basil Blackwell, 1983)(入門書としてはやや難しいかもしれないが、名著)

 

M. H. Abrams, A Glossary of Literary Terms (New York: Holt, Rinehart and Winston, 1981)(文学用語事典。新批評系の事典だが、改訂するごとに新しい批評動向も採り入れた。説明も簡潔・明快。韻律の項目も充実)

 

Chris Baldick, Oxford Concise Dictionary of Literary Terms (Oxford: Oxford UP., 2001)(理論や用語をきわめて明快に解説している。ただし、マルクス主義批評の用語は見当たらない。不思議ですね)

 

Keith M. Booker,Practical Introduction to Literary Theory and Criticism (New York: Longman, 1995) (平易。実際の作品に適用する場合の具体例が豊富)

 

ジョゼフ・シルダーズ&ゲーリー・ヘンツイ編『コロンビア大学現代文学・文化批評用語辞典』杉野健太郎、中村裕英、丸山修共訳(松柏社、1998年) Joseph Childers and Gary Hentzi eds. The Columbia Dictionary of Modern Literary and Cultural Criticism (New York: Columbia UP., 1995)(批評家、批評運動、批評用語について明快に解説している)

 

Vincent B. Leitch, American Literary Criticism: From the Thirties to the Eighties (New York: Columbia UP, 1988) (30年代から80年代までのアメリカの批評理論の明快な歴史。各流派の動向や思潮などに詳しい。理論自体の解説は少ない)

 

W. L. ゲーリン他『文学批評入門』日下洋右、青木健訳(彩流社、1986年、第2版の翻訳、絶版)(Wilfred L. Guerin and others, A Handbook of Critical Approaches to Literature 4th ed. (Oxford: Oxford UP., 1992) 初学者向けの好著。1966年の初版は新批評中心の入門書だったが、その後、版を重ねるたびに、新しい理論の紹介を加えてゆき、現在に至っているロング・セラー

 

篠田一士ほか編『世界批評大系』7巻(筑摩書房、1974-75年)(「世界」と銘打っているが、欧米の18世紀から20世紀半ばまでの代表的な評論と批評のアンソロジー。ポスト構造主義登場以前の、伝統的批評から新批評までを一望するには最適)

 

ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』(作者Jostein Gaarderはノルウェイの哲学教師で、原書はノルウェイ語。基本的には哲学史の本だが、「ヘレニズム」「中世」「ルネッサンス」「啓蒙」「ロマン主義」「ダーウィン」などの章もあり、世界史と思想史も兼ね備えている。中学生にも分かるように書いてあり、また内容も充実している。哲学、思想の入門書として最適。エンデの「はてしない物語」や「モモ」のようなミステリーの要素もあり、楽しめる。娯楽に関心ない人は、哲学の解説だけを拾って読むこともできる。日本語訳も秀逸。Paulette Mφllerの英訳 Sophie's World: A Novel about the History of Philosophy (New York: Berkley Books, 1994)もきわめて平易。英文科学生はこちらで読みましょう。はまる人は、はまります。万一この本が面白いと思えなければ、哲学・思想については、あなたは絶望的です。)

 

本文(ほんもん)批評(Textual Criticism)

大修館シェイクスピア双書(大修館)(各巻の解説にある本文批評に関する部分を読まれたい。本文批評を知るには何と言っても、最も盛んなシェイクスピアの本文研究を読むのが一番。)

 

(上級者向き)Fredson Bowers,Textual and Literary Criticism (Cambridge U. P., 1959) 、フレドソン・バワーズ『本文批評と文芸批評』田中幸穂訳(中央書院、1983年) Bowersはアメリカの本文批評の権威。WhitmanShakespeareの本文批評を論じた名著。注において、Studies in BibliographyShakespeare Quarterlyに掲載された重要な論文・文献が紹介されている。本文研究に特有の用語、特に印刷関係の用語が初心者には分かりにくい。何かよい入門書はないものか。邦訳は言語道断な悪訳。易しくはないが、英語で読むほうが早道)

 

(上級者向き)Paul Werstine, "The Texual Mystery of Hamlet," Shakespeare Quarterly, Vol.39, No.1(Spring, 1988), 1-26. (Q2Fの合成である現行のHamletの矛盾を突き、本文校訂の根本を見直す論考)

 

田川建三『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997年)(英米文学批評からはちょっと外れますが、本文批評がシェイクスピア以上に盛んなのが新約聖書です。700頁を越す大部の名著。読み始めると止まりません。ギリシア語が勉強したくなります)

 

新批評(New Criticism)

Rene Wellek and Austin Warren,Theory of Literature (New York: Harcourt, Brace, 1956) 『文学の理論』太田三郎訳(筑摩書房、1967年)(新批評の成果を総括した名著。60年代の日本でも盛んに読まれた。原書はいまだに入手可能。今は絶版の邦訳は、特に修辞学用語や文学史上の用語等の訳語が古めかしく、間違いも散見される。"Pre-Raphaelite"が「前期ラファエロ派」と訳されているのには驚愕した。)

 

川崎寿彦『ニュークリティシズム概論』(研究社、1969)  (日本語で書かれた最もすぐれた新批評の紹介書)

 

川崎寿彦『分析批評入門』(至文堂、1970年) (日本の和歌・俳句、小説への模範的応用例を含む)

 

小川和夫、橋口稔共編『ニュークリティシズム辞典』(研究社出版、1961年)(簡潔で要領を得た文学用語辞典)

 

Cleanth Brooks and Robert Penn Warren, Understanding Poetry (New York: Holt, Rinehart and Winston, 1964) (新批評の名著。詩のclose readingの理論書。英米詩のアンソロジーとしても有用。原書は、いまだに入手可能)

 

Cleanth Brooks, The Well Wrought Urn: Studies in the Structure of Poetry (New York: Harcourt, Brace & World, 1947)

 

Cleanth Brooks, Modern Poetry and the Tradition (New York: Oxford UP., 1965) クレアンス・ブルックス『現代詩と伝統』猪俣浩、大沢正佳共訳(南雲堂、1969)

 

精神分析批評(Psychoanalytic Criticism)

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力:試論』枝川昌雄訳(法政大学出版局、1984年)(フロイト、ラカンを援用した独自の記号論の世界。精神分析の知識がないと難解だが、親切にも作者自身が「自作解説」を付している[巻末]。こちらを先に読もう。また第1章だけでも概要がつかめるが、こちらは極めて詩的なスタイルで書かれている。すみずみまで理解する必要はなく[実際できない]、分かるところだけ読めばよい。 以下に「自作解説」の要点を抜粋する――宗教における浄化、カタルシスとは、おぞましさ[アブジェクト]から、すなわち主体と客体の不安定[不確定]な状態からの浄化である。 ...  諸規則への服従を旨とする社会全体の形成は、まず汚れたものを穢れたものに格上げし、神聖な機能が後者に付することから始まる。次にこれを儀礼によって分離、排除する。肉体と社会的コードが存在するには排除がなければならない。 ... 排除される対象は、権力を所持する幻想的な母の権威に結びつく限りでの「女性的なもの」、ということになる。...[前エディプス期における]母性的なものとの分離は元来は女性に対する何らかの憎悪に発しているのではなく、実は語る存在の論理的必然に即応している。 ... 人間は例外なく、語る存在となり、昇華能力を身につけるには、母なるものから自己を分離せねばならない。 ... セリーヌには、苦痛に満ちた肉体、いついかなる時でもすぐさま死体、腐敗、屑に転落しかねない肉体のテーマが遍在している。女性的なもの、ないし母性的なものに対する彼特有の対処の仕方にも興味を惹かれる。 ... セリーヌの反ユダヤ主義の問題だが、ユダヤ人は他者には違いないが、同一の者である可能性を秘めた他者として、ぎりぎりの限界の同一性、敵にして兄弟、それも妬ましい兄弟に類する者として扱われている。このユダヤ人の不安な形象にはホモセクシャルな基底的感情が伏在していて、同一化と投射の心理学的機制がごく自然にユダヤ人像に作用している。 ... 聖書が徹底的にアブジェクトと絶縁しようと望み、これをなし得たのと同じ程度にセリーヌもアブジェクトと手を切ろうとしたが、逆にこのアブジェクトに引き寄せられた。 ... 私が本書を書いたのは、『モーセと一神教』をいつも念頭におき、とくに『トーテムとタブー』で未解決のまま残されている近親相姦の問題に深く思いをひそめていたからだ。禁止なり、神話の発生源としての近親相姦[レヴィ=ストロース参照]ではなく、自己同一性を徹底的に問題に付す現象としての近親相姦である。)

 

元型・神話・ジャンル批評

Maud Bodkin, Archetypal Patterns in Poetry: Psychological Studies of Imagination (London: Oxford UP., 1934)  元型批評の古典的名著。Coleridge"Ancient Mariner"を論じた部分が重要。

 

ノースロップ・フライ『批評の解剖』海老根宏ほか訳(法政大学出版局、1980年) Northrop Frye, Anatomy of Criticism: Four Essays (Princeton, N.J.: Princeton UP., 1957) (元型・神話批評[ジャンル批評]の名著。英米を含む膨大な数の古今のヨーロッパ文学の作品を、読者がすでに知っていることを前提に論が進められる。「解剖(Anatomy)」は百科全書的な作品を意味する17世紀の英語。まさしく博覧強記の怪物的な本である。翻訳でも、全てを理解するのは初心者には困難。しかし、理論としては至って単純。読むのは第三エッセイの後半の4つのミュトス[mythos]の理論だけでもよい。春夏秋冬の4つのミュトスは、喜劇・ロマンス・悲劇・風刺の各ジャンルに対応し、それぞれが6つの相[phase]に分かれる。全部で24の相があるわけだが、それぞれの相の特徴を説明する数行だけを読んでいけば、神話理論の骨格は分かる。)

 

ギルバート・ハイエット『西洋文学における古典の伝統』(上下2巻。柳沼重剛訳、筑摩叢書1421969年。Gilbert Highet, The Classical Tradition, 1949)。(研究書。ギリシア・ラテン文学が西洋文学に及ぼした影響を論じる大部の名著。訳書は絶版だが、原著はいま現在もペーパーバックスで入手可。翻訳は極めて読み易い。凄腕の翻訳者である。取り上げる作品作家は、古英語詩『ベーオウルフ』に始まり、『薔薇物語』、『神曲』、ラブレー、シェイクスピア、モンテニュー等々を経て、20世紀のジェイムズ・ジョイス、TS・エリオット、エズラ・パウンドにまで及ぶ。前半部分(訳書上巻)だけでも卓越したルネサンス論として読める。ルネサンス期のイタリア、フランス、イギリス、スペイン、ポルトガル、ドイツの無数の詩と演劇作品が、古典との関連で論じられる。その学識たるや半端ではない。この本の命は永い。まだゆうに50年は生き続ける研究書だ。どんな英文学史の本より面白い。卓越したヨーロッパ文学史としても読める。ジャンル論としては、ノースロップ・フライの『批評の解剖』(Northrop Frye, Anatomy of Criticsm [1957])の先蹤だと思えるが、フライはハイエットに一切言及していない。フライは理論化に忙しいために晦渋だが、ハイエットは百科事典的であり、明快である。)

 

現象学批評(Phenomenological Criticism)

J. Hillis Miller, The Disappearance of God. (Cambridge MA: Harvard UP, 1963) (ヴィクトリア朝のド・クインシー、ロバート・ブラウニング、エミリー・ブロンテ、アーノルド、ホプキンズを論じている。デコンに転じる以前のミラーの著作。冷戦、新批評支配下の著作。しかし、反近代の諸思想、例えばマルクス主義の疎外、物象化の概念を一切使わずにヴィクトリア朝文学を論じても、如何に物足らないかがよく分かる。)

 

J. Hillis Miller, Poets of Reality. (Cambridge MA: Harvard UP, 1965) (現象学批評。Conrad, Yeats, Eliot, Dylan Thomas, Wallace Stevens, William Carlos Williamsを論じている。Williams論はなかなか読ませたという記憶があるが、もう40年前の話なので、もう一度読んでみなければ分からない。上記の本のブラウニング論と同じような調子だったか?

 

ジョルジュ・プーレ『プルースト的空間』山路昭、小副川明訳(国文社、1985年)

 

脱構築批評(Deconstruction

 

1980年代から90年代に流行した批評。イェール学派とも呼ばれる。親玉はベルギー出身のPaul de Man。ド・マンの書く英語は平易かつ論理的だが、説かれている内容はしばしば難解を極める。日本の脱構築主義者の論文には、「脱構築する」という他動詞が、人を主語として用いられるのを散見する。たとえば「このテクストを脱構築することによって・・・」あるいは「誰それはこの作品を脱構築することに成功している」など。本来この他動詞の主体はテクストでなければならない。人間主体(批評家)は、テクストがテクストを脱構築するさまを指さすことができるに過ぎない。テクスト内のある一節(文、言説)が別の一節(文、言説)を脱構築することは珍しいことではない。しかしテクストがそれ自身を脱構築するさまを指さすのが究極の脱構築批評であろう。批評家の一部には脱構築批評を、衣替えした新批評(フォーマリズム)と見る者もいる。1990年前後の学会では、しばしば脱構築を応用した研究発表に出くわしたが、どの発表も結論は金太郎飴を切ったみたいに似たり寄ったりで、正直辟易したものだ。

 

バーバラ・ジョンソン『差異の世界――脱構築・ディスクール・女性』(大橋洋一ほか訳、紀伊國屋書店、1990年。A World of Difference [1988])(第1章冒頭のディコンストラクション批評の要約・批判が明晰きわまりない。巻末の「付録」は親ナチ時代のポール・ド・マンを正面から論じている)

 

新歴史主義批評(New Historicism

 

スティーヴン・グリーンブラット『シェイクスピアにおける交渉』(酒井正志訳、法政大学出版局。Stephen Greenblatt, Shakespearean Negotiations)(訳に問題を散見する。第2章のタイトル"Invisible Bullets"が「見えない砲弾」と訳されているが、「見えない銃弾」であろう。訳文において、主語と述語が遠くなり過ぎて、読みにくい箇所が少なくない。簡単な工夫で解決可能なのだが・・・)

 

スティーヴン・グリーンブラット『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(河野純治訳、柏書房2012年。名訳。原題はThe Swerve: How the World Became Modern。永遠に失われたと思われていたルクレティウスの『物の本質について』の古写本発見にまつわる物語。中世、ルネサンスの文化に通暁した著者の語りが、遠い過去を読者の眼に見えるように描き出す。その筆力やおそるべし。また、著者のルクレティウスの哲学に対する関心が、著者の母のヒポコンデリーに遡ることを率直に語っているその部分が非常に興味深い)

 

スティーヴン・グリーンブラット『暴君』(河合祥一郎訳、岩波新書。原題はTyrant。)

 

スティーヴン・グリーンブラット『シェイクスピアの驚異の成功物語』(河合祥一郎訳、白水社。シェイクスピアの伝記。原題はWill in the World。)

 

スティーヴン・グリーンブラット『悪口を習う』(磯山甚一訳。法政大学出版局。原題はLearning to Curse

 

スティーヴン・グリーンブラット『』()

 

スティーヴン・グリーンブラット『』()

 

The Greenblatt Reader. Michael Payne, editor. (W.B., 2005)()

 

 

ポスト構造主義批評(Poststructuralism)

キャサリン・ベルジー『ポスト構造主義』折島正司訳(岩波書店) Catherine Belsey, Poststructuralism: A Very Short Introduction (Oxford: Oxford UP., 2002) (特に、主体[subject]理論の解説が重要。非常に分かり易い。訳も折島氏だけに正確無比で、かつ自然な日本語になっている。)

 

フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(大橋洋一訳、平凡社) (The Political Unconscious [1981]. マルクス主義的ポスト構造主義文学批評の金字塔。ジャック・ラカン[新フロイト派]の存在も大きい。原題はThe Marxist Freudianとも読める。第1章第1節は飛ばして読むべし。ここを理解できる人は世界に何人もいないでしょう。この本を理解するためには他に何冊も本も読まなければならない。しかし、それを含めてこの本自体の研究に丸ひと月をかけた者の得るものは絶大。思想的に一番重要なのはラカンの「現実界」[the Real]を「歴史」と同定していることだろう。これはきわめて意味深い。難解な本なので解説書がいくつも出ているが、Adam Roberts, Fredric Jameson [Routledge Critical Thinkers, 2000]が優れる)。

 

レイモンド・タリス『アンチ・ソシュール』(村山淳彦訳、未來社、1990年。原題Not Saussure”not so sure”に引っ掛けた洒落。フランス現代思想やアメリカのイェール学派によるソシュール受容を痛快に批判した名著。最初の三章だけ読んでも十分。ポスト構造主義の解説書としても読める。訳は村山氏だけに、きわめて正確で、かつ読み易い)

 

斎藤環『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫、2012年)(日本一わかりやすいラカン入門)

 

上野千鶴子編『構築主義とは何か』(勁草書房、2001年)(Social Constructionismについての論集。ポスト構造主義の主体構築理論を理解する上で役立つ)

 

ヴィヴィアン・バー『社会的構築主義への招待』田中一彦訳(川島書店)Vivien Burr, An Introduction to Social Constructionism (Routledge, 1995)(構築主義の平易な入門書。ポスト構造主義の理解にも役立つ。文学系のポスト構造主義の紹介本(和書)には読みにくいものが多い一方で、社会学系の本は分かり易いですね。日本の文学者は見習わねば・・・)

 

小阪修平『そうだったのか現代批評:ニーチェからフーコーまで』(講談社+α文庫)(現代思想の入門書と称しながらまったく不親切な本も多い中で、この本は初心者にもよく分かります。それは元々初心者を対象とする講演だったからでしょう。まあ、話し言葉ゆえの曖昧さも残していますが。デカルトからヘーゲルまでの哲学とは異なる思想が、ニーチェから(あるいはそれ以前のキルケゴール、マルクスから)始まっていることが、よく分かります)

 

内田樹(たつる)『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2002年。その表題に偽りなし。構造主義をこれほど易しく説明してくれる本も珍しい。必読。構造主義とは「人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出す」という前提に立って物事を眺める考え方である)。『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店、2003年。フリーター、核家族と家庭内暴力、女性の男性化、身体感覚の喪失、個性の絶対化など現代日本が抱える身近な問題を、言語学、経済学、構造人類学、レヴィナス、フーコー、フロイトなど現代思想をさりげなく使って考える)

 

内田樹『他者と死者――ラカンによるレヴィナス』(文春文庫。)

 

難波江和英、内田樹『現代思想のパフォーマンス』(光文社新書、2004[初版の単行本は1999]。それぞれの章でソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードの思想を案内編、解説編、実践編に分けて明快に解説している。例えば、レヴィ=ストロースの章[内田担当]では、解説編でオイディプス神話の構造分析を手際よく紹介し、実践編では「贈与と返礼」の理論と同じものを、小津安二郎の『お早う』から見事な手際で取り出してみせる。バルトの章の実践編[内田担当]における"le sens obvie"[迎えに来る意味]"le sens obtus"[鈍い意味]の概念を用いた映画『エイリアン』の分析も秀逸)

 

仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想:ポストモダンとは何だったのか』NHK BOOKS2006年)(1980年代の日本における「現代思想=ポスト構造主義」の登場と衰退を分かりやすく解説することを目的とした本であり、実際、ニュー・アカデミズムの旗手たち[浅田彰、中沢新一ら]の批評的実践を簡潔明快に総括しているが[3,4]、それに先立つ日本におけるマルクス主義の興隆と衰退を、これも明快に論じた第1部の方が読みごたえがある。戦後日本の思想の変遷・流れを知るには格好の入門書。現代思想の入門書と称しながら、まったく「入門」的でない本が多い中で、仲正氏のどれもたいへん分かり易く、かつ信頼できる。しかしこの人の多作ぶりは驚異的!)

 

フェミニズム批評(Feminist Criticism)

エレイン・ショーウォーター編『新フェミニズム批評:女性・文学・理論』青山誠子訳(岩波書店、1990年。名著の名訳) Elaine Showalter ed., The New Feminist Criticism: Essays on Women, Literature, and Theory (New York: Pantheon Books, 1985)(ショーウォーター自身の「荒野のフェミニズム批評」[“Feminist Criticism in the Wilderness”]が重要)

 

竹村和子『フェミニズム』思考のフロンティアシリーズ(岩波書店、2000年)(日本の文学系フェミニズム研究の第一人者)

 

ナンシー・チョドロウ『母親業の再生産』(新曜社、1981年。The Reproduction of Mothering: Psychoanalysis and the Sociology of Gender (Berkeley: University of California Press, 1978)80年代以降のフェミニズムに大きな影響を与えた。前エディプス期の男女の幼児の母親[対象]との関係を、精神分析学から派生した対象関係理論[object-relations theory]を用いて解明。以下その概要――前エディプス期には、男女とも母子融合的な状況を経験する。母親は娘を自分自身の「延長」と見なすので、母親は娘を別個の人格として扱うことが少ない。母娘関係は、「同一化関係」となる。一方、母親は息子を異性(自分とは異なる性的他者)として扱い、その関係は「性愛的な関係」に近い。女性が女性らしくなるのは、女性(母)が自分と同じものとして女性(娘)を育てるように仕向けられるからである。男性が男性らしくなるのは、女性(母)が自分と異なるものとして息子を育てるからである。)

 

Maggie Humm, The Dictionary of Feminist Theory (New York: Harvester Wheatsheaf, 1989)

 

斎藤美奈子『モダンガール論』(文春文庫)(日本の近代化とともに生まれた理想の女性像としての良妻賢母。従来のフェミニズムによって目の敵にされてきたこの思想が、当時は中上流の女性たちに歓迎された新しい理想像であったことを、独自の「欲望史観」に基づき、かつ丹念に資料に当たりながら、明らかにする。その一方で、女中や女工の悲しい歴史の再検討をも忘れない。内容は博士論文級の立派な学術論文だが、堅苦しさは微塵もなく、他の斎藤作品同様、その絶妙な文体で、愉快に楽しく読ませてくれる)

 

上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』(朝日新聞社、2000年。朝日文庫、2003年。「平成言文一致体とジェンダー」: 末尾に添えられた、自己言及的メタ・テクスト「付記」がサイコー! 「老人介護文学の誕生」: 介護小説二作、佐江衆一『黄落[こうらく][1995]と有吉佐和子『恍惚の人』[1972]を、四半世紀の社会の変化を背景に、比較分析している。」 「女装した家父長制」: 元は英語論文。古沢平作/小此木啓吾の阿闍世コンプレックス理論に依拠して、「超自我の確立には「父の抑圧」[去勢恐怖]だけでなく、「母の自己犠牲」というオプションもあるとし、日本の「「母性」の名における家父長制支配、とりわけ「自己犠牲する母」「自虐する母」のすがたを借りた母の代行支配」を、「女装した家父長制[transvestite patriarchy]」と呼ぶことを提案している。「江藤淳の戦後」: 「<>という<他者>の発見」:。「連合赤軍とフェミニズム」:。「うたの悼み」:。「うたの極北」:。「男歌の快楽」:。「癒し手とは誰か」:。「ベッドの中の戦場」:。「トラウマを旅する」:。 )

 

マルクス主義批評(Marxist Criticism)

岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫、1992年。マルクス経済学の極めて平易な入門書として読める。貨幣と資本の違いは?利潤はいかに生み出されるのか?商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業資本主義とは何か?これらのことが、『ヴェニスの商人』の分析やキャベツ人形ブームの謎解きを通して、自然に理解できる)。『貨幣論』(ちくま学芸文庫、1998年。第5[危機論」は、資本主義の真の危機をもたらすものがマルクスの言うような恐慌ではなく、ハイパーインフレーションであることを論じる。貨幣は「無限のかなたの未来に住む人間から今ここに住む人間へと送られてきた、気前のよい贈りものにほかならない。」[197]、「貨幣ははじめから貨幣であるのではない。貨幣は貨幣になるのである」[201])。『資本主義を語る』(講談社、1994年。第1章「差異と人間」は剰余価値を生み出すものが人間ではなく差異であることを論じ、古典派、マルクス主義、新古典派の人間主義を批判する。第3章「「法人」と日本資本主義」は、ヒトでもありモノでもある法人の概念から、日本独特の資本主義を論じる。第4章は網野善彦との対談)

 

Gayatri C. Spivak. "Can the Subaltern Speak?" in Cary Nelson and Lawrence Grossberg eds. Marxism and the Interpretation of Culture (1988) 。ガヤトリ・C・スピヴァック『サバルタンは語ることができるか』上村忠男訳(みすず書房、1998年)(第4セクションの寡婦殉死[sati]をめぐる論考を読まれたい。これほどイデオロギーとは何かをよく教えてくれる論文も少ない。ヒンドゥー・イデオロギーの中にある寡婦は、自らの意志で夫の遺体の置かれた薪の上に登り、生きたまま火に焼かれて死ぬこともできる。会葬者(男も女も)それを至上の美徳の行為として眺めることができる。であれば、今日の我々は、生死に関わらぬ諸々の些事に至るまで、意志に基づく行為と自らは思いながらも、実はイデオロギーに強いられて行なっているのかもしれない。Spivakの文章は難解で知られるが、それでも上村氏の訳は不親切に過ぎる。理論の上級者にしか読めない。特殊な訳語も多い。もっと親切な訳にできる余地が多々ある。難解な部分を分かり易く解説する注釈を、なぜ付けられないのか。「サバルタンはこの訳を理解できるか」)

 

今村仁司『貨幣とは何だろう』(ちくま新書、1994年。経済学的貨幣論ではない。哲学的、文学的な貨幣論。さらに正確にはジンメルの『貨幣の哲学』に依拠するも、独自の媒介論。人間関係の媒介者としての貨幣形式について、ゲーテの『親和力』などを例にとりながら論じる。面白いことこの上もない)

 

ゲオルグ・ジンメル『ジンメル・コレクション』(ちくま文庫)(エッセイ集。ジンメルの文体はきわめて平易だ。「近代文化における貨幣」は、近代を論じる上では必須のテクストだろう)

 

ダルコ・スーヴィンSFの変容――ある文学ジャンルの詩学と歴史』(大橋洋一訳、国文社、1991年。Darko Suvin, Metamorphosis of Science Fiction: On the Poetic and History of a Literary Genre [1979]。著者はユーゴスラビア出身。史的唯物論[マルクス主義]の立場からSF文学を論じる大著。60年代に英米の批評界を席巻したノースロップ・フライの『批評の解剖』の循環論的なジャンル批評への反論で始まる。射程はトマス・モア『ユートピア』から現代[1970年代]までと長い。価値判断から逃げていない。「サイエンス・フィクション」の正典を定め、「高尚文学HighLit.」に比肩させる試みでもある。メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』論が力作。夫の詩人パーシー・シェリーの『解き放たれたプロメテウス』も傑作とされる。ヴェルヌ論も読みごたえがある。『海底二万里』、『地球の中心への旅』などのほかに、ヴェルヌ理解には晩年の作品を読む必要があるようだ。)

 

ポストコロニアル批評(Postcolonial Criticism)

アーニャ・ルーンバ『ポストコロニアル理論入門』吉原ゆかり訳(松柏社、2001年) Ania Loomba, Colonialism/Postcolonialism (London: Routledge, 1998)

 

カン・サンジュ編『ポストコロニアリズム』(作品社、2001年)(日本のポストコロニアル批評の論集。用語解説、主要文献一覧もあり便利)

 

小森陽一『ポストコロニアル』思考のフロンティア(岩波書店、2001年)(日本文学にポストコロニアル批評は無縁のように見えて、実はそうではないということを、『坊ちゃん』の見事な分析で示す)

 

斎藤一著『帝国日本の英文学』(人文書院、2006年)(4章「日本の『闇の奥』」は、西洋人による西洋植民地主義批判であるジッドの『コンゴ紀行』の邦訳(1938年)と『闇の奥』の邦訳(中野好夫、1940年)が、いかに日本の南方進出の正当化を準備したかを論じている。理論(ポストコロニアルとディコンストラクション)の使い方は教科書的で、論旨もきわめて単純だが、英文学研究者としての自分の立ち位置を誠実に再確認した好著)

 

正木恒夫『植民地幻想--イギリス文学と非ヨーロッパ』(みすず書房、1995年。イギリス文学における食人種言説の優れた研究。第2章「ポカホンタスと食人種」と第3章「スー族とコロンブス」は、食人種言説がいかに先住民の殺戮と征服に利用されるに至ったかを論じる。第6章「ロビンソン・パラドックス」は、『ロビンソン・クルーソー』にける食人種言説を論じると同時に、この小説が、その後一般に浸透したイメージを越えて、いかに複雑な小説であるかを示す。第7章「クックと南海の「楽園」」)

 

物語論(Narratology)、読者反応論(Reader-Response Theory)

デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』柴田元幸・斎藤兆史訳、白水社(これを読めば、少なくとも、作者の「思い」、「メッセージ」、「言いたいこと」などを云々するナイーブなレポート・論文は書けなくなる。文学作品は作者がどういう人間かを知るたんなる手掛かりではない)

 

その他の批評理論

仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想: リベラリズムの冒険』NHK BOOKS2008年)(アメリカの現代思想を、正義論のジョン・ロールズJohn Rawlsとネオ・プラグマティズムのリチャード・ローティRichard Rortyを中心に解説する。ロールズ登場までの文脈の概観、ハイエク、アーレントとの比較がありがたい)

 

仲正昌樹『ハイデガー哲学入門――『存在と時間』を読む』(講談社現代新書、2015年。哲学、現代思想の入門書と称して、まったく入門的でない本が多いが、この本は本当に懇切丁寧で、難解なハイデガーが分かった気にさせてくれる。とくにハイデガーの特殊なドイツ語用法を丁寧に説明してくれるのがありがたい。)

 

高田明典『世界をよくする現代思想入門』(ちくま新書、2006年。最新のアガンベン、ジャン=リュック・ナンシー、モランをも含む現代思想を、専門用語をできるだけ使わずに、分かりやすく[分かりやす過ぎるほどに]紹介している。巻末の、率直なコメント付きのブックリストも初心者には有用。ただし、この本では、不可解にも、マルクスについて一度も言及されない。ニーチェ、フロイトには触れているにもかかわらず。またレヴィ=ストロースを論じる際にも、「大きな物語」の消滅を語る際にも、一切マルクスの名前を出さない。あたかもマルクスなど初めから存在していなかったようである。「世界をよくする」と題しているが、経済学的なアプローチもほとんどない。この点で上記の仲正氏の著書とは対照的)

 

中沢新一『人類最古の哲学:カイエ・ソバージュI(中央大学総合政策学部時代の講義録。第3-7章は「シンデレラ」のフランス版、ドイツ版、ポルトガル版、中国版、北米インディアン版の神話構造の相違を、レヴィ=ストロースの構造主義とマルクス主義ともちろん神話的思考を武器にスリリングに読み解き、その神話の古層に迫る。暗黙裡にユングの普遍的無意識を全否定している。「元型」は人類の移動につれて伝播したのである)。『熊から王へ:カイエ・ソバージュII(アイヌ、ニヴフ、イヌイットなどの神話が語る、人が熊であり、熊が人であった「対称性の社会」が、王という権力の出現によっていかに崩れていったか。人間が動物を「モノ」のごとく殺戮し消費し、人と動物との関係が圧倒的に非対称的な現代社会への警告)。『愛と経済のロゴス:カイエ・ソバージュIII(このシリーズ中もっとも重要な巻だろう。純粋贈与概念の導入のために志賀直哉の「小僧の神様」を使っているところが心憎い。資本主義の秘密を贈与論によって解き明かす。ただし、カトリック的一神教と資本主義の親和性を論じる部分は、『緑の資本論』[集英社、2002]の方が分かり易いと思う)。『神の発明:カイエ・ソバージュIV(スピリットとグレート・スピリットからなる対称性の神話世界が、いかなる過程を経て高神と来訪神の世界へ、そして唯一神の世界へと移行したかをスリリングに跡づける。第1,2章における最新の脳科学、「内部視覚」論、認知考古学等の援用や、その他の章におけるメビウスルの帯やトーラス型といった幾何学の利用には抵抗を感じる。もっとも、その部分がオリジナリティーなのだろうが)。『対称性人類学:カイエ・ソバージュV(中沢的対称性人類学の集大成)

 

ルネ・ジラール『欲望の現象学』(古田幸男訳、法政大学出版局、1971年)(1章「《三角形的》欲望」――自発的、自律的欲望: 「チーズの塊やブドー酒の革袋をながめて湧きおこる欲望といった類いは自発的なものだ」[3]。媒介された欲望、三角形的欲望: 「ドン・キホーテもサンチョ・パンサも自分たちの欲望を他者[ドン・キホーテの場合は騎士物語から、サンチョ・パンサの場合はドン・キホーテから]から借用している」[3]。この場合の他者をギラールは「媒体」と呼ぶ。「媒体の影響力が強くあらわれるやいなや、現実感覚は失われ、判断力が麻痺する」[3]。「エンマ・ボヴァリーは、彼女の想像力を満たすロマンティークなヒロイン[媒体]たちを通じて欲望する」[4]。「虚栄心の強い男[ジュリヤン・ソレル]は、自分の欲望を、自分自身の心の奥底から引き出してくることができない。彼はそれを他人から借用してくるのだ」[5]。「買い手が支払おうと覚悟している値段は、刻一刻つりあがるが、それは、かれが競争相手に自ら想像を逞しくして賦与する架空の欲望に応じて高騰するのだ。ここには架空の想像された欲望の模倣、きわめて小心翼々たる模倣さえ見られる」[6]。「虚栄心を持った男がある対象を欲望するためには、その対象が、彼に影響力をもつ第三者によってすでに欲望されているということを。その男に知らせるだけで十分である。」[7]。「その対象物が主体の目に無限に好ましく望ましいものと見えるように仕向けるのは、それが現実に存在するものであれ推測されたものであれ、まさしくこうした媒体の欲望そのものなのである。」[8]。「嫉妬する人間は、自分の欲望が自発的なものである、つまり欲望が対象に、その対象物そのものだけに根ざしているのだと、きわめて安易に思い込んでいる[しかし実は嫉妬の対象であるライバルの欲望を模倣しているに過ぎない]。」[13]。「欲望というものの持つ模倣的性格は......現代においては知覚することが困難である。なぜなら、最も熱烈な模倣が最もきびしく否定されているからである。ドン・キホーテは自分がアマディースの弟子であることを公言してはばからなかった。彼の時代の作家たちは古代の人々の弟子であるとみずから公言してはばからなかった。ロマンティークな虚栄心を持つ者はもはや自分が誰かの弟子であるなどということを望みはしない。彼は自分が無限に独自なものであると信じている。十九世紀においてはいかなる分野でも、自発性が模倣というものを玉座から引きずりおろして、みずからドグマとなる。」[16]。「ロマンティークで虚栄心の強い人は、自分の欲望が事物の本性に根ざしている、あるいはまた、結局は同じことだが、それが澄みきった主観性の発露であり、ほとんど神の如き自我の無からの(ex nihilo)創造であるといつも信じたがっているのだ。」[17]。「虚栄心に依存する欲望はつねに他者の欲望である。」「21」。 プルーストからの引用: 「恋愛においては、幸運に恵まれたライバル、それはわれわれの敵といっても過言ではないが、彼はわれわれの恩人である。われわれのうちに無意味な肉体的欲望しか挑発しないような存在にたいして、ライバルはたちどころに無限の価値をつけ加える。われわれはその女性とその価値を混同するのだ。もしわれわれにライバルというものがなかったならどうだろう。いや、もしわれわれにライバルがあると思わなかったら......なぜなら、ライバルが実際に存在することは必要ではないからだ。」[25]。「プルーストの欲望は常に借用された欲望なのだ。」[37]。「媒体が[主体に]接近すればするほど、その役割は増大し、対象の役割は減少する。」[49]2章「『赤』と『黒』」[スタンダール論]――

 

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』(西谷修、安原伸一郎訳、以文社、2001年)(親切きわまりない訳注と西谷修の「あとがきに代えて」がきわめて分かりやすい。「私は死ぬことはできない。......死んだ人は、フィクションでもなければ、「私は死んだ」とは言えない。〈死〉は〈私〉の可能性に属していない。.....では〈死〉は誰のものか。.....[ナンシーは]〈死〉そのものが、すでに独りでは起こらない〈共同の〉出来事だと言うのだ」[pp. 284-85]

 

モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』(西谷修訳、ちくま学芸文庫、1997年)(これも訳注が親切きわまりない。西谷修の「あとがき」がすごい。「さてこの本は、バタイユの一九三〇年代の歩みと、[マグリット・]デュラスの『死の病い』とを考察の直接の対象としているが、全体としては、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』に呼応して書かれたものだということができる」[p. 174]。ナンシーの著書の適確な要約 [pp. 176-81] を含む。)

 

酒井健『バタイユ入門』(ちくま新書、1996年)(優れた入門書。不定形の共同体――「私としては、形態が人の望みうる限り緩い共同体、不定形ですらある共同体を想像することができる。この共同体の唯一の成立条件は、道徳的自由の体験が、個人の自由という凡庸な意味――自由の意味それ自体の自己無化、自己否定に他ならない意味――に還元されずに、共有化されること、これだけである」[「ニーチェ覚書」1945]......この体験[神秘体験]においては内部の力[フォルス]が噴出して個人の一体性が破られる。この個人の破綻を言うためにバタイユは、「亀裂」、「裂傷」、「開口部」なる言葉を用いた。.....こうした個人の否定においてしか、「裂傷」を通してしか、人間間の真のつながり、彼の言うところの「交流」(=communication)はないと考えていた。「不定形の共同体」とは、「裂傷」を自らに穿った者同士の「交流」のことである」 [pp.132-33])。

 

ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の課題」(山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』(河出文庫)。ポール・ド・マンが取り上げたことでも知られる難解極まるエッセイ。著名な英訳者、仏語訳訳者も誤訳するほど。全体として難解でも、個々の文句には興味深いものがある。「芸術作品の「生」(Leben)」そして「死後の生(Fortleben)という考え方は、メタファーとしてではなく、完全に事実そのものに即して理解しなければならない」(89)。「作品の死後の生は、被造物の死後の生などより、比べものにならないほど認識しやすい......」(90頁)。「原作の死後の生がもし生けるものの変容と刷新でないとすれば、死後の生という言葉でそれを呼ぶべきでないわけだが、原作はまさにそういった死後の生のなかで変化していくからだ。書き留められた言葉にも追熟というものがある。作家の時代には、場合によっては彼の詩的言語の傾向であったものが、後の時代には用済みのものとなってしまうこともありうるし、内在的傾向が形成物としての作品から新たに浮かび上がることもありうる。当時若々しかったものが、後の時代には使い古された響きとなることもあるし、当時一般的だっな言葉が古めかしい響きになることもある」(93頁)。「「イロニー的」という言葉から、ロマン主義者たちの思考のあり方を思い起こしておくのも無駄なことではなかろう。彼らは他の誰にもまして作品の生というものを洞察していた......」(98頁)。「異質な言語のうちに呪縛された純粋言語を、自分自身の翻訳の言語のなかで救済すること、作品のうちにとらわれた言語を作品の改作[翻訳]において解放すること、それが翻訳者の課題なのである」(106頁)。)

 

エマニュエル・レヴィナス『レヴィナス・コレクション』(ちくま学芸文庫、1999年。初期の「ヒトラー主義哲学に関する若干の考察」(1934年)は短いし、そうむずかしくない。後半にエマソンそっくりの考え方が出てくる。ユダヤ・キリスト教、リベラリズム、全体主義を考える上では多分必読。フッサールの現象学についての、若き日の熱いエッセイ「フライベルク、フッサール、現象学」はもっと易しい。現象学とニュートン発の物理学(科学)を対峙させているが、これはニュートンを目の敵にしたブレイクを想起させる。ブレイクの神秘主義を現象学的に読み解くような論文もすでに誰かが書いているだろう)。

 

ゲオルク・ジンメル『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫。「近代文化における貨幣」(1898年)という短い論文が入っていて、これを読めばジンメルの貨幣論は大体分かる。貨幣がいかに伝統的共同体(ゲマインシャフト)を解体して、近代社会(ゲゼルシャフト)を成立させたかがやさしく説かれている。「距離化」の概念もこれを読めばわかる。土地と人間の問題についてはジンメル抜きには語れない。人格(person)と所有の関係も論じている。Personality vs. Impersonalityの問題も貨幣論抜きには論じられないかも。現代思想と違って、ジンメルの文体はとても平易。女性心理とか愛とか流行など軟派な?主題についても短いエッセイがある。貨幣論よりもっと読み易い。小説みたいなエッセイもある。「よそ者」という短いエッセイは、ジンメルの方法論をよく示している)。

 

ゲオルク・ジンメル『ジンメル・エッセイ集』(平凡社ライブラリー、川村二郎訳、1999年。ちくま学芸文庫と数篇重複。主著『貨幣の哲学』に続く講演録「大都会と精神生活」が入っている。これとちくま版の「近代文化における貨幣」を読めば十分かもしれない)。