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目 次
2011年1月23日 | ギャラリートーク 歴代沈壽官展 |
十五代 沈壽官 |
2011年1月15日 | バチカン・シークレット〜ミケンランジェロの謎を追え | NHK-HV |
2011年1月10日 | ミステリアス・ウフィツィ-ルネサンスの光と闇 | NHK-HV |
2011年1月9日 | レオナルド・ダ・ヴィンチ−驚異の技を解剖する
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日曜美術館 |
2011年1月3日 | 夢の美術館 圧巻!黄金のイタリア芸術
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NHK-HV |
2010年12月7日 | ダ・ヴィンチの指紋 | 朝日-TV |
2010年12月1日 | カンディンスキーの3人の妻 | Olga's Gallery |
2009年9月26日 | 「デュラー、ティツィアーノ、ブリューゲル、ルーベンス、ベラスケスーハプスブルグ家とその画家たち」 | カール・シュッツ |
2009年7月15日 | 「中国宋代の青磁」雑考 | 伊藤郁太郎 |
2009年3月21日 |
微笑と輪廻と錬金術 | 池上英洋 |
2009年3月21日 |
古典主義時代の変革 | ブレーズ・デュコス |
2009年1月31日 |
明治: 近代性とノスタルジア | ウィリアム・スティ−ルほか |
2008年12月13日 |
日本の素朴画を語る! | 矢島新ほか |
2008年7月16日 |
コロー展について | 高橋明也 |
2008年6月14日 |
絵画における音楽的概念 | ヴァンサン・ポマレット |
2008年4月19日 |
ワイエスの描く光と影 | 中村音代 |
2008年4月7日 | フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公 | 石鍋真澄ほか |
2008年3月29日 | ルネサンスのエロティック美術 | 越川倫明ほか |
2008年2月15日 | 南総里見八犬伝の夜 | 小池正胤 |
2008年2月8日 | 応為筆「吉原格子先の図」を中心に | 秋田達也 |
2008年2月2日 | 熊谷守一展オープニング・トーク | 池田良平 |
2008年1月12日 | 全部観てはいけないルーブル | ルーブル-DNP |
2007年10月9日 | ミネアポリス美術館の浮世絵 | 松涛美術館 |
2007年6月24日 | パルマ イタリア芸術の都 | 新日曜美術館 |
2007年4月28日 | ロシア美術史 | ウラミジール・グーゼフ |
2007年4月22日 | 近世風俗画から肉筆浮世絵へ | 田沢裕賀 |
2007年1月2日 | 国宝「信貴山縁起」の大宇宙 | NHK-TV |
2006年11月11日 | M.Cエッシャーの絵画と錯視構造 | 木島俊介 |
2006年11月4日 | 山口晃と歩く本郷当代界隈 | 山口 晃 |
2006年8月5日 | 新版画と川瀬巴水の魅力 | 渡辺章一郎 |
2006年7月29日 | クローデルとイタリア | 上村清雄 |
2006年5月27日 |
ワイエス‐記憶を引き出すマジック | 中村音代 |
2006年5月20日 |
キリスト教とギリシャ文化 | 川島重成 |
2006年5月13日 |
フランス近代絵画とジャポニスム | 高階秀爾 |
2006年2月4日 |
レンブラント・フェルメールの時代 | 小林頼子 |
2005年10月22日 |
バルセロナの光と影‐ガウディとピカソ | 大高保二郎 |
美術講演・映画 2011
これはパリ展からの帰国記念展である。薩摩焼はヨーロッパでは有名であるが、国内ではそれほどでもない。今回の展覧会で国内での理解が深まることを期待したい。 薩摩焼の歴史は、1598年の秀吉の朝鮮出兵に始まる。それまでの日本のやきものには釉薬が使われておらず、釉薬はこの時朝鮮から持ってこられたのである。 日本と朝鮮の相違: 朝鮮の場合、高麗では青磁、朝鮮では白磁といったように時代によって好みがまったく異なっているのに対し、日本では侘びさびの美意識は時代によって変わっておらず、地域差があるだけである。 朝鮮からの陶工は、薩摩の殿様から白いやきものを作るよう命じられたが、これが出来たのは23年後のことであった。ちなみに、白い磁器はどこにでもあるが、白い陶器は薩摩だけのものである。最初は陶工も陶土も技術もすべて朝鮮からのものだけで白い陶器が作られ、日本のものは火だけだったので「火ばかり茶碗」と呼ばれた。 島津家は東アジアの知識が豊かだった。薩摩は火山灰が多いため米があまりとれず、貧しかったので、沖縄を介して明・朝鮮・タイなどと密貿易を行っていたのである。例えば、高麗人参が薩摩人参として越中の薬屋に売られ、北前船で越中に運ばれた昆布が薩摩から明に密輸されたりしていた。このため薩摩の朝鮮人はやきものを作りながら、通訳としても働いた。萩や有田に連れてこられた朝鮮陶工とは違い、薩摩では朝鮮姓のままであった。これはあくまで薩摩人ではないということでもあった。 絵付けの技術は、明から京都、京都から薩摩に伝わったものである。 明治維新の前年、1867年に開かれた第2回パリ万博には薩摩琉球国として参加しているが、その時薩摩切子と薩摩焼を展示した薩摩に対して勲章が授与された。パリでは、日本が藩の集合の共和国と考えられたようである。これはヨーロッパにジャポニズムの流行をもたらし、日本政府として参加した明治6年のウィーン万博には天才といわれる沈壽官十二代が180cmの対の大花瓶を出展した。 このため日本陶器の代名詞はSATSUMAとなり、10万個のSATSUMAが発注された。もちろん薩摩ではこのような多数に対応できず、技術を京都の陶工に教えた。横浜、神戸、長崎に流れた陶工たちがSATSUMAを作ったが、見るに耐えないようなやきものが多かった。薩摩焼は生地をみせることを基本としているが、上記のSATSUMAはまったく違っており、「○に十」の字があるものは怪しいものばかりである。このため薩摩焼の評価が下がったが、これは「殖産興業政策」の影の部分である。 さらに日本の富国強兵政策も薩摩焼に大きな影響を与えた。当時の日本は、隣国に対し欧米と同じ帝国主義で干渉している環境で、朝鮮にルーツを持つ沈家も偏見の対象になった。 いずれにせよやきものは時代の鏡であり、薩摩焼もこうやって変わってきたのである。 (2011年1月15日) |
15世紀, バチカンは苦境に立っていた。東ローマ帝国が衰微し、イスラムに対して自らを防衛しなければならなくなったからである。バチカンは自ら要塞を持たざるをえなかった。システィーナ礼拝堂はその要塞の中にあるが、教皇がミサを行うキリスト教の中心の場所である。この場所の画の中にギリシャ神話やユダヤ教の話、さらには暴力的な天使まで描かれているのはなぜなのだろうか。これは当時のユリウス教皇が、人々を不安にさせる作品の力を利用して人々の心をとらえようとしたからである。 システィーナ礼拝堂はバチカン美術館の一部となっているが、ここには異なる時代の異なるメッセージの壁画が並存している。 このような側面の壁画が描かれたのは、ミケランジェロが天井画を描く30年前のシクストゥス4世の時代のことであり、キリスト教の権威と伝統を守ることを目的としていた。この時代、天井には青い星空だけが描かれていた。 その二は、1503年に即位したユリウス二世がミケランジェロに描かせた天井画である。 ユリウスは「恐るべき教皇」と呼ばれていた。もちろんこのことは批判の対象となったが、自ら戦場に出て、白いマントを着て、剣を持って戦ったほどである。15世紀は大航海時代であり、新しい価値観が求められ、キリスト教は衰退していた。 バチカンは4万点の作品を有する美術館であるが、その中に「八角形の庭」がある。ユリウス二世はここにギリシャ神話に題材をとった作品を置かせた。例えば、《ベルヴェデーレのアポロン》↓や《トロイの神官ラオコーン》などの異教のシンポルをバチカンに持ち込んだ。ユリウス二世は、キリスト教が完成したローマ時代を見本とし、ギリシャ彫刻を教会再建の象徴としたのである。 当時フィレンツェにいたミケランジェロは、《ダビデ像》のような人間らしい表現が巧みで、「彫るべきものが石の中に見える。それを開放してやるだけで良い」と豪語していた。ユリウス二世は、はじめミケランジェロに自分の墓を作らせるつもりだったが、この考えを変えて、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の星空が描かれていた天井に見たこともないようなフレスコ画を描かせることにした。その目的はキリスト教の権威を回復させることであった。 ミケランジェロは、1508年から4年間を費やして500uの天井画を完成したが、そこに描かれているのは裸体に関連するものばかりだった。その内容は伝統的なものと大きく異なっており、《アダムの創造》の神は人間と並列の位置に置かれ、神自身が中世のものとは異なって忙しく立ち働く姿で表現された。すなわち、この天井画は人間中心であり、すべての者がいきいきとした姿で描かれていたのである。 これはどうしたことなのだろうか。その答えはフィレンツェのミケランジェロ博物館に残っている手紙などの資料から知ることが出来る。ユリウスの最初の希望は「キリストの十二使徒を描く」というものであったが、ミケランジェロは「それでは貧弱なものになるので、違うテーマで描く」と答えている。 絶大な権力を持つユリウス二世がどうしてこのミケランジェロの提案を了承したのだろうか。そこには教皇の信任の厚かった「エジーディオ・ダ・ヴィテルボ」枢機卿というキーパーソンがいたからである。 エジーディオはヴィテルボ村の教会や近くのマルタ島の修道院で聖職者としての研鑽を積み、当時免罪符の販売や聖職の売買の横行といった堕落した教会を本来の姿に戻すには聖職者自身の意識を改革して、中世の閉ざされたキリスト教を変革することが必要であり、それには「人々が神に祈る」ことだけを重視していくべきであるとの結論に達していた。 エジーディオはローマで枢機卿となり、教皇の代弁者ともなった。1507年にポルトガルがマダガスカル島を発見したことを讃える祝賀のミサでは、エジーディオが説教を行っている。この説教の内容が残っているが、それは「新世界は神から与えられたもので、ユリウス二世の時代に黄金時代が訪れる」とし、キリスト教の本質的な復活を告げるものあった。 当時フィレンツェは、14世紀以降、メディチ家の支配のもとに都市文化が栄え、ルネサンスが花開いていた。東方ビザンチン教会と西方ローマン・カトリック教会が対イスラムの目的で集合した合同会議もフィレンツェで開催され、これを題材としたメディチ・リッカルディ宮殿にあるベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画《東方の三賢王》の中には、ビザンチンの代表者たちに加え、コジモ・メディチの顔も描きこまれているほどである。 ビザンツ帝国にはギリシャ文化が残っており、西方では失われてしまっていた「プラトン主義」を伝える文書が、この会議の折にフィレンツェにもたらされた。この「プラトン全書」がマルシリオ・フィチーノによってラテン語に翻訳され、プラトン・アカデミーが設立されるに至った。ここではギリシャ哲学が受容され、その庭園にはギリシャ・ローマの彫刻が並べられていたとのことである。若いミケランジェロもこのプラトン・アカデミーに学んでおり、16歳の折に作った《ケンタウロスの闘い》↓にはギリシャ神話を題材にした裸体が沢山彫られている。 エジーデョオはフィレンツェにおいてミケランジェロにも影響を与えたプラトン主義の思想を十分に理解しており、天井画の主題に関するユリウス二世とミケランジェロの考えの溝を埋めたのである。結局「ルネサンスの人に影響を与える画を描きたい」というミケランジェロの手紙に対し、ユリウス二世は「好きなようにするが良い」との返事をしたとのことである。 出来上がった天井画には異教のテーマであるユダヤ教の預言者やギリシャ神話の巫女が含まれているが、このような主題はエディージョが考えたストーリーそのもので、ミケランジェロは実際に描くだけだったとのことである。 内容としては「広がる世界」が意識されており、5人の巫女としては、デルフォイはアポロン神殿、リビアはアフリカ、エリトレアはイオニア、ペルシャは小アジア、クマエはイタリアの中の異教徒を象徴している。また7人の預言者としては、ユダヤのヨナ↑は異邦人へ神の言葉の伝達、エゼキエルにはユダヤ教の父、エレミアは災いを予言し苦悩と悲劇を防ぐ、ヨエルには神から離れた者、ザカリアには神に再び、イザヤには貧しきもの、ダニエルには神の裁きというメッセージが込められている。 この画が意味するのは、エジーディオの考える教会本来の姿、すなわち「異教の地への布教による教会の拡大」だったのである。結果として、この天井画はギリシャ文化・ユダヤ文化・カトリック文化を融合した新たな文明の創生を指向したものとなったが、これはユリウス二世・エジーディオ・ミケランジェロという3人の合作であるともいえるのである。 ミケランジェロの肉体の描写については、サント・スピリト教会にその鍵がある。ミケランジェロはそこの《木彫りのイエス像》の肉体表現のために、修道院の病院で人体解剖を行ったのである。当時、人体解剖は医科大学以外では禁じられており、ミケランジェロは解剖された若者の遺族から訴えられたが、修道院長は「天才は例外である」と認めたとのことである。ミケランジェロは人間の裸体を芸術で再現しようとしたのであり、そのために解剖を行ったのであった。システィーナの天井画については2枚のデッサンが提示されたが、これらはミケランジェロが人体の筋肉の動きを十分に研究していた証左である。 ミケランジェロが脳の断面を知っており、これが《アダムの創造》に利用されているとの説をジョンス・ホプキンス大学の(これは誤り、説明下記)研究者が1990年に医学雑誌JAMAに発表しているとのこと。 早速、PubMedで検索してみると、当該文献は以下の通りであることが判明した。著者の所属は、聖ヨハネ病院St John's Medical Center, Anderson, Ind.であり、放送のジョンス・ホプキンス大学Johns Hopkins University, Baltimore, Md.とは似て非なる施設。たまたま私が後者に留学していたので気になった次第である。 ○著者: Meshberger FL.
ミケランジェロは1527年に起こったフィレンツェ革命の革命側に味方し城壁案を書いたりしているが、革命軍の仲間からも裏切られ、革命を支持したとして命を狙われるが、その時にミケランジェロが2ヶ月間身を隠した隠し部屋がサン・ロレンツォ教会のメディチ家廟にある。ここで1974年の法律改正に応じて非常口を作るため、置いてあったタンスを動かしたところ、隠し部屋へ降りていく階段が見つかったのだという。この隠し部屋の壁にはミケランジェロの人体スケッチが沢山残っている。このことは今回初めて知った。 その三の物語は、クレメンシス7世がルターの宗教改革に対抗して、カトリック教会を復興するため、システィーナ礼拝堂に《最後の審判》を描くことを、1934年、ミケランジェロに依頼したことに始まる。 ミケランジェロが33-37歳時に描いた楽観的でエネルギーに満ちた天井画と1536−41年(61−66歳)の5年間で仕上げた画との違いはショッキングなほど明らかである。《最後の審判》は全体として恐怖を描いた画となっており、若い時の天井画に描かれた若者がすべて悪者になってしまっている。《最後の審判》は人類を悲観的にドラマチックに描いているのであり、同性愛者であり、神経病みで、孤独で、不快な人間であったミケランジェロそのものの表象であるともいえる。 「レオナルドの謎」については、近年いくつも見聞しているが、「ミケランジェロの謎」ついての知識はごく限られている。その意味でこの番組は新鮮で、得るところが多かった。
(2011年1月15日) |
新聞によると次期のNHK会長選が泥沼に入りかけているようだが、このところのNHKのイタリア関連番組は凄い。確か2001年の「日本におけるイタリア年」には全国的な大イベントがいくつも催されたが、今回はNHKの一人舞台である。イタリア建国150年と関係があるとのことだが、理由は何でもつけられる。見習うべきは、行政やビジネスが一体になったイタリアの売り込み方である。日本もこのようなPRを各国で日常的に行うようになれは、暗い日本経済に光が差して来ることだろう。 閑話休題。別な番組から「ウフィツィ」の番組にチャンネルを変えたのは、この番組が始まって20分ほど経っていた。 画面には、ボッティチェリの《プリマベーラ》が出ていたので、ウフィツィ美術館の初期ルネサンス絵画におけるヴィーナスの天国の話題なのだろうと想像した。 ここで「第1の質問: ボッティチェリが300年も忘れられていた理由は?」が出てきた。民放の番組と違い、ここではタレントが番号札を取り出す場面はなかったが、視聴者の気を引こうという低俗さは共通。ここで「ボッティチェリを再発見したのは、ラスキンやラファエロ前派の画家たちだった」ということぐらい入れば、さすがNHKといえるのだが・・・。 佐藤幸三著・河出書房新社1998年発行の図説「ボッティチェリの都 フィレンツェ」の書き出しが、「忘れていた画家」となっているのであるから、陳腐な設問からのスタートである。 画面はサン・マルコ美術館に移り、その修道院長であったサヴォナローラの肖像が出てくる。《プリマベーラ》や《ヴィーナスの誕生》を描いていた頃のボッティチェリのスポンサーであったロレンツォ・イルウ・マニフィーコ(豪華王)に変わって権力を取ったのは、虚飾の排除を主張するサン・マルコ修道院長サヴォナローラであった。1494年、ロレンツォはフィレンツェを去った。1497年サヴォナローラは初期ルネサンス絵画を焼却するという暴挙に出た。ボッティチェリがこの頃に描いた《誹謗》はもはや変わり果てた画となっている。すなわち質問への解答は、「ボッティチェリの画風が変わっただけでなく、画に対する情熱も冷めてしまった」ということだろう。 ここで ロレンツォが歌ったという詩 「青春は麗し、されど逃れ行く、樂しみなさい、 明日は定めなき故に」が出てきた。 次は「フィレンツェ第2幕」すなわち盛期ルネサンスの時代である。 まず登場したのは「ヴェッキオ宮殿」。フィレンツェの政治の中心であり、現在も市庁舎として使われている。戦を勝ち抜いて、ロレンツォの死後45年目に、フィレンツェに復権したのはコジモ1世。彼がヴァザーリに命じて500人広間↓の天井画や壁画を完成させた。 この500人広間の扉を開けると、ウフィツィ美術館の事務室に出るところが写ったので、なるほどと納得。大体ウフィツィという言葉が事務所officeなのである。建物自体もヴァザーリが関わっており、有名な「ヴァザーリの回廊」は、まさしく彼の労作。 ここで、第2の質問。「コジモにとっての美とは?」である。質問の意味が良く分からないが、まあ良しとしよう。 ウフィツィ美術館タルトゥフェリー副館長に引率された番組の男女二人の司会者は、ヴァザーリの回廊を歩いていく。ここには美術史学者や学生だけが見られる部分とヴェッキオ橋上の自画像展示部分があるように聴こえたが本当だろうか。後者には以前に訪れており、昨年損保ジャパンでその展覧会もあったのでお馴染みである。 回廊の上から見下ろす丸窓は君主すなわち政治権力者のコジモの眼である。自分の地所を売らなかった頑固者がいたため、回廊が迂回し狭くなっているところがあるのがおかしかった。サンタ・フェリチタ教会を覗けることは知っていたが、回廊の外に階段があり、バルコニーに下りていける構造になっていることは今回はじめて知った。 回廊の突き当たりから直接ピッティ宮殿のパラティーナ美術館に入っていける構造も今回初めて理解した。わたしが行った時には庭園の方に出されてしまったからである。こちらの美術館で紹介されたのは、リッピ《聖母子と聖アンナ》、ラファエロ《小椅子の聖母》・《大公の聖母》、ティツイアーノ《ラ・ベッラ》、ルーベンス《戦争の結果》。 結局、「コジモにとっての美=権力の象徴」が正解。 メディチ家はその後衰退の一歩を辿っていくが、ここで第3の質問。「では、なぜルネサンスの作品が今日まで残ったのか?」 ここには「フランチェスコ一世」が登場する。コジモの息子ながら、内気でメディチ家最悪の男といわれている。 ヴェッキオ宮殿の500人広間の片隅から彼の「ストゥディオーロ(書斎)」↓に入っていくことができる。画が一杯だが、窓がなく、蝋燭のみの照明で、フランチェスコ一世が思索にふけった小部屋である。 画の題材は、《ペルセウスとアンドロメダ》↓や《イカロスの墜落》↓↓のような古代ギリシャ神話からとったものが多いが、自然からダイヤモンドや金を作る技術関連の画もあり、ジョヴァンニ・ストラダーノの描いた《錬金術師たち》のなかには、フランチェスコ一世も描きこまれているとのことである。
フランチェスコ1世のストゥディオーロに掛かった画の裏には秘密の戸棚が存在している。当時ここには宝物が収納されていたが、現在その中身はピッティ宮殿の「銀器美術館」に移されている。紹介されたのは、《ラピスラズリの細口瓶》、《中国産オーム貝・銀・トルコ石の水差し》、《植物・鳥・魚文様の水晶水差し》。 このストゥディオーロはウィフィッツイ美術館の原点となったところである。フランチェスコ1世は愛人で後妻となるビアンカ・カペッロ(ベネチア出身)のためコレクションを増やしたという。彼女はピッティ宮殿近くで、昔は地下でつながっていたピアンカ館に住んでいたといい、地下への階段も見せてくれた。これは1966年の洪水で閉鎖されたとのこと。フランチェスコ1世の正妻ジョヴァンナは、1578年、身ごもったまま死亡したが、フランチェスコ1世によって毒殺されたとの黒い噂が流れた。 フランチェスコ1世は行政庁舎のウフィツイを美術館に改めた。もっとも力を入れたのは「トリブーナ」である。ここは8角形の部屋で、天窓はオーム貝で飾られている。フランチェスコ1世は、ストゥディオーロの宝物をこのトリブーナに移し、ギャラリーを作ることにうつつを抜かした。 修復中の廊下の天井からピアンカの紋章↓が出てきているほどである。このころビアンカはフランチェスコ1世の妻になっており、彼女自身がコレクターでもあった。その意味で、ウフィツィ美術館はフランチェスコ1世とビアンカの二人で築き上げたものといえる。フランチェスコ1世は47歳で没し、ピアンカもまもなく死んだ。ウフィイツイ美術館が公開されたのは、4年後、1591年のことだった。 すなわち質問3の答えは、「フランチェスコ1世がウフィツィ美術館を作ったお陰で、ルネサンスの作品が残った」ということになる。 (2011年1月10日) 註: 「ウフィツィ」か「ウッフィッツィ」か? 昨日の記事「ウフィツィ美術館」は、はじめ「ウフィッツィ美術館」としてアップした。自分の記事を google で引いてみると、「ウフィツイではないですか?」と赤字で聞いてくる。ニャロメ!と思って、ネットを検索すると、「ウフィツィ」と「ウフィッツィ」の両者が出てくる。 Wikipediaでは「ウフィツィ」であるが、Uffizi 美術館の日本人向け公式ガイドは「ウフィッツィ」となっている。たしかにフィレンツェで買ってきたこの美術館の図録の表紙も「ウフィッツィ」である。 ちなみに、自分のホームページにはどう書いていたかをサイト内検索すると、大多数が「ウフィツィ」だが、一部には「ウフィッツィ」としてアップしているものがあることも判明した。 そこで、”How do we pronounce Uffizi?”で google検索すると、音源が出てきてイタリア人女性と男性の発音を聞くことができた。これらを聞くと「ウフィツィ」であり、最初の「ウ」にアクセントがある。私や家内の発音は「ウフィッツィ」であって、明らかに「フィッ」にアクセントがある。先日のNHKのTV放映は録画しなかったので、絶対確実とはいえないが、日本人は「ウフィッツィ」と発音していたように思う。 そうなると問題は、「外国の発音の日本語における外国語カナ表記への反映」であるということに絞られてきた。Uffiziに関していえば、カナ表記ほうは現地の発音に近いものとして慣用されつつあるので、日本語の発音を現地の発音に合わせていくのが良いのではないかと思う。 NHKは、”studio” について、「スタジオ」という誤った発音のカナ書き日本語を作成し、慣用化させてしまったという前歴がある。文化の問題については、外部委員の入ったNHK内の委員会で検討して、こういった問題のリーダーシップをとっていただくのが筋だろう。 「ウッフィッツィ」とはここのことかと「ウフィツィ」言い。「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」という斎藤緑雨の川柳がある。 以前はどのように訳されていたかを調べてみた。興味津々。 ○ 澤木四方吉(美術史家) 1917年3月3日「美術の都」: ウフィツィ
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これは1月8日の日曜美術館。エンターテイメント風味付けの正月番組。「最近解明されたレオナルドの謎」という多少陳腐な触れ込みだが、それでも結構楽しめた。トピックスは次の3点である。 1.《白貂を抱く婦人の肖像》のマルチ・スペクトル・カメラ分析と原画復元 (その1) ポーランドクラクフ市のチャルトリスキー美術館の至宝であるレオナルドの《白貂を抱く貴婦人の肖像》は2002年に横浜に来た時に見に行った。この画は、イタリア−ポーランド−パリ−ドレスデン−ポーランド−ベルリン−ポーランドという数奇な旅を重ね、何度も修復を受けている。そのためか、他のレオナルドの画と少し異なる印象を受けるという説さえも出ている作品である。 この《白貂を抱く貴婦人の肖像》に対し、コット氏がマルチ・スペクトル・カメラ分析を行い、ヴァーチャル復元した成果がこの番組内で紹介された。このカメラは13種のスペクトル、24,000万画素の画像を提供する強力な武器である。 まず変色したニスの影響を取ることから作業が始まる。当時使われていた各種の絵具に500年分の紫外線を照射し、変色分を差し引いて制作時の色彩を推定する。これによって、暗い顔色はピンクになり、緑がかった服装は美しい青となり、白貂の白もずっと綺麗な色となった。 次に、この画が流転中に受けた修復の痕跡を見出して、その部分を桃色で描出していくのであるが、驚くほど多くの箇所に加筆・修復がなされていることが判明した。黒い背景はもともとは美しい青であり、余計な字も書き込まれていた。ベールの金色の縁には極端な修復が施されているため、原状回復は難しかった。 最後に、原色を推定し、ドレスの幾何学的模様を回復させるなどして、このヴァーチャル復元を終了するのである。復元前後の2枚を比べると、原画は明るく優しい色彩であり、これならばレオナルドの作品として疑うものはいない絶品であることは歴然としていた。 (その2) R2−大ヤコブ(右2): ありえない!
おまけに氏はモナリザの眼の部分をこのミクロ点描画法で描いて見せてくれたが、これは興味津々。↓は現在のモナリザの左目の部分。最近の報道によると、高度な拡大鏡で見ると、右目に「LV」、左目には「CE」あるいは「B」と思われる記号があり、さらに背後の橋のアーチには「72」か「L2」のような文字が見えるとのことだが、この放送ではこの点には触れられなかった。 まずはポプラ材に鉛白の地塗りを施す。ここに眼のデッサンを線で描き、その上をオーク色で塗る。この塗り方は不規則にするのがコツということだった。次いで茶色やこげ茶色を使って陰影の部分を描いていくが、ここでは指を使ってボカスことが大切。次第に使う筆を細いものに変えていく。 ここで1週間ぐらい絵具を乾かす。まずベースの色を塗る。次いで小さな点で線を消すように色を置いていく。この色を微妙に変化させていく。この作業には極度の集中力を必要とする。ここまでは肉眼の作業だが、次には虫眼鏡を使用してミクロ点描を始める。30分の1ミリあるいは40分の1ミリといった微小点を何1000万も置いていくのである。この実演では左眼の半分だけ描かれたが、それでも40日かかったという。 コッテ氏のヴァーチャル復元画と並べて見せてくれたが、かなり似ているような気がした。ルーブルの修復担当者もミクロ点描画には息を呑んだという。レオナルドのスフマート技法は彼の弟子も多用しているのだから研究素材は少なくない。いくら小さなミクロの点といっても、現代の技術をもってすれば「ミクロ点描仮説」を科学的に検証することは困難ではないはずである。 トピック1は「科学的アプローチ」であり、トピック3は「芸術的アプローチ」である。悲しいかな、現在では、この2つの手法は完全に分離してしまっているが、レオナルドの時代には、特にレオナルドにとっては、この2つのアプローチは重なり合うものであった。この番組でも、トピック2を省いて、トピック1と3とをまとめたセクションを作って、両アプローチの専門家の間でディスカッションすれば良かったのではないかと思う。 (2011年1月9日) |
1月3日の夜の「4時間番組」。正月の孫たちの来襲が終わってほっとしたところでちょうど良い番組と思って見だしたが、正直最後の方は眠くなってしまった。忘れないうちにメモをアップしておくことにした。 司会は女優の大地真央 、青柳正規、池上英洋両先生の監修 、リポーターが森田美由紀、語りは石澤典夫の豪華版である。 第1部: 古代ローマ・中世 ・ベネチア「サンマルコ大聖堂」: 11世紀後半、外には5つのドーム、中には天井の黄金のモザイク画、金の壁、大天使ミカエルのイコン、パラドーロ(衝立)にふんだんに金が使われている。金は永遠の象徴であり、交易にも役立った。モザイクは、1cm四方の「テッセラ」の集合。これは金箔にガラスを載せて保護したもので、角度を変えて張り付けられた各ピースによって光を乱反射させている。 ・ラベンナの「ガラ・プラシディア廟」は1500年前のもの。「良き羊飼い」や「星空に輝く十字架」だけに金を使用している。同じラベンナの「サン・ヴィターレ聖堂」は1400年前のもの。ここのモザイク画では、皇妃テオドラにも光輪が付けられている↓。金は神からの贈り物とされていた。これを見たクリムトが現在NYのノイエ・ギャラリーにある《アデーレ・ブロホバッハー》やオーストリア絵画館の《接吻》などの金を多用した官能的な画を描いた。このように金は祈りの象徴であるのみならずエロスの象徴でもある。 ○ここで、イタリアで活躍しているアコ―ディオニストcobaさん登場。金には「活性化」と「浄化」の2面の作用があるとのことで、金をモチーフにした自作を演奏された。 ここで話は古代ローマに逆戻り。 ・古代ローマの遺跡フォロ・ロマーノからは沢山の金の美術品が出てきている。カピトリーニ美術館蔵の《ヘラクレス像》には金箔が使われており、《マルクス・アウレリウス像》は青銅に金メッキを施したものである。巨大な黄金の《女神の足》も出土しているが、これは金メッキと金箔の両者が使われている。この女神は復元すると3メートルにも達するものとなるという。 ・このような金はイタリアではあまり採れず、イベリア半島のラス・メドゥラス金山で採取されていた。水道の跡が残っているが、これを使って山から金を含む鉱石を流し、比重の差で金を選別していた。この作業には奴隷が使われた。サトゥルヌス神殿には、530トンもの金が保管されており、初代皇帝アウグストゥスの横顔を刻した金貨として使われていた。 ・西暦79年の火山爆発で埋没したポンペイ遺跡からは、《蛇型の腕輪》や《耳飾り》といった黄金の装身具が多数出土している。 ○ここで監修の青柳正規氏登場。トツトツとした口調である。エジプトでもツタンカーメンのマスクのように金が使われていたが、その使用は上流階級に限られていたとのこと。これに反し、ローマでは奴隷さえも金の装飾品を所有するほど、金が広く行き渡っていたとの話をされた。以前わたしが見た「エトルリアの世界展」にも金の装身具がかなり出展されていたが、それとの関連には触れられなかった。 ・5代皇帝ネロの黄金宮殿は、現在のコロッセオの場所に作られていたが、そこには35メートルに及ぶ金のネロ像があったという。これは奈良の大仏の2倍以上の大きさである。 ・14代皇帝のハドリアヌスは、パンテオンを黄金の公共施設として、市民に開放した。大きな金のドームがあったとのことである。 第2部: ルネサンス ○ここでもう一人の監修者の池上英洋氏登場。こちらは弁舌さわやか。 ・まず「コジモ・デ・メディチが作ったフィオリーノ金貨がルネサンスを支えた」という話を一くさり。とくに「宮廷料理では金を食べていた」というショッキングな発言。ここで 彌勒忠史氏が当時の料理人に扮して登場。「うなぎパイの金箔包み」などの金料理を提供。錬金術まで出てきたのは金に不老不死の力があると考えられていたからで、金を食べたのはその流れによるとの説明に納得。 ・ヴェッキオ橋に今も金細工店が30以上並んでいる。当時金細工は芸術とみなされていたとのこと。ここで、ウィーン美術史美術館の金の塩入れ《サリエラ》の写真が出てくる。ベンベヌート・チェッリーニがフランソワ1世のために、金貨1000枚を溶かして製作したもので、豪華絢爛とはこのことだろう。 ・ここで話はベネチアに飛び、ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》が出てきたり、金の技法を極めたとされるカルロ・クリベッリの《サン・ドメニコの多翼祭壇画》が出てきたりした。クリベッリは20代に人妻と不倫の恋に陥り、ベネチアから逃げざるをえなかったが、ブレラ美術館に所蔵されているその人妻の面影のある首の長い《蝋燭の聖母》の衣服は、細かい金の浮き彫りの文様で飾られている。 ・ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵のジョヴァンニ・ベッリーニ作《ベネチア提督ロレダーノ》の衣服には金のような模様が見られるが、実際には金を使用せずに金を感じさせる高度な技法が使われている。専門家によるその実演があったが、第1段階としては白と灰色で光と影を描き、第2段階として黄色と黄土色を混ぜた透明感の強い黄を乗せるというやり方だった。 ・ウフィッツイのマルティーニ《受胎告知》は金ぴかで永遠の天国でのできごとを表しているが、サン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコの《受胎告知》になると金の使用量が減り、ウフィッツイのダ・ヴィンチ《受胎告知》には金はほとんど使われていない。光輪も神聖なものとしては取り扱われておらず、百合におしべを描くなど実景に近づいた画となっている。 ・ダ・ヴィンチがミラノの教会から依頼されて描いた《岩窟の聖母 第一バージョン》には光輪が描かれていなかった。依頼主のミラノの教会が、異議を唱え、裁判で勝訴したため、ダ・ヴィンチは光輪をつけた《岩窟の聖母 第二バージョン》を描かざるをえなかった。この画は現在ロンドンにあるが、弟子が描いたものかもしれないとのことである。《最後の晩餐》 のキリストや弟子たちにも光輪は付いていない。 ・システィーナのミケランジェロの《最後の審判》のキリストにも光輪が付いていない。ラファエロの《サンシストの聖母》にも光輪はないが、バチカンの署名の間の《アダムとイブ》には金がしっかりと使われている。ラファエロのチャッカリしたところが見て取れる。 第3部: バロック: ・その典型がサンタ・マリア・ビラ・ヴィットリアにあるジャン・ロレンツォ・ベルニーニの《聖テレサの法悦》である。黄金の矢のような光線は神の光の象徴である。このベルニーニはボルゲーゼ美術館蔵の《プロセルピナの略奪》の食い込むような手を表現した彫刻でも有名だが、サン・ピエトロ広場の列柱廊や「四大河の泉」などによって、ローマを劇場空間に変えてしまった。教皇ウルバヌス8世の知遇を得たベルニーニは、金を多用したサン・ピエトロ大聖堂に《バッキダーノ》という10階建てビルに相当する高い天蓋やローマ教皇の権威の象徴としての《聖ペテロの司教座》を作り、「金=権威」という概念を確立した。 ・ベルニーニが作ったサン・ピエトロの塔の亀裂を非難した建築家ボッロミーニは「フォンターネ聖堂」において金は中心部のみで白を多用した。これに対しベルニーニは近くに金を多用した「サンタンドレ・フィリナーレ教会」を作って対抗した。結局のところボッロミーニが自殺して勝負がついてしまったというのが話の落ち。 ○ここでソプラニスタの岡本知高が登場し、バロックの教会内でカストラータ並みの美声を聞かせてくれた。女性歌手が教会内で歌うことがなかった当時、カストラータの高い声は信徒をカトリック教会に呼び寄せるためのものであった。 ○ここで池上先生が再び登場し、教会の分裂にともなうカトリック信者の減少と大航海時代の出現という二つの事象が重なって、世界的な布教が始まったのであるとの説明があった。スペインの「サン・エステバン聖堂」の黄金の祭壇に見られる過剰なまでの装飾←やメキシコのオアハカの黄金で飾られた「サント・ドミンゴ教会」→などはその代表例である。
○ここで山本容子氏が登場。《かぐや姫》のような平安文学を金箔を和紙に張った銅版画にして、イタリアでも展示したが、イタリアの金と日本の金は異なっているとの意見だった。日本の金は、イタリアのそれにくらべ、壊れやすく、はかないもののような気がするとのことである。 ○次に登場したのは、黄金の3Dアートといわれるローマのイエスズ会総本山「イル・ジェズ聖堂」に描かれたジョバンニ・バッッティスタ・ガウリの天井画《イエスの御名の勝利》↓。彫刻との組み合わせ、天井に雲を描き、窓からの光が金色に輝く超絶技巧によってイリュージョンの視覚効果を観る者に与える。その傍にある地味な《ロヨラの祭壇画》は、下がってゆき、その背面に輝くロヨラの像が現れるサプライズ。 おわりに: 現代 ・最後に、最近のイタリアの貴金属装身具の紹介となった。カッツァニーガの作品はセレブに大受けとのことである。しかし、この販売会社のウェッブサイトを見ると、公共放送のNHKがこのようなPRに加担することは倫理規定に反しているのではないかとの疑念も出てくるだろう。 ・4時間にわたる長大な番組だったが、各章ごとにあらかじめ概略紹介を行った後、それぞれについて詳しく説明をしていくという重複した構成を見直し、金や光という本題からはずれた画家の逸話などを省けばもっとスッキリとした番組となったであろう。 ・良かった点はフィレンツェやロンドンの専門家の落ち着いた説明が聞かれたことと黄金芸術のイタリア編をまとめて見られたことである。仏像などの東洋美術における黄金芸術との関係についても考えさせられる点があった。 (2011年1月3日) |
美術講演・映画 2010
12月5日の日曜の夜に、BS朝日で特別番組「ダ・ヴィンチの指紋」を見た。これは草思社から発刊されたマーティン・ケンプとパスカル・コット共著の単行本「美しき姫君−発見されたダ・ヴィンチの真作」を下敷きにした番組。ケンプはオックスフォード大学美術史学科名誉教授、コットはマルチメディア高解像度の発明者で、リュミニエール・テクノロジー社の代表である。 1998年1月、ニューヨークのクリスティーズ・オークションで、19世紀に出品された無名の《ルネサンスのドレスを着た少女の横顔》が、ニューヨークの画商によって1万9千ドル(約250万円)で落札された。羊皮紙に女性の横顔が3色のクレヨンと黒インク描かれたこの小品は、19世紀のドイツではルネサンスの画法で習作を描くことが流行していたのでその一つと考えられていた。 その場に居合わせたカナダ人のコレクター、ピーター・シルヴァーマン は、この画は間違いなくルネサンスのものだと睨み、オークションに臨んだが競り負けた。9年後の2007年、ニューヨークの画商がこの画を売りに出していたので、シルヴァーマンは、往時の落札額と同額でその絵を手に入れた。その後、専門家の中に、この謎の絵画「美しき姫君」はレオナルド・ダ・ヴィンチの作であるという説が出てきた。 シルヴァーマンから鑑定を依頼されたケンプ名誉教授は、広範囲に亘って施されているハッチング(線影)の描線が上に凸のカーヴを描いているため、左手のよって描かれたものであることを発見した。さらにこの画の左上に画家の指紋が残っていることも見出された。 パリの「リュミエール・テクノロジー社」のパスカル・コットが開発した2億4千万画素という高解像度撮影が可能なマルチスペクトル・カメラで解析すると、この指紋はダ・ヴィンチの《聖ヒエロニムス》に残された指紋と一致することが分かった。この指紋の放射性炭素年代測定法・赤外線・等による「年代測定」によってこの画が描かれたのは15世紀半ば〜17世紀半ばであるとされたとのことである。 当時のダ・ヴィンチは、ミラノ公のルドヴィーコ・スフォルツァに召し抱えられていた。もしこれがダ・ヴィンチの作品だとすると、描かれた人物はルドヴィーコに纏わる女性の可能性がある。質素な衣装から判断してそう高位ではないルドヴィーゴの妾の娘、ビアンカではないかという説が有力である。彼女は、13〜14歳で嫁いだが、婚礼から僅か4カ月で亡くなった薄幸の女性である。病名は子宮外妊娠と伝えられている。 この画が羊皮紙に描かれたものであるということは、これが綴じられた書物の一部であることを示唆している。彼女の婚礼祝いか追悼のためかに、王から指示され製作されたものだったのかもしれない。ダ・ヴィンチの作の中には、羊皮紙を使用した画は1枚もないが、フランス人画家ジャン・ペレアルに羊皮紙の制作方法や彩色法について問い合わせた記録が手記に残っている。羊皮紙の年代測定で、1440〜1650年と判定されていることも上記の説を補強する。 面白い番組だった。日比谷公園で開催予定のダ・ヴィンチ展のプレリュードのような気がした。 (2010年12月7日) |
はじめに: 1.アーニャ(またはアンナ)・チミアキン: アーニャはカンディンスキーの6歳年上の従姉妹だったが、当時としては、特別な女性だった。アーニャはモスクワ大学に入学した最初の女性の一人だった。カンディンスキーは、このモスクワ大学で講師をしていたのである。アーニャの画像を探してみたが、見つからなかった。 彼女が美術を嫌っていたかどうかは分からないが、美術を愛好することと画家と結婚することとはまったく違うことがらである。 アーニャが結婚したのは、弁護士という尊敬されている職業の男性であって、ボヘミアンのような環境にあこがれていたからではなかった。 しかしアーニャは、嫌々ながら夫に従ってミュンヘンに赴いたが、7年後に別居し、1911年に正式に離婚した。 2.ガブリエル・ミュンター: ファランクス画学校は一年しか続かなかったが、ガブリエルは生徒としてカンディンスキーの許に留まり、二人は親密になっていった。 1904年に、カンディンスキーが妻と別居するや、二人は同棲しだした。20世紀初めの若い女性としては、既婚の男性と同棲することは非常に大胆な行為だった。このことはボヘミアン社会ではある程度認められていたが、二人の出自のブルジョワ社会ではまったく許容されないことであった。 しかし当時の二人はそのようなことは問題にせず、愛に陥っていた。カンディンスキーの画のジャンルとしては肖像画はないが、その唯一の例外はガブリエルの肖像画(→)である。1905年に描かれた彼女の肖像画を見ると、大きな目をもってはいるが、鼻が大きくてあごが小さく、唇が薄くて額が広いため、必ずしも美人とはいいがたい。 彼女はアーティストが夢見るような女性だったのだろうか? 彼女自身がアーティストであり、勇敢で野心的であったが、それでも彼女は思慮深く、判断力のある、恋する女性であった。彼女にとって不運なことに、カンディンスキーに対するこの情熱的な愛が、永い年月にわたって彼女を不幸にすることになる。 1904年には、二人はヨーロッパや北アフリカを旅し、1908年になってミュンヘンに戻って落ち着くことになる。ガブリエルはババリア・アルプスのムルナウ(Murnau)に一軒のカントリー・ハウスを購入し、夏の間そこに滞在した。この家は、二人が齢とって引退した時の家としても考えられていた。カンディンスキーはインテリアの簡単な家具をもっていたが、その一部に自分で花や騎手などの装飾をほどこした。 余計なことだが、このような長期旅行の費用はどうしたのだろうか。現在でも、フランスにはこの時代のカンディンスキーの作品が個人蔵として残っているそうだから、売り食いしながら旅を続けていたのかもしれない。しかし、ムルナウの家はカンディンスキーが勧めて、ガブリエルが買ったことになっているが、この支払いはガブリエルの親の遺産によるものだろう。ガブリエルの父親はアメリカから逆移民したドイツ人貿易商であったが、両親ともに早世したとのことである。 ガブリエルは、正式にはカンディンスキーの生徒であったが、画に対しては自分自身の考え方やスタイルを持っていた。こういった彼女の画風がカンディンスキーの画風に多大な影響を与えていたようであるが、そのことがカンディンスキーのガブリエルに対する苛立ちの原因となっていたのかもしれない。時が経つにつれて、二人の関係は次第に複雑になっていき、ある日カンディンスキーがガブリエルに求婚したと思えば、別の日にはすぐに別居すると云いだす始末であった。 一般に、愛について何が起るか、どういう結末となるのか、だれが予測できようか? 彼女が先生を尊敬している生徒である間は、カンディンスキーにとって彼女は元気のもととなるミューズだった。しかし一旦、彼女がカンディンスキーからの独立を志向して、自分自身のスタイルを発展させ、彼女が彼の遣り方に従わないだけでなく、恐らくカンディンスキー自身のスタイルにまで影響を与えだすと、彼女はカンディンスキーの苛立ちの種となった。 第一次世界大戦の勃発はカンディンスキーにとってガブリエルと分かれる絶好の口実となった。初めは一緒にドイツを離れたが、カンディンスキーはすぐにモスクワに戻っていったので、ガブリエルはミュンヘンに帰ってこざるを得なかった。ただ文通は続いており、ガブリエルは何通もの手紙をカンディンスキー宛に書いた。二人が最後に会ったのは、1915年12月、ストックホルムにおいてであった。二人の文通自体はさらに1年間続くが、その後二人は会うことがなかった。カンディンスキーにとっては、ガブリエルはすでに過去の人であったが、ガブリエルはカンディンスキーに対する痛惜で破滅的な熱情を抑えることができなかった。 1916年9月、50歳になったカンディンスキーは新しい恋愛に陥った。そして、その愛は1917年2月に結婚として結実した。このカンディンスキーの結婚の知らせはガブリエルにとって大きなショックであり、その後数年間絵筆をとることができなかった。 しかし、時がこれを癒して、彼女は快復し、画の制作に復帰した。その後、彼女の天才の裏切り行為を忘れることはできなくても、許して、彼女自身が幸せに暮らしたと思いたい。 ガブリエルは一生カンディンスキーを賞賛した。これに対し、カンディンスキーはガブリエルや彼女の作品について述べることがなかった。このことは、カンディンスキーの画家として多くのことをガブリエルから学んでいたというわれわれの疑念を強めるだけである。 この記事にはカンディンスキーの人格にかかわる重要なできごとが省かれているようなので、追加しておきたい。1920年以降、カンディンスキーは代理人を通してミュンヘンに残してきた自分の作品の所有権に関する連絡をしてきたとのことである。作品の大部分をミュンヘンに残したままロシアへ戻ってしまったカンディンスキーは、それを手元に置くミュンターに全作品の返還を迫ったのである。数年に及ぶ法的係争の末いくつかの大作はカンディンスキーのもとに返されたが、他の作品の権利はすべてミュンターに帰属することになったとのことである。 また、この文章の中に、1925年にガブリエルと結婚したヨハネス・アイヒナーのことが記されていないが、彼は10歳年上のガブリエルを支え続けた配偶者として記憶に止めておくべきである。 3.ニーナ・アンドレーフスカヤ: 若いロシア人女性、ニーナ・アンドレーフスカヤ(Nina Nikolayevna Andreevskaya)である。ただ比較的最近の話なのに、彼女については不詳なことがらが多い。ニーナの生年月日すら分かっていない。ニーナ自身の言葉によれば、彼女はカンディンスキーより27歳年下だったという。彼女自身の記憶によると、彼女は将軍の娘とのことであるが、ロシア軍のリストからはそのことは確認されていない。ある研究者は日露戦争で1905年に戦死したロシア軍大尉の娘ではないかとしている。 有名人の妻であり寡婦であったニーナは、自分自身の伝説を作ることに熱心だった。カンディンスキーは普通のハウスメイドと結婚したのだとの説もあるが、ありえない話ではない。彼の周囲に大勢の知性的な人々がいたのに、家庭にももう一人の知識人が必要だったのだろうか。以前に、カンディンスキーはインテリの妻やインテリの愛人を持ったことがある。それで十分だったのではなかろうか。 しかし、ニーナがロシアを離れたその日から、自分が良家の出身であると主張している。良家とは、貴族でないにせよ、インテリゲンチアであるということである。さもないと、すべて良家の出で構成されているロシアからの移民社会に入ることができなかったかもしれないのである。 カンディンスキーとニーナはどのようにして出会ったのだろうか? ニーナの伝説に従えば、ニーナが友達のメッセージを電話でカンディンスキーに伝えたところ、ニーナの声がカンディンスキーに「深い印象」をあたえたのだそうである。カンディンスキーは、「見知らぬ声に」というタイトルの水彩画をニーナに捧げたとの話である。 1917年2月、51歳のカンディンスキーは自分よりずっと若いニーナと結婚した。ニーナの記憶によれば、「私たちの結婚は、自分の人生の秋における春のスタートである。私たちはは初めて会った時に恋に陥り、一日といえども離れたことがない」とカンディンスキーが話していたという。 二人は新婚旅行のためフィンランドに向かったが、ロシア革命のためすぐに帰国せざるをえなかった。同年、二人の間にできた唯一の息子Vsevolodは、1920年、ロシア革命戦争中に、栄養失調と感染症で死亡した。 1921年12月、カンディンスキーとニーナは、飢餓と荒廃のロシアを離れ、ベルリンに向かった。外国においては、ニーナはカンディンスキーと完全に生活を共にしており、「一日たりとも離れず」、彼女の天才的な夫の陰に隠れていた。 1944年に、カンディンスキーが死亡した際には、ニーナが唯一の遺産相続人だった。彼女は、この画家の研究・展示・保存を目的としたカンディンスキー財団を設立した。彼女は、この財団からパリのジョルジュ・ポンピドー・センターに多額の寄付を行った。 ニーナはその後再婚することはなかった。しかし、非常な金持ちとなった彼女は、常にジゴロのような若い男に取り囲まれており、ニーナ自身、それが好きだった。また彼女は、宝石を愛して、熱心に購入し、立派なコレクションを作った。1983年に、彼女はスイスの別荘で殺されたが、これは多分このコレクションと致命的な関係があるのだろう。犯人は逮捕されなかった。ニーナは、パリで埋葬され、すぐに忘れられた。彼女の回想録は面白いが、その中はハリウッドのようなお伽話でいっぱいであるから、十分注意して読むべきものである。 (2010年12月1日) |
美術講演・映画 2009
・はじめに: 内容的には「ハプスブルク家の美術コレクターたち」としたほうが良いものだった。以前、カール・シュッツ氏のギャラリートークに参加したしたことがあったが、その時は分かりやすい英語を話されたのに、今回はドイツ語の原稿を早口で丸読み、それに続く和訳者も早口でまくし立て。いつものように頑張ってメモしたが、固有名詞などは聞き取りにくく、講演終了時には疲労困憊した。 1.皇帝ルドルフ2世: 今回の展覧会の冒頭にはアーヘンの《神聖ローマ帝国ルドルフ2世》↓の肖像画が飾られている。この画では、ルドルフ2世は、皇帝の服装をしておらず、スペイン風の衣服をまとっている。そしてその表情は幾分沈うつである。彼は少年時代を伯父のスペイン宮廷で過ごしたが、そこでフェリぺ2世が収集したティツィアーノやボッシュの作品やエル・エスコリアール宮殿建築から美術に対する理解を深め、「美術品収集は王の仕事である」と信ずるようになった。父の皇帝マキシミリアン2世の死によって、1576年、24歳で神聖ローマ帝国皇帝となったルドルフは、オーストリアに戻るやいなや宮廷をウィーンからプラハに移した。ケプラーをはじめとする学者や芸術家をこの地に招聘するとともに、美術品の収集を開始した。 ウィーン美術史美術館に所蔵されているデューラーのうちルドルフ2世が入手したものとして有名なものはニュールンベルグの《聖三位一体》であるが、今回展示されている《ヨハンネス・クレーベルガーの肖像》は異色の平面的な作品である。パルジャニーノの凸面鏡の《自画像》は皇帝にプレゼントされたものであるが、肖像画としてはまれなもので、錯覚をあたえるマニエリスム作品である。ピーター・ブリューゲル(父)の《雪中の狩人》はルドルフ2世が収集した「季節画」連作の一つである。コレッジョの「ユのピテル愛」連作もルドルフ2世のコレクションに加わっていた。その中で現在ウィーン美術史美術館にあるのは《イオ》と《ガニュメデス》で、残りの《ダナエ》はローマのボルゲーゼ美術館、《レダ》はベルリン国立美術館に所蔵されている。こういった優雅で、洗練され、また官能的な題材はルドルフ2世の好みにかなうものだった。 皇帝のお抱え絵師の作品としては、今回、スプランゲルの《ヘルマフロディトスとニンフのサルマキス》が出ている。プラハ宮殿の奥底が知れない妖艶な魅力をたたえた作品である。 2.レオポルド・ヴィルヘルム大公: ヴィルヘルムはウィーン美術史美術館の絵画ギャラリーにとってもっとも重要なコレクターである。彼は各地の司教を歴任し、ドイツ騎士修道会の長にもなった。兄のフェルディナント3世は30年戦争の末期に最高司令官に任じ、さらに1646年には従兄弟のスペイン王フェリペ4世からスペイン領ネーデルランド総督に任じられている。 彼は短時間に17世紀で最大規模を誇る絵画ギャラリーを築きあげたが、これはテニールスの《大公レオポルド・ヴィルヘルム大公のブリュッセル画廊》という「画廊画」に示されている。この画のなかに描きこまれた画の大部分はイギリスのハミルトン・コレクションからのものであるが、実際には異なったサイズのものである画を同じ高さに揃えて描いている。今回出展されているティツィアーノの《イル・ブラーヴォ》もこの中に描きこまれている。
ベラスケスの《白衣の王女マルガリータ・テレサ》はスペイン王フェリペ4世からマルガリータの婚約者である従兄のレオポルド1世に送られた肖像画のひとつであるが、この画は有名な《ラスメニーナス》と同時期に描かれたものである。1666年の婚礼の祝典の様子はヤン・トーマスの《芝居の衣裳を着けた皇帝レオポルド1世、皇后マルガリータ・テレサ》に描かれているが、皇帝が音楽好き、皇后がオペラ好きで、この時期のウィーンには芸術の華が開いた。一方、同じくべラスケスの《皇太子フェリペ・プロスペロ》では、目が青く、きゃしゃで、いかにも力がない様子が表現されている。 3.皇帝カール6世−マリア・テレジア: レオポルド1世の息子のうちの兄のヨーゼフ1世が死亡したあとを弟のカールが継ぎ、皇帝カール6世となった。今回の展覧会には、逸名画家の《金羊毛騎士団勲章をつけた神聖ローマ帝国皇帝カール6世》の肖像画が出ている。 彼は低湿に属する美術品をすべてウィーンに集め、シュタルクブルグに飾った。フェルディナンド・ストルファーは羊皮紙本↓にこの帝室画廊の各壁を正確に描いているが、これによると中央に大きな画、周囲に小さな画を木枠にはめて飾り、上部は楕円形に画が飾られている。こうするために絵画が切断されたりしている。今回出ているレンブラントの《読書する画家の息子ティトゥス・ファン・レイン》もこの羊皮紙本に描き込まれているとのこと。この画はハプスブルク家に入った初めてのレンブラントの画である。 アンドレアス・メラーの描いた《11歳の女帝マリア・テレジア》は、とても美しい少女の姿であるが、彼女が女帝になれたのは次のような事情があった。父の皇帝カール6世にも先帝である彼の兄の皇帝ヨーゼフ1世にも男児がないため、カール5世はオーストリアの皇位はスペイン国王が継ぐということになると、権力が集中しすぎると教皇に言わせ、さらに自分の娘のほうが兄の娘より継承権が先であるという規則を作ったのである。そしてマリア・テレジアの結婚相手には力のない家系の男子ロートリンゲン公を選んだのである。 マリア・テレジアはプロイセンのフリードリッヒ2世の侵入などに対抗するため戦争に明け暮れた。1775年に購入したルーベンスの《サンフランシスコ・ザビエル》など巨大な祭壇画はシュタルクブルグに入らないので、マリア・テレジアの共同当事者のヨーゼフ2世はベルベデール宮殿に絵画ギャラリーを作った。カラヴァッジョの《ロザリオの聖母》はこの時期アントワープで購入されている。 4.皇帝フランツ・ヨーゼフ1世: 今回の展覧会には、ムンカーチの《ハンガリーの軍服姿の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世》が出ている。この時代絵画ギャラリーには大きな変化はなかったが、美術史美術館が1891年に完成し、同年10月16日にフランツ・ヨーゼフ1世が初めて見学に訪れている。 美術史美術館の中2階のホールには、ベルガーの《学術文化を奨励したハプスブルク歴代皇帝の姿を描いた巨大な天井画》がある。左からルドルフ2世に冠を渡す金細工師、彫刻家レオ・レオーニ、塩壷を持ったヴェンヴェヌート・チェルニーニ、ティツィアーノとカール5世、その后イザベラ、妹マリア、背後には甲冑職人、武器職人を従えたチロルのフェルディナント大公が見られる。右側には、マキシミリアン1世とデューラー、カール6世、ルーベンス、レンブラントなども描かれている。 (2009年9月26日) |
T.はじめに: U.汝窯: V.青磁の釉色: 2.越窯(青磁の源流): 基本的にグリーニッシュ。とくに最高潮に達した晩唐5代の越州の「秘色」は明らかにグリーニッシュである。 W.まとめ: 五代北宋代の青磁のほとんどがグリーニッシュであったのに、ひとり孤高を守るように汝窯がブルーイッシュの青磁を生産したのかなどについてはいまだに謎に包まれている。古陶磁研究を志して半世紀以上経過した今なお、学ぶべきことあまりに多く、日暮れて道遠しの感を深くするのである。 X.附記: 2009/12/5-2010/3/28 大阪東洋当陶磁美術館で「河南省文物考古研究所出品ー北宋汝窯青磁―考古発掘成果展」が開かれる予定であるとのことである。 (2009年7月23日) |
1.ラロックの聖母の謎、主題と年代
2.錬金術 レオナルドの《洗礼者ヨハネ》は、後から来る救い主を指さしている。すなわち彼はメッセンジャーで、その姿は中性的である。Salaiが描いたと思われる《洗礼者ヨハネ》には、乳房と男性器がある。レオナルドが描いたデッサンにも両性具有のものが少なくない。両性具有は完全体であるが、人間ではこれが男と女に分かれている。これが合一すれば不老不死の完全体の人間となるという考え方がある。
ヘルメスとは、メルクリウス、すなわち翼がついたメッセンジャーである。古代の天使には翼はついていなかったが、ヘルメスの概念が入って、天使にも翼がつくようになった。天使もメッセンジャーであり、両性具有である。 まとめると、洗礼者ヨハネ・ヘルメス・天使はすべてメッセンジャーであり、翼・両性具有・完全体という概念を共有している。
3.輪廻
4.アチェレンツァの肖像画
裏面に、Pinxit mea(私が描いた)と記されているが、これは通常は表面のどこかに描かれるものであるから、この画の価値を高めようとした意図が加わっているものだと思う。Potenzaは人口3000人の小さな場所であるが、18世紀にフィレンツェのSegni家がここに移住していることに留意しなければならない。
(2009年3月21日) |
・はじめに: 展示はあえて年代順や国別にせず、今回の展覧会へのアプローチを中心に考えて構成した。17世紀は「黄金の世紀」といわれるが、これはこの時期に芸術や科学が頂点に達したこと、すなわち欧州文化が完成したことを意味しているが、さらにこの時期には国王すなわち王制の勝利によってある種の均衡が生れている。 今回展示されている有名作品としては、プッサンの《川から救われるモーゼ》、ベラスケスの《王女マルガリータ》、ルーベンスが消えていく雲の上の愛の幻影を描いた《ユノに欺かれるイクシオン》、ダイクが描いたイギリスに亡命中の《プファルツ選定侯の息子たち》などがあげられる。 今回の展覧会は3部構成としたが、展覧会全体は、このような350年前の作品を観ることによって、現代的な課題を考察することができるようにまとめた。すなわち、過去の作品の現代性を考えるということを目的としている。具体的には、芸術と科学の関係を考えるということである。 まず最初に出てきたのは、日本人Kiyoshi Ito教授(1915-2008)の写真である。彼は確率計算の祖といわれる数学者であるが、現在における科学の独立性の象徴としてスライドにされたようである。 「黄金の世紀」は革命の時代であり、経済の革命、芸術の革命、信仰の革命(キリスト教内のものだが)が同時に進行し、ヨーロッパに均衡と調和をもたらした古典時代であったが、20世紀以降の現代は、変動・紛争・対立の時代である。その両者を比較し、考察することがこの展覧会の目的となっている。 ・第T部 「黄金の世紀」とその陰の領域: 17世紀のヨーロッパの地図を見ると、ドイツという国はなく、イタリアも小国に分かれている。すなわちヨーロッパは細分化されている。 その中で、まず王室側の作品が展示されている。 宮廷画家ミニヤールの《ド・ブロワ嬢と推定される少女の肖像》は、サンダルに金箔が使われた贅沢な画で、裕福な人々のみが所有できたエキゾチックな鸚鵡が描き込まれている。 ベイクヘルデの《アムステルダム新市庁舎のあるダム広場》は、経済の飛躍的増大を印象付けており、ボスハールトの《風景の見える石のアーチの中に置かれた花束》は、詩情豊な画であるが、お金持ち相手の画で、チューリップ・バブルのメタファーとなっている。 今回の目玉のフェルメール《レースを編む》については、レースを編んでいるのは良い家庭の女性で、色彩の魔法、はかなさ、美しさ、調和が表れているとのベタボメ デュピィの《葡萄の籠》の葡萄は計算しくされた配置になっており、大理石のヒビは形あるものは壊れるという意味を含んでいる。 一方、17世紀の陰としては、疾病・戦争・飢餓といった問題があり、ルナン兄弟の《農村の家族》は赤貧の世紀をレアリスムで描きあげている。 ムーレンは《ライン川を渡るルイ14世の軍隊》ではオランダを征服しようとしているフランス軍を、ファルコーネは《トルコ軍と騎兵隊の戦い》で宗教戦争を、スナイエルスは《プラハ近郊白山での戦い》でカトリックとプロテスタントの対立を描いている。またフランドル派の《襲撃》は追いはぎに襲われた旅人が金を差し出しながら、命乞いをしている。 しかしながら画を売るためには、このような現実の影の部分もフィルターをかけて描かれていることに注意しなければならない。ビリャビセンシオの《ムール貝を食べる初年たち》も不快な感じを与えないように配慮され、オスターデの《窓辺の酒飲み》もピエロのように描いて、市場に受け入れられるようにしている。このように、実際の貧富の格差は17世紀絵画でははっきりとは分からないのである。 ・第U部 旅行と「科学革命」: ヨーロッパの外への進出は、侵略という形で進められた。ルーベンスの《トロイアを逃れる人々を導くアイアネス》は、ギリシャ神話をもとにしており、トロイアの火事から、船で逃れようとしている人々を描いている。この画はローマで制作されたもので、地中海的な作品である。しかし、デ・ウィッテの世界地図↓をみると、ヨーロッパを中心に描かず、これから征服すべきところが沢山残っていることを示している。 ブーレンベルフの《手紙を持つ20歳の若者》の手紙は商売の契約書だろうか。机の上には、地球儀が乗っていることに注意してほしい。 エキゾチズムという観点からは、オランダ人ポストの《ブラジル、パライーバ川沿いの住居》は、初めて新大陸が描かれた絵画であり、エーフェルディンゲンの《山岳地帯の川、スカンジナヴィアの景観》は、山のない国で育ったこの画家のスウェーデンという比較的近い地域に対するエキゾチズム的感情が底辺にあると捉えることができる。 作品自体が旅をする例としては、ベラスケスの《王女マルガリータの肖像》↓が挙げられる。これはフランス宮廷からスペインに注文されたものである。 クロード・ロランのクリュセイスを父親のもとに返すオデュセウス》↓には、イタリアの宮殿が描かれており、イタリアがこの画のインスピレーションの源泉となっているが、「海の旅」すなわち地中海の旅というヨーロッパ内の旅がモチーフになっていることが重要である。 一方、バクハイセンの《アムステルダム港》は、国家権力が支配した港を描いており、ロランが描いた情感豊な港の景色の対極をなすものである。 コールテの《5つの貝殻》は、南洋から持ち帰った貝殻を写実的に描いており、フランドルのピーテル・ブールの描いた《一瘤ラクダの習作》も珍しい動物であるが、実際、動物園ができたのはルイ14世の時代だったのである。 モーラの《弓を持つ東方の戦士(バルバリア海賊)》↓は、オスマン帝国の兵士であるが、この時代に「千夜一夜物語」や「コーラン」の翻訳がなされており、言語学的にもヨーロッパの多様性が確立されつつあった。 ハルスの原作にもとづく《デカルトの肖像》は、科学革命の一つの象徴である。しかしながら、この時代の画には、革新的なものだけではなく、伝統的なものが残っていることも指摘しておかねばならない。例えば、ダウの《歯を抜く男》は詐欺師であることは明らかである。ウテワールの《アンドロメダを救うペルセウス》には、写実的な貝殻という科学的なものと想像の竜という伝統的なものが混在しているのである。ロマネッリの《アイアネスの傷口にディクタムヌスの薬液を注ぐウエヌス》でも神話と薬剤という概念が混在しているようである。 ・第V部 「聖人の世紀」、古代の継承者?: この時代の絵画には、古代神話の異教と当時のキリスト教が共存している。キリスト頭部のカメオもメデューサの頭部のカメオも存在しているのである。 フォッスの《プロセルピーナの掠奪》では、友人がひきとめようとしているにもかかわらず、戦車に乗せられたプロセルピーナが地球の割れ目に連れ去られようとしている。 ドロストの《パテシバ》には紙が描かれているが、BC1000年には紙がないので、ほんとうは粘土板に楔形文字とするべきところである。したがって、これは聖書の物語を解釈して描いたものである。ヨルダーンスの《4人の福音書記者》には、マタイ・マルlコ・ルカ・ヨハネが覗きこんでいる本が描かれているが、これもその時代には存在していないものである。 デイステルの《ヨハネス・デ・フォスの哲学論文を提示する天使と寓意像》には、絹地に印刷された文書がコラージュのように貼り付けられている。 ・まとめ: 17世紀絵画の現代的な意味づけとしては、二つの文化の問題を考えたい。 (2009年2月28日) |
講演1.国際基督教大学 M. ウイリアム・スティール教授「特別展の紹介」: 監修者であるスクリップス大学 ブルース・コーツ教授の原稿の代読。大部分英語だが、一部日本語を交えての講演なので分かりやすかった。 内容は、 @スクリップス大学はカリフォルニアの女子大。 Aこの展覧会は、2006年以来、米国六大学を巡回。 Bこのコレクションの寄贈者は日本生れで、日本画の素養があるありリリアン・ミラーをはじめ、:バラーズ、フレッド・マラーやAoki Endowmentなどである。 C今回の周延の作品は、西南戦争、明治天皇と文明開化、歴史画、大奥、美人画、役者絵をほぼ時代順に展示してある。幕府軍の侍であった画家のノスタルジアが表れている作品が少なくない。 講演2.日本女子大学 及川茂教授「明治の知られざる浮世絵師 梅堂豊斎」: 日本人の英語原稿朗読であるから、困ったものだ。豊斎は4代目国政であるが、この画家の名前が何回も変わったということが発表の趣旨である。誰が師匠の名前を継ぐかということが重要だったため、このように複雑なことになったらしい。人名がすべてローマ字なのでいかにも分かりにくい。作品自体は名前が変わっても、あまり変わっていないようだった。 講演3.国際基督教大学 M. ウイリアム・スティール教授「反西洋主義と明治文化の変容」: 佐田介石の舶来品排斥論」: 英語であるが、自分の言葉で発表されたので、分かりやすかった。 福沢諭吉が自由民権論者であったのに対し、佐田介石は西欧化反対論者で、当時は有名だった。 ただ、佐田は日本の文明開化自体を否定したのではなく、舶来品によって伝統文化が破壊されることに警鐘を鳴らしたのである。 佐田翼眼の《富国歩ミ初メ》→という面白い絵が紹介された。船の上に舶来品が満載され、その弊害についての長大な警告文が付けられている。 講演4.カリフォルニア大学アーバイン校 アン・ウォルソール教授「19世紀末ノスタルジアー周延と千代田城の女中」: この講演では、面白い浮世絵が沢山出た。菱川師宣の春画《床の置物》や《陰間と御殿女中》なども出てきた。 講演は、@「江戸時代に描かれた大奥」、A「江戸の生活、とくに将軍に関する本の流行」、B「周延が描いた大奥」、C風俗画報に表れる年末行事などに分けて、よどみなく話されたが、声が小さかったので十分聞き取れないところがあった。 周延が描いた江戸時代の女性は一夫多妻制の中に生きる女性であり、先行の浮世絵師のような幅広い視野の中の女性ではなく、また明治の良妻賢母でもなかった。周延の女性像は彼のノスタルジアそのものである。 ここで休憩があり、その後は日本語の講演ばかりだったが、時間の関係で失礼した。資料によると、それぞれ、@高橋由一・小林清親(東京文化財研究所 山梨絵美子研究室長)、A広重(那珂川町馬頭広重美術館 河野結美学芸員)、B岡倉天心(国際基督教大学
アジア文化研究所 岡本佳子準研究員)を取り上げて、日本の近代化・西洋化とそれに対する抵抗・伝統復帰の問題が話されることになっていた。 (2009年1月31日) |
美術講演・映画 2008
矢島氏は「リアリズムではない日本の美意識」として、「単純な、すっきりとした、ゆるい、大きさの比率が甘い」といったような画を「日本の素朴画」とまとめられた。まず、「寺社縁起絵巻」について、この素朴画の考え方を説明された。これに対しては特別の議論はなかった。
次に示された《つきしま》や《かるかや》といった作品群については、素朴な画とはいえるが、描き慣れた画でもあるということで意見が一致した。 「禅画」については、自分の楽しみで描いているという面もあるが、教訓的なメッセージをこめている画であるということになった。禅画を素朴画と考えることに対しては、浅井氏からはっきりとした意見は出てこなかった。 「南画」については、星野氏は大雅や蕪村はリアリズムそのものであるとの意見を述べられ、矢島氏の素朴画に包含することに疑問を表された。星野氏は、これに対し、浦上玉堂は「切実系素朴画」で、木米は「ほのぼの系素朴画」といえるのではないかとの考えを示された。 わたしは、「西洋画と違い、東洋画ことに日本画には画と文字をコラボレーションする作品があり、そういった作品では、文字とのバランスのため画があまり強調されないのではないか」との意見を述べたところ、星野氏はこれに賛意を表された。 座談会終了後、星野氏と話す機会があった。今回展示されているような作品を日本絵画の中で包括して考えていくという矢島氏の問題提起は貴重なものであるけれども、「素朴画」という言葉は必ずしもベストのネーミングではないのではないかということになった。 このことを、矢島氏に申し上げたところ、「別な名前としてはどういうものがいいでしょうか」と尋ねられてしまった。適切な名称があれば、ご提案下さい。 (2008年12月13日) |
1.はじめに: 先週放映されたNHKの「新日曜美術館」では、実際に話したことのごく一部しか放映されず、自分の意図したコローの明るいモダンな面が十分に強調されなかったのではないかと心配している。この展覧会の準備には10年間、実際の作業を始めてからだけでも5年間という時日がかかっている。したがって1500円という入場料は決して高くないと思っている。
いと思っている。 2.コロー展の企画: 学芸員の仕事は映画の監督と似ており、展覧会の企画のすべてを統括する。実際に、コローの作品を並べるにしても、ある作品の両側にどういう作品をもってくるかということで、まったく違った展示となる。そういった意味で展覧会の監修者は「一期一会」という緊張感をもって仕事をすることになる。 3.コローを選んだ理由: 最近まで東京都美術館で開かれていた「藝術都市パリの100年展」でも、まっさきにコローが展示されていた。このように コローの画はいろいろな展覧会に出てくる。またコローについては、すでに森鴎外が述べているように、わが国への紹介も早かった。しかしその後の白樺派などによる紹介はミレーやゴッホなどには及ばず、わが国における知名度は印象派の画家たちにくらべ劣っている。このため、今回コローを根本的に見直したいと思ったのである。このことは世界的にみても重要なことである。 4.コローの生涯: コローは1796年、パリの裕福な家庭に生まれた都会の人間である。この点、寒村に生まれ育ったミレーとは根本的に違う。亡くなったのは1875年であるから、19世紀の大部分を生きたことになる。 5.イタリアの風景画: イタリアには3回出かけているが、イタリアの地において風景描写をマスターした。それは光と形の造形である。これらの作品は、後期の「霧のかかった銀白色の叙情的風景画」の対極に位置するものである。これらは作品としては発表されておらず、コローの死後にアトリエから何百枚、何千枚と出てきたものである。シャープで現代的なこれらの画にはピカソなども驚いている。カチットした建物や色遣いは、セザンヌ・ピカソ・ブラックに影響を与えた。 6.ヴィル・ダブレーの想い出: 第1回のイタリア旅行の後、別荘のヴィル・ダブレーにアトリエを構え、近くの風景を描いた。彼は、結婚はしなかったが、家族を愛していた。現在もその風景は変わらずに残っている。コローの画には、その後このヴィル・ダブレーのイメージが繰り返し、繰り返し出てくる。そういった意味で、これらの後の画は「想い出の変奏曲」と呼ぶにふさわしい。近代的な「イタリア風景画」に比べ、《モルトフォンテーヌの想い出》のような「霧の中のような詩的風景画」の評価は当時ほどではなくなってしまっているが、監修者としてはどちらのコローも意味があると考えている。後者においては、戦争の時代における自然に対するノスタルジーやセンチメンタルな舞台芸術への憧憬などが感じられるが、前景・中景・遠景に分かれたコローの画の前景は抽象絵画に近づいているともいえるのである。 7.人物画: コローが人物画を描いていることはあまり知られていなかった。風景画とは異なり、素朴ながら正面から人物をとらえたリアリズムの作品が多い。《本を読むシャルトルの修道士》といった画にしても、宗教画とはいえず、格別の意味があるわけでもない。彼の画題は、大した意味を持っていない。有名な《真珠の女》にしても、モデルの実存をとらえて描いているのである。右側の青い部分はロスコを想起させる。《青い服の婦人》も、社会的な地位を有する○○夫人といった人物の肖像ではなく、普通のモデルの実写である。そのことは右肘の下に入れた赤い布やその下の本の存在により知ることができる。このようなモデルの一瞬をとらえて描いたコローの人物像は、素晴らしくモダンで、マネなどの画を先取りしている。 8.まとめ: コローは多様な絵画を描いているが、彼の画はその後の近代絵画に大きな影響を与えた。 (2008年7月16日) |
■ 司会による演者紹介: ポマレット氏は、1959年、モンペリエ生れ。1986年、国立学芸員養成学校入学。1991−2000年、ルーヴル美術館18−19世紀フランス美術担当。2000−2003年、リヨン美術館長。2003年、ルーヴル絵画部長。 ■ 現在までの誤った考え方について:
(2008年6月14日) |
今回の展覧会は、くしくも戸口に近いほうに戸外の画、遠いほうに室内の画が並んだ。戸外には光、室内には影が多いが、これは意図してそのように並べたものではない。
1. ワイエスとクリスティーナとアルヴァロ・・・ワイエスの影にはやさしさがあり、内面的なものがある。姉のクリスティーナは光、弟のアルヴァロは影として表現されているようである。アルヴァロはシャイであり、姉をひきたたせるためにワイエスに描かれることを嫌がった。このためワイエスは、アルヴァロの居た場所や彼の使った道具をアルヴァロの比喩として描いた。その意味で、ワイエスはアルヴァロに光を当てていたといえる。 <パネルの説明> 2. 《クリスティーナ・オルソン》 1947年・・・戸から室内へとはっきりとした影を描いている。この構図は、1)人物の背後が広い、2)人物が地平線よりも下に置かれていることから「悲しみの表現」であるとされる。 3. 《アンナ・クリスティーナ》 1967年・・・ワイエスは、メディチ家の家系の肖像のように死ぬ1年前のクリスティーナを描いている。ここでは、人物と家系の悲しみが表現されているが、影がほとんど見られない。しっとりとして穏やかで、やわらかな表現となっているが、これは霧の中で描いたとのことである。 <展示品の説明> 4. 《オルソン家の家》 1939年・・・ 「ゴシック風の田舎家」といわれる代表的な作品。これはアルヴァロの世界の表現である。大鎌は彼の道具。急な屋根の勾配がゴシック建築的。羽目板の一枚一枚数えて書いたという堅牢な画。手前の影、中央の日差し、そしてやや暗いワイエス・グリーンの草むらなど光と影の描き方が絶妙。草むらのスクラッチにも留意。スクラッチのためにファブリアーニ紙を使っている。ワイエスの白は紙の地の色である。ワイエスは死を考えた時に白を使い、生と死、此岸と彼岸の間に黒を使っている。 5. 《穀物袋》 1961年・・・ アルヴァロの肖像画! 穀物袋に光が当たり、その縁が耳のようになっている。一方、アルヴァロの耳には赤が使われている。こちらは血の通った耳である。ここには自然光はなく、影によって作り出された光だけが存在している。 (2008年4月18日) |
13:30−17:30という午後一杯のシンポジウム。最初に館長がイタリア語で挨拶。日本語通訳付き。次いで、このシンポジウムの監修者でピエロ・デッラ・フランチェスコの研究者である石鍋真澄成城大学教授の挨拶。 第1席は、東京大学大学院の伊藤拓眞氏の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと美術」 全体のイントロダクションである。 まずはウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像とウルビーノやグッビオの位置を示す地図から始まる。 次いでフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの概略。祖父はアントニオ(1348−1404)、父グイダントニオ(1378−1443)、その嫡子のオッダントニオ(1427−44)が暗殺され、庶子のフェデリーコ(1422−82)がモンテフェルトロ家の当主となった。フェデリーコは、ヴィットリーノ・ダ・フェルトロの教育を受けたが、兵士としてサン・レオ要塞の攻略で手柄をたて、当時ミラノ、ヴェネティア、フィレンツェ、ローマ、ナポリという5大勢力の拮抗するなか、傭兵隊長として勇名をはせた。フェデリーコは傭兵隊長として戦時のみならず、平和時にも軍備を整えるなどの傭兵契約を結んでいた。このことはウルビーノに富をもたらしただけでなく、ウルビーノがイタリア各地とのつながりをもつことに役立った。 そして美術のほうに話が進んで行く。侯爵宮殿(ウルビーノ パラツォ・ドゥカーレ)にみられる宮廷美術は外国人を含めた多くの芸術家の手によるものであった。ウルビーノの宮廷美術の第2の特徴としてははフラ・カルネバレーレという美術顧問を介してフィレンツェと密接な関係があったことがあげられる。 第3の特徴としては、ウルビーノが遠近法文化を有していたことが重要である。遠近法は、高度な応用科学で、ピエロ・デッラ・フランチェスカがウルビーノにおいて発展させ、ウルビーノやグッビオのストゥディオーロの寄木細工にも応用された。 さらに、ウルビーノはラファエッロを生み、ティッツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》にみられるようにルネサンス美術に大きな役割を果たした。 第2席は、埼玉大学 伊藤博明教授の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと人文主義」
フェデリーコの人文主義的な成果としては、図書室、藝術のパトロネージ、パラッツォの装飾、ストゥディオーロの装飾がある。ストゥディオーロの装飾においては、天球儀は黄道すなわち天文学、四分儀は距離を測定する計器として人文主義の表象となっている。 第3席は、弘前大学 出佳奈子講師の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのストゥディオーロ」。これは今回のシンポウムの白眉であった。 まず、「グッビオのストゥディオーロの紹介」。展覧会は先週見たばかりであるが、この講義を聴いて理解が進んだ。これは1477−83/86年ごろの制作。1939年にメトロポリタン美術館に売却されているが、今回6年がかりで地元の職人たちが実物大の複製を作ったものである。内面の下部は寄木細工の装飾で、遠近法を使って立体感を出している。窓からの光も計算されている。この上部に絵画があったのであるが、実物の画が残っているのはロンドンの2点だけであり、その他に2点の画像が存在する。天井にも寄木細工があるが、現在のところこの部分は未完成である。完成までにはあと1年はかかり、今回展示されているものと一緒にしてグッビオのドゥカーレ宮殿に納められる予定となっている。 次は、「イタリアにおける寄木細工」に関する説明である。これには、下記の4項に分けて詳述された。 @tarsia a toppo: これは木塊状嵌め込み細工で、複雑な工程である。tarsia
a toppoは、グッビオのストゥディオーロにおいても使用されている。 その次の話題は、「グッビオおよびウルビーノのストゥディオーロ装飾の作者について」。グッピオのストゥディオーロの《お菓子の木箱》とウルビーノの《お菓子の木箱》をくらべると、前者のほうが光と影のコントラストが強く、後者はその点やや平板に見える。このような点から、演者は、グッピオの作者はジュリアーノ・ダ・マイアーノ(1432−90)、ウルビーノの作者はバッチョ・ポンテッリ(1450−90)に比定している。 最後は、「グッビオのストゥディオーロ装飾とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公」。装飾より上部の壁には、前述のように絵画があり、それは《七自由学芸の擬人像》で、左から、天文学・修辞学(フェデリーコの息子グイドバルドが跪く)・弁証法(フェデリーコ自身が跪く)・音楽である。文法・幾何学・算術・を描いた絵画は失われてしまった。 装飾の最上段の帯状の部分は金の銘文で、この部分の複製もまだ完成していない。その文章は「とく高い母の永遠の学人であり、学ぶことそして天才というものを賛美するこれらの人物たちが、その母親の前で、いかに首をたれ、跪いているかを見よ。尊敬に値する彼らの敬虔さは正義に勝るものであり、その養育者たる母に従ったことを悔いはしない」となっている。 上段に描かれている道具について細かな説明があり、面白かった。マゾッチオ(置物)、シターン(九弦の楽器)、四分儀(長さの測定用具)、天空儀(黄道を示す天文学用具)、勲章などである。特に英国国王エドワード4世から授与されたガーター勲章はもっとも重要視されており、正面中央の遠近法の中心点に置かれている。これらの装飾は美しい組紐文様装飾で囲まれている。下段には、フェデリーコに関係があるいくつかの紋章があり、警喩を表す動物装飾もつけられている。 グッピオのストゥディオーロにおける書見台上の本に記された文章は、「世の人の最期の日はすべからく定められている。人の人生は短く、再び手にすることは叶わない。しかし彼らの望みはその名声を永久のものとすることにある。そしてこれこそが勇者の仕事なのだ」となっている。『ウルビーノ公はまさにその名声を永遠のものとしたのである』という言葉でこの素晴らしい講演が終了した。 第4席は、石鍋真澄教授の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとピエロ・デッラ・フランチェスカ」 ピエロ・デッラ・フランチェスカは数学や幾何学の本を三冊も書いている。算術論・遠近法画論・五正四面体論である。これらはグーテンベルグの印刷機に発明よりもほんの少し早かったので、印刷されず写本としてのみ残った。この本の一つにピエロはフェデリーコに対する献辞を書いている。ウルビーノは数学的人文主義ともいえるのであった。ピエロはフェデリーコより10年早くサン・セポルクロで生まれ、10年遅く死んだ。 その後、ピエロの有名な3点の画についての解説があった。 第一は、《ウルビーノ公夫妻》。これは傑作である!との一言。片目を怪我していたため横顔、とくに左横顔が描かれることが多い。珍しいものとしてフェデリーコの右横顔を描いた画もある。公爵夫人のバッチスタ・スフォルツァは、結婚した時には14歳で、38歳の夫の二番目の妻だった。結婚生活は12年続き、この間ウルビーノは大きく発展した。
講演後の聴衆からの質疑応答と討論はものすごく活発だった。その主なものをあげると下記のようである。 1.フェデリーコのアートに対する具体的貢献は何か。 (2008年4月7日) ブログ 1 (第1席、第2席) ブログ 2 ( 第3席 ) ブログ 3 ( 第4席、質疑 ) |
満開の桜をよそに、10:00−18:30という長丁場のシンポジウム「ルネサンスのエロティック美術―図像と機能」を西美の講堂で聴講した。われわれのように英語が国際語であると信じている人間には、イタリア語と日本語の同時通訳を聴くという珍しい機会でもあった。 モデレーターの挨拶: 開会の辞: ヴィーナス展の紹介: 第1セッション(1) 第1セッション(2) 第1セッション(3) インターミッション: 桜見物でにぎわう上野駅前のコンビニでサンドイッチを買って、日あたりの良い広場でのピクニック。同行5人。食べ終わって、西美の前庭に行ったら、エプソンの無料写真撮影サービスに遭遇。ロダンの《考える人》の前で、5人並んで、拳をアゴに当てた考える人のポーズで写真を撮ってもらった。 第2セッション(1) 第2セッション(2) 第3セッション(3) このセッションのトリは、ウフィツィ美術館素描版画室長のマルツィア・ファイエティ氏。やはり女性である。演題は「アゴスティーヌ・カラッチの好色版画」である。 インターミッション: 第3セッション(1): 第3セッション(2): フィナーレ: (2008年3月29日) ブログ 1(午前の部) ブログ 2(午後の部) |
これは、「浮世絵の夜」の関連講演会である。 とても力の入った講演で、予定の90分が大幅に延長して135分になってしまった。帰ってネットで調べると、山東京伝、曲亭馬琴などの読本を専門とし、『南総里見八犬伝』岩波文庫版の校訂者として知られる小池 藤五郎教授のご子息で黄表紙研究者となっている。この講演に熱が入っていた理由も分かるというものである。 あらかじめ16枚のA4版のプリントを渡されているが、曲亭馬琴の読本「里見八犬伝」に絵師「柳川重信」が描いた夜の場面の口絵や挿絵が反射式プロジェクターで次々と映写されていく。それに基づいて物語が講談を聞いているよう展開していく。 まず、3枚の口絵《巨鯉にまたがって龍門を上る里見義実と漆毒で皮膚がただれた金碗幸吉》、《主家を乗っ取る悪臣山下定包と悪婦玉梓》、《「ことろことろ遊び」をする子供時代の八剣士と「ヽ大和尚」》が映され、八犬伝の概要が説明される。 この物語は20年以上もかかって出来上がった長編である。岩波文庫でも10冊になる。これに匹敵する長さの物語は「東海道中膝栗毛」くらいで、「源氏物語」はずっと短い。江戸時代にはとても評判になった物語である。明治になって坪内逍遥が「小説神髄」の中で「前時代のもの」と評価して以降あまり読まれなくなったが、最近「南総里見八犬伝」が再評価されてきている。 馬琴はこの物語の執筆中に視力を失い、息子も死んでいたので、嫁の路(みち)が代書した。みちの実家は医師であるため、漢字は知っていたとは思われるが、馬琴が字の訓読みをみちに教え、みちは泣きながらこれをマスターして代書を完了した。 物語は「永亨の乱」に始まる。1489年、管領足利持氏は執権上杉憲実に攻められて自害した。その際、持氏の二人の子は脱出して、結城友朝の助けを得て結城城に立てこもった。房総の国主「里見季基」と息子の義実は結城氏に味方したが、結局落城した。この際、里見季基は若い義実に二人の臣下をつけて城を脱出させる。 ここで《挿絵》が登場。義実は三浦半島の入江に辿りつき、対岸の安房に渡るため舟を探すが、漁村の少年に「戦乱のため舟を徴発されて魚取りさえできない」と毒づかれた。突然、群雲が湧いてまわりが暗くなり、稲妻がひかり、海面が波立つ。その時忽然として「白龍」が現れ、南を指して飛び去る。これとともにあたりが明るくなり、海も静まり、小舟に乗って従者の堀内貞行が現れる。 という具合に話しが進んでいく。このように書いているときりがないので、挿絵を後2図あげるだけにする。 義実は安房一国を押さえ、娘「伏姫」が産まれる。そして飼われていた「八房」という大きな犬を可愛がる。義実が敵に囲まれた時、この犬に「敵将の首を取ってきたら、伏姫を与える」といったところ、八房は敵将の首をとってきてしまった。こうして伏姫は八房とともに富山に移っていく。《挿絵》では、伏姫は自分の懐胎を知り、「覚えなきことだが」と言いつつ死を覚悟する。そこに飛びくる鉄砲の二つ玉。これは義実の家臣、金碗大輔が撃ったもの。一つは伏姫に、もう一つは八房に当たる。遠くに見えるのは義実と堀内貞行の主従。 武蔵国「大塚」に住む「大塚番作」は、結城合戦の落城寸前に、名刀「村雨丸」を持って脱出。番作の息子「信乃」の世話役「額蔵」は、信乃と同じ痣、同じ玉を持っているのであるが、この額蔵と母が大塚に辿りついた時、路銀を盗まれ、吹雪の夜に行き暮れている姿を《挿絵》は示している。この母は死に、7歳の額蔵は一生飼い殺しの小者として引き取られていたのである。 このように、夜の場面の挿絵が沢山出てきて、思わず話を楽しんでしまった。プリントによると準備してあった挿絵は40図だったが、17図で時間切れとなってしまった。これで南総里見八犬伝の10分の1ぐらい話せたとのことである。恐るべき講演会だった。 (2008年2月16日) ブログへ |
プロローグ: 大阪市立美術館は1936年創立の古い美術館で、中国絵画や古い日本絵画は所蔵しているが、浮世絵版画は所蔵していない。ただ北斎の《潮干狩》という重文があり、近年の東博の「北斎展》にも出した。和・洋・漢が一体となった絵で、遠くに富士山が見え、遠くが小さくまた青みを帯びて描くなど遠近法を取り入れている。 1.「吉原格子先の図」の概容
2.応為栄女とその作品
(2008年2月8日) ブログへ |
第1章 形をつかむ
《腰かけた女》、《横向き裸婦》など初期の作品は色彩に乏しい。光がどのように当たっているかを見つめている。弱い光源で照らされたものをいくつか描いているが、《ランプ》はその一例である。正面を向いた《自画像》には強い自信が感じられる。《蝋燭》はとても良かった。この作品は文展出品作で、現在はとても暗く見えるが、元来はもう少し明るい作品だったという。 1910年に岐阜に戻り、鞍もつけずに馬を乗り回していたというが、その《馬》が出品されている。なかなか良い。 第2章 色をとらえる
光が出てくるとともに、形がくずれ、正確な形態が捉えにくくなる。フォービズム的である。このとき既に50歳となっているが、いまだに自分らしさを追及しているのである。《烏》が描かれたのは1935年頃だが、晩年に通じる輪郭線を用いた手法が出てきたことが注目される。 第3章 天与の色彩 究極のかたち
60歳を越えた頃になって一般の人から熊谷の作品が評価されるようになった。とくに木村定三氏の評価が本人の刺激になった。 《高原》など1940年頃の作品では陰影を描いているが、その後は描き入れなくなった。《松並木》はすっきりとした作品である。簡単な色で全体的な形を置き換えている。これでは署名は漢字であるが、その後最高作品は署名なし、次の作品はカタカナ署名、劣るものは漢字署名にしたというが、熊谷は署名を入れる場所に苦労して石碑の中に入れたりしているが、カタカナにして入れやすくなったのだと思われる。 《裸》では、背景を緑の部分と褐色の部分に2分割しているが、これは抽象絵画に近い構成である。 死をテーマとした作品としては、今回出ているのは《萬の像》と《ヤキバノカエリ》だけである。前者は、動員のため結核に侵されて死んでいく長女「萬」が自分を描いてくれといった作品で、熊谷の他の作品とはまったく違ったタッチである。後者は、長男が骨壷を持ち、画家と次女がその両脇に立ってこちらに歩いてくる有名な各品だが、これは時間をおいて、気持ちの整理がついた頃に描いたものであるとのこと。 熊谷は「人の作ったものはその時点で完成しているので描かない」といっているが、志賀直哉にもらった漢時代の犬のヤキモノは《机の上》で描いており、《玩具》も描いている。 《椿》が2点、《山椿》が出ているが、花の色も背景の水色も微妙に異なっている。《ケシ》は彼の代表的な作品で、つぼみや花の配置もここでなくてはならないという絶対的なものだという説明だった。 小動物は、身体が不自由になって外へ出なくなってから描いている。《豆に蟻》では、蟻は左の2番目の脚から動かしだすという観察すらあったとのこと。《げんげに虻》では音楽的なものを感じる。 《百日草》では違う色の線を使っているが、画家にとってはすべてが絶対的な色と形であった。《畳の裸婦》では背景分割が使われ、絶対的な形のバランスが保たれている。《風若葉》は、以前の《風》と同じモチーフ。虹はなくなっているが、風と若葉の勢いは残った。これが1974年にもう一度描いた《風若葉》に変わっていく。赤と黒の輪郭線が混ざったり、《立秋の秋》の雲に輪郭線がないなど、熊谷の画には絶対的なルールはない。 「猫」はコレクション・アイテムなので、なかなか展覧会に出てこないが、今回は4点集めることができた。《くろ猫》の青い目の目線はこちらを追いかけてくるしなやかさである。 「鳥」はとても可愛がっていて、自分の食べ物がなくても鳥に与えていた。《はぜ紅葉》、《きんけい鳥》は多彩な色彩のバランスが良い。蝶では、黒い《あげは蝶》を良く描いていたが、地味な《蛇目蝶》も描いている。 《紅葉》は空の色が美しく、リズミカルである。めずらしい「雪」の画が2枚出ている。《あじさい》は三角と四角と円しかないが、画一ではない。色のバランスにも細かい配慮がなされている。 月は学生時代のテーマで、最晩年まで何回も出てくる。《宵月》は小さい4号の中に美しい色遣いが凝縮している。 最晩年の画は、いっそう色彩が鮮やかになり、輪郭線が黒くなる。太陽のシリーズは同心円で、画商が好きな画。夕暮れ、夕月という同心円シリーズもある。 第4章 守一の日本画
第5章 変幻自在の書
(2008年2月2日) ブログへ |
最近、山口晃のトークショーは全部お付き合いしているが、今までのものは白板に得意の画を素早く描きながら語る絵画漫談だった。ところが今日の講演は今までとはまったく違う格調の高いものだった。その内容をサムアップする。 ■ 《マリアの七つの喜びの祭壇画》1480頃: 古い金箔の板絵。遠近法は不完全で、付き人も小さいが、当時はこれでよかった。現在の画も将来は批判されるだろう。 ■ アンリ・ベルジョーズ《聖ドニの殉教》1416年頃: 死体をしっかり見せるところが違和感があるが、古い板絵は日本に来ないのでルーブルでしっかりとみること。 ■ ヤン・ファン・アイク《宰相ロランと聖母》1435: かっちりとした油絵だが、当時絵具が悪かったため一般に厚塗りができず、水彩が透過して見えるところがある。空は厚塗りでも大丈夫。 ■ ボッチチェリ《若い婦人に贈り物をするビーナスと三美人》1483: ボッチチェリの画は質の差が激しい。線描のめくるめくような微妙な線が残っているところに注意すること。フレスコは残るがつやがない。剥がすことをストラッポと呼ぶ。 ■ レオナルド・ダヴィンチ《モナリザ》1503−06: 写真をパチパチ撮っているので、展示されているものは贋物!したがって見なくても良い。筆の刷毛目のつかないスフマートで、鮫肌状態だが、きめは揃っている。横から見ると最後に描いた盛り上がりの部分が分かる。 ■ ニコラ・プッサン《夏あるいはルツとボアズ》1660−4: 17−18世紀の画は玉石混淆だから真面目に見ていると大変。アルチンボルトやクリベッリは好きだが。 ■ フェルメール《レースを編む女》:: 類型のない画である。光のとらえ方が違う。光を玉のように置く。ラピスラズリの青を使う。映像的で、はかなく弱いが絶妙で、官能的ともいえる。小品しか作れなかったことは理解できる。 ■ 彫刻《キリスト降架》13世紀中頃: 古拙な味がする。肉体と魂を引き離そうとしている。彫刻にはレプリカが多いことに注意。 ■ ダヴィッド《皇帝ナポレオンと皇后ジョセフィーヌの戴冠》1806−7: 薄塗りのヘロヘロ、カサカサの画で地が見えている。このように粗いが観客の焦点が違い、画のあった場所に戻してみるとチョウド良い。 ■ ターナー《小川と湾の遠景》1845: この画を面白がったイギリス人が面白い。 ★ カフェ: 暑かった。日当たりを避けろ!サニーサイドに気をつけろ。おなかを一杯にすると、画に対する渇望感が減少する。 ★ 自分の画をルーブルに置くとしたら(質問): 贋作 (2008年1月12日) ブログへ |
美術講演・映画 2007
1.初期の浮世絵: 鳥居清信、奥村政信、奥村利信、西村重長らの浮世絵は、手彩色でむらがある。それでも富川房信の《西王母》になると色数が増え、次の錦絵への移行が感じられる。 2.鈴木春信: 見当をつけて多色摺とする「錦絵」は春信によって始められた。厚紙を使い、上品な絵で、知識人のサークルの間で楽しむ「知的な遊び」であった。当時は太陰暦で、29日の月と30日の月の区別が必要だったが、錦絵はそれを知るための絵暦として使われたのである。18歳くらいの若い女性の美人画であるが、和歌を下敷きとした《見立て佐野の渡り》、二十四孝の《見立孟宗》、腕を切られた鬼の茨木童子が渡邊綱の兜を掴んだ故事にならって女が男の傘を掴んでいる《見立羅生門》、旅人を鉢植えの木を焚いて温めた《見立鉢の木》、山吹の花を差し出す《見立太田道灌》など、古典の教養があることを前提としている。彫りの技術が素晴らしいことは、髪の生え際の出来栄えをみれば分かる。《見立佐野の渡り》の雪や《五常 禮》の白無垢の模様はエンボス、すなわち「きめだし」の技法が使われている。《三十六歌仙 源重之》などの文字も彫られているが、当時の書物もこのように作られており、技術的には完成していた。 3.勝川春章・春英: 個性的な顔立ちの役者絵。五代市川団十郎の大きな鼻をそのままに描いている。 4.鳥居清長・勝川春潮: 春信よりは年かさでチョット脂の乗ってきた八頭身美人。続き物は、それぞれでも独立して鑑賞できるようになっている。清長は、役者絵の鳥居派でありながら美人画を描いていたが、喜多川歌麿に押されて、役者絵に戻っていく。 5.喜多川歌麿: 最近は「歌丸」と呼ぶようになってきた。歌麿も最初は《画本虫撰》のような花鳥画を描いていた。寛政の改革の時代であり、有名な《婦人相学十躰 浮気之相》にしても白雲母は使っているが、色数は少ない。当時は表現にも制限があり、《高名美人六家撰 富本豊雛》では名前を描くのをはばかって、判じ絵としている。それでも《天狗面》では夏の着物の下の体が透けて見えている。 6.東州斎写楽: 寛政6年の1年間だけの絵師。《市川蝦蔵の竹村定之進》は市川団十郎と同一人物で、やはり鼻が大きく個性的でリアルな表現となっている。やはり少ない色数で仕上げている。 7.歌舞妓堂艶鏡: これも世界で7種類の絵しか見つかっていない寛政8年の絵師で、リアルでモダンな役者絵を描いている。 8.歌川豊国: ヒョロッとした役者絵。当時はこのような姿がうけたのだろう。 9.葛飾北斎: 初めは《金魚売り》や《大道芸人》のように横長、多彩色の上品で贅沢な画を描いていた。これらの絵の下には狂歌が書かれており、仲間うちで楽しんでいた絵である。北斎はその他に読み本を描いて暮らしていたが、70歳ごろからその画風がガラッと変わる。ちょうど外国からベロ藍が入ってきた頃である。《百物語》、《富嶽三十六景》、《諸国瀧廻り》、《諸国名橋奇覧》などのシリーズがそれである。北斎は、実景を見ないで絵を構成していたようで、《富嶽三十六景 甲州 三坂水面》に映る富士山は位置がヘンであり、夏なのに雪を頂いている。また、《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》のような時化の時に、舟を出すはずがない。北斎は花鳥画の錦絵も描いており、《朝顔に蛙》では蛙を探してみてほしい。 10.歌川広重: 本名は安藤広重で、歌川広重はいわばペンネーム。北斎と違い、広重はその辺にありそうなババくさい風景を叙情的に描いている。すべて初摺とはいえないが、きわめて早い時期の摺りのものが揃っている。《東海道五十三次 蒲原》ではこのような大雪は降らないのだが、広重はシリーズに変化をつけるために雪景色を描いた。《東海道五十三駅続画》は《東海道五十三次》のすべての絵を張った贅沢なもので、貴重なもの。《木曽海道六十九次之内》も出ているが、広重は実景を描いたのではなく、当時のガイドブックを参考にして描いた。《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》はゴッホが模写した有名な絵で、上部に黒のぼかしが入っているが、絵師はぼかしを入れることを指示するだけで、作業は摺師に一任された。《名所江戸百景 真間の紅葉手古那の社継はし》のような極端な遠近法を取り入れたのは、かなり晩年になってからである。広重の武者画は風景画の中に人が描かれているだけといった感じで、今回出ている歌川国芳の武者絵に及ばない。 (2007年10月9日) |
今朝の新日曜美術館は素晴らしい番組だった。そこで、夜に再放送を聞きなおしメモを取った。ゲストには、今回のパルマ展を企画した国立西洋美術館のキュレーターの他に、声楽家の秋川雅史氏が出演しておられ、途中に会場からストラデッラの《教会のアリア》を熱唱された。 1.コレッジョ: パルマ大聖堂の大クーポラの天井画《聖母被昇天》↓には、キリストが降りてきてマリアを迎え、アダムやエヴァその他大勢の人物↓↓が描かれている。下から見上げると非常に立体的に感じられる。
コレッジョはその後パルマに出て、サン・ジョヴァンニ聖堂の天井画《聖ヨハネの彼岸への旅立ち》を描いたが、これは建築空間を絵画空間に変えるようなものであった。その画は優美でやさしく、音楽が聞こえてくるように神聖で、フレスコ画こそコレッジョの本領を発揮するものであることを示した。↓ パルマ国立美術館に所蔵されている《4聖人の殉教》は聖フラビアを描いたものであるが、この画は今回出展されている《キリスト哀悼》と対をなすものである。対面の窓からそれぞれ反対側に掛けられた画に光が当たるようにされており、《キリスト哀悼》ではキリストの体がとくに明るくなっている。 《幼児キリストを礼拝する聖母》の色彩は素晴らしい。これは、コレッジョがローマに出かけてラファエロの画やシスティーナ聖堂をみて学んだ成果であるが、ヴァザーリは美術家列伝の中で、「コレッジョはデザインには問題があるが、色彩表現については彼の右にでるものはいない」と述べている。 これはマニエリスムと呼ばれる手法であるが、《凸面鏡の自画像》を見ても自分の美意識にこだわるという傾向が現れている。↓ パルミジャニーノは若い頃コレッジョの影響を受け、コレッジョもパルミジアーノを買っていたようである。実際にサン・ジョバンニ聖堂には、パルミジアーノの壁画も残っている。馬の脚など壁面から飛び出しているように見えるほど巧い。幼児の壁画はコレジョもパルミジャニーノも描いているが、前者がかわいいだけの幼子であるのに、後者には自我のようなものさえ表現されている。 その後パルミジャニーノはローマへと旅立つ。その途中のフォンタネラートという小さな町のサン・ヴィターレ城で、天井画《ディアナとアクタイオン》を40日間で描いている。↓ この画は、緑の蔦、果物や花、大勢の天の子、古代彫刻像で構成されているが、コレッジョが女子修道院の小部屋に描いた16分割の天井画↓にみられる緑の蔦、天の子たち、ギリシャ神話と酷似している。しかしパルミジャニーノの《ディアナとアクタイオン》の人物には、伸張、曲線といったマニエリスムの特徴がすでに現れている。 コレッジョの画は、官能的で、肉体を自然にみられるままに描いているが、パルミジャニーノの画は、知的で、エレガントであり、彫像のように冷たい。すなわち自己の美意識を主張しているのである。パルマを離れて15年後に、ステッカータ聖堂で描いた天井アーチの乙女たちのエレガントさは、マニエリスムそのものである。この聖堂の祭壇の右には竪琴を持った《ダヴィデ》が掛かっており、左側には今回出展されている《聖チェチリア》が掛かっていた。アーチから手が飛び出している迫力のある画である。両者音楽に関係がある画で、パイプオルガンの扉絵だったとのことである。このように音楽の話題となったところで前述のアリアの独唱があった。 3.パルメーゼ家: パルマは生ハム(プロシュット)でも有名であるが、財力を蓄えたのはチーズ(パルミジャーノ・レッジャーノ)の独占的販売。公爵家は藝術・美術に関心が深く、「ピロッタ宮殿」の中には木製のパルメーゼ劇場が初めて創られ、初代の教皇パウルス3世はミケランジェロにシスティーナの天井画を描かせたことで知られている。2代目のオータヴィオ公爵はその「庭園宮殿」の装飾をジオラーモ・ミロラやヤコブ・ベルトーヤのようなマニエリスムの画家たちに任せた。「接吻の間」の壁画などがその成果である。 4.パルマ派の黄金時代: パルマ国立美術館には、パルマの黄金時代の傑作が残っている。アンニバーレ・カラッチの《キリストとカナンの女》は光と影のバランスを巧く使っている。彼の画の光の効果や影の描き方は独特なもので、カラバッジョの一方向からだけの光とは明らかに違っている。スケドーニの《キリストの墓の前のマリアたち》は素晴らしい画である。マリアたちの心理的なインパクトが衣服の質感に内蔵されている。色彩のグラデーションと強い陰影によって、時間が止まったような劇的な瞬間が切り取られている。 5・まとめ: コレジョはラファエッロと並び称されるルネサンスの大画家であるが、パルマ派全体を見ていかないと17世紀、18世紀への西洋美術史が繋がらない。パルマ派はルネサンス以降の美術史の大きな潮流の役割を果たしていたのである。 (2007年6月24日) |
1.講演者の紹介: 1945年生れ、1969年ペテルブルグ美術アカデミー入学、美術史専門 2. 国立ロシア美術館の紹介: 110年前に、ニコライ2世が設立、父親のアレクサンドル3世に捧げた。ミハエル大公の宮殿(ミハイロフスキー宮殿)を中心に、ストガノフ宮殿、マーブル宮殿、ミハエイロフスキー城の4箇所が美術館となっており、合計面積はヴァチカン市国に匹敵する。
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(総論)
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第1巻 飛倉の巻(山崎長者の巻)
第2巻 延喜加持の巻
第3巻 尼公の巻
まとめ 独創的な奇跡の物語絵巻に、新しい映像技術と現代アートが加わった素晴らしいエンターテイメント作品である。
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美術講演会 2006
1. 技術の表現における心理学的アプローチ: 「美術史の学者は宗教や心理学に近寄るべきではない」との教訓があるが、エッシャーの場合には「心理学」を無視するわけにはいかない。「描くのは知っているものであって、見ているものを描くのではない」という言葉があるが、これは「見たいように描く」ということでもあり、これはエッシャーにも当てはまる。
錯視構造とはillusion systemの訳である。illusionを「幻影」と訳す場合があるが、具合が悪い。ラテン語でil-lu-doreとは「遊び」であり、illusion systemとは「遊びの世界」なのである。 エッシャーの画には1つの画に2つの形態を組み込んでいるものがあるが、これは人間が同時に2つの形態を認識できないことを利用した「遊び」である。また立方体を描く場合、辺の描きこみ方によって、画像全体のイメージが大きく異なってくることも応用している。 「物質が生命を生み、生命が精神を生み出す」という言葉があるが、ホイジンガーが人間をhomo lu-densと呼んだのは、生命体が「遊び(lu)の精神」を得たことによってはじめて人間となりえたことを意味している。
画の発展過程を辿ると、点・線・面の組み合せにはじまり、これに陰影法が加わり、さらに遠近法が加わっている。 エッシャーの父は港湾技術者で明治6年から5年間滞日している。彼が作った福井県の三国港は九頭竜川の土砂によって使われなくなったが、「遊び心」で作ったドーム建築の小学校が今も記念館として残っている。
実際問題として版画家だったエッシャーは、世界を二次元的に見ざるをえなかった。彼は、物体を表裏・左右・上下という対立(ボードレールの照合という言葉に相当)したものとして見ていたのである。
永久運動を錯覚させる画、「山上の旅人が麓の宿の女性のタバコに火をつける」画(ホガースの作品、ホックニーのパラフレーズ)、ペンロースの「不思議な悪魔の三角形」、ギリシャのディオニソスの皿における黒絵式図像と赤絵式図像の逆転など、トリック・アートの歴史は長い。 エッシャーの版画では、図と地が交錯している。さらに明暗も交錯し対比されている。《アマルファーの階段》・《昼と夜》がその好例である。光は上から当たるので、光と影との上下関係も重要である。
「正則分割」とは分かりにくい日本語だが、英語ではregular division of the planeと平易な言葉である。 エッシャーは、ムーア人の作ったアルハンブラ宮殿のタイルにみられる幾何学模様を参考にし、これに現実的な姿すなわち具象的形態をはめこむことを考えついた。このように抽象形態からシステムを学んだものの、具象的なものを組み込むためには、エッシャーの努力と思考力が必要だった。
彼はこのために非常に精緻な幾何学的研究を行っているが、その過程はエッッシャー・ノートに残っている。「霊魂の復活」ともいわれるトカゲの永久運動、騎士のトリック、さらに「メビウスの環」なども無限性の表現の典型である。
エッシャーはイタリア旅行によって平面的なオランダとはまったく異なる立体的な風景を見て大きな衝撃を受けた。そして理想的景観(トポスあるいはユートピア)を意識したと考えられる。そしてこれが彼の正則分割を立体に向わせたのである。ちなみに「ユー=eu」とは「気持ちがよい」とのことであり、euphonyとは気持ちのよい音楽、euphoriaとは幸福感である。
球面体は自分のみならずその周囲も写すが、その裏面は見えず隠れた世界となる。イメージが辺縁に向ってだんだん小さくなっていく円形の絵画は球面体の表現であるともいえる。
しかしエッシャーのイタリア風景はこのようには表現されてはいない。一方、イスラムのモスクのドームは、半円形の理想の空間であり、神が現れる場所となっている。このようにユートピアとしては一定のレトリックで規定された世界が必要である。 ローマのサンクレメンテ教会のキリストの磔刑図に見られる唐草模様の中には、そのよう「メディコスモス」が残されている。これは楕円形の渦巻状のものであるが、そこはこの空間でしかエピファニーが起こりえないトポスなのである。背景のゴルゴダの丘が暗黒とすれば、その反対の真昼すなわちエピファニーの世界である。 エッシャーは球面体のこのような力に気付きながら道半ばで死んでしまった。裏から見た球面体になぜ気付いてくれなかったのかと思う。 エッシャーの世界は、同じものを繰り返す「異形の世界」である。最近の新しいエッシャー論にはついていけないが、自分としては「トポスあるいはユートピアの中にエッシャーの美が表現される」と思う。 |
丸善本店3階の日経セミナールームに聴講に行った。同行者はTakさん、Yukiさん、はろるどさん、Lysanderさん、さちえさん。 「山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈」という本を売り場で買って講演会場に入った。1969年生まれの溌剌とした男性。彼の作品と写真による実景が交互に映し出されていくなか、ホワイト・ボードに漫画をすばやく描きながらアドリブの効いた話が進んでいく。 まず山口の出身校である東京芸大と今回の名所図畫の対象となった東大との関係について一くさり。東京芸大は上野の山、東大は不忍通りを谷としてこれに対面する本郷台にある。上野の山に立てこもった彰義隊は、本郷台から飛んでくる大村益次郎の大砲の弾にあえなく敗残した。予算の上からも芸大と東大は雲泥の差である。
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合計111枚の版画や写真をパワーポイントで示しながら、渡辺庄三郎の孫の章一郎氏が90分間流れるような講演をされた。下記はその一部であり、川瀬巴水の作品解説は省いてある。終わって質疑応答が20分以上あったのも例外的であり、版画愛好者の多いことが実感された。
1. 渡辺版画店 2. 初期の「創作版画」 3. 外国人の浮世絵師 4. 初期の「新版画」 5. 昭和期の「創作版画」 6. 関東大震災後の「新版画」 7. 第二次大戦後 |
1. この講演に登場する主要人物は下記の通りである。 カミーユ・クローデル(1864-1943) オーギュスト・ロダン(1840-1917) ミケランジェロ(1386-1466) ドナテッロ(1336-1466) メダルド・ロッソ(1858-1928)・・・イタリア人、ロダンと同時代パリで活躍。 チェッリーニ(1500-1571)・・・フィレンツェで活躍。 2. 19世紀末ヨーロッパ彫刻には下記の二つがあった。 3. ロダンーミケランジェロ・ドナテッロークローデル 4. 髪の変容 5. クローデルーロッソーロダン 6. 「ペルセウスとメドゥーサ」 7. クローデルーロダンーチェッリーニ □ 参考文献 レーヌ=マリー・パリス著、なだいなだ、宮崎康子訳:カミーユ・クローデル 1864‐1943.みすず書房、1989年 |
<はじめに> 1. ワイエスのプロフィール・・・1917年7月生れで、現在88歳でもうすぐ89歳である。最近はさすがに衰えが目立ち、フィラデルフィアの回顧展にも車椅子で出席したとのことである。ワイエス22歳の1939年、自分の水彩画を見てもらうためクッシングのジェームス氏を訪れたところ、当人は不在で、出迎えたのは17歳の娘ベッツィだった。そしてベッツィは避暑に来ている際に、卵、ミルク、ブルーベリーなどを買いに行っていて仲良くなっていたオルソン家のクリスティーナをワイエスに紹介したのだという。ワイエスとベッツィの2人は翌年結婚する。クリスティーナは3歳ごろから歩行困難となっており、手の指も変形していたという。病因はポリオであるともいわれたことがあるが、現在ではリウマチであったと考えられている。貧困の中にも気品が高く、魂の交換ができるほどの精神性を有するオルソン家のクリスティーナと弟のアルヴァロに共感して、その後30年間生活をともにした。クリスティーナは、炊事くらいはできたようであるが、足が悪いため弟とともに1階で暮らし、ワイエスが2階と3階を使っていた。 2. 絵を描き始めたきっかけー父N.C.ワイエスの影響・・・父は有名なイラストレーターであり、ワイエスの絵画技術を指導した。彼には芸術至上主義を貫くことができるだけの経済的余裕もあった。しかし一方、父に対してはオディプス・コンプレックスを有しており、1945年に父が死亡してからはじめて絵描きとして一本立ちになったという面がある。 3. 「記憶を引き出して描く」ということ・・・ワイエスは、物をそのまま描くのではなく、自分がその物の本質から感じられるものを観る人に伝えるように描くといっている。そのためには描きたい対象の本質を一旦記憶に止め、これを想起しながら描くという「記憶を引き出して描く」方法を使っている。 4. 影響を受けた画家たち・・・ワイエスの素描はデューラーの影響を受けている。またドライブラッシュの技術もデューラーの作品に学んでいる。これはデューラーの《野兎》を見れば明らかである。 5. 技法について・・・1)素描、2)水彩、3)ドライブラッシュ、4)テンペラが主なものであるが、その詳細についてはかなり以前のインタビューで話した以外あまり明らかになっていない。彼はフェンシングを得意としていただけあって、鉛筆で描くのが早く、途中で鉛筆が折れることも少なくなかったが、その場合でも折れた鉛筆を使って描き進んだという。先に述べたドライブラッシュとは水分を絞った筆で水彩絵具を使って描く技法である。テンペラは卵黄と酢に絵具を混ぜて描く技法で、ボッチチェルリの昔からあって、画としては長持ちするが、描くのに時間がかかり、疲れるため1年に2枚ぐらいしか描かなかった。孫に聞いた話だが、ワイエスは赤い卵は使わなかったとのことである。 <おわりに> <展示品の説明>
(2006年5月27日)
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1. 異教文化の敗北?・・・ローマ時代以降、キリスト教が西欧文化の中心となるが、「ギリシャにおいても古代ギリシャ文化は異教文化としてキリスト教に敗北してしまったという単純な図式でよいのであろうか」という疑問について考察してみたい。 2.アウグストゥス時代におけるイエスの誕生・・・イエス・キリストがユダヤで生まれたのはヘロデ大王の時代(37-4BC)である。現在では歴史をAD (anno Domini)とBC(before Christ)に分けているが、実際にキリストが生まれたのはBC4年とされている。これは27BC-14ADの皇帝アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus August)の統治時代である。この頃ローマには一旦平和が戻っていた。これをPax Romanaと呼ぶ。最近アメリカの一国支配下に平和が維持されている状況をPax Americanaということがあるのはこのアナロジーである。ルカによる福音書第二章によると、全世界の人口調査をせよとの勅令がアウグストゥス皇帝から出された。ダビデの家系であるヨセフは、身重の許婚の妻マリヤとともにベツレヘムというダビデの町に上っていったのは、この登録をするためだった。この時にイエスが生まれたのである。 3.新約聖書の史的背景としてのギリシャ文化圏・・・395年にローマ帝国が東西に分裂するように、東地中海世界のギリシャ語文化圏と西のラテン語文化圏は分かれて存在していた。ヨハネによる福音書第十九条は、イエス磔刑時の罪状書はヘブル・ローマ・ギリシャの3カ国語で書かれていたとしている。また、旧約聖書はヘブライ語であるが、新約聖書はギリシャ語で記されていた。キリスト教の伝道を行ったパウロはユダヤ人であるがギリシャ語を話していた。このような「散らされた」(ディアスポラの)ユダヤ人はヘレニストと呼ばれている。さらに重要な事として、ギリシャ語は現在も生きた言葉として話されているのである。BC4世紀のアレキサンダー大王の東征に伴い、マケドニアに及んでいたギリシャ文化が東方に拡大し、それまで使用されていた方言が共通語のコイネー・ギリシャ語に変わっていった。事実、アレキサンドリアで翻訳された旧約聖書(セプトゥアギンタ;70人聖書)はこのコイネー・ギリシャ語に翻訳されているのである。 4.パウロのアレオパゴス演説・・・使徒行伝第十七章には、パウロが伝道のためアテネに赴いた際、アレオパゴスの評議所で演説を行ったことが記されている。このころアテネでは偶像崇拝が盛んであったが、パウロは「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのに気づき、その神がキリスト教の全能の神であるという演説を行ったのである。脱線するが、実際に書かれていたのは「知られない神に」ではなく「知られない神々に」だったいう話も残っている。しかし、キリストの復活の話を聞くと、アテネの人の多くはパウロを信用しなくなってしまったが、後にアテネの守護聖人となったアレオパゴス裁判人のデオヌシオなど一部のものはこの話を信じたとのことである。 5.「ギリシャ」は「非キリスト西洋」の代名詞?・・・古代ギリシ文化はキリスト教の存立以前から存在しているものであり、ギリシャ自体はキリスト教的である。慣習的に「西洋」とはイタリア以西を指すものであって、東地中海風土のギリシャは決して西洋の代表ではないことにも注意する必要がある。したがって、ギリシャ文化→ローマ文化という構図は成り立たない。 6.ギリシャとキリスト教の構造的対応・・・ギリシャ文化すなわち古代ヒューマニズムは人間的なものに強い関心を示していたが、それだけでなく人間すなわちヒューマニズムを超えるものへの指向もあり、その両者が緊張関係にあったともいえる。これに対してキリスト教はヒューマニズムを超えるものとして開かれてきたのである。 7.ギリシャのキリスト教受容の要因・・・マケドニアのアレキサンダー大王の東征は、ギリシャ本土のポリス文化の崩壊をもたらし、東方も含めた共通文化としてのヘレニズムが誕生した。またギリシャでは、自分の知らない神が存在する不安やドドネの神託において「どの神に訴えたらよいか教えてくれ」とゼウスに向って聞いているような多神教の問題点に起因して、5世紀にはギリシャ文化自体が変容してきていた。このような状況下においてキリスト教が受容されていったものと考えられる。 8.エウリピデス悲劇の特質・・・古典劇作家のうち、オイディプスのような英雄を書いたソフォクレスやアイスキュロスと異なり、エウリピデスはゼウスをはじめとするオリンポスの神々を信ぜず、英雄を書くこともしなかった。その意味でエウリピデスは預言者の役割を果たしたといえる。その代表例は「メーディア」である。彼女は夫の裏切りにあって息子を殺害しているのであるが、エウリピデスは彼女をして女性の惨めさ、不幸さについて具体的に「わたくしは一度お産するくらいなら三度戦争に出ることも厭いません」とまで語らせている。 (2006年5月20日) |
1. 1867年のパリ万博・・・1853年にペリーの来航があり、日本も鎖国の眠りから覚めたわけであるが、これは同時に産業革命を基盤とする交通輸送手段の発展の結果でもあった。パリ万博に先立つ1862年のロンドン万博にはウォールマット公使が持ち帰った日本の文物が出展されている。この時にフランスの詩人ゴーチェの娘Judith Gautierが日本からきたものを見て感動し、その後日本美術のフランスへの紹介に尽力した。パリ万博の開かれた1867年は、徳川幕府の最後の年で、幕府が作った日本館のほかに、佐賀鍋島藩と薩摩島津藩がそれぞれ別に出展していた。パリ万博の日本館の様子は当時のフランスの英字新聞に載せられた版画によって知ることができる。 2. 日本の大衆芸術の紹介・・・はじめは日本の芝居や踊りが興味を惹いたようで、パリのオペラ座でも《夢》という日本を題材とした演劇が上演された。当時は着物・扇子・傘などが珍しがられた。蝶々夫人のお菊さんの画では目が釣りあがっているが、当時西欧人からみると日本人の目は釣りあがっていると理解されていたようである。1900年になってからであるが、川上音二郎劇団の貞奴の舞台が大評判になり、Kimono Sada Yaccoという着物がパリで作成、販売された。
4. 浮世絵の影響・・・はじめは広重の草子ものの中に見られる魚の干物なども興味を引いたようである。事実、ロイヤル・コペンハーゲンの焼物にもこのようなデザインのものがある。ギュスターヴ・モローの水彩の中にも日本の絵草子の影響とおもわれるものがある。扇子や団扇などが大変興味を惹いたようで、モーリス・ドニ、ゴーギャン、マネなどの絵の中に静物として取り込まれている。陰影やグラデーションがなく、それでいてきっちりと対象をとらえるという浮世絵の影絵的性格、上から見た俯瞰的な構図、さらには縦長の作品などの日本の影響は、ボナールの画にはっきりと見てとれる。また北斎の富嶽三十六景のような連作は、モネがいろいろな連作を描いたことと関係がある。事実、モネが過ごしたジベルニーには多数の浮世絵が残っている。セザンヌがセント・ビクトワール山をくりかえし描いたことも北斎などの影響であろう。北斎の「波」は特に有名で、ドビッシーの交響詩《海》の楽譜の表紙となっているほどである。また《エッフェル塔三十六景》を描いた画家アンリ・リヴィエールは、自分の印鑑を画に押していてほどのいれこみようであった。
6. 絵画におけるジャポニスム・・・1)ホイッスラー:日本の衣裳・屏風・団扇など浮世絵からの転用を行った画がある。 2)マネ:《ゾラの肖像》では花鳥画の金屏風や浮世絵が描かれており、《モリゾの肖像》では彼女の肖像の上に3枚続きの海女の浮世絵らしき絵がかかっている。《笛を吹く少年》の表現は日本的であり、鳥居清永に類似の構図の絵がある。《マラルメの肖像》には金屏風が描かれており、絵全体を塗りこめて、背景を閉ざしている。《ナナ》では背後に川と鶴が描かれ、紳士が半分で断ち切られた浮世絵的な表現となっている。 3)モネ:《ラ・ジャポネーズ》は第2回印象派展に出品された画であるが、打掛の背中や裾に模様があり、これを見せるためモデルのカミーユは無理な姿勢をとっている。手にした扇は三色なので、フランスの三色旗が残っているとのジョークがある。この画の団扇の中に《海老で鯛を釣る図》の一部が描きこまれているものがあるが、この全体図を写した皿が残っている。《ジベルニーの太鼓橋》は広重の《江戸百景 亀戸天神》と似ている。《睡蓮》では、空を直接描かず、水に映ったところだけを描いていることや、ヴァリエーションの連作を作っていることは日本絵画との関連があるといえる。モネは「自分の画は、『陰によって実在を示し、部分によって全体を見せる』という古い日本の絵からきている」と述べている。 4)ロートレック:鳥獣戯画や白隠の絵にみられる太い線、細い線を使った線描はきわめて日本的なものであるが、《アヴリルのポスター》では太さを違えた線を使い、さらに歌姫を斜め上から見た構図とし、書き文字を入れ、《ブリュアル》ではモデルに日本的な服装を着せ、さらにハンコのような署名を描きこむなど日本の影響が強かった。 5)ドガ:広重の《仲見世》では、門や建物の一部しか見せずに全体が表現されているが、このような構図はドガの《競馬場》、《アブサン》、《バレーの踊り子》などに取り入れられており、《サーカスの曲芸師》では逆に下から見上げる視線となっている。 6)ヴァロットン:《子供が遊んでいる画》では上からの俯瞰法を使っている。 7)ゴッホ:ゴッホは、1886年にパリに出てから、急に明るい画を描きだしたが、これには二つの理由がある。第1は印象派の画家の影響、第2は日本の浮世絵の影響である。浮世絵は安物しか持っていなかったようであるが、1987年の《タンギー爺さん》には、実在の浮世絵がいくつもとりこまれている。渓泉栄泉の模写《花魁》では、人物を左右逆に描いている。これは美術雑誌で既に逆になっていたからである。豊国や広重の影響も大きい。特に広重の模写《花咲く梅の木》では、文字を書き加えていること、空を赤く描いていることが注目される。《種まく人》では太い切り株が途中で切れた構図となっており、《ムスメ》のスカートの模様がすべて前向きになっているのも日本的である。《耳きり後の自画像》では目は釣りあがっていないが、《ゴーギャンに贈った自画像》では目が釣りあがっている。ゴッホは南フランスに来て、「日本にきた」といったそうである。 8)ゴーギャン:《説教の幻影》では、ゴッホと同じく空が赤く描かれ、樹が斜めに切れており、取っ組み合うヤコブと天使は北斎漫画のデザインを借用しており、登場している牛は宗達の真似ではないかとの説もある。 9)ブラマンク:《ドランの肖像》は日本的である。 10)マティス:ブリジストン美術館の《縞ジャケット》は平面的で、線描が多く、日本的である。このようにジャポニスムは20世紀にも残ったといえる。 (2006年5月13日) |
Juliaさんに誘われて、ブリジストン美術館に小林頼子氏の講演を聴きに行った。私は、氏の本を2冊持っている。一つは「フェルメールの世界」(NHK出版、1999)、もう一つは「謎解きフェルメール」(新潮社、2003)である。出かける前に後者を読み直して、ちょっと予習して出かけた。 会場には、Juliaさん、Nikkiさん、鈴木さん、ミズシーさん、花子さん、Takさんご夫妻、Toshiさんご夫妻など馴染みの顔が見えていた。 忘れないうちに、講義の内容を記しておくことにする。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ T.17世紀オランダの政治と経済 ネーデルランドは南部(ベルギー)と北部(オランダ)からなっており、ヤーコブ・ファン・カンペンの《冬景色、1610》に見られるように、周囲のことが写実的に描かれた画が特徴的である。 16世紀におけるスペイン・ハプスブルグ家の収奪とカトリックの強制は、1588年に北部の独立をもたらした。独立運動のオラニエ公ウィレム(後に暗殺、次いでマウリッツ公、さらにフレドリック・ヘンドリック公といった総督による政治体制に移行した。これらの総督は王族でなく、富裕な市民の支配体制ともいえるものだった。 このため肖像画が市民にも広がった。このような肖像画の例としてあげたレンブラントの《商人の代表》は毛皮商人を描いたものであり、ニコラース・ルッツの《コンスタンチン・ハイヘンス》はヘンドリックの秘書で有数の知識人であった。 その後、アントウェルペンの封鎖によって、交易の中心がアムステルダムに移り、冨も人もベルギーからオランダに移った。カンペンの《フレドリック・ヘンドリックの勝利の行進》、ヘイデンの《アムステルダムの商品取引所》、フォーゲールの《北海でのニシン漁》などはこのようなオランダの反映を描きだしており、オランダの勢力は東インド会社を通じて長崎の出島にまで及んだ。 独立戦争中にはカトリックの宗教画がプロテスタントの攻撃の的となった。これは、モーゼの偶像崇拝禁止に基づくものである。1649年に描かれたサーレンダムの《シント・オデュルフス教会》を観ると、説教壇はあるが祭壇はなく、壁画がまったくない白壁ばかりである。自宅に宗教画を置くことまで禁止されたわけではなかったが、教会・王族・貴族からの大口の注文がなくなったことは画家に大きな影響を与えた。 まとめると、17世紀オランダのキーワードは、下記の3つである。 @ 王族・貴族の不在と市民の関与 A 経済の隆盛 B プロテスタント
U.17世紀のオランダ絵画 肖像画、とくに全身肖像画は以前は王族・貴族に限られていたが、これが商人に移ってきた。肖像画は必ず注文主に引き取られるから、画家としては安心である。 風景画は、17世紀オランダで初めて成立したものであるといってよい。 風俗画は、日常のジャンルであり、ヤン・ステーンの《シンタ・クラースの贈物》はその代表例である。良い子には靴下に飴が入っており、悪い子には鞭が入っている。 静物画はきわめて写実的である。代表例としてラヒェル・ライスの《花の静物》があげられるが、この画家は14人の子供の母親である。 画家の経済状態は、ホドの《貧しい画家》、オスターデの《アトリエの画家》。フェルメールの《アトリエの画家》から見て取れる。単純労働者の日当が1.5ギルダーだった時代、画家の年収は100ー700ギルダー程度であった。 当時オランダには400ー800人の画家がおり、年間600万枚の画が描かれた。このため競争が激しくなり質の良い画が作られる反面、低価格であり、大量に生産されたオランダ絵画は現在でも市場に出ているほどである。オランダ絵画は分かりやすい、小さい、安いという特徴がある。 まとめると、17世紀のオランダ絵画のキーワードは、下記の4点である。 @ 日常に向けられた視線 A 写実的ジャンルの勃興 B 写実的な描写 C 当時のモラルの反映 モラルとしては、第一にこの世のはかなさ、すなわちヴァニタスがあげられる。ヤン・ステーンのマウリッツハイスの画の中には、皆が騒いでる屋根裏に骸骨とシャボン玉を吹いている子供を小さく描いてヴァニタスを戒めている。 第二には、勤勉であることがあげられる。デ・ホーホの《母の義務》、カスパー・ネッチェルの《しらみとり》、テルボルフの《母の世話》は、いずれも母親が子供の頭頂部の髪からしらみを取っている画であるが、子供は玩具すなわち遊びを捨て、母親に身を任せている。これは勤勉な状態を象徴している。 フロマンタンは、「この時期のオランダ絵画には理念がない」といっているが、このようにはっきりとした理念を認めることができる。
@ アンソニー・ヤンスゾーン・ファン・デル・クロースの《レイスウェイク城の見える風景》 この作者はハーグの人である。色数が少なく、水平線が低い、空や雲に力が入っている、前景に大きなモチーフを置いて奥行を出しているなどこの時代のオランダ風景画の特長が出ている。汚れているが、ニスをとればきれいになる。 この画は以前はヤン・ファン・ホイエンのものと考えられていた。ヤン・ファン・ホイエンは生涯に1300点も描いた多作家で、現在でも市場に出ており、小さいものでは200-300万円程度で買える。 オランダ風景画は次の4段階を経過している。 @) 世界風景画: 神の視点のように高いところから遠望し、空気遠近法によって遠くの山をダンダン青くしている。例)コーニンクスロー《山岳風景》 A) 人間の視点(1610-20年代):視点が下がってくる。例)エサイアス・ファン・デン・ヴェルデ《渡し舟》 B) モノクロームの時代(1630-40年代、バブルの時代):ヤン・ファン・ホイエンのようにオーカー色に限定され、視点がどんどん低くなる。これは大量生産の必要性に対応した描き方である。 C) 操作した風景画:ヤーコブ・ライスダールの《ヘントハイム城》のように、山というものに理念を抱き、それをドラマチックに表現するように情景を操作する。この画の場合は、城が建っているのは実際には低い丘なのに、立派な山の上となっている。
A レンブラントの油彩画 レンブラントは初めアムステルダムでラストマンの弟子となり、いったんハーグに帰り、再びアムステルダムに戻った。はじめはプロモーターを介して画をうっていたが、そのうち市民権を取り、自分で画を売れるようになり、結婚し、13,000ギルダーものお金を払って家を購入した。オランダのバブル時代には、お金を借りても利子さえ払っておけば、元金を請求されることはなかったが、1952年にオランダが英蘭戦争に負けたのをきっかけとして大不況となり、元金を返済するよう請求された。レンブランドは版画などを大量に購入していたことも加わって、1652年に破産した。家を手放し、孫の貯金箱にも手をつけたという悲惨な話も残っている。 初期のレンブラントの画には模倣と創造が同居しているといわれるが、数年でオリジナルなものを作ることができるようになった。レンブラントはカラバッジョの光と闇に学んでいるが、カラバッジョのように光を分散させず、光を集める明暗画法を確立し、自分のブランド・マークを刻印した。カラバッジョの《パウロの改宗》とレンブラントの《牢獄のパウロ》を比較すれば、そのことは明白である。レンブランドが宗教画や神話画のような物語画を描いているのは、レンブラントがイタリア画家のような正統派をめざしたこと、私宅ではこのような画を架けることが許されていたこと、さらにオランダ人がエラスムスの寛容精神によってカトリック地区の存在を容認したことも関連がある。 ブリジストンにあるレンブラントの油彩画は小品で、銅板に描かれている。一部にRの署名があり、年次が162X年となっている(X=不詳)。昔は《聖ペテロの否認》と呼ばれていたが、銅板が右側で薄いため、右側に主題部分があり、全体の画が半分に切られたのではないかとされている。現在のの名称は《聖書あるいは物語に取材した夜の情景》となっている。 この画の作者がはたしてレンブランドであったか否かについては従来より問題となってきた。レンブラント・リサーチ・プロジェクトでは1642年までのレンブランド作品の帰属について検討した。その後、新たなリサーチ・プロジェクトが発足し、2005年12月に、まず自画像の検討結果が発表された。二つのチームのメンバーで重なっているのは1名だけなので、異なる結論となる可能性もある。しかし結局は権威者の判断が優先され、グレーゾーンは残る。自分の意見は既に報告書に書いた。ダウ、ボールテル、スプレーウの可能性があるとほのめかされたが、最終的には「これは皆さんが明暗、細部、人物、構図のまとめ方をみて、自分で結論を出す問題である」として結論を避けられた。
B レンブラントの版画 @) 自画像: 近代人のように自らを見つめていたわけではなく、表情の研究に使っていた。 A) 聖母の死: デューラーの画の影響がある。 B) クレメンテ・デ・ヨング: これは第4ステージのもの。レンブランドは版画では、ステートごとに刷って製作の過程を残しており、これが版画の利点であると考えていた。 C) 山上の教え: 100ギルダー版、2点
W.フェルメール フェルメールはレンブラントより25歳若いが、画を描いたのは20年間だけで、43歳で早死にした。レンブラントのように63歳まで生きたらどんな画を描いたか興味がある。 現在残っているのは32点程度だが、失われたものも含めて60点程度、年2-3枚程度の寡作である。 レンブラントが光と闇を描き、フェルメールは光の無限のニュアンスを描いたといえる。これは《窓辺に水差を持ち女》を見れば一目瞭然である。最初は《マリアとマルタの家のキリスト》のような物語画を描いた。これは良い画であるが、光と影があり、カラバッジョの影響が残っている。フェルメールはこれから1-2年で自分の型を作ったが、その間をつなぐ画がなかったのでメーヘレンにつけ込まれた。メーヘレンの贋作事件は美術史を専門とするものに衝撃を与えた。 フェルメールの画には光が白いビーズのように描かれており、印象派的である。《デルフトの眺望》でも光が当たらないはずのところにこの白いビーズ状の光の点が描かれている。 また人物の窓に近いほうを暗くし、遠いほうを明るくして、人物を浮き立たせている。このように表現を工夫し、操作を加えている。すなわちたんなる写実ではなく、描写に対して関与しているのである。カメラ・オブスクーラの話は分かりやすいが、フェルメールの画はこのような写実だけではない。《牛乳を注ぐ女》では瓶や壷の縁、さらには落下するミルクにも青の小点が描き加えられている。 フェルメールは、幾何学的遠近法の消失点・消失線に留意しつつ、目で見る世界よりも画像の世界を重視している。換言すれば、描きたいイメージのため現実を使っているのである。フェルメールは、自分の頭に描いた現実をわれわれに訴えることを意図したのである。(2006年2月4日) |
美術講演会 2005
ブリジストン美術館の地中海学会秋季連続講演会「地中海都市めぐり講演会」第1弾である「バルセロナの光と影、ガウディとピカソ」を聴いた。ちょっと前に家内とこの美術館に青木繁の画を観にきた時に、この講演会があることを知って、入場券を2枚購入した。ところが家内が急性腰痛ということで、1人で聴くことになった。 早稲田大学教授ということで、大高先生は話慣れておられる。話口はゆっくりだが、途中にアーとかウーとかいう言葉が入らない。自分の話をテープレコーダにとって聞き直してみると、赤面するほどこのような無用な雑音が入っている。その点この先生のリズムは崩れない。したがって聞き取りやすい。 本年9月、バルセロナにしばらく滞在した。そのこともあってこの講演会に遭遇したことは幸運であった。英語ではこのようなことをセレンディピティというが、日本語には適当な訳語がない。 前置きが長くなったが、内容はマラガからバルセロナにピカソがやってきた頃、ガウディはすでに認め始められていたので、ピカソはガウディを知っていたはずであるというところから始まる。しかもピカソのアトリエの一つはグエイ館の筋向いだったから、当然グエイ館も見たはずであるとの意見である。 大胆な仮説である。理系の私にはこのような論理の飛躍は非常に気になるが、さりとて反論すべき根拠を持ち合わせているわけでもない。 この頃(19世紀後半)のカタルーニャは、産業革命に比肩しうる近代化をなしとげたが、これによって富裕なブルジョワジー層と貧しい労働者階級の間の深刻な対立がもたらされた。 ガウディのほとんどの建物が富める層の居住地として開発された「新拡張地区」に建てられたのに反し、ピカソは歓楽街・貧民街と化した旧来の「ゴシック地区」に止まり、その中で10回もアトリエを変えたとのことである。 このような事実から、大高教授は、ガウディはバルセロナの光を浴び、ピカソはバルセロナの陰を背負って、パリに行き、青の時代の絵画に連なっていくのであるとの結論を出された。 講演は次第に熱を帯びてきて、大分時間を超過した。本筋からちょっと脱線した余話的なところはとくに面白かった。(2005年10月22日) |