美術講演・映画・TV

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目 次

2011年1月23日 ギャラリートーク 歴代沈壽官展
十五代 沈壽官
2011年1月15日 バチカン・シークレット〜ミケンランジェロの謎を追え NHK-HV
2011年1月10日 ミステリアス・ウフィツィ-ルネサンスの光と闇 NHK-HV
2011年1月9日 レオナルド・ダ・ヴィンチ−驚異の技を解剖する
日曜美術館
2011年1月3日 夢の美術館 圧巻!黄金のイタリア芸術

NHK-HV
2010年12月7日 ダ・ヴィンチの指紋 朝日-TV
2010年12月1日 カンディンスキーの3人の妻
 Olga's Gallery
2009年9月26日 「デュラー、ティツィアーノ、ブリューゲル、ルーベンス、ベラスケスーハプスブルグ家とその画家たち」
カール・シュッツ
2009年7月15日 「中国宋代の青磁」雑考
伊藤郁太郎
2009年3月21日
微笑と輪廻と錬金術
池上英洋
2009年3月21日
古典主義時代の変革
ブレーズ・デュコス
2009年1月31日
明治: 近代性とノスタルジア
ウィリアム・スティ−ルほか
2008年12月13日
日本の素朴画を語る!
矢島新ほか
2008年7月16日
コロー展について
高橋明也
2008年6月14日
絵画における音楽的概念
ヴァンサン・ポマレット
2008年4月19日
ワイエスの描く光と影
中村音代
2008年4月7日 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公 石鍋真澄ほか
2008年3月29日 ルネサンスのエロティック美術 越川倫明ほか
2008年2月15日 南総里見八犬伝の夜 小池正胤
2008年2月8日 応為筆「吉原格子先の図」を中心に 秋田達也
2008年2月2日 熊谷守一展オープニング・トーク 池田良平
2008年1月12日 全部観てはいけないルーブル ルーブル-DNP
2007年10月9日 ミネアポリス美術館の浮世絵 松涛美術館
2007年6月24日 パルマ イタリア芸術の都 新日曜美術館
2007年4月28日 ロシア美術史 ウラミジール・グーゼフ
2007年4月22日 近世風俗画から肉筆浮世絵へ 田沢裕賀
2007年1月2日 国宝「信貴山縁起」の大宇宙 NHK-TV
2006年11月11日 M.Cエッシャーの絵画と錯視構造 木島俊介
2006年11月4日 山口晃と歩く本郷当代界隈 山口 晃
2006年8月5日 新版画と川瀬巴水の魅力 渡辺章一郎
2006年7月29日 クローデルとイタリア 上村清雄
2006年5月27日
ワイエス‐記憶を引き出すマジック
中村音代
2006年5月20日
キリスト教とギリシャ文化
川島重成
2006年5月13日
フランス近代絵画とジャポニスム
高階秀爾
2006年2月4日
レンブラント・フェルメールの時代
小林頼子
2005年10月22日
バルセロナの光と影‐ガウディとピカソ
大高保二郎

 

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美術講演・映画 2011


     
ギャラリートーク  歴代沈壽官展 @日本橋三越


演 者:  十五代 沈壽官

文 責: とら(美術散歩)

 これはパリ展からの帰国記念展である。薩摩焼はヨーロッパでは有名であるが、国内ではそれほどでもない。今回の展覧会で国内での理解が深まることを期待したい。

 薩摩焼の歴史は、1598年の秀吉の朝鮮出兵に始まる。それまでの日本のやきものには釉薬が使われておらず、釉薬はこの時朝鮮から持ってこられたのである。

 日本と朝鮮の相違: 朝鮮の場合、高麗では青磁、朝鮮では白磁といったように時代によって好みがまったく異なっているのに対し、日本では侘びさびの美意識は時代によって変わっておらず、地域差があるだけである。

 朝鮮からの陶工は、薩摩の殿様から白いやきものを作るよう命じられたが、これが出来たのは23年後のことであった。ちなみに、白い磁器はどこにでもあるが、白い陶器は薩摩だけのものである。最初は陶工も陶土も技術もすべて朝鮮からのものだけで白い陶器が作られ、日本のものは火だけだったので「火ばかり茶碗」と呼ばれた。

 島津家は東アジアの知識が豊かだった。薩摩は火山灰が多いため米があまりとれず、貧しかったので、沖縄を介して明・朝鮮・タイなどと密貿易を行っていたのである。例えば、高麗人参が薩摩人参として越中の薬屋に売られ、北前船で越中に運ばれた昆布が薩摩から明に密輸されたりしていた。このため薩摩の朝鮮人はやきものを作りながら、通訳としても働いた。萩や有田に連れてこられた朝鮮陶工とは違い、薩摩では朝鮮姓のままであった。これはあくまで薩摩人ではないということでもあった。

 絵付けの技術は、明から京都、京都から薩摩に伝わったものである。

 明治維新の前年、1867年に開かれた第2回パリ万博には薩摩琉球国として参加しているが、その時薩摩切子と薩摩焼を展示した薩摩に対して勲章が授与された。パリでは、日本が藩の集合の共和国と考えられたようである。これはヨーロッパにジャポニズムの流行をもたらし、日本政府として参加した明治6年のウィーン万博には天才といわれる沈壽官十二代が180cmの対の大花瓶を出展した。

 このため日本陶器の代名詞はSATSUMAとなり、10万個のSATSUMAが発注された。もちろん薩摩ではこのような多数に対応できず、技術を京都の陶工に教えた。横浜、神戸、長崎に流れた陶工たちがSATSUMAを作ったが、見るに耐えないようなやきものが多かった。薩摩焼は生地をみせることを基本としているが、上記のSATSUMAはまったく違っており、「○に十」の字があるものは怪しいものばかりである。このため薩摩焼の評価が下がったが、これは「殖産興業政策」の影の部分である。

 さらに日本の富国強兵政策も薩摩焼に大きな影響を与えた。当時の日本は、隣国に対し欧米と同じ帝国主義で干渉している環境で、朝鮮にルーツを持つ沈家も偏見の対象になった。

 いずれにせよやきものは時代の鏡であり、薩摩焼もこうやって変わってきたのである。

(2011年1月15日)

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バチカン・シークレット〜 ミケランジェロの謎を追え

 NHK-HV

文 責: とら(美術散歩)

 

 15世紀, バチカンは苦境に立っていた。東ローマ帝国が衰微し、イスラムに対して自らを防衛しなければならなくなったからである。バチカンは自ら要塞を持たざるをえなかった。システィーナ礼拝堂はその要塞の中にあるが、教皇がミサを行うキリスト教の中心の場所である。この場所の画の中にギリシャ神話やユダヤ教の話、さらには暴力的な天使まで描かれているのはなぜなのだろうか。これは当時のユリウス教皇が、人々を不安にさせる作品の力を利用して人々の心をとらえようとしたからである。

 システィーナ礼拝堂はバチカン美術館の一部となっているが、ここには異なる時代の異なるメッセージの壁画が並存している。
 
 その一は、礼拝堂の両側面に描かれた聖書の物語である。一つの側面にはモーゼの物語、他の側面にはキリストの物語が描かれている。ペルジーノ、ボッチチェリ、ピントリッキオ、ギルランダイオ、ロッセッリ、シニョレッリがその制作に加わっているが、人物に動きが少なく、聖人には光輪が付けられている。

 このような側面の壁画が描かれたのは、ミケランジェロが天井画を描く30年前のシクストゥス4世の時代のことであり、キリスト教の権威と伝統を守ることを目的としていた。この時代、天井には青い星空だけが描かれていた。

 その二は、1503年に即位したユリウス二世がミケランジェロに描かせた天井画である。

 ユリウスは「恐るべき教皇」と呼ばれていた。もちろんこのことは批判の対象となったが、自ら戦場に出て、白いマントを着て、剣を持って戦ったほどである。15世紀は大航海時代であり、新しい価値観が求められ、キリスト教は衰退していた。

 バチカンは4万点の作品を有する美術館であるが、その中に「八角形の庭」がある。ユリウス二世はここにギリシャ神話に題材をとった作品を置かせた。例えば、《ベルヴェデーレのアポロン》↓や《トロイの神官ラオコーン》などの異教のシンポルをバチカンに持ち込んだ。ユリウス二世は、キリスト教が完成したローマ時代を見本とし、ギリシャ彫刻を教会再建の象徴としたのである。

 当時フィレンツェにいたミケランジェロは、《ダビデ像》のような人間らしい表現が巧みで、「彫るべきものが石の中に見える。それを開放してやるだけで良い」と豪語していた。ユリウス二世は、はじめミケランジェロに自分の墓を作らせるつもりだったが、この考えを変えて、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の星空が描かれていた天井に見たこともないようなフレスコ画を描かせることにした。その目的はキリスト教の権威を回復させることであった。

 ミケランジェロは、1508年から4年間を費やして500uの天井画を完成したが、そこに描かれているのは裸体に関連するものばかりだった。その内容は伝統的なものと大きく異なっており、《アダムの創造》の神は人間と並列の位置に置かれ、神自身が中世のものとは異なって忙しく立ち働く姿で表現された。すなわち、この天井画は人間中心であり、すべての者がいきいきとした姿で描かれていたのである。

 これはどうしたことなのだろうか。その答えはフィレンツェのミケランジェロ博物館に残っている手紙などの資料から知ることが出来る。ユリウスの最初の希望は「キリストの十二使徒を描く」というものであったが、ミケランジェロは「それでは貧弱なものになるので、違うテーマで描く」と答えている。

 絶大な権力を持つユリウス二世がどうしてこのミケランジェロの提案を了承したのだろうか。そこには教皇の信任の厚かった「エジーディオ・ダ・ヴィテルボ」枢機卿というキーパーソンがいたからである。

 エジーディオはヴィテルボ村の教会や近くのマルタ島の修道院で聖職者としての研鑽を積み、当時免罪符の販売や聖職の売買の横行といった堕落した教会を本来の姿に戻すには聖職者自身の意識を改革して、中世の閉ざされたキリスト教を変革することが必要であり、それには「人々が神に祈る」ことだけを重視していくべきであるとの結論に達していた。

 エジーディオはローマで枢機卿となり、教皇の代弁者ともなった。1507年にポルトガルがマダガスカル島を発見したことを讃える祝賀のミサでは、エジーディオが説教を行っている。この説教の内容が残っているが、それは「新世界は神から与えられたもので、ユリウス二世の時代に黄金時代が訪れる」とし、キリスト教の本質的な復活を告げるものあった。

 当時フィレンツェは、14世紀以降、メディチ家の支配のもとに都市文化が栄え、ルネサンスが花開いていた。東方ビザンチン教会と西方ローマン・カトリック教会が対イスラムの目的で集合した合同会議もフィレンツェで開催され、これを題材としたメディチ・リッカルディ宮殿にあるベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画《東方の三賢王》の中には、ビザンチンの代表者たちに加え、コジモ・メディチの顔も描きこまれているほどである。

 ビザンツ帝国にはギリシャ文化が残っており、西方では失われてしまっていた「プラトン主義」を伝える文書が、この会議の折にフィレンツェにもたらされた。この「プラトン全書」がマルシリオ・フィチーノによってラテン語に翻訳され、プラトン・アカデミーが設立されるに至った。ここではギリシャ哲学が受容され、その庭園にはギリシャ・ローマの彫刻が並べられていたとのことである。若いミケランジェロもこのプラトン・アカデミーに学んでおり、16歳の折に作った《ケンタウロスの闘い》↓にはギリシャ神話を題材にした裸体が沢山彫られている。

 エジーデョオはフィレンツェにおいてミケランジェロにも影響を与えたプラトン主義の思想を十分に理解しており、天井画の主題に関するユリウス二世とミケランジェロの考えの溝を埋めたのである。結局「ルネサンスの人に影響を与える画を描きたい」というミケランジェロの手紙に対し、ユリウス二世は「好きなようにするが良い」との返事をしたとのことである。

 出来上がった天井画には異教のテーマであるユダヤ教の預言者やギリシャ神話の巫女が含まれているが、このような主題はエディージョが考えたストーリーそのもので、ミケランジェロは実際に描くだけだったとのことである。

 内容としては「広がる世界」が意識されており、5人の巫女としては、デルフォイはアポロン神殿、リビアはアフリカ、エリトレアはイオニア、ペルシャは小アジア、クマエはイタリアの中の異教徒を象徴している。また7人の預言者としては、ユダヤのヨナ↑は異邦人へ神の言葉の伝達、エゼキエルにはユダヤ教の父、エレミアは災いを予言し苦悩と悲劇を防ぐ、ヨエルには神から離れた者、ザカリアには神に再び、イザヤには貧しきもの、ダニエルには神の裁きというメッセージが込められている。

 この画が意味するのは、エジーディオの考える教会本来の姿、すなわち「異教の地への布教による教会の拡大」だったのである。結果として、この天井画はギリシャ文化・ユダヤ文化・カトリック文化を融合した新たな文明の創生を指向したものとなったが、これはユリウス二世・エジーディオ・ミケランジェロという3人の合作であるともいえるのである。

 ミケランジェロの肉体の描写については、サント・スピリト教会にその鍵がある。ミケランジェロはそこの《木彫りのイエス像》の肉体表現のために、修道院の病院で人体解剖を行ったのである。当時、人体解剖は医科大学以外では禁じられており、ミケランジェロは解剖された若者の遺族から訴えられたが、修道院長は「天才は例外である」と認めたとのことである。ミケランジェロは人間の裸体を芸術で再現しようとしたのであり、そのために解剖を行ったのであった。システィーナの天井画については2枚のデッサンが提示されたが、これらはミケランジェロが人体の筋肉の動きを十分に研究していた証左である。

 ミケランジェロが脳の断面を知っており、これが《アダムの創造》に利用されているとの説をジョンス・ホプキンス大学の(これは誤り、説明下記)研究者が1990年に医学雑誌JAMAに発表しているとのこと。

 早速、PubMedで検索してみると、当該文献は以下の通りであることが判明した。著者の所属は、聖ヨハネ病院St John's Medical Center, Anderson, Ind.であり、放送のジョンス・ホプキンス大学Johns Hopkins University, Baltimore, Md.とは似て非なる施設。たまたま私が後者に留学していたので気になった次第である。

○著者: Meshberger FL.
○所属: St John's Medical Center, Anderson, Ind.
○題名: An interpretation of Michelangelo's Creation of Adam based on neuroanatomy.
○掲載誌: JAMA. 1990 Oct 10;264(14):1837-41.


 ミケランジェロがこの天井画に描いた物語はユダヤの民の救済の物語であるという考え方もある。当時ローマでは、ユダヤ教は異教とされていたが、ミケランジェロはユダヤ教に親近感を抱いていた。ユダヤ人は布地産業に携わることが多かったが、ミケランジェロの親戚には布地を扱っていた者がいたという。ミケランジェロが、この絵の中にユダヤ教の教えを隠し描いているとの考えも紹介された。《アダムとイヴ》については、キリスト教ではリンゴ、ユダヤ教では果実(イチジク)であるが、システィーナにはイチジクが描かれている。《大洪水》の場合、キリスト教では船であり、ユダヤ教では箱であるが、ここには箱が描かれている。

 ミケランジェロは1527年に起こったフィレンツェ革命の革命側に味方し城壁案を書いたりしているが、革命軍の仲間からも裏切られ、革命を支持したとして命を狙われるが、その時にミケランジェロが2ヶ月間身を隠した隠し部屋がサン・ロレンツォ教会のメディチ家廟にある。ここで1974年の法律改正に応じて非常口を作るため、置いてあったタンスを動かしたところ、隠し部屋へ降りていく階段が見つかったのだという。この隠し部屋の壁にはミケランジェロの人体スケッチが沢山残っている。このことは今回初めて知った。

 その三の物語は、クレメンシス7世がルターの宗教改革に対抗して、カトリック教会を復興するため、システィーナ礼拝堂に《最後の審判》を描くことを、1934年、ミケランジェロに依頼したことに始まる。

 ミケランジェロが33-37歳時に描いた楽観的でエネルギーに満ちた天井画と1536−41年(61−66歳)の5年間で仕上げた画との違いはショッキングなほど明らかである。《最後の審判》は全体として恐怖を描いた画となっており、若い時の天井画に描かれた若者がすべて悪者になってしまっている。《最後の審判》は人類を悲観的にドラマチックに描いているのであり、同性愛者であり、神経病みで、孤独で、不快な人間であったミケランジェロそのものの表象であるともいえる。

 「レオナルドの謎」については、近年いくつも見聞しているが、「ミケランジェロの謎」ついての知識はごく限られている。その意味でこの番組は新鮮で、得るところが多かった。

 

(2011年1月15日)

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ミステリアス・ウフィツィ-ルネサンスの光と闇

 NHK-HV

文 責: とら(美術散歩)

 

 新聞によると次期のNHK会長選が泥沼に入りかけているようだが、このところのNHKのイタリア関連番組は凄い。確か2001年の「日本におけるイタリア年」には全国的な大イベントがいくつも催されたが、今回はNHKの一人舞台である。イタリア建国150年と関係があるとのことだが、理由は何でもつけられる。見習うべきは、行政やビジネスが一体になったイタリアの売り込み方である。日本もこのようなPRを各国で日常的に行うようになれは、暗い日本経済に光が差して来ることだろう。

 閑話休題。別な番組から「ウフィツィ」の番組にチャンネルを変えたのは、この番組が始まって20分ほど経っていた。 画面には、ボッティチェリの《プリマベーラ》が出ていたので、ウフィツィ美術館の初期ルネサンス絵画におけるヴィーナスの天国の話題なのだろうと想像した。

 ここで「第1の質問: ボッティチェリが300年も忘れられていた理由は?」が出てきた。民放の番組と違い、ここではタレントが番号札を取り出す場面はなかったが、視聴者の気を引こうという低俗さは共通。ここで「ボッティチェリを再発見したのは、ラスキンやラファエロ前派の画家たちだった」ということぐらい入れば、さすがNHKといえるのだが・・・。

 佐藤幸三著・河出書房新社1998年発行の図説「ボッティチェリの都 フィレンツェ」の書き出しが、「忘れていた画家」となっているのであるから、陳腐な設問からのスタートである。

 画面はサン・マルコ美術館に移り、その修道院長であったサヴォナローラの肖像が出てくる。《プリマベーラ》や《ヴィーナスの誕生》を描いていた頃のボッティチェリのスポンサーであったロレンツォ・イルウ・マニフィーコ(豪華王)に変わって権力を取ったのは、虚飾の排除を主張するサン・マルコ修道院長サヴォナローラであった。1494年、ロレンツォはフィレンツェを去った。1497年サヴォナローラは初期ルネサンス絵画を焼却するという暴挙に出た。ボッティチェリがこの頃に描いた《誹謗》はもはや変わり果てた画となっている。すなわち質問への解答は、「ボッティチェリの画風が変わっただけでなく、画に対する情熱も冷めてしまった」ということだろう。

 ここで ロレンツォが歌ったという詩 「青春は麗し、されど逃れ行く、樂しみなさい、 明日は定めなき故に」が出てきた。

  次は「フィレンツェ第2幕」すなわち盛期ルネサンスの時代である。

 まず登場したのは「ヴェッキオ宮殿」。フィレンツェの政治の中心であり、現在も市庁舎として使われている。戦を勝ち抜いて、ロレンツォの死後45年目に、フィレンツェに復権したのはコジモ1世。彼がヴァザーリに命じて500人広間↓の天井画や壁画を完成させた。

 この500人広間の扉を開けると、ウフィツィ美術館の事務室に出るところが写ったので、なるほどと納得。大体ウフィツィという言葉が事務所officeなのである。建物自体もヴァザーリが関わっており、有名な「ヴァザーリの回廊」は、まさしく彼の労作。

 ここで、第2の質問。「コジモにとっての美とは?」である。質問の意味が良く分からないが、まあ良しとしよう。

 ウフィツィ美術館タルトゥフェリー副館長に引率された番組の男女二人の司会者は、ヴァザーリの回廊を歩いていく。ここには美術史学者や学生だけが見られる部分とヴェッキオ橋上の自画像展示部分があるように聴こえたが本当だろうか。後者には以前に訪れており、昨年損保ジャパンでその展覧会もあったのでお馴染みである。

 回廊の上から見下ろす丸窓は君主すなわち政治権力者のコジモの眼である。自分の地所を売らなかった頑固者がいたため、回廊が迂回し狭くなっているところがあるのがおかしかった。サンタ・フェリチタ教会を覗けることは知っていたが、回廊の外に階段があり、バルコニーに下りていける構造になっていることは今回はじめて知った。

 回廊の突き当たりから直接ピッティ宮殿のパラティーナ美術館に入っていける構造も今回初めて理解した。わたしが行った時には庭園の方に出されてしまったからである。こちらの美術館で紹介されたのは、リッピ《聖母子と聖アンナ》、ラファエロ《小椅子の聖母》・《大公の聖母》、ティツイアーノ《ラ・ベッラ》、ルーベンス《戦争の結果》。

 結局、「コジモにとっての美=権力の象徴」が正解。

 メディチ家はその後衰退の一歩を辿っていくが、ここで第3の質問。「では、なぜルネサンスの作品が今日まで残ったのか?」 ここには「フランチェスコ一世」が登場する。コジモの息子ながら、内気でメディチ家最悪の男といわれている。

 ヴェッキオ宮殿の500人広間の片隅から彼の「ストゥディオーロ(書斎)」↓に入っていくことができる。画が一杯だが、窓がなく、蝋燭のみの照明で、フランチェスコ一世が思索にふけった小部屋である。

 画の題材は、《ペルセウスとアンドロメダ》↓や《イカロスの墜落》↓↓のような古代ギリシャ神話からとったものが多いが、自然からダイヤモンドや金を作る技術関連の画もあり、ジョヴァンニ・ストラダーノの描いた《錬金術師たち》のなかには、フランチェスコ一世も描きこまれているとのことである。


 このストゥディオーロの壁に掛かった画の枠に付いている鍵を開けると、父コジモが使っていた書斎への階段に通じる。階上のコジモの書斎には窓があり、壁は収納に使われていたらしい。別の階段を下りると、フランチェスコの書斎に戻ってくる仕掛けになっている。まるで加賀の忍者屋敷。

 フランチェスコ1世のストゥディオーロに掛かった画の裏には秘密の戸棚が存在している。当時ここには宝物が収納されていたが、現在その中身はピッティ宮殿の「銀器美術館」に移されている。紹介されたのは、《ラピスラズリの細口瓶》、《中国産オーム貝・銀・トルコ石の水差し》、《植物・鳥・魚文様の水晶水差し》。

 このストゥディオーロはウィフィッツイ美術館の原点となったところである。フランチェスコ1世は愛人で後妻となるビアンカ・カペッロ(ベネチア出身)のためコレクションを増やしたという。彼女はピッティ宮殿近くで、昔は地下でつながっていたピアンカ館に住んでいたといい、地下への階段も見せてくれた。これは1966年の洪水で閉鎖されたとのこと。フランチェスコ1世の正妻ジョヴァンナは、1578年、身ごもったまま死亡したが、フランチェスコ1世によって毒殺されたとの黒い噂が流れた。

 フランチェスコ1世は行政庁舎のウフィツイを美術館に改めた。もっとも力を入れたのは「トリブーナ」である。ここは8角形の部屋で、天窓はオーム貝で飾られている。フランチェスコ1世は、ストゥディオーロの宝物をこのトリブーナに移し、ギャラリーを作ることにうつつを抜かした。

 修復中の廊下の天井からピアンカの紋章↓が出てきているほどである。このころビアンカはフランチェスコ1世の妻になっており、彼女自身がコレクターでもあった。その意味で、ウフィツィ美術館はフランチェスコ1世とビアンカの二人で築き上げたものといえる。フランチェスコ1世は47歳で没し、ピアンカもまもなく死んだ。ウフィイツイ美術館が公開されたのは、4年後、1591年のことだった。

 すなわち質問3の答えは、「フランチェスコ1世がウフィツィ美術館を作ったお陰で、ルネサンスの作品が残った」ということになる。

(2011年1月10日)

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註: 「ウフィツィ」か「ウッフィッツィ」か?

 昨日の記事「ウフィツィ美術館」は、はじめ「ウフィッツィ美術館」としてアップした。自分の記事を google で引いてみると、「ウフィツイではないですか?」と赤字で聞いてくる。ニャロメ!と思って、ネットを検索すると、「ウフィツィ」と「ウフィッツィ」の両者が出てくる。

 Wikipediaでは「ウフィツィ」であるが、Uffizi 美術館の日本人向け公式ガイドは「ウフィッツィ」となっている。たしかにフィレンツェで買ってきたこの美術館の図録の表紙も「ウフィッツィ」である。

 ちなみに、自分のホームページにはどう書いていたかをサイト内検索すると、大多数が「ウフィツィ」だが、一部には「ウフィッツィ」としてアップしているものがあることも判明した。

 そこで、”How do we pronounce Uffizi?”で google検索すると、音源が出てきてイタリア人女性と男性の発音を聞くことができた。これらを聞くと「ウフィツィ」であり、最初の「ウ」にアクセントがある。私や家内の発音は「ウフィッツィ」であって、明らかに「フィッ」にアクセントがある。先日のNHKのTV放映は録画しなかったので、絶対確実とはいえないが、日本人は「ウフィッツィ」と発音していたように思う。

 そうなると問題は、「外国の発音の日本語における外国語カナ表記への反映」であるということに絞られてきた。Uffiziに関していえば、カナ表記ほうは現地の発音に近いものとして慣用されつつあるので、日本語の発音を現地の発音に合わせていくのが良いのではないかと思う。

 NHKは、”studio” について、「スタジオ」という誤った発音のカナ書き日本語を作成し、慣用化させてしまったという前歴がある。文化の問題については、外部委員の入ったNHK内の委員会で検討して、こういった問題のリーダーシップをとっていただくのが筋だろう。

 「ウッフィッツィ」とはここのことかと「ウフィツィ」言い。「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」という斎藤緑雨の川柳がある。

 以前はどのように訳されていたかを調べてみた。興味津々。

○ 澤木四方吉(美術史家) 1917年3月3日「美術の都」: ウフィツィ
○ 土田麦僊(画家) 1921年1月3日「ヨーロッパからの書簡」: ウヒツチ
○ 和辻哲郎(哲学者) 1928年3月18日「イタリア古寺巡礼」: ウフィチ
○ 宮下孝晴(美術史家) 1991年1月30日「フィレンツェ美術散歩」: ウッフィッツィ 

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レオナルド・ダ・ヴィンチ−驚異の技を解剖する

 NHK日曜美術館

文 責: とら(美術散歩)

 

 これは1月8日の日曜美術館。エンターテイメント風味付けの正月番組。「最近解明されたレオナルドの謎」という多少陳腐な触れ込みだが、それでも結構楽しめた。トピックスは次の3点である。

1.《白貂を抱く婦人の肖像》のマルチ・スペクトル・カメラ分析と原画復元
2.《最後の晩餐》の各聖人の台詞の推定
3.「スフマート技法=ミクロ点描画法」説

(その1)
 ルミエール・テクノロジー社のパスカル・コット氏が《モナリザ》に対してマルチ・スペクトル・カメラ分析と原画復元を行った成果は、現在日比谷公園の特設会場で発表されている。このイベントは本ブログでも取り上げたが、この放送も現在のモナリザと復元したモナリザを並べて見せることからスターとした。

 ポーランドクラクフ市のチャルトリスキー美術館の至宝であるレオナルドの《白貂を抱く貴婦人の肖像》は2002年に横浜に来た時に見に行った。この画は、イタリア−ポーランド−パリ−ドレスデン−ポーランド−ベルリン−ポーランドという数奇な旅を重ね、何度も修復を受けている。そのためか、他のレオナルドの画と少し異なる印象を受けるという説さえも出ている作品である。

 この《白貂を抱く貴婦人の肖像》に対し、コット氏がマルチ・スペクトル・カメラ分析を行い、ヴァーチャル復元した成果がこの番組内で紹介された。このカメラは13種のスペクトル、24,000万画素の画像を提供する強力な武器である。

 まず変色したニスの影響を取ることから作業が始まる。当時使われていた各種の絵具に500年分の紫外線を照射し、変色分を差し引いて制作時の色彩を推定する。これによって、暗い顔色はピンクになり、緑がかった服装は美しい青となり、白貂の白もずっと綺麗な色となった。

 次に、この画が流転中に受けた修復の痕跡を見出して、その部分を桃色で描出していくのであるが、驚くほど多くの箇所に加筆・修復がなされていることが判明した。黒い背景はもともとは美しい青であり、余計な字も書き込まれていた。ベールの金色の縁には極端な修復が施されているため、原状回復は難しかった。

 最後に、原色を推定し、ドレスの幾何学的模様を回復させるなどして、このヴァーチャル復元を終了するのである。復元前後の2枚を比べると、原画は明るく優しい色彩であり、これならばレオナルドの作品として疑うものはいない絶品であることは歴然としていた。

(その2)
 トピックの第2はミラノのサンタ・マリア・デレ・グラッツェ聖堂の《最後の晩餐》である。20年かけて修復したが、まだまだ見るに耐えない状況である。この画こそ現代科学の粋を使ってヴァーチャル復元してもらいたかったのであるが、放送されたのは、「この中に裏切り者がいる」というイエスの言葉に対して各使徒がどのような言葉を発したかということを俳優のジョヴァンニ・ニコリが考えて実演した映像。各使途(カッコ内はイエスを中央とした頭の順番)の言葉は下記のとおりであるが、合成画像で一挙に声となって出てきてはじめて現実感が出てくる。しかしトピックとしてはいかにも陳腐。

R2−大ヤコブ(右2): ありえない!
R3−ピリポ(右3): 主よ、わたしではありません!
R1−トマス(右1): (質問するように指を立てながら)神が望んでいるのですか?
L2−ペテロ(左2): (ヨハネに対して)誰のことを言われたのか教えてくれ!
L1−ヨハネ(左1): 御心がおこなわれますように!
L3−ユダ(左3): すべて知っているのか?
L456−(左端の3人): わたしではありませんetc
R456−(右端の3人): わたしが言ったとおりだetc


第3のトピックは、レオナルドのスフマート技法がミクロの点描画法であるという新しい考えで、美術史家のジャック・フランス氏が、レオナルドのデッサン《聖アンナと聖母子》の一部にそのようなところがあることを示してくれたが、なかなか説得力があった。

 おまけに氏はモナリザの眼の部分をこのミクロ点描画法で描いて見せてくれたが、これは興味津々。↓は現在のモナリザの左目の部分。最近の報道によると、高度な拡大鏡で見ると、右目に「LV」、左目には「CE」あるいは「B」と思われる記号があり、さらに背後の橋のアーチには「72」か「L2」のような文字が見えるとのことだが、この放送ではこの点には触れられなかった。

 まずはポプラ材に鉛白の地塗りを施す。ここに眼のデッサンを線で描き、その上をオーク色で塗る。この塗り方は不規則にするのがコツということだった。次いで茶色やこげ茶色を使って陰影の部分を描いていくが、ここでは指を使ってボカスことが大切。次第に使う筆を細いものに変えていく。

 ここで1週間ぐらい絵具を乾かす。まずベースの色を塗る。次いで小さな点で線を消すように色を置いていく。この色を微妙に変化させていく。この作業には極度の集中力を必要とする。ここまでは肉眼の作業だが、次には虫眼鏡を使用してミクロ点描を始める。30分の1ミリあるいは40分の1ミリといった微小点を何1000万も置いていくのである。この実演では左眼の半分だけ描かれたが、それでも40日かかったという。

 コッテ氏のヴァーチャル復元画と並べて見せてくれたが、かなり似ているような気がした。ルーブルの修復担当者もミクロ点描画には息を呑んだという。レオナルドのスフマート技法は彼の弟子も多用しているのだから研究素材は少なくない。いくら小さなミクロの点といっても、現代の技術をもってすれば「ミクロ点描仮説」を科学的に検証することは困難ではないはずである。

 トピック1は「科学的アプローチ」であり、トピック3は「芸術的アプローチ」である。悲しいかな、現在では、この2つの手法は完全に分離してしまっているが、レオナルドの時代には、特にレオナルドにとっては、この2つのアプローチは重なり合うものであった。この番組でも、トピック2を省いて、トピック1と3とをまとめたセクションを作って、両アプローチの専門家の間でディスカッションすれば良かったのではないかと思う。

(2011年1月9日)

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夢の美術館 圧巻!黄金のイタリア芸術

NHK-HV

文 責: とら(美術散歩)

 

 1月3日の夜の「4時間番組」。正月の孫たちの来襲が終わってほっとしたところでちょうど良い番組と思って見だしたが、正直最後の方は眠くなってしまった。忘れないうちにメモをアップしておくことにした。

 司会は女優の大地真央 、青柳正規、池上英洋両先生の監修 、リポーターが森田美由紀、語りは石澤典夫の豪華版である。

第1部: 古代ローマ・中世
 
 まずは中世の話から。実際にイタリアで見たものが多いので懐かしかった。

・ベネチア「サンマルコ大聖堂」: 11世紀後半、外には5つのドーム、中には天井の黄金のモザイク画、金の壁、大天使ミカエルのイコン、パラドーロ(衝立)にふんだんに金が使われている。金は永遠の象徴であり、交易にも役立った。モザイクは、1cm四方の「テッセラ」の集合。これは金箔にガラスを載せて保護したもので、角度を変えて張り付けられた各ピースによって光を乱反射させている。

・ラベンナの「ガラ・プラシディア廟」は1500年前のもの。「良き羊飼い」や「星空に輝く十字架」だけに金を使用している。同じラベンナの「サン・ヴィターレ聖堂」は1400年前のもの。ここのモザイク画では、皇妃テオドラにも光輪が付けられている↓。金は神からの贈り物とされていた。これを見たクリムトが現在NYのノイエ・ギャラリーにある《アデーレ・ブロホバッハー》やオーストリア絵画館の《接吻》などの金を多用した官能的な画を描いた。このように金は祈りの象徴であるのみならずエロスの象徴でもある。

○ここで、イタリアで活躍しているアコ―ディオニストcobaさん登場。金には「活性化」と「浄化」の2面の作用があるとのことで、金をモチーフにした自作を演奏された。

 ここで話は古代ローマに逆戻り。

・古代ローマの遺跡フォロ・ロマーノからは沢山の金の美術品が出てきている。カピトリーニ美術館蔵の《ヘラクレス像》には金箔が使われており、《マルクス・アウレリウス像》は青銅に金メッキを施したものである。巨大な黄金の《女神の足》も出土しているが、これは金メッキと金箔の両者が使われている。この女神は復元すると3メートルにも達するものとなるという。

・このような金はイタリアではあまり採れず、イベリア半島のラス・メドゥラス金山で採取されていた。水道の跡が残っているが、これを使って山から金を含む鉱石を流し、比重の差で金を選別していた。この作業には奴隷が使われた。サトゥルヌス神殿には、530トンもの金が保管されており、初代皇帝アウグストゥスの横顔を刻した金貨として使われていた。

・西暦79年の火山爆発で埋没したポンペイ遺跡からは、《蛇型の腕輪》や《耳飾り》といった黄金の装身具が多数出土している。

○ここで監修の青柳正規氏登場。トツトツとした口調である。エジプトでもツタンカーメンのマスクのように金が使われていたが、その使用は上流階級に限られていたとのこと。これに反し、ローマでは奴隷さえも金の装飾品を所有するほど、金が広く行き渡っていたとの話をされた。以前わたしが見た「エトルリアの世界展」にも金の装身具がかなり出展されていたが、それとの関連には触れられなかった。

・5代皇帝ネロの黄金宮殿は、現在のコロッセオの場所に作られていたが、そこには35メートルに及ぶ金のネロ像があったという。これは奈良の大仏の2倍以上の大きさである。

・14代皇帝のハドリアヌスは、パンテオンを黄金の公共施設として、市民に開放した。大きな金のドームがあったとのことである。

第2部: ルネサンス
・フィレンツェ《サン・ジョバンニ礼拝堂》: 有名な金の「天国の門」の制作については、ギベルティとブルネレスキの争いになったが、現在パルジェッロ美術館に保管されている両者の《イサクの犠牲》によって判定され、ギベルティが作ることに決定した。

○ここでもう一人の監修者の池上英洋氏登場。こちらは弁舌さわやか。

・まず「コジモ・デ・メディチが作ったフィオリーノ金貨がルネサンスを支えた」という話を一くさり。とくに「宮廷料理では金を食べていた」というショッキングな発言。ここで 彌勒忠史氏が当時の料理人に扮して登場。「うなぎパイの金箔包み」などの金料理を提供。錬金術まで出てきたのは金に不老不死の力があると考えられていたからで、金を食べたのはその流れによるとの説明に納得。

・ヴェッキオ橋に今も金細工店が30以上並んでいる。当時金細工は芸術とみなされていたとのこと。ここで、ウィーン美術史美術館の金の塩入れ《サリエラ》の写真が出てくる。ベンベヌート・チェッリーニがフランソワ1世のために、金貨1000枚を溶かして製作したもので、豪華絢爛とはこのことだろう。

・ここで話はベネチアに飛び、ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》が出てきたり、金の技法を極めたとされるカルロ・クリベッリの《サン・ドメニコの多翼祭壇画》が出てきたりした。クリベッリは20代に人妻と不倫の恋に陥り、ベネチアから逃げざるをえなかったが、ブレラ美術館に所蔵されているその人妻の面影のある首の長い《蝋燭の聖母》の衣服は、細かい金の浮き彫りの文様で飾られている。

・ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵のジョヴァンニ・ベッリーニ作《ベネチア提督ロレダーノ》の衣服には金のような模様が見られるが、実際には金を使用せずに金を感じさせる高度な技法が使われている。専門家によるその実演があったが、第1段階としては白と灰色で光と影を描き、第2段階として黄色と黄土色を混ぜた透明感の強い黄を乗せるというやり方だった。

・ウフィッツイのマルティーニ《受胎告知》は金ぴかで永遠の天国でのできごとを表しているが、サン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコの《受胎告知》になると金の使用量が減り、ウフィッツイのダ・ヴィンチ《受胎告知》には金はほとんど使われていない。光輪も神聖なものとしては取り扱われておらず、百合におしべを描くなど実景に近づいた画となっている。

・ダ・ヴィンチがミラノの教会から依頼されて描いた《岩窟の聖母 第一バージョン》には光輪が描かれていなかった。依頼主のミラノの教会が、異議を唱え、裁判で勝訴したため、ダ・ヴィンチは光輪をつけた《岩窟の聖母 第二バージョン》を描かざるをえなかった。この画は現在ロンドンにあるが、弟子が描いたものかもしれないとのことである。《最後の晩餐》 のキリストや弟子たちにも光輪は付いていない。

・システィーナのミケランジェロの《最後の審判》のキリストにも光輪が付いていない。ラファエロの《サンシストの聖母》にも光輪はないが、バチカンの署名の間の《アダムとイブ》には金がしっかりと使われている。ラファエロのチャッカリしたところが見て取れる。

第3部: バロック:
・1517年の宗教改革によってピンチに陥ったカトリックは過剰な装飾と劇的な表現を伴う黄金の芸術で信者を取り戻そうとした。これはイメージを必要としないとするプロテスタントに対抗するものだった。

・その典型がサンタ・マリア・ビラ・ヴィットリアにあるジャン・ロレンツォ・ベルニーニの《聖テレサの法悦》である。黄金の矢のような光線は神の光の象徴である。このベルニーニはボルゲーゼ美術館蔵の《プロセルピナの略奪》の食い込むような手を表現した彫刻でも有名だが、サン・ピエトロ広場の列柱廊や「四大河の泉」などによって、ローマを劇場空間に変えてしまった。教皇ウルバヌス8世の知遇を得たベルニーニは、金を多用したサン・ピエトロ大聖堂に《バッキダーノ》という10階建てビルに相当する高い天蓋やローマ教皇の権威の象徴としての《聖ペテロの司教座》を作り、「金=権威」という概念を確立した。

・ベルニーニが作ったサン・ピエトロの塔の亀裂を非難した建築家ボッロミーニは「フォンターネ聖堂」において金は中心部のみで白を多用した。これに対しベルニーニは近くに金を多用した「サンタンドレ・フィリナーレ教会」を作って対抗した。結局のところボッロミーニが自殺して勝負がついてしまったというのが話の落ち。

○ここでソプラニスタの岡本知高が登場し、バロックの教会内でカストラータ並みの美声を聞かせてくれた。女性歌手が教会内で歌うことがなかった当時、カストラータの高い声は信徒をカトリック教会に呼び寄せるためのものであった。

○ここで池上先生が再び登場し、教会の分裂にともなうカトリック信者の減少と大航海時代の出現という二つの事象が重なって、世界的な布教が始まったのであるとの説明があった。スペインの「サン・エステバン聖堂」の黄金の祭壇に見られる過剰なまでの装飾←やメキシコのオアハカの黄金で飾られた「サント・ドミンゴ教会」→などはその代表例である。


・ここで話変わってカラバッジョ。この画家は、「黄色を画中に描ききる」ともいわれるそうだが、《聖マタイの召命》↓にみられるようなスポットライトのような闇を切り裂く強烈な光を特徴としている。この光は「黄金の荘厳さを持ち合わせた光」ともいわれている。ストラーロの近作の映画「カラバッジョ」が紹介された。サン・ピエトロから撤去された蛇と露な乳房の描かれた画や自画像ともいわれる《ゴリアテ》の画像も出てきた。どうしてNHKが映画のDVDのPRをするようになったのだろうか。

○ここで山本容子氏が登場。《かぐや姫》のような平安文学を金箔を和紙に張った銅版画にして、イタリアでも展示したが、イタリアの金と日本の金は異なっているとの意見だった。日本の金は、イタリアのそれにくらべ、壊れやすく、はかないもののような気がするとのことである。

○次に登場したのは、黄金の3Dアートといわれるローマのイエスズ会総本山「イル・ジェズ聖堂」に描かれたジョバンニ・バッッティスタ・ガウリの天井画《イエスの御名の勝利》↓。彫刻との組み合わせ、天井に雲を描き、窓からの光が金色に輝く超絶技巧によってイリュージョンの視覚効果を観る者に与える。その傍にある地味な《ロヨラの祭壇画》は、下がってゆき、その背面に輝くロヨラの像が現れるサプライズ。

おわりに: 現代
・テッセラを応用した現代のモザイク抽象画がでてきた。なんといっても歴史を土台にした重みがある。

・最後に、最近のイタリアの貴金属装身具の紹介となった。カッツァニーガの作品はセレブに大受けとのことである。しかし、この販売会社のウェッブサイトを見ると、公共放送のNHKがこのようなPRに加担することは倫理規定に反しているのではないかとの疑念も出てくるだろう。

・4時間にわたる長大な番組だったが、各章ごとにあらかじめ概略紹介を行った後、それぞれについて詳しく説明をしていくという重複した構成を見直し、金や光という本題からはずれた画家の逸話などを省けばもっとスッキリとした番組となったであろう。

・良かった点はフィレンツェやロンドンの専門家の落ち着いた説明が聞かれたことと黄金芸術のイタリア編をまとめて見られたことである。仏像などの東洋美術における黄金芸術との関係についても考えさせられる点があった。

(2011年1月3日)

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美術講演・映画 2010


     
ダ・ヴィンチの指紋

BS朝日

文 責: とら(美術散歩)

 

 12月5日の日曜の夜に、BS朝日で特別番組「ダ・ヴィンチの指紋」を見た。これは草思社から発刊されたマーティン・ケンプとパスカル・コット共著の単行本「美しき姫君−発見されたダ・ヴィンチの真作」を下敷きにした番組。ケンプはオックスフォード大学美術史学科名誉教授、コットはマルチメディア高解像度の発明者で、リュミニエール・テクノロジー社の代表である。

 1998年1月、ニューヨークのクリスティーズ・オークションで、19世紀に出品された無名の《ルネサンスのドレスを着た少女の横顔》が、ニューヨークの画商によって1万9千ドル(約250万円)で落札された。羊皮紙に女性の横顔が3色のクレヨンと黒インク描かれたこの小品は、19世紀のドイツではルネサンスの画法で習作を描くことが流行していたのでその一つと考えられていた。

 その場に居合わせたカナダ人のコレクター、ピーター・シルヴァーマン は、この画は間違いなくルネサンスのものだと睨み、オークションに臨んだが競り負けた。9年後の2007年、ニューヨークの画商がこの画を売りに出していたので、シルヴァーマンは、往時の落札額と同額でその絵を手に入れた。その後、専門家の中に、この謎の絵画「美しき姫君」はレオナルド・ダ・ヴィンチの作であるという説が出てきた。

 シルヴァーマンから鑑定を依頼されたケンプ名誉教授は、広範囲に亘って施されているハッチング(線影)の描線が上に凸のカーヴを描いているため、左手のよって描かれたものであることを発見した。さらにこの画の左上に画家の指紋が残っていることも見出された。

 パリの「リュミエール・テクノロジー社」のパスカル・コットが開発した2億4千万画素という高解像度撮影が可能なマルチスペクトル・カメラで解析すると、この指紋はダ・ヴィンチの《聖ヒエロニムス》に残された指紋と一致することが分かった。この指紋の放射性炭素年代測定法・赤外線・等による「年代測定」によってこの画が描かれたのは15世紀半ば〜17世紀半ばであるとされたとのことである。

 当時のダ・ヴィンチは、ミラノ公のルドヴィーコ・スフォルツァに召し抱えられていた。もしこれがダ・ヴィンチの作品だとすると、描かれた人物はルドヴィーコに纏わる女性の可能性がある。質素な衣装から判断してそう高位ではないルドヴィーゴの妾の娘、ビアンカではないかという説が有力である。彼女は、13〜14歳で嫁いだが、婚礼から僅か4カ月で亡くなった薄幸の女性である。病名は子宮外妊娠と伝えられている。

 この画が羊皮紙に描かれたものであるということは、これが綴じられた書物の一部であることを示唆している。彼女の婚礼祝いか追悼のためかに、王から指示され製作されたものだったのかもしれない。ダ・ヴィンチの作の中には、羊皮紙を使用した画は1枚もないが、フランス人画家ジャン・ペレアルに羊皮紙の制作方法や彩色法について問い合わせた記録が手記に残っている。羊皮紙の年代測定で、1440〜1650年と判定されていることも上記の説を補強する。

 面白い番組だった。日比谷公園で開催予定のダ・ヴィンチ展のプレリュードのような気がした。

(2010年12月7日)

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カンディンスキーの三人の妻

     
Newsletter in Olga’s Gallery

文 責: とら(美術散歩)

 

 

はじめに:
 Olga’s Galleryという有名な美術サイトがある。その中にはもちろんカンディンスキーの項目もある。そこに、この画家の伝記の附記として「ワシリー・カンディンスキーの三人の妻」というタイトルのニュースレターが2003年5月5日の日付で載っている。
 
 最初の妻アーニャ(またはアンナ)、愛人のガブリエル・ミュンター、最後の妻のニーナがこの三人である。読み出すととても面白い。そこで和訳してここにアップすることにした。そして、ちょっとしたコメントを赤字で追加した。

1.アーニャ(またはアンナ)・チミアキン:
 カンディンスキーは30歳代になってから美術の世界に入ってきた。彼は、ロシアにおける学者としてのキャリアを捨てて、妻のアーニャ・チミアキン(Anya (Anna) Chimiakina)を連れてドイツにやってきた。

 アーニャはカンディンスキーの6歳年上の従姉妹だったが、当時としては、特別な女性だった。アーニャはモスクワ大学に入学した最初の女性の一人だった。カンディンスキーは、このモスクワ大学で講師をしていたのである。アーニャの画像を探してみたが、見つからなかった。

 彼女が美術を嫌っていたかどうかは分からないが、美術を愛好することと画家と結婚することとはまったく違うことがらである。

 アーニャが結婚したのは、弁護士という尊敬されている職業の男性であって、ボヘミアンのような環境にあこがれていたからではなかった。

 しかしアーニャは、嫌々ながら夫に従ってミュンヘンに赴いたが、7年後に別居し、1911年に正式に離婚した。

2.ガブリエル・ミュンター:
 この頃までに、カンディンスキーは別な女性と知り合いになっていた。 ガブリエル・ミュンター(Gabriele Munter)というドイツ人画家である。二人が知り合ったのは、ミュンターが新設されたファランクス画学校(Phalanx Art school)に入学した1901年である。当時、州立アートアカデミーは女性の入学を許していなかったからである。

 ファランクス画学校は一年しか続かなかったが、ガブリエルは生徒としてカンディンスキーの許に留まり、二人は親密になっていった。

 1904年に、カンディンスキーが妻と別居するや、二人は同棲しだした。20世紀初めの若い女性としては、既婚の男性と同棲することは非常に大胆な行為だった。このことはボヘミアン社会ではある程度認められていたが、二人の出自のブルジョワ社会ではまったく許容されないことであった。

 しかし当時の二人はそのようなことは問題にせず、愛に陥っていた。カンディンスキーの画のジャンルとしては肖像画はないが、その唯一の例外はガブリエルの肖像画(→)である。1905年に描かれた彼女の肖像画を見ると、大きな目をもってはいるが、鼻が大きくてあごが小さく、唇が薄くて額が広いため、必ずしも美人とはいいがたい。

 彼女はアーティストが夢見るような女性だったのだろうか? 彼女自身がアーティストであり、勇敢で野心的であったが、それでも彼女は思慮深く、判断力のある、恋する女性であった。彼女にとって不運なことに、カンディンスキーに対するこの情熱的な愛が、永い年月にわたって彼女を不幸にすることになる。

 1904年には、二人はヨーロッパや北アフリカを旅し、1908年になってミュンヘンに戻って落ち着くことになる。ガブリエルはババリア・アルプスのムルナウ(Murnau)に一軒のカントリー・ハウスを購入し、夏の間そこに滞在した。この家は、二人が齢とって引退した時の家としても考えられていた。カンディンスキーはインテリアの簡単な家具をもっていたが、その一部に自分で花や騎手などの装飾をほどこした。

 余計なことだが、このような長期旅行の費用はどうしたのだろうか。現在でも、フランスにはこの時代のカンディンスキーの作品が個人蔵として残っているそうだから、売り食いしながら旅を続けていたのかもしれない。しかし、ムルナウの家はカンディンスキーが勧めて、ガブリエルが買ったことになっているが、この支払いはガブリエルの親の遺産によるものだろう。ガブリエルの父親はアメリカから逆移民したドイツ人貿易商であったが、両親ともに早世したとのことである。

 ガブリエルは、正式にはカンディンスキーの生徒であったが、画に対しては自分自身の考え方やスタイルを持っていた。こういった彼女の画風がカンディンスキーの画風に多大な影響を与えていたようであるが、そのことがカンディンスキーのガブリエルに対する苛立ちの原因となっていたのかもしれない。時が経つにつれて、二人の関係は次第に複雑になっていき、ある日カンディンスキーがガブリエルに求婚したと思えば、別の日にはすぐに別居すると云いだす始末であった。

 一般に、愛について何が起るか、どういう結末となるのか、だれが予測できようか? 彼女が先生を尊敬している生徒である間は、カンディンスキーにとって彼女は元気のもととなるミューズだった。しかし一旦、彼女がカンディンスキーからの独立を志向して、自分自身のスタイルを発展させ、彼女が彼の遣り方に従わないだけでなく、恐らくカンディンスキー自身のスタイルにまで影響を与えだすと、彼女はカンディンスキーの苛立ちの種となった。

 第一次世界大戦の勃発はカンディンスキーにとってガブリエルと分かれる絶好の口実となった。初めは一緒にドイツを離れたが、カンディンスキーはすぐにモスクワに戻っていったので、ガブリエルはミュンヘンに帰ってこざるを得なかった。ただ文通は続いており、ガブリエルは何通もの手紙をカンディンスキー宛に書いた。二人が最後に会ったのは、1915年12月、ストックホルムにおいてであった。二人の文通自体はさらに1年間続くが、その後二人は会うことがなかった。カンディンスキーにとっては、ガブリエルはすでに過去の人であったが、ガブリエルはカンディンスキーに対する痛惜で破滅的な熱情を抑えることができなかった。

 1916年9月、50歳になったカンディンスキーは新しい恋愛に陥った。そして、その愛は1917年2月に結婚として結実した。このカンディンスキーの結婚の知らせはガブリエルにとって大きなショックであり、その後数年間絵筆をとることができなかった。

 しかし、時がこれを癒して、彼女は快復し、画の制作に復帰した。その後、彼女の天才の裏切り行為を忘れることはできなくても、許して、彼女自身が幸せに暮らしたと思いたい。

 ガブリエルは一生カンディンスキーを賞賛した。これに対し、カンディンスキーはガブリエルや彼女の作品について述べることがなかった。このことは、カンディンスキーの画家として多くのことをガブリエルから学んでいたというわれわれの疑念を強めるだけである。

  この記事にはカンディンスキーの人格にかかわる重要なできごとが省かれているようなので、追加しておきたい。1920年以降、カンディンスキーは代理人を通してミュンヘンに残してきた自分の作品の所有権に関する連絡をしてきたとのことである。作品の大部分をミュンヘンに残したままロシアへ戻ってしまったカンディンスキーは、それを手元に置くミュンターに全作品の返還を迫ったのである。数年に及ぶ法的係争の末いくつかの大作はカンディンスキーのもとに返されたが、他の作品の権利はすべてミュンターに帰属することになったとのことである。

 また、この文章の中に、1925年にガブリエルと結婚したヨハネス・アイヒナーのことが記されていないが、彼は10歳年上のガブリエルを支え続けた配偶者として記憶に止めておくべきである。

3.ニーナ・アンドレーフスカヤ:
  一方、カンディンスキーにとっては、新しい結婚は幸せであった。ついに理想の女性を見つけたのである。この女性とはどんな人なのだろうか?

 若いロシア人女性、ニーナ・アンドレーフスカヤ(Nina Nikolayevna Andreevskaya)である。ただ比較的最近の話なのに、彼女については不詳なことがらが多い。ニーナの生年月日すら分かっていない。ニーナ自身の言葉によれば、彼女はカンディンスキーより27歳年下だったという。彼女自身の記憶によると、彼女は将軍の娘とのことであるが、ロシア軍のリストからはそのことは確認されていない。ある研究者は日露戦争で1905年に戦死したロシア軍大尉の娘ではないかとしている。

 有名人の妻であり寡婦であったニーナは、自分自身の伝説を作ることに熱心だった。カンディンスキーは普通のハウスメイドと結婚したのだとの説もあるが、ありえない話ではない。彼の周囲に大勢の知性的な人々がいたのに、家庭にももう一人の知識人が必要だったのだろうか。以前に、カンディンスキーはインテリの妻やインテリの愛人を持ったことがある。それで十分だったのではなかろうか。

 しかし、ニーナがロシアを離れたその日から、自分が良家の出身であると主張している。良家とは、貴族でないにせよ、インテリゲンチアであるということである。さもないと、すべて良家の出で構成されているロシアからの移民社会に入ることができなかったかもしれないのである。

 カンディンスキーとニーナはどのようにして出会ったのだろうか? ニーナの伝説に従えば、ニーナが友達のメッセージを電話でカンディンスキーに伝えたところ、ニーナの声がカンディンスキーに「深い印象」をあたえたのだそうである。カンディンスキーは、「見知らぬ声に」というタイトルの水彩画をニーナに捧げたとの話である。

 1917年2月、51歳のカンディンスキーは自分よりずっと若いニーナと結婚した。ニーナの記憶によれば、「私たちの結婚は、自分の人生の秋における春のスタートである。私たちはは初めて会った時に恋に陥り、一日といえども離れたことがない」とカンディンスキーが話していたという。

 二人は新婚旅行のためフィンランドに向かったが、ロシア革命のためすぐに帰国せざるをえなかった。同年、二人の間にできた唯一の息子Vsevolodは、1920年、ロシア革命戦争中に、栄養失調と感染症で死亡した。

 1921年12月、カンディンスキーとニーナは、飢餓と荒廃のロシアを離れ、ベルリンに向かった。外国においては、ニーナはカンディンスキーと完全に生活を共にしており、「一日たりとも離れず」、彼女の天才的な夫の陰に隠れていた。

 1944年に、カンディンスキーが死亡した際には、ニーナが唯一の遺産相続人だった。彼女は、この画家の研究・展示・保存を目的としたカンディンスキー財団を設立した。彼女は、この財団からパリのジョルジュ・ポンピドー・センターに多額の寄付を行った。

 ニーナはその後再婚することはなかった。しかし、非常な金持ちとなった彼女は、常にジゴロのような若い男に取り囲まれており、ニーナ自身、それが好きだった。また彼女は、宝石を愛して、熱心に購入し、立派なコレクションを作った。1983年に、彼女はスイスの別荘で殺されたが、これは多分このコレクションと致命的な関係があるのだろう。犯人は逮捕されなかった。ニーナは、パリで埋葬され、すぐに忘れられた。彼女の回想録は面白いが、その中はハリウッドのようなお伽話でいっぱいであるから、十分注意して読むべきものである。

(2010年12月1日)

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美術講演・映画 2009

デュラー、ティツィアーノ、ブリューゲル、ルーベンス、ベラスケスーハプスブルグ家とその画家たち


     
会 場: 国立新美術館

演 者: カール・シュッツ(ウィーン美術史美術館)

文 責: とら(美術散歩)

 

 

・はじめに: 内容的には「ハプスブルク家の美術コレクターたち」としたほうが良いものだった。以前、カール・シュッツ氏のギャラリートークに参加したしたことがあったが、その時は分かりやすい英語を話されたのに、今回はドイツ語の原稿を早口で丸読み、それに続く和訳者も早口でまくし立て。いつものように頑張ってメモしたが、固有名詞などは聞き取りにくく、講演終了時には疲労困憊した。

1.皇帝ルドルフ2世: 今回の展覧会の冒頭にはアーヘンの《神聖ローマ帝国ルドルフ2世》↓の肖像画が飾られている。この画では、ルドルフ2世は、皇帝の服装をしておらず、スペイン風の衣服をまとっている。そしてその表情は幾分沈うつである。彼は少年時代を伯父のスペイン宮廷で過ごしたが、そこでフェリぺ2世が収集したティツィアーノやボッシュの作品やエル・エスコリアール宮殿建築から美術に対する理解を深め、「美術品収集は王の仕事である」と信ずるようになった。父の皇帝マキシミリアン2世の死によって、1576年、24歳で神聖ローマ帝国皇帝となったルドルフは、オーストリアに戻るやいなや宮廷をウィーンからプラハに移した。ケプラーをはじめとする学者や芸術家をこの地に招聘するとともに、美術品の収集を開始した。

 ウィーン美術史美術館に所蔵されているデューラーのうちルドルフ2世が入手したものとして有名なものはニュールンベルグの《聖三位一体》であるが、今回展示されている《ヨハンネス・クレーベルガーの肖像》は異色の平面的な作品である。パルジャニーノの凸面鏡の《自画像》は皇帝にプレゼントされたものであるが、肖像画としてはまれなもので、錯覚をあたえるマニエリスム作品である。ピーター・ブリューゲル(父)の《雪中の狩人》はルドルフ2世が収集した「季節画」連作の一つである。コレッジョの「ユのピテル愛」連作もルドルフ2世のコレクションに加わっていた。その中で現在ウィーン美術史美術館にあるのは《イオ》と《ガニュメデス》で、残りの《ダナエ》はローマのボルゲーゼ美術館、《レダ》はベルリン国立美術館に所蔵されている。こういった優雅で、洗練され、また官能的な題材はルドルフ2世の好みにかなうものだった。

 皇帝のお抱え絵師の作品としては、今回、スプランゲルの《ヘルマフロディトスとニンフのサルマキス》が出ている。プラハ宮殿の奥底が知れない妖艶な魅力をたたえた作品である。

2.レオポルド・ヴィルヘルム大公: ヴィルヘルムはウィーン美術史美術館の絵画ギャラリーにとってもっとも重要なコレクターである。彼は各地の司教を歴任し、ドイツ騎士修道会の長にもなった。兄のフェルディナント3世は30年戦争の末期に最高司令官に任じ、さらに1646年には従兄弟のスペイン王フェリペ4世からスペイン領ネーデルランド総督に任じられている。

 彼は短時間に17世紀で最大規模を誇る絵画ギャラリーを築きあげたが、これはテニールスの《大公レオポルド・ヴィルヘルム大公のブリュッセル画廊》という「画廊画」に示されている。この画のなかに描きこまれた画の大部分はイギリスのハミルトン・コレクションからのものであるが、実際には異なったサイズのものである画を同じ高さに揃えて描いている。今回出展されているティツィアーノの《イル・ブラーヴォ》もこの中に描きこまれている。


 ヴェロネーゼの《ホロフェルネスの首を持つユディット》は美と恐怖を示す装飾的マニエリスム作品である。首を入れる袋まで描かれていることに注意してもらいたい。
ロレンツォ・ロットの《聖母子と聖エリザベツ、幼い洗礼者聖ヨハネ》では、人物が風景の中に溶けこむように描かれはじめたことを示している。ルーベンスの《キリスト哀悼》もレオポルド大公が集めたもので、茨冠、釘、金盥などに注目してほしい。グイド・カニャッチの《クレオパトラの自害》は、有名な画題である。この画はレオポルド大公がウィーンに移ってから入手したものである。

 ベラスケスの《白衣の王女マルガリータ・テレサ》はスペイン王フェリペ4世からマルガリータの婚約者である従兄のレオポルド1世に送られた肖像画のひとつであるが、この画は有名な《ラスメニーナス》と同時期に描かれたものである。1666年の婚礼の祝典の様子はヤン・トーマスの《芝居の衣裳を着けた皇帝レオポルド1世、皇后マルガリータ・テレサ》に描かれているが、皇帝が音楽好き、皇后がオペラ好きで、この時期のウィーンには芸術の華が開いた。一方、同じくべラスケスの《皇太子フェリペ・プロスペロ》では、目が青く、きゃしゃで、いかにも力がない様子が表現されている。

3.皇帝カール6世−マリア・テレジア: レオポルド1世の息子のうちの兄のヨーゼフ1世が死亡したあとを弟のカールが継ぎ、皇帝カール6世となった。今回の展覧会には、逸名画家の《金羊毛騎士団勲章をつけた神聖ローマ帝国皇帝カール6世》の肖像画が出ている。

 彼は低湿に属する美術品をすべてウィーンに集め、シュタルクブルグに飾った。フェルディナンド・ストルファーは羊皮紙本↓にこの帝室画廊の各壁を正確に描いているが、これによると中央に大きな画、周囲に小さな画を木枠にはめて飾り、上部は楕円形に画が飾られている。こうするために絵画が切断されたりしている。今回出ているレンブラントの《読書する画家の息子ティトゥス・ファン・レイン》もこの羊皮紙本に描き込まれているとのこと。この画はハプスブルク家に入った初めてのレンブラントの画である。

 アンドレアス・メラーの描いた《11歳の女帝マリア・テレジア》は、とても美しい少女の姿であるが、彼女が女帝になれたのは次のような事情があった。父の皇帝カール6世にも先帝である彼の兄の皇帝ヨーゼフ1世にも男児がないため、カール5世はオーストリアの皇位はスペイン国王が継ぐということになると、権力が集中しすぎると教皇に言わせ、さらに自分の娘のほうが兄の娘より継承権が先であるという規則を作ったのである。そしてマリア・テレジアの結婚相手には力のない家系の男子ロートリンゲン公を選んだのである。

 マリア・テレジアはプロイセンのフリードリッヒ2世の侵入などに対抗するため戦争に明け暮れた。1775年に購入したルーベンスの《サンフランシスコ・ザビエル》など巨大な祭壇画はシュタルクブルグに入らないので、マリア・テレジアの共同当事者のヨーゼフ2世はベルベデール宮殿に絵画ギャラリーを作った。カラヴァッジョの《ロザリオの聖母》はこの時期アントワープで購入されている。

4.皇帝フランツ・ヨーゼフ1世: 今回の展覧会には、ムンカーチの《ハンガリーの軍服姿の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世》が出ている。この時代絵画ギャラリーには大きな変化はなかったが、美術史美術館が1891年に完成し、同年10月16日にフランツ・ヨーゼフ1世が初めて見学に訪れている。

 美術史美術館の中2階のホールには、ベルガーの《学術文化を奨励したハプスブルク歴代皇帝の姿を描いた巨大な天井画》がある。左からルドルフ2世に冠を渡す金細工師、彫刻家レオ・レオーニ、塩壷を持ったヴェンヴェヌート・チェルニーニ、ティツィアーノとカール5世、その后イザベラ、妹マリア、背後には甲冑職人、武器職人を従えたチロルのフェルディナント大公が見られる。右側には、マキシミリアン1世とデューラー、カール6世、ルーベンス、レンブラントなども描かれている。

(2009年9月26日)

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学士会会報(特集「芸術」)

 「中国宋代の青磁」雑考

   著 者: 伊藤郁太郎

文 責: とら(美術散歩)

 

 

T.はじめに
  最近の「学士会会報No877(2009-W)ー特集『芸術』」に、東洋陶磁美術館名誉館長兼学芸顧問である伊藤郁太郎氏の「中国宋代の青磁 雑考」掲載されていた。この論考をよむことによって自分の頭の中にかかっていた雲の一部が晴れたような気がしたので、そのメモをここに残しておきたい。

U.汝窯:
1.作品数が少ない。
2.宮中の禁焼とされてきた。
3.釉薬の中に瑪瑙の粉末を混ぜた。
4.清の乾隆帝すら、汝窯がいかなるものであるかつかんでいなかった。
5.1937年、英国のP・デヴィット卿が「汝窯考」という論文で汝窯の青磁を提示した。
6.P・デヴィッドも偽作をもとに「北宋官窯」で「汝窯」が生み出されたとの結論に達したが、この両者は別物である。
7.2000年になって初めて河南省の発掘調査で「汝窯遺跡」が発掘された。
8.結局「汝窯」は官窯ではなく、優秀品を貢納する民間の窯だった。

V.青磁の釉色:
1.汝窯: 天青色。失透性をもち、淡い空色を帯び、深く沈み込んでいくような神韻縹渺たる色。雨過天青の色。どちらかというとブルーイッシュ。台北故宮の《北宋 汝窯 天青無文楕円水仙盆》がその典型。

2.越窯(青磁の源流): 基本的にグリーニッシュ。とくに最高潮に達した晩唐5代の越州の「秘色」は明らかにグリーニッシュである。
3.耀州窯(5代): グリーニッシュ。
4.耀州窯(北宋代): オリーブ・グリーンで、グリーニッシュ。
5.中国と日本の研究者の色の表現が違うことに注意しなければならない。

W.まとめ: 五代北宋代の青磁のほとんどがグリーニッシュであったのに、ひとり孤高を守るように汝窯がブルーイッシュの青磁を生産したのかなどについてはいまだに謎に包まれている。古陶磁研究を志して半世紀以上経過した今なお、学ぶべきことあまりに多く、日暮れて道遠しの感を深くするのである。

X.附記: 2009/12/5-2010/3/28 大阪東洋当陶磁美術館で「河南省文物考古研究所出品ー北宋汝窯青磁―考古発掘成果展」が開かれる予定であるとのことである。

(2009年7月23日)

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土曜講座(名画に隠された謎)

 「微笑と輪廻と錬金術」ーまだまだあるレオナルド・ダ・ヴィンチの謎と驚き


     
会 場: ブリジストン美術館

演 者: 池上英洋

文 責: とら(美術散歩)

 

 

1.ラロックの聖母の謎、主題と年代


ラロックの聖母  この画については昨年にTVで報道された。《岩窟の聖母》のマリアに似ているので、レオナルド派の作品である。年代は、「授乳の聖母」というテーマなので、トレント公会議以前、すなわち17世紀より前のものである。「1478年に、2点の聖母マリアに着手した」との記録がある。そのうちの1点は《ブノワの聖母》であり、この頃のデッサンとして《猫の聖母子》や《果物の聖母子》もあるが、《ラロックの聖母》もこの辺りの作品ではないだろうか。


 《ラロックの聖母》の4隅に不自然な切断痕が存在していることに注意しなければならない。この画の裏面をみると、上部の補強はシッカリとしたものだが、下部のものは簡易なものである。これはこの画の下端がなんらかの理由で切断されたものであることを示している。このような切断は《ジュネヴラ・デ・ベンチ》でもなされており、稀なものではない。


 作者については、当時のレオナルドの工房の状況を考えなければならない。《リッタの聖母子》には、完成作よりも巧いレオナルドのデッサンが残っているところから、完成作はレオナルドの弟子によるものだと思う。《レダと白鳥》には、いくつかのヴァージョンがあり、お互いに背景が著しく異なっているにもかかわらず、レダと白鳥のみはほぼ同一なので、レオナルドが中心部分のデッサンだけを描き、これに基づいて弟子たちがそれぞれの画を仕上げたのだと考えられている。レオナルドの弟子には、Lesare da Sesto、Francesco Melze、Bernardio Luini、Giampietrinoなど多数いるが、《ラロックの聖母》を描いたのはGiampietrinoではあるまいか。

2.錬金術

 レオナルドの《洗礼者ヨハネ》は、後から来る救い主を指さしている。すなわち彼はメッセンジャーで、その姿は中性的である。Salaiが描いたと思われる《洗礼者ヨハネ》には、乳房と男性器がある。レオナルドが描いたデッサンにも両性具有のものが少なくない。両性具有は完全体であるが、人間ではこれが男と女に分かれている。これが合一すれば不老不死の完全体の人間となるという考え方がある。


 錬金術の基本的な考え方も同じで、原始状態では金であった物質が、その後分断されて諸金属に分かれてしまっている。このような諸金属を再合させて一体化すると金に戻るというのである。錬金術の完成者ヘルメストリスメギトスとは、3倍賢いヘルメスという意味である。

 ヘルメスとは、メルクリウス、すなわち翼がついたメッセンジャーである。古代の天使には翼はついていなかったが、ヘルメスの概念が入って、天使にも翼がつくようになった。天使もメッセンジャーであり、両性具有である。

 まとめると、洗礼者ヨハネ・ヘルメス・天使はすべてメッセンジャーであり、翼・両性具有・完全体という概念を共有している。


 レオナルド自身は錬金術を否定しているが、フィレンツェのメディチ家が主導していた新プラトン主義と無縁ではいられなかった。「神は、人類を単一で完全なる状態に導くものであり、イエスは、二つの性を結びつけるために地に降りた」とするのが新プラトン主義の立場である。晩年レオナルドが頼ったフランス宮廷では錬金術の考えが採用されており、レオナルドの描いた《洗礼者ヨハネ》のデッサンの中には羽がついているものもある。

3.輪廻


 キリスト教には、アリマタヤのヨセフがキリストの血を受けた聖杯の伝説から分かるように、「死から生命が誕生する」という輪廻の考え方がある。レオナルドは、渦の研究から、水の強さを実感し、「水に関する書」を書いている。この世界の中心に、地下水があり、隙があれば、地球を完全な球にしようと企んでいるとしている。実際、モナリザの背景にも、水の輪廻の表現が取り込まれている。レオナルドは「水は生命の原因、水は死の原因・・・」として、水を中心とした輪廻という考えを重視しているのである。

アチェレンツァの肖像画4.アチェレンツァの肖像画


 暮のニュースで、イタリアのPotenzaで新しいレオナルドの肖像画が見つかったことが報じられた。60x24cmの小さい板絵であるが、これが油彩であることが注目される。

 裏面に、Pinxit mea(私が描いた)と記されているが、これは通常は表面のどこかに描かれるものであるから、この画の価値を高めようとした意図が加わっているものだと思う。Potenzaは人口3000人の小さな場所であるが、18世紀にフィレンツェのSegni家がここに移住していることに留意しなければならない。


 作者の同定については、今後の問題であるが、作品の質はそんなに凄いものには思えない。今後、材質・顔料・様式・技法・左利きとしての特徴などについての検討が必要である。雑誌Penに第一報を書くことになっている。

(2009年3月21日)

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古典主義時代の変革ー新しい「黄金の世紀」のために


     
会 場: 国立西洋美術館

演 者: ブレーズ・デュコス(ルーブル美術館)

文 責: とら(美術散歩)

 

・はじめに: 展示はあえて年代順や国別にせず、今回の展覧会へのアプローチを中心に考えて構成した。17世紀は「黄金の世紀」といわれるが、これはこの時期に芸術や科学が頂点に達したこと、すなわち欧州文化が完成したことを意味しているが、さらにこの時期には国王すなわち王制の勝利によってある種の均衡が生れている。

今回展示されている有名作品としては、プッサンの《川から救われるモーゼ》、ベラスケスの《王女マルガリータ》、ルーベンスが消えていく雲の上の愛の幻影を描いた《ユノに欺かれるイクシオン》、ダイクが描いたイギリスに亡命中の《プファルツ選定侯の息子たち》などがあげられる。

 今回の展覧会は3部構成としたが、展覧会全体は、このような350年前の作品を観ることによって、現代的な課題を考察することができるようにまとめた。すなわち、過去の作品の現代性を考えるということを目的としている。具体的には、芸術と科学の関係を考えるということである。

 まず最初に出てきたのは、日本人Kiyoshi Ito教授(1915-2008)の写真である。彼は確率計算の祖といわれる数学者であるが、現在における科学の独立性の象徴としてスライドにされたようである。

 「黄金の世紀」は革命の時代であり、経済の革命、芸術の革命、信仰の革命(キリスト教内のものだが)が同時に進行し、ヨーロッパに均衡と調和をもたらした古典時代であったが、20世紀以降の現代は、変動・紛争・対立の時代である。その両者を比較し、考察することがこの展覧会の目的となっている。

・第T部 「黄金の世紀」とその陰の領域: 17世紀のヨーロッパの地図を見ると、ドイツという国はなく、イタリアも小国に分かれている。すなわちヨーロッパは細分化されている。

 その中で、まず王室側の作品が展示されている。 宮廷画家ミニヤールの《ド・ブロワ嬢と推定される少女の肖像》は、サンダルに金箔が使われた贅沢な画で、裕福な人々のみが所有できたエキゾチックな鸚鵡が描き込まれている。

 ベイクヘルデの《アムステルダム新市庁舎のあるダム広場》は、経済の飛躍的増大を印象付けており、ボスハールトの《風景の見える石のアーチの中に置かれた花束》は、詩情豊な画であるが、お金持ち相手の画で、チューリップ・バブルのメタファーとなっている。

 今回の目玉のフェルメール《レースを編む》については、レースを編んでいるのは良い家庭の女性で、色彩の魔法、はかなさ、美しさ、調和が表れているとのベタボメ

 デュピィの《葡萄の籠》の葡萄は計算しくされた配置になっており、大理石のヒビは形あるものは壊れるという意味を含んでいる。

 一方、17世紀の陰としては、疾病・戦争・飢餓といった問題があり、ルナン兄弟の《農村の家族》は赤貧の世紀をレアリスムで描きあげている。

 ムーレンは《ライン川を渡るルイ14世の軍隊》ではオランダを征服しようとしているフランス軍を、ファルコーネは《トルコ軍と騎兵隊の戦い》で宗教戦争を、スナイエルスは《プラハ近郊白山での戦い》でカトリックとプロテスタントの対立を描いている。またフランドル派の《襲撃》は追いはぎに襲われた旅人が金を差し出しながら、命乞いをしている。

 しかしながら画を売るためには、このような現実の影の部分もフィルターをかけて描かれていることに注意しなければならない。ビリャビセンシオの《ムール貝を食べる初年たち》も不快な感じを与えないように配慮され、オスターデの《窓辺の酒飲み》もピエロのように描いて、市場に受け入れられるようにしている。このように、実際の貧富の格差は17世紀絵画でははっきりとは分からないのである。

・第U部 旅行と「科学革命」: ヨーロッパの外への進出は、侵略という形で進められた。ルーベンスの《トロイアを逃れる人々を導くアイアネス》は、ギリシャ神話をもとにしており、トロイアの火事から、船で逃れようとしている人々を描いている。この画はローマで制作されたもので、地中海的な作品である。しかし、デ・ウィッテの世界地図↓をみると、ヨーロッパを中心に描かず、これから征服すべきところが沢山残っていることを示している。

 ブーレンベルフの《手紙を持つ20歳の若者》の手紙は商売の契約書だろうか。机の上には、地球儀が乗っていることに注意してほしい。

 エキゾチズムという観点からは、オランダ人ポストの《ブラジル、パライーバ川沿いの住居》は、初めて新大陸が描かれた絵画であり、エーフェルディンゲンの《山岳地帯の川、スカンジナヴィアの景観》は、山のない国で育ったこの画家のスウェーデンという比較的近い地域に対するエキゾチズム的感情が底辺にあると捉えることができる。

 作品自体が旅をする例としては、ベラスケスの《王女マルガリータの肖像》↓が挙げられる。これはフランス宮廷からスペインに注文されたものである。

 クロード・ロランのクリュセイスを父親のもとに返すオデュセウス》↓には、イタリアの宮殿が描かれており、イタリアがこの画のインスピレーションの源泉となっているが、「海の旅」すなわち地中海の旅というヨーロッパ内の旅がモチーフになっていることが重要である。

 一方、バクハイセンの《アムステルダム港》は、国家権力が支配した港を描いており、ロランが描いた情感豊な港の景色の対極をなすものである。

 コールテの《5つの貝殻》は、南洋から持ち帰った貝殻を写実的に描いており、フランドルのピーテル・ブールの描いた《一瘤ラクダの習作》も珍しい動物であるが、実際、動物園ができたのはルイ14世の時代だったのである。

 モーラの《弓を持つ東方の戦士(バルバリア海賊)》↓は、オスマン帝国の兵士であるが、この時代に「千夜一夜物語」や「コーラン」の翻訳がなされており、言語学的にもヨーロッパの多様性が確立されつつあった。

 ハルスの原作にもとづく《デカルトの肖像》は、科学革命の一つの象徴である。しかしながら、この時代の画には、革新的なものだけではなく、伝統的なものが残っていることも指摘しておかねばならない。例えば、ダウの《歯を抜く男》は詐欺師であることは明らかである。ウテワールの《アンドロメダを救うペルセウス》には、写実的な貝殻という科学的なものと想像の竜という伝統的なものが混在しているのである。ロマネッリの《アイアネスの傷口にディクタムヌスの薬液を注ぐウエヌス》でも神話と薬剤という概念が混在しているようである。

・第V部 「聖人の世紀」、古代の継承者?: この時代の絵画には、古代神話の異教と当時のキリスト教が共存している。キリスト頭部のカメオもメデューサの頭部のカメオも存在しているのである。

 フォッスの《プロセルピーナの掠奪》では、友人がひきとめようとしているにもかかわらず、戦車に乗せられたプロセルピーナが地球の割れ目に連れ去られようとしている。

 ドロストの《パテシバ》には紙が描かれているが、BC1000年には紙がないので、ほんとうは粘土板に楔形文字とするべきところである。したがって、これは聖書の物語を解釈して描いたものである。ヨルダーンスの《4人の福音書記者》には、マタイ・マルlコ・ルカ・ヨハネが覗きこんでいる本が描かれているが、これもその時代には存在していないものである。

 デイステルの《ヨハネス・デ・フォスの哲学論文を提示する天使と寓意像》には、絹地に印刷された文書がコラージュのように貼り付けられている。

・まとめ: 17世紀絵画の現代的な意味づけとしては、二つの文化の問題を考えたい。
 ライスダールの《嵐》には、大航海に必要だった海洋地理学とこの世における人類の位置づけを意識させる精神性の二面を有している。 ヤン・ブリューゲルの《火》は錬金術を描いているが、ニュートンが錬金術師であったことを考えると、科学と知識の分割法が現在のものとは違うことに注意しなければならない。 「現在、二つの文化は対話していない」というのは、イギリス人物理学者兼小説家であるPercy Lord Charles Percy Snow(1905-1980)の言葉である。17世紀においては、芸術と科学という二つの文化は対立していなかった。この展覧会では、芸術と科学の対話を描いた作品を積極的に選んで展示したのである。

(2009年2月28日)

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特別展「帰ってきた浮世絵 CHIKANOBU」関連シンポジウム


「明治:近代性とノスタルジア」


     
会 場: 国際基督教大学内 理学館

文 責: とら(美術散歩)

 

講演1.国際基督教大学 M. ウイリアム・スティール教授「特別展の紹介」: 

 監修者であるスクリップス大学 ブルース・コーツ教授の原稿の代読。大部分英語だが、一部日本語を交えての講演なので分かりやすかった。

 内容は、 @スクリップス大学はカリフォルニアの女子大。 Aこの展覧会は、2006年以来、米国六大学を巡回。 Bこのコレクションの寄贈者は日本生れで、日本画の素養があるありリリアン・ミラーをはじめ、:バラーズ、フレッド・マラーやAoki Endowmentなどである。 C今回の周延の作品は、西南戦争、明治天皇と文明開化、歴史画、大奥、美人画、役者絵をほぼ時代順に展示してある。幕府軍の侍であった画家のノスタルジアが表れている作品が少なくない。

講演2.日本女子大学 及川茂教授「明治の知られざる浮世絵師 梅堂豊斎」:

 日本人の英語原稿朗読であるから、困ったものだ。豊斎は4代目国政であるが、この画家の名前が何回も変わったということが発表の趣旨である。誰が師匠の名前を継ぐかということが重要だったため、このように複雑なことになったらしい。人名がすべてローマ字なのでいかにも分かりにくい。作品自体は名前が変わっても、あまり変わっていないようだった。

講演3.国際基督教大学 M. ウイリアム・スティール教授「反西洋主義と明治文化の変容」:

 佐田介石の舶来品排斥論」: 英語であるが、自分の言葉で発表されたので、分かりやすかった。

 福沢諭吉が自由民権論者であったのに対し、佐田介石は西欧化反対論者で、当時は有名だった。

 ただ、佐田は日本の文明開化自体を否定したのではなく、舶来品によって伝統文化が破壊されることに警鐘を鳴らしたのである。 佐田翼眼の《富国歩ミ初メ》→という面白い絵が紹介された。船の上に舶来品が満載され、その弊害についての長大な警告文が付けられている。

講演4.カリフォルニア大学アーバイン校 アン・ウォルソール教授「19世紀末ノスタルジアー周延と千代田城の女中」:

 この講演では、面白い浮世絵が沢山出た。菱川師宣の春画《床の置物》や《陰間と御殿女中》なども出てきた。

 講演は、@「江戸時代に描かれた大奥」、A「江戸の生活、とくに将軍に関する本の流行」、B「周延が描いた大奥」、C風俗画報に表れる年末行事などに分けて、よどみなく話されたが、声が小さかったので十分聞き取れないところがあった。

 周延が描いた江戸時代の女性は一夫多妻制の中に生きる女性であり、先行の浮世絵師のような幅広い視野の中の女性ではなく、また明治の良妻賢母でもなかった。周延の女性像は彼のノスタルジアそのものである。

 ここで休憩があり、その後は日本語の講演ばかりだったが、時間の関係で失礼した。資料によると、それぞれ、@高橋由一・小林清親(東京文化財研究所 山梨絵美子研究室長)、A広重(那珂川町馬頭広重美術館 河野結美学芸員)、B岡倉天心(国際基督教大学 アジア文化研究所 岡本佳子準研究員)を取り上げて、日本の近代化・西洋化とそれに対する抵抗・伝統復帰の問題が話されることになっていた。

(2009年1月31日)

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美術講演・映画 2008

日本の素朴画を語る(座談会)


司会  矢島 新(松涛美術館学芸員)

参 加: 星野鈴(東京造形大学教授、南画専門)


        浅井京子(八王子夢美術館長、禅画専門)

文 責: とら(美術散歩)

 矢島氏は「リアリズムではない日本の美意識」として、「単純な、すっきりとした、ゆるい、大きさの比率が甘い」といったような画を「日本の素朴画」とまとめられた。まず、「寺社縁起絵巻」について、この素朴画の考え方を説明された。これに対しては特別の議論はなかった。

 次に示された《つきしま》や《かるかや》といった作品群については、素朴な画とはいえるが、描き慣れた画でもあるということで意見が一致した。

 「禅画」については、自分の楽しみで描いているという面もあるが、教訓的なメッセージをこめている画であるということになった。禅画を素朴画と考えることに対しては、浅井氏からはっきりとした意見は出てこなかった。

 「南画」については、星野氏は大雅や蕪村はリアリズムそのものであるとの意見を述べられ、矢島氏の素朴画に包含することに疑問を表された。星野氏は、これに対し、浦上玉堂は「切実系素朴画」で、木米は「ほのぼの系素朴画」といえるのではないかとの考えを示された。

 わたしは、「西洋画と違い、東洋画ことに日本画には画と文字をコラボレーションする作品があり、そういった作品では、文字とのバランスのため画があまり強調されないのではないか」との意見を述べたところ、星野氏はこれに賛意を表された。

 座談会終了後、星野氏と話す機会があった。今回展示されているような作品を日本絵画の中で包括して考えていくという矢島氏の問題提起は貴重なものであるけれども、「素朴画」という言葉は必ずしもベストのネーミングではないのではないかということになった。

 このことを、矢島氏に申し上げたところ、「別な名前としてはどういうものがいいでしょうか」と尋ねられてしまった。適切な名称があれば、ご提案下さい。

(2008年12月13日)

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コロー展について


担 当: 高橋明也(三菱一号館美術館長)


文 責: とら(美術散歩)

1.はじめに: 先週放映されたNHKの「新日曜美術館」では、実際に話したことのごく一部しか放映されず、自分の意図したコローの明るいモダンな面が十分に強調されなかったのではないかと心配している。この展覧会の準備には10年間、実際の作業を始めてからだけでも5年間という時日がかかっている。したがって1500円という入場料は決して高くないと思っている。 いと思っている。

2.コロー展の企画: 学芸員の仕事は映画の監督と似ており、展覧会の企画のすべてを統括する。実際に、コローの作品を並べるにしても、ある作品の両側にどういう作品をもってくるかということで、まったく違った展示となる。そういった意味で展覧会の監修者は「一期一会」という緊張感をもって仕事をすることになる。

3.コローを選んだ理由: 最近まで東京都美術館で開かれていた「藝術都市パリの100年展」でも、まっさきにコローが展示されていた。このように コローの画はいろいろな展覧会に出てくる。またコローについては、すでに森鴎外が述べているように、わが国への紹介も早かった。しかしその後の白樺派などによる紹介はミレーやゴッホなどには及ばず、わが国における知名度は印象派の画家たちにくらべ劣っている。このため、今回コローを根本的に見直したいと思ったのである。このことは世界的にみても重要なことである。

4.コローの生涯: コローは1796年、パリの裕福な家庭に生まれた都会の人間である。この点、寒村に生まれ育ったミレーとは根本的に違う。亡くなったのは1875年であるから、19世紀の大部分を生きたことになる。

5.イタリアの風景画: イタリアには3回出かけているが、イタリアの地において風景描写をマスターした。それは光と形の造形である。これらの作品は、後期の「霧のかかった銀白色の叙情的風景画」の対極に位置するものである。これらは作品としては発表されておらず、コローの死後にアトリエから何百枚、何千枚と出てきたものである。シャープで現代的なこれらの画にはピカソなども驚いている。カチットした建物や色遣いは、セザンヌ・ピカソ・ブラックに影響を与えた。

6.ヴィル・ダブレーの想い出: 第1回のイタリア旅行の後、別荘のヴィル・ダブレーにアトリエを構え、近くの風景を描いた。彼は、結婚はしなかったが、家族を愛していた。現在もその風景は変わらずに残っている。コローの画には、その後このヴィル・ダブレーのイメージが繰り返し、繰り返し出てくる。そういった意味で、これらの後の画は「想い出の変奏曲」と呼ぶにふさわしい。近代的な「イタリア風景画」に比べ、《モルトフォンテーヌの想い出》のような「霧の中のような詩的風景画」の評価は当時ほどではなくなってしまっているが、監修者としてはどちらのコローも意味があると考えている。後者においては、戦争の時代における自然に対するノスタルジーやセンチメンタルな舞台芸術への憧憬などが感じられるが、前景・中景・遠景に分かれたコローの画の前景は抽象絵画に近づいているともいえるのである。

7.人物画: コローが人物画を描いていることはあまり知られていなかった。風景画とは異なり、素朴ながら正面から人物をとらえたリアリズムの作品が多い。《本を読むシャルトルの修道士》といった画にしても、宗教画とはいえず、格別の意味があるわけでもない。彼の画題は、大した意味を持っていない。有名な《真珠の女》にしても、モデルの実存をとらえて描いているのである。右側の青い部分はロスコを想起させる。《青い服の婦人》も、社会的な地位を有する○○夫人といった人物の肖像ではなく、普通のモデルの実写である。そのことは右肘の下に入れた赤い布やその下の本の存在により知ることができる。このようなモデルの一瞬をとらえて描いたコローの人物像は、素晴らしくモダンで、マネなどの画を先取りしている。

8.まとめ: コローは多様な絵画を描いているが、彼の画はその後の近代絵画に大きな影響を与えた。

(2008年7月16日)

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「絵画における音楽的概念」ーコロー展関連講演会


担 当: ヴァンサン・ポマレット(ルーヴル美術館学芸部長)


司 会: 高橋明也(三菱一号館美術館長)


文 責: とら(美術散歩)

司会による演者紹介: ポマレット氏は、1959年、モンペリエ生れ。1986年、国立学芸員養成学校入学。1991−2000年、ルーヴル美術館18−19世紀フランス美術担当。2000−2003年、リヨン美術館長。2003年、ルーヴル絵画部長。

現在までの誤った考え方について: 
 1.戸外での写生が印象派によって始められたという認識の誤り: 17世紀から18世紀初頭には戸外での写生が行われていた。デポルテやヴェルネがその例である。コローが画を描き始めたころには、写生はアカデミーの常識になっていた。


 2.原色(赤・青・黄)を使用すること、水の流れにタッチをつけて描くこと、影にも色をつけることなども印象派が最初であるという認識の誤り: 18世紀にヴァラシェンヌも行っている。


 3.新古典主義は固定的であったため、技術的に自由なロマン主義になり、これが写実主義となっていったという流れのとらえ方の誤り: すでに新古典主義の中になるべく感情を表現するという考え方が存在していた。


 4.コローは印象派の先駆者であるという考え方の誤り: シスレー・モネ・ルノワールに影響を与えたのは、コローの初期のイタリア風景画ではなく、晩年の作品だけである。


 5.コローはシンプル、ナイーブで、教養の乏しい画家であるという考え方の誤り: コローは読書好きで、ラテン文化、ルネサンス、音楽、オペラに通じており、絵画の伝統にも興味を持っていた。実際に、コローは複雑なコンポジションによって、人物画の中の女性や風景画の中の人物に、伝統を持ち込んでいる。


■ コローの画風の流れ: ほぼ展覧会の順に沿って解説が進行した。
 1.初期の作品とイタリア: まずウィフィッツイに送った《自画像》を提示し、これは背景を描かないルネサンス様式で、パレットを持つ古典的な画風で、ちょっと傲慢に見えるという話しからはじまった。そして、年齢が高くなってから絵を描き始めたが、イタリア滞在中に自由な技巧を身につけた。これは《ローマのコロセウムの習作》や《ファルネーゼ庭園からみたフォロロマーノ(夕べ)》によく表れている。また、「どこに坐って描くか」、すなわちフレミングの重要性を身につけた。このことは、《ローマ、フランス・アカデミーの噴水盤(ヴィラメディチ)》の樹がカーテンのようになっていることで分かる。後年、ドニは《ヴィラメディチ、ローマ》はこれを強調した画を描いている。フランス人のコローにとってイタリア人はエキゾチックな存在だった。彼の師のミシャロンの《ローマ近郊の農婦》が衣装のディテールを描いているのに対し、コローの《上を向いて坐るイタリア女性》では大雑把な表現となっている。


 2.フランス各地の田園風景とアトリエでの制作: イタリアから帰って、初めて自信をもって人物を描いた。しかし《画家の姪 マリー・ルイーズ・ロール・オスモン》はまだ不器用で、《画家の友人 フェルディナン・オスモン》にはアングルの影響が残っている。《ヴィル・ダヴレーのあずまや》のようなフランスに戻ってからの風景画は、春・夏に写生し、秋・冬にコンポジションを整えてサロンに出品していた。《ヴィル・ダヴレー、池の堰》に見られるように、コローはまず空を描き、次に植物を、そして前面の水は最後に描いた。縦型の《緑の岸辺で本を読む女》でも、空→水→土→木・人の順番で描いた。《ヴィル・ダヴレーの池》では影の戯れが表現されている。シニャックの《風景》は、近くに木を描くという点でコローの影響を受けている。《マント近郊のロルボワーズの教会》は自然そのままに描かれている。しかし《小さな谷》では、実際の風景と光の効果を後に合成しているようである。実際に、《海辺の村》や《沼のほとりの柳》もどこの風景か分からない。記憶による風景を合成しているのだと思われる。「想い出」というこの展覧会の副題は、木々を見たときの自分の感情を後から思い出して描くもので、その主題は「情動」である。《モルトフォンテーヌの想い出》に見られるように、1860年以降の作品は、観客にリズムを伝え、音楽のようなアクセントを与え、メランコリックな中間色によって詩的な感情を呼び起こさせている。


3.フレーミングと空間に、パノラマ風景と遠近法的風景: 《ビエルフォン城の眺め》は、再現された中世の城で、前景は未確定であるが、パノラマ的な眺めで、光と色彩が変わっていく。ドランは、このようなパノラマ風景をコローから学んでいる。《ドゥエの鐘楼》は写真家のようなフレーミングであり、クラシックな線遠近法を使っている。


4.樹木のカーテン、舞台の幕: コローの《葉むら越しに見たヴィル・ダヴレーの池》に見られる樹木のカーテンの使用は、モネの《木の間越しの春》に受け継がれ、コローの《傾いだ木》や《ヴィル・ダヴレー、傾いだ木のある池》の傾いだ木は、シスレーの《ヴヌー・ナドンの岩の森》やモンドリアンの《農家の前の水辺の木々》に繋がっている。


5.ミューズとニンフたち、そして音楽: コローの人物画の対象は、@実在の人物、Aアレゴリー的古典的人物、B空想的人物に分けられる。Aの代表的なものは《本を読む花冠の女》であり、ルノワールの《手紙を持つ女》の姿勢はこの影響を受けている。コローの《本を読むシャルトル会の修道士》は身体に緊張感があり、ドランの《イタリアの女》に受け継がれている。Bの典型例は《真珠の女》である。背景はラファエロの影響を受けている。《エデ》も空想上の人物であり、ブラックははっきりと《コローに基づく自由な習作、マンドリンを持つ女》という題をつけた画を描いている。ピカソの《小さな座る裸婦》はコローの《傷ついたエウリディケ》を見ながら描いたものである。コローの《芝生に横たわるアルジェリアの娘》は、マティスの《赤いキュロットのオダリスク》に影響している。


■ まとめ: コローは、後の画家に技術を伝え、絵画は音楽のようにあるべきだと魂や心に語りかけ、カンジンスキーらの20世紀美術の前触れとなった。コローは新古典の最後の画家であり、近代絵画の最初の画家であった。

(2008年6月14日)

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アンドリュー・ワイエスの描く光と影

丸沼芸術の森 美術鑑賞会 (中村音代氏講演)メモ

 今回の展覧会は、くしくも戸口に近いほうに戸外の画、遠いほうに室内の画が並んだ。戸外には光、室内には影が多いが、これは意図してそのように並べたものではない。

1. ワイエスとクリスティーナとアルヴァロ・・・ワイエスの影にはやさしさがあり、内面的なものがある。姉のクリスティーナは光、弟のアルヴァロは影として表現されているようである。アルヴァロはシャイであり、姉をひきたたせるためにワイエスに描かれることを嫌がった。このためワイエスは、アルヴァロの居た場所や彼の使った道具をアルヴァロの比喩として描いた。その意味で、ワイエスはアルヴァロに光を当てていたといえる。

<パネルの説明>

2. 《クリスティーナ・オルソン》 1947年・・・戸から室内へとはっきりとした影を描いている。この構図は、1)人物の背後が広い、2)人物が地平線よりも下に置かれていることから「悲しみの表現」であるとされる。

3. 《アンナ・クリスティーナ》 1967年・・・ワイエスは、メディチ家の家系の肖像のように死ぬ1年前のクリスティーナを描いている。ここでは、人物と家系の悲しみが表現されているが、影がほとんど見られない。しっとりとして穏やかで、やわらかな表現となっているが、これは霧の中で描いたとのことである。

<展示品の説明>

4. 《オルソン家の家》 1939年・・・ 「ゴシック風の田舎家」といわれる代表的な作品。これはアルヴァロの世界の表現である。大鎌は彼の道具。急な屋根の勾配がゴシック建築的。羽目板の一枚一枚数えて書いたという堅牢な画。手前の影、中央の日差し、そしてやや暗いワイエス・グリーンの草むらなど光と影の描き方が絶妙。草むらのスクラッチにも留意。スクラッチのためにファブリアーニ紙を使っている。ワイエスの白は紙の地の色である。ワイエスは死を考えた時に白を使い、生と死、此岸と彼岸の間に黒を使っている。

5. 《穀物袋》 1961年・・・ アルヴァロの肖像画! 穀物袋に光が当たり、その縁が耳のようになっている。一方、アルヴァロの耳には赤が使われている。こちらは血の通った耳である。ここには自然光はなく、影によって作り出された光だけが存在している。

(2008年4月18日)

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フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公とルネサンス文化

「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公の小書斎―中部イタリアにおける人文主義とルネサンス」展

記念シンポジウム

担 当: 石鍋真澄(成城大学教授)ほか

文 責: とら(美術散歩)

 13:30−17:30という午後一杯のシンポジウム。最初に館長がイタリア語で挨拶。日本語通訳付き。次いで、このシンポジウムの監修者でピエロ・デッラ・フランチェスコの研究者である石鍋真澄成城大学教授の挨拶。

 第1席は、東京大学大学院の伊藤拓眞氏の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと美術

 全体のイントロダクションである。 まずはウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像とウルビーノやグッビオの位置を示す地図から始まる。 次いでフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの概略。祖父はアントニオ(1348−1404)、父グイダントニオ(1378−1443)、その嫡子のオッダントニオ(1427−44)が暗殺され、庶子のフェデリーコ(1422−82)がモンテフェルトロ家の当主となった。フェデリーコは、ヴィットリーノ・ダ・フェルトロの教育を受けたが、兵士としてサン・レオ要塞の攻略で手柄をたて、当時ミラノ、ヴェネティア、フィレンツェ、ローマ、ナポリという5大勢力の拮抗するなか、傭兵隊長として勇名をはせた。フェデリーコは傭兵隊長として戦時のみならず、平和時にも軍備を整えるなどの傭兵契約を結んでいた。このことはウルビーノに富をもたらしただけでなく、ウルビーノがイタリア各地とのつながりをもつことに役立った。

 そして美術のほうに話が進んで行く。侯爵宮殿(ウルビーノ パラツォ・ドゥカーレ)にみられる宮廷美術は外国人を含めた多くの芸術家の手によるものであった。ウルビーノの宮廷美術の第2の特徴としてははフラ・カルネバレーレという美術顧問を介してフィレンツェと密接な関係があったことがあげられる。 第3の特徴としては、ウルビーノが遠近法文化を有していたことが重要である。遠近法は、高度な応用科学で、ピエロ・デッラ・フランチェスカがウルビーノにおいて発展させ、ウルビーノやグッビオのストゥディオーロの寄木細工にも応用された。 さらに、ウルビーノはラファエッロを生み、ティッツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》にみられるようにルネサンス美術に大きな役割を果たした。

 第2席は、埼玉大学 伊藤博明教授の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと人文主義


 フェデリーコは、モントバにおけるヴィットリーノ・ダ・フェルトロの私塾で人文主義教育を受けた。内容としては、文法学、弁証学、修辞学という3学と算術、幾何、天文、音楽という4科、合計7つの「自由学芸」である。ヴィイトリーノによる人文主義的な教育の革新としては、古典の原典に基づく教育、近代的な論理学への移行、作業技術の評価、全人教育の4点があげられるが、フェデリーコはこのようなすすんだ教育を受けたのである。

 フェデリーコの人文主義的な成果としては、図書室、藝術のパトロネージ、パラッツォの装飾、ストゥディオーロの装飾がある。ストゥディオーロの装飾においては、天球儀は黄道すなわち天文学、四分儀は距離を測定する計器として人文主義の表象となっている。

 第3席は、弘前大学 出佳奈子講師の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのストゥディオーロ」。これは今回のシンポウムの白眉であった。

 まず、「グッビオのストゥディオーロの紹介」。展覧会は先週見たばかりであるが、この講義を聴いて理解が進んだ。これは1477−83/86年ごろの制作。1939年にメトロポリタン美術館に売却されているが、今回6年がかりで地元の職人たちが実物大の複製を作ったものである。内面の下部は寄木細工の装飾で、遠近法を使って立体感を出している。窓からの光も計算されている。この上部に絵画があったのであるが、実物の画が残っているのはロンドンの2点だけであり、その他に2点の画像が存在する。天井にも寄木細工があるが、現在のところこの部分は未完成である。完成までにはあと1年はかかり、今回展示されているものと一緒にしてグッビオのドゥカーレ宮殿に納められる予定となっている。

 次は、「イタリアにおける寄木細工」に関する説明である。これには、下記の4項に分けて詳述された。

@tarsia a toppo: これは木塊状嵌め込み細工で、複雑な工程である。tarsia a toppoは、グッビオのストゥディオーロにおいても使用されている。
Acommesso di silio: これは木材の色における明暗の対比を利用した寄木細工で、比較的分かりやすい。これによってできた木工象嵌は、明るい錦木が映えて美しい。例えばヴェローナのサンタ・マリア・イン・オルガノ聖堂のcommesso di silioを用いた装飾パネルは、1493−99年ごろにフラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェローナにより制作されたものである。commesso di silioを用いた装飾は、グッビオのストゥディオーロにおいては、ベンチの座席部分の後側に表れている。
B人物表現: 人物はグッビオのストゥディオーロには出てこないが、モントリオール美術館所蔵のマッティア・ディ・ナンニ(ドメニコ・ディ・ニッコロの弟子)による衣文をみれば、その素晴らしさがよく分かる。
C遠近法を用いた空間表現: 1436-45年、アーニョロ・ディ・ラザロおよびアントニオ・マネッティによって制作されたフィレンツェ大聖堂北聖具室の寄木細工装飾は、一点透視画法を用いた錯視効果を生じさせる作品として有名である。窓からの光もその効果を高めている。

 その次の話題は、「グッビオおよびウルビーノのストゥディオーロ装飾の作者について」。グッピオのストゥディオーロの《お菓子の木箱》とウルビーノの《お菓子の木箱》をくらべると、前者のほうが光と影のコントラストが強く、後者はその点やや平板に見える。このような点から、演者は、グッピオの作者はジュリアーノ・ダ・マイアーノ(1432−90)、ウルビーノの作者はバッチョ・ポンテッリ(1450−90)に比定している。

 最後は、「グッビオのストゥディオーロ装飾とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公」。装飾より上部の壁には、前述のように絵画があり、それは《七自由学芸の擬人像》で、左から、天文学・修辞学(フェデリーコの息子グイドバルドが跪く)・弁証法(フェデリーコ自身が跪く)・音楽である。文法・幾何学・算術・を描いた絵画は失われてしまった。

 装飾の最上段の帯状の部分は金の銘文で、この部分の複製もまだ完成していない。その文章は「とく高い母の永遠の学人であり、学ぶことそして天才というものを賛美するこれらの人物たちが、その母親の前で、いかに首をたれ、跪いているかを見よ。尊敬に値する彼らの敬虔さは正義に勝るものであり、その養育者たる母に従ったことを悔いはしない」となっている。

 上段に描かれている道具について細かな説明があり、面白かった。マゾッチオ(置物)、シターン(九弦の楽器)、四分儀(長さの測定用具)、天空儀(黄道を示す天文学用具)、勲章などである。特に英国国王エドワード4世から授与されたガーター勲章はもっとも重要視されており、正面中央の遠近法の中心点に置かれている。これらの装飾は美しい組紐文様装飾で囲まれている。下段には、フェデリーコに関係があるいくつかの紋章があり、警喩を表す動物装飾もつけられている。

 グッピオのストゥディオーロにおける書見台上の本に記された文章は、「世の人の最期の日はすべからく定められている。人の人生は短く、再び手にすることは叶わない。しかし彼らの望みはその名声を永久のものとすることにある。そしてこれこそが勇者の仕事なのだ」となっている。『ウルビーノ公はまさにその名声を永遠のものとしたのである』という言葉でこの素晴らしい講演が終了した。

 第4席は、石鍋真澄教授の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとピエロ・デッラ・フランチェスカ

 ピエロ・デッラ・フランチェスカは数学や幾何学の本を三冊も書いている。算術論・遠近法画論・五正四面体論である。これらはグーテンベルグの印刷機に発明よりもほんの少し早かったので、印刷されず写本としてのみ残った。この本の一つにピエロはフェデリーコに対する献辞を書いている。ウルビーノは数学的人文主義ともいえるのであった。ピエロはフェデリーコより10年早くサン・セポルクロで生まれ、10年遅く死んだ。

 その後、ピエロの有名な3点の画についての解説があった。 第一は、《ウルビーノ公夫妻》。これは傑作である!との一言。片目を怪我していたため横顔、とくに左横顔が描かれることが多い。珍しいものとしてフェデリーコの右横顔を描いた画もある。公爵夫人のバッチスタ・スフォルツァは、結婚した時には14歳で、38歳の夫の二番目の妻だった。結婚生活は12年続き、この間ウルビーノは大きく発展した。


 第2は、《ブレラの祭壇画》。これは8枚のポプラ剤材を横につないだものであるが、一番下のパネルが切れており、また左右も短くされている。フェデリーコは寄進者として描きこまれている。上から駝鳥の卵がぶら下がっている。幾何学的には、これはずっと後方に位置していることが証明されている。駝鳥については、「宇宙と愛に対する数学的信仰」とされるが、鉄を食べるとか卵を産みっぱなしにするといった理由で、あまり評判の良い動物ではない。キリストの姿は、ピエタの姿を予見している。自分としては、この画は、墓所のために描かれたものであると考えている。


 最後の画は、《キリストの鞭打ち》。前方の3人については、30以上の推論がある。いずれにせよ、ルネサンスの枠組みには収まらない大きなテーマを有する作品である。内容としては、画家の丁寧な署名があるところから、私的なものと考えられており、実際に私蔵されていた。この画は、このような謎解きのほかに、遠近法という観点から重要である。人物やタイルなどにそれが表れており、この画は遠近法の技術を示すために描いたといってもよいのではなかろうか。このような遠近法文化はグッビオの寄木細工の技術や理想都市の画につながっていく。 


 ウルビーノは西洋文明の頂点に立っており、フェデリーコはエッセイ・ウマーノ、すなわち人間性を大切にした。ルネサンスを実感させるウルビーノは、もっとも驚くべき都市のひとつである。

 講演後の聴衆からの質疑応答と討論はものすごく活発だった。その主なものをあげると下記のようである。

1.フェデリーコのアートに対する具体的貢献は何か。
2.フェデリーコと寄木細工の出会いは。
3.グッピオとウルビーノの違いの理由は。
4.遠近法文化が人間的な文化であることの説明は。
5.グッピオの戦略的な位置や産科医が多かったこととの関係は。
6.庶子としてのフェデリーコの人間的な問題は。

(2008年4月7日)

ブログ 1 (第1席、第2席)

ブログ 2 (  第3席   )

ブログ 3 ( 第4席、質疑 )

 

ルネサンスのエロティック美術

「ウルビーノのヴィーナス展」開催記念 国際シンポジウム

担 当: 越川倫明(東京学芸大学準教授)ほか

文 責: とら(美術散歩)

 満開の桜をよそに、10:00−18:30という長丁場のシンポジウム「ルネサンスのエロティック美術―図像と機能」を西美の講堂で聴講した。われわれのように英語が国際語であると信じている人間には、イタリア語と日本語の同時通訳を聴くという珍しい機会でもあった。

モデレーターの挨拶:
 モデレーターは東京芸大の越川倫明準教授。その挨拶の言葉は、「エロス」の定義から始まる。エロスとは、二つのものがお互いに強く引き合う力であって、哲学的な意味も、男女の性愛という即物的な意味も有している。今回のシンポジウムは15−16世紀に絞り込んだもので、16世紀前半の文筆家のピエトロ・アレティーノに捧げるものである。アレフィーノの書物は日本では「女のおしゃべり」(角川文庫、絶版)しか紹介されていないが、彼の書いたものは時事風刺、喜劇、猥褻な詩であって、1556年に死亡した後、カトリック教会から禁書とされたが、ブラックマーケットでは猥褻文学の元祖として珍重された。アレティーノは、ジュリオ・ロマーノやティツィアーノの個人的な友人であって、ルネサンス時代の美術批評家でもあった。

開会の辞:
 正式な「開会の辞」は、西美の青柳正規館長。「最近は研究していないからこのシンポジウムに出してもらえなかった」とジョークを飛ばしながら、スライドを使ったミニ講演。
《ミロのヴィーナス》の乳房の大きさはCカップに見えるが、NHKやワコールなどの研究によると実はBカップであった。これは西洋人の胸郭が開いているからCカップに見えるのだとの見解である。
 ギリシャ彫刻では、男性の性器が露出しているのは当たり前のことであった。しかしこの性器を除いてしまえば、いつでも女性像となるのである。プラクシテレスの《さそりを刺す男》と《ヴィーナス像》を比べれば明らかで、そのことはエアフランスにあった雑誌に載っている現代の男女とみても同様である。
 Karren Knorrの女性の裸体像からはまったくエロティシズムを感じないが、これを横に臥せてみると曲線が出てくる。これはジョルジョーネ→ティツィアーノ→モジリアーニと続く横臥の裸婦像で具現化されている。恥ずかしいという感情が官能性として出てくるのである。素晴らしいミニ・レクチャーだった。これでは後の講演者がやりにくかろう。

ヴィーナス展の紹介:
 はたして、次の渡辺晋輔氏の「ウルビーノのヴィーナス 古代からルネサンス、美の系譜」展紹介は、展覧会を観てしまったわたしにとっては、《ウルビーノのヴィーナス》の出展が決まったのは3年前だったということしか得ることはなかった。

第1セッション(1)
 いよいよ第1セッションの始まり。一番手は、シラキュース大学フィレンツェ校のジョナサン・K・ネルソン先生。ところが肝心の同時通訳のイヤフォーンが働かない。大分待った挙句、先生の英文発表と通訳者の日本語が同時に室内に響くという悲惨な結果となった。聴衆のなかには国際語である英語が分かる人が少なくないので、日本語はないほうが良かったかもしれない。
 このような状況だったので、聴き間違えがあるかもしれないが、一応自分が理解できたと思ったところをまとめておきたい。演題は「女性ヌードをめぐる闘い−ミケランジェロ、レオナルド、ティツィアーノ」である。
 ミケランジェロが古代の女性裸像を研究して、新たに創造した女性美は、彼のトンド《ドーニ家》に集約されている。しかしそこに描かれた女性の筋肉は隆々としていて、ラディッシュの束であるとの批判さえ受けた。一方、レオナルドの女性は《レダと白鳥(模写)》にみられるように非常に柔らかである。これは解剖によって得た知識で、明らかにミケランジェロに対する批判である。ラファエロの《レダのスケッチ》でも、筋肉の表現は抑えたものになっている。
レオナルドの《レダ》では、乳房や下腹部が露出されている。ところがレオナルドの言葉によると、「女性は、慎ましく、脚を閉じ、両腕は一つに組まれ、頭はうなだれて一方に傾けているのがよい」、あるいは「脚を上げ、両脚が開きすぎるような姿勢は、大胆で、恥ずかしいものだ」といった言葉を残している。そうなるとレオナルドは《レダと白鳥》に意図的にあのような姿をとらせたということになる。
 またレオナルドは、「画家の中には、好色で奔放な絵を描いて、これを見るものに目で快楽に参加したい気持ちを起こさせるが、これでは詩にはなりえない。詩人が文章で人に恋情を持たせることができるというのであれば、画家も同じ力を持っている」と書き残している。
《レダと白鳥》の4人の子供は卵生であり、この卵はレオナルドの解剖手稿の胎児と子宮の画を参照している。この子供たちは、愛のハッピーエンドである。レオナルドは当時の一般的な考え方とは違い、女性が生殖に重要な役割を果たしており、母親の精は父親の精と同等であることを知っていた。そして、交わりには愛情と欲望の両面があるが、肉欲がなければ知性のある子供が産まれてこないことも知っていた。
 ミケランジェロの《レダと白鳥》は、卵と羽が描かれており、優美に眠っているヴィーナスに白鳥がのしかかっている。この画は明らかにレオナルドを意識したもので、ミケランジェロの反撃であるといえる。しかし、今回出展されているポントルモの模写によるミケランジェロの画では、ヴィーナスには男性的な筋肉が与えられている。
 また、ティツィアーノの《ダナエ》は、ミケランジェロの《レダ》の間にもバトルの結果生まれたものである。このように16世紀の画家たちは、お互いに強い競争意識を持ちつつ、新しい女性裸体表現を生み出していった。

第1セッション(2)
 2番手として登場するはずのヴェネツィア、カ・フォスカリ大学のアウグスト・ジェンティ−リ先生はドタキャンされたのか、その先生の下に留学された細野先生の代読となる。演題は「16世紀ヴェネツィア絵画における女性の身体と男性の眼差し」。これがなんとイタリア語を読んで、別な日本人が日本語で通訳するというのだからまるでマンガである。しかし、だめなイヤフォーンからは日本語が大きく聞こえてくることが分かったのでかなり聞きやすくなった。
 ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》は、結婚におけるエロティックな役割を果たしている。注文者の妻が10歳で夫婦生活を始めるための教育のための画であった。ティツィアーノには、いくつかのヴァージョンのオルガンやリュートの登場するヴィーナスの画があるが、これらは高級娼婦であるととれるように描かれている。《オルガン奏者を伴うヴィーナス》には、愛の要求、覗き趣味、音楽と愛のイメージといった16世紀半ばの貴族のエロティシズムとナルシズムが投影されている。
 ティントレットの《ヴィーナス、ウルカヌス、マルス》、《スザンナ》、《オルフェルネス》、《スザンナ》などには、反社会的な愛が描かれている。
 ヴェロネーゼの《ヴィーナスとマルス》では、ヴィーナスの乳首から乳がほとばしり、マルスの馬はもはや軍馬ではなく、種馬となっている。ヴェロネーゼの《愛の寓意の4連画》では、それぞれ、不確実な愛に絡められた男、享楽的な愛と誠実な愛の奪い合い、不実な愛の断面、誠実な愛情への褒賞といった「概念の世界」にエロスを潜めている。プラドの《聖愛と俗愛》も同様である。

第1セッション(3)
 このセッションのトリは、恵泉女学園大学の池上英洋先生である。先生の講演は何度か聞いたことがあるが、イタリア語の講演は初めてである。演題は「ヴィーナスの変容ーヌード、薔薇、復活と五感」。
 ジョルジョーネのヴィーナスははたしてヴィーナスか否かについても問題があるという話し出しである。ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》も裸婦ではあるが、キューピッドが描かれていない。注文者の妻の顔とはそれほど似ていない。むしろピッティにある《美しき人》に似ているのではないか。当時ヴェネツィアには6800人もの娼婦がおり、彼女たちがヌードモデルを務めていた可能性がある。そう考えれば、《ウルビーノのヴィーナス》の主人公は高級娼婦で、黒いカーテンの縦の線は、観る者の視線を彼女の下腹部に誘導しているような気もする。シーツの皺、長い髪、紅潮した顔、目立たぬ指輪など、仕事を終えた娼婦であることを示唆している。そう考えると、カッソーネを覗き込んでいる若い女性は娼婦の見習いであり、着物を持って立っている女性は元娼婦という見立てなのかもしれない。
 またこの画は、結婚の二面性を表している。例えば、犬は忠実さとともに肉欲をも表している。ギンバイカも、結婚のシンボルであり、死のシンボルでもある。結婚する時に持参するカッソーネには一生着られるだけの衣裳が入っており、通常は男女一箱ずつであるが、この画の二箱のカッソーネは、同じ模様があるところから、いずれも女性のものであると考えられる。カッソーネの内側にはエロティックな画が描かれていることが少なくないことから、これを覗き込んでいる少女の行為は男女の世界を覗きこんでいるのであるとも考えられる。年長の女性とも合わせて考えれば、ここに登場する3人の女性のヴァニタス、すなわち三世代の寓意というイメージなのかもしれない。
 ここでヴィーナスの花としてのバラに着目してみた。バラが嗅覚を表し、犬が男女間の忠実を表している画がある。《マリアの閉ざされた庭》の図像をみると、白はマリアの純潔、赤はイエスの血、棘はアダムとイヴの原罪によって生じたものとなっている。《バラ垣の聖母》、《棘のないバラの花冠》、《五感の寓意》、《嗅覚》、《アドニスとヴィーナスの血に染まったアネモネ》といった一連の画を見てくると、バラの「赤」が、イエスの血であるという「聖書世界」とヴィーナスの血という「神話世界」の二つを包含して、マリアとヴィーナスを結び付ける。またバラという花の持つ「嗅覚の世界」とも連なってくる。ボルゲーゼの《聖愛と俗愛》もヴィーナスと結びついてくるし、「死と復活の概念」ともからんでくる。
 非常にシャープな発表で、内容的にも新鮮だったらしく外国から来た学者たちも目から鱗といったところがあったのではなかろうか。わたしにはバラや復活に関する推論に十分について行けなかったので、あるいは間違っているところがあるかもしれない。

インターミッション:
 ここで、昼休みとなった。ここまで6人の話を聞いた。午後にはさらに5人の話が待っている。大分長くなったので、記事はここでやめて「その一」とする。ネルソン先生と話してみると、今回のシンポジウムの内容は本になるという。英語か日本語で出版されれば良いのだが・・・。

 桜見物でにぎわう上野駅前のコンビニでサンドイッチを買って、日あたりの良い広場でのピクニック。同行5人。食べ終わって、西美の前庭に行ったら、エプソンの無料写真撮影サービスに遭遇。ロダンの《考える人》の前で、5人並んで、拳をアゴに当てた考える人のポーズで写真を撮ってもらった。

第2セッション(1)
 午後のトップバッターは、国立西洋美術館の高梨光正氏の「触覚礼賛ーコレッジョとマリオ・エクイーコラ」だが、骨折というアクシデントのため、越川先生のイタリア語代読。午後には同時通訳のイヤフォーンも直っていたので、日本語でしっかり聞いたが、日伊ともに原稿を読むだけなのでいまひとつ訴えるものがない。
 コレッジョの「ユピテルの愛」連作、《イオ》・《ダナエ》・《ガニメテ》・《レダ》を題材にして、これが当時の好色版画連作とは異なり、文学的な愛の裏づけのあることを実証的に論述した。
 まず「全体の文学典拠」として、「オウィディウスの変身物語」や「ホメロス賛歌」と関係があるとの説明があった。「恋人たちの身体的結合」についてはマリオ・エクイーコラの「愛の本質について」から取った「触覚がもっとも強い快楽で、性の交わりは触覚の息子である」文章をスライドで示しながら、「ユピテルの愛」はコレッジョがエクイーコラの哲学に沿って、「快楽の絶頂」を描いたものであるとの説明があった。これはプラトニズムの対極にあるエピクレスの快楽主義であるともいえる。「エピローグ」と書いたスライドに「無気力な人には愛を」という言葉が出てきたが、代読だけに何の説明もなかった。

第2セッション(2)
 2番手のベット・タルヴァキア先生はコネチカット大学の女性教授。演題は「ルネサンス美術の性的イミジャリー 象徴性から猥褻性へ」であるが、その内容は恐るべきものであった。スライドの写真を沢山撮ったが、現在のわが国の基準から見ればネットにアップすることがはばかられるものが大部分であった。
 「性的な表現には、文化的な価値がある」という言葉から始まった。性的なイメージには、聖から俗までの幅広い暗示が含まれている。宗教画の中には、幼子キリストの性器を触っているものがあるが、これはキリストが人間であることを示している。パジュミジャニーノの《首の長い聖母》に抱えられたキリストは、その生涯の終わりを示している。
 マゾリーノとマサッチオの《楽園追放》は、追放される二人を裸体で表している。裸体を恥じるようになったのは原罪を犯してからであるが、マゾリーノの画には一時イチジクの葉で局所が覆われていたことがある。パドーヴァにあるジョットの《アレーナ聖堂壁画》には、地獄に墜ちた人に加えられる性的な拷問が描かれている。ミケランジェロの《最後の審判》に出てくる局所を蛇に咬まれているミノス王も性的拷問である。
 ドナッテッロやミケランジェロの彫刻《ダビデ》は、両性具有的なコントラポストの姿であるが、当初は性器を隠して公開されたという。公開の場所や鑑賞環境が問題になったのである。
 版画などの印刷媒体の進歩により、性的なイメージの反社会性が問題になってきた。ポルノグラフィーの判定基準、すなわち藝術性と猥褻性の線引きの問題である。

第3セッション(3)

  このセッションのトリは、ウフィツィ美術館素描版画室長のマルツィア・ファイエティ氏。やはり女性である。演題は「アゴスティーヌ・カラッチの好色版画」である。
 16世紀、ボローニャの画家、アゴスティーヌ・カラッチの好色版画小品集《神々に愛された恋人たち》の中から、スザンナ・ロトとその娘・サチュロスなどの図像がしめされた。
 また彼が出版した《イ・モーディ》とその成り立ちが紹介された。これはジュリオ・ロマーノが宮殿建築のために描いていた素描を、版画家ライモンディが、詩人アレティーノと謀って、本人の了解を得ないで出版し、教皇クレメンス7世の怒りをかった体位図である。このためライモンディは投獄され、銅版は破壊された。この《イ・モーディ》をアゴスティーヌ・カラッチが再版したのである。画像はとてもアップできるものではないが、《金はすべてを打ち負かす》や《ニンフと交わるサチュロス》などがスライドで示され、文献的検討や図像的分析、さらにこれが描かれた時代的背景や宗教的思潮についての説明もあった。これらの制作年代はトレント公会議の1年前とのことである。

インターミッション:
 ここで、小休憩となった。時間も大分遅くなったので、帰る人も増えてきたが、あと2本ということで頑張ることとした。記事は、もう一度ここで中断する。

第3セッション(1):
 慶応大学の細野喜代氏の「アドニスを引きとめようとするヴィーナス」で、「ティツィアーノ作《ヴィーナスとアドニス》の文学的典拠と祝婚画としての機能」という長い副題がついている。
 ティツィアーノは、フェリーぺ2世のために、《ポエジア(詩)》と呼ぶ6枚の神話画を制作した。オウィディウスの変身物語に基づく作品である。この中には死を嘆き悲しむ場面が多い。
 ポエジアの中の《ヴィーナスとアドニス》は、フェリーペが英国女王メアリー・チューダーと結婚した際のお祝いとして、ヴェネツィア共和国から贈られたものである。この画では、狩に出発するアドニスを必死に引き止めているヴィーナスが描かれている。この形態は、古代彫刻《ポリュクリトスの寝台》をヒントにしているとの説があるが、それはヴィーナスとアルカヌスの物語である。
この画の文学的典拠としては、ロドヴィーコ・ドルチェの「アドニス物語」があげられる。そこにはアドニスが槍を持って出かけるところで、ヴィーナスが恋人の死を予感しておののいているとの記載がある。実際には、アドニスの死はユピテルによって決断されたもので、ヴィーナスがあらかじめ知っていたとは考えにくいのであり、当時のノ多くの詩はアドニスの死を知って嘆き悲しむヴィーナスをうたっている。ティツィアーノはこのような詩と競争するように、「アドニスを引き止めるヴィーナス」という独創的な場面を描いたのであろう。

第3セッション(2):
今回のシンポジウムのオオトリは「ヴェネツィア絵画におけるヤコポ・カラーリオのエロチック版画の反響」。演者はモデレーターを務める越川倫明氏である。
 カラーリオは、ラファエロやミケランジェロ、ティツィアーノといった有名画家の作品を銅板画に移し変えていた版画家である。そのカラーリオがベローナからヴェネツィアに移った後に官能的な連作版画「神々の愛」を制作した。これは、一方ではマヨリカ美術に、他方ではヴェネツィア絵画に大きな影響を与えた。会場では、カラーリオ→ティツィアーノ、カラーリオ→ティントレットという直接の影響が存在していることが、それぞれ二つの図像を対比したスライドで説明された。

フィナーレ:
 この後、会場からの質疑に対して、外国から来られた講師の先生方から丁寧な回答があった。
 

(2008年3月29日)

ブログ 1(午前の部)

ブログ 2(午後の部)

 

「南総里見八犬伝の夜」

太田記念美術館 土曜講座

担 当: 小池正胤(東京学芸大学名誉教授)

文 責: とら(美術散歩)

 これは、「浮世絵の夜」の関連講演会である。

 とても力の入った講演で、予定の90分が大幅に延長して135分になってしまった。帰ってネットで調べると、山東京伝、曲亭馬琴などの読本を専門とし、『南総里見八犬伝』岩波文庫版の校訂者として知られる小池 藤五郎教授のご子息で黄表紙研究者となっている。この講演に熱が入っていた理由も分かるというものである。

あらかじめ16枚のA4版のプリントを渡されているが、曲亭馬琴の読本「里見八犬伝」に絵師「柳川重信」が描いた夜の場面の口絵や挿絵が反射式プロジェクターで次々と映写されていく。それに基づいて物語が講談を聞いているよう展開していく。

まず、3枚の口絵《巨鯉にまたがって龍門を上る里見義実と漆毒で皮膚がただれた金碗幸吉》、《主家を乗っ取る悪臣山下定包と悪婦玉梓》、《「ことろことろ遊び」をする子供時代の八剣士と「ヽ大和尚」》が映され、八犬伝の概要が説明される。

この物語は20年以上もかかって出来上がった長編である。岩波文庫でも10冊になる。これに匹敵する長さの物語は「東海道中膝栗毛」くらいで、「源氏物語」はずっと短い。江戸時代にはとても評判になった物語である。明治になって坪内逍遥が「小説神髄」の中で「前時代のもの」と評価して以降あまり読まれなくなったが、最近「南総里見八犬伝」が再評価されてきている。

馬琴はこの物語の執筆中に視力を失い、息子も死んでいたので、嫁の路(みち)が代書した。みちの実家は医師であるため、漢字は知っていたとは思われるが、馬琴が字の訓読みをみちに教え、みちは泣きながらこれをマスターして代書を完了した。

物語は「永亨の乱」に始まる。1489年、管領足利持氏は執権上杉憲実に攻められて自害した。その際、持氏の二人の子は脱出して、結城友朝の助けを得て結城城に立てこもった。房総の国主「里見季基」と息子の義実は結城氏に味方したが、結局落城した。この際、里見季基は若い義実に二人の臣下をつけて城を脱出させる。

ここで《挿絵》が登場。義実は三浦半島の入江に辿りつき、対岸の安房に渡るため舟を探すが、漁村の少年に「戦乱のため舟を徴発されて魚取りさえできない」と毒づかれた。突然、群雲が湧いてまわりが暗くなり、稲妻がひかり、海面が波立つ。その時忽然として「白龍」が現れ、南を指して飛び去る。これとともにあたりが明るくなり、海も静まり、小舟に乗って従者の堀内貞行が現れる。

 という具合に話しが進んでいく。このように書いているときりがないので、挿絵を後2図あげるだけにする。

 義実は安房一国を押さえ、娘「伏姫」が産まれる。そして飼われていた「八房」という大きな犬を可愛がる。義実が敵に囲まれた時、この犬に「敵将の首を取ってきたら、伏姫を与える」といったところ、八房は敵将の首をとってきてしまった。こうして伏姫は八房とともに富山に移っていく。《挿絵》では、伏姫は自分の懐胎を知り、「覚えなきことだが」と言いつつ死を覚悟する。そこに飛びくる鉄砲の二つ玉。これは義実の家臣、金碗大輔が撃ったもの。一つは伏姫に、もう一つは八房に当たる。遠くに見えるのは義実と堀内貞行の主従。

武蔵国「大塚」に住む「大塚番作」は、結城合戦の落城寸前に、名刀「村雨丸」を持って脱出。番作の息子「信乃」の世話役「額蔵」は、信乃と同じ痣、同じ玉を持っているのであるが、この額蔵と母が大塚に辿りついた時、路銀を盗まれ、吹雪の夜に行き暮れている姿を《挿絵》は示している。この母は死に、7歳の額蔵は一生飼い殺しの小者として引き取られていたのである。

このように、夜の場面の挿絵が沢山出てきて、思わず話を楽しんでしまった。プリントによると準備してあった挿絵は40図だったが、17図で時間切れとなってしまった。これで南総里見八犬伝の10分の1ぐらい話せたとのことである。恐るべき講演会だった。

 (2008年2月16日)

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応為筆「吉原格子先の図」を中心に

太田記念美術館 土曜講座

担 当: 秋田達也(大阪市立美術館)

文 責: とら(美術散歩)

プロローグ: 大阪市立美術館は1936年創立の古い美術館で、中国絵画や古い日本絵画は所蔵しているが、浮世絵版画は所蔵していない。ただ北斎の《潮干狩》という重文があり、近年の東博の「北斎展》にも出した。和・洋・漢が一体となった絵で、遠くに富士山が見え、遠くが小さくまた青みを帯びて描くなど遠近法を取り入れている。

1.「吉原格子先の図」の概容
■描かれている情景: 26.3x36.8cmの大判の版画に相当する大きさの肉筆画である。近代的感覚を有している絵で、明治の清親の時代のものといっても通用するような気がする。細かい彩色、微妙な影など、冷静な目で描かれている。一般に吉原の絵といえば華やかさや賑やかさが強調されたものが多いが、この絵はそういうところがなく写実的で、写真ポイ感じがする。これは女性画家であるためかもしれないし、西洋の影響を受けたためかもしれない。


■隠し落款: 3つの提灯に応・為・栄の文字が入っている。通常、応為栄女としているのであるが、女という字を抜いている。これは吉原を描いたことで女という字を控えたのかもしれない。


■伝来: 1932年に出版された本に載ったのが最初である。1980年前後に脚光を浴びるようになったが、これは1978年の北浜の三越展に出品されたことと1982年に集英社から出版された「肉筆浮世絵」に載ったことと関係があろう。この肉筆画をもとに版画が作られているが、これは「たばこと塩の博物館」に所蔵されている。


■吉原と「いづみ屋」: 門灯に「い津ミ屋」・「千客萬来」と書かれている。このいづみ屋を古地図で調べてみたが、複数あるため特定できなかった。吉原は浅草寺の北、山谷堀、今戸橋、見返り柳、大門、中之町などが説明された。

2.応為栄女とその作品
■応為栄女について: 1983年蓬枢閣から発行された「葛飾北斎伝」のコピーに沿って説明があった。この本は1999年、岩波書店から再販されたので容易に手に入れることができる。彼女は、北斎の三女、名は阿栄。絵師の南沢等明に嫁したが、離別している。これは阿栄の挙動が北斎に似ていたし、等明の絵を自分より拙いと笑っていたから無理もないとのことである。阿栄は家に帰って再婚せず、応為と称し、北斎を助けた。美人画を得意とし、北斎より筆意が優れていたかもしれない。応為の名はオーイと呼んだかららしい。北斎自身、自分の美人画は阿栄に及ばないと述べている。阿栄は小さいことにこだわらず、男のようであった。任侠の風を好み、悪衣悪食を恥じず、惣菜は煮売店(コンビニ)で買い、周囲に竹の皮が積み重なっていた。北斎が死んでからの応為のことは分かっていない。阿栄は少し酒を飲み、喫煙した。その面貌ははなはだ醜く、顎が出っ張っていた。北斎はこのためアゴと呼んでいた。阿栄は北斎ほど掃除が嫌いというわけではなく、頭髪もきちんとしていた。掃除をしなかったのは北斎の意に従ったもののようである。情夫などもなく北斎に孝養を尽くしていた。北斎晩年の弟子である露木氏が描いた北斎と応為の画が残っている。


■主な作品:
1)《狂歌国尽》挿絵・・・1807年の若描きの版本で帆掛け舟が書かれている。落款は栄女。
2)《絵入日用 女重宝記》挿絵・・・1847年、沢山描かれている。酔女となっている。
3)《煎茶手引之種》挿絵・・・1848年、大阪市立美術館蔵。きっちりと描かれている。
4)《関羽割臂図》・・・クリーブランド美術館蔵の肉筆画。難治性の肘の創の切開手術を受ける関羽。医師のメス、出血を受ける盥、気を散らすためか碁盤がおいてある。凄い画であるが、背景は細かく描かれ、陰影も付いている。1998年まで日本にあったが流出した。クリスティーズでは2000万円位だった。
5)《三曲合奏図》・・・ボストン美術館蔵。最近、日本にも来た。同時に展示された肉筆画とはレベルが違っていた。着物の模様に蝶が頻繁に登場する。指の描き方に特徴がある。
6)《月下砧打図》・・・東京国立博物館蔵。最近の平常展にも出ていた。紙に描いたもの。足に力が入っているところ、砧で布が軟らかくなっていることなどが巧く描かれている。落款を消そうとした跡があるが、これは北斎のものとして高く売ろうとしたためかもしれない。
7)《夜桜美人図》・・・メナード美術館蔵。落款がない。光と影が巧く描かれ、細かい描写である。手には影があり、星には青・赤の色も付いている。


3.「吉原格子先の図」の光と影
 応為は、北斎とは違った方向をめざしており、凄い画を残した。提灯・格子・遊女・煙草盆の影がしっかりと描かれ、影によって立体感や前後関係が明らかになっている。光の当たる場所に、雲母(きら)が使われている。


4.北斎とかぴたん

 北斎は西洋画の勉強をしていた。オランダのかぴたんとも会っている。ライデンにシーボルトが持ち帰った北斎の画のなかには応為の手が加わったものがある。これらの画はハイライトが強調され、陰影もはっきりしている。


5.シーボルトの絵師 川原慶賀

 出島出入絵師で、1826年にはシーボルトと一緒に江戸に来て、1ヶ月滞在している。彼の描いた《人の一生》、《長崎歳時記 豆撒き》などの西洋画風の画がライデンに所蔵されているが、こういうものが応為の目に触れていた可能性もある。

 (2008年2月8日)

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熊谷守一展

オープニング・トーク

担 当: 池田良平(天童美術館)

文 責: とら(美術散歩)

第1章 形をつかむ


 東京美術学校の同級生には青木繁や児島虎次郎がいた。

 《腰かけた女》、《横向き裸婦》など初期の作品は色彩に乏しい。光がどのように当たっているかを見つめている。弱い光源で照らされたものをいくつか描いているが、《ランプ》はその一例である。正面を向いた《自画像》には強い自信が感じられる。《蝋燭》はとても良かった。この作品は文展出品作で、現在はとても暗く見えるが、元来はもう少し明るい作品だったという。

 1910年に岐阜に戻り、鞍もつけずに馬を乗り回していたというが、その《馬》が出品されている。なかなか良い。

第2章 色をとらえる


 東京に戻って再び画作に励むようになり、二科会に出品した。この頃描いた《ポプラ並木》には明るい光が画面に現れてくる。《風》には、夕暮れ、夕立が上がり、虹としなる木立が描かれており、とても良い画である。このモチーフはその後繰り返し使われている。

 光が出てくるとともに、形がくずれ、正確な形態が捉えにくくなる。フォービズム的である。このとき既に50歳となっているが、いまだに自分らしさを追及しているのである。《烏》が描かれたのは1935年頃だが、晩年に通じる輪郭線を用いた手法が出てきたことが注目される。

第3章 天与の色彩 究極のかたち


 《山形風景》、《最上川》には線が描かれている。一方フォービズム的作品も描いているが、《桑畑》、《岩殿山》、には太い茶色の線が出てきて、大きく変わってきている。これは、このころ描きはじめた日本画の「区切る線」とリンクしていると思われる。《熱海》は青と茶の対照が巧く、美しい。

 60歳を越えた頃になって一般の人から熊谷の作品が評価されるようになった。とくに木村定三氏の評価が本人の刺激になった。

 《高原》など1940年頃の作品では陰影を描いているが、その後は描き入れなくなった。《松並木》はすっきりとした作品である。簡単な色で全体的な形を置き換えている。これでは署名は漢字であるが、その後最高作品は署名なし、次の作品はカタカナ署名、劣るものは漢字署名にしたというが、熊谷は署名を入れる場所に苦労して石碑の中に入れたりしているが、カタカナにして入れやすくなったのだと思われる。

 《裸》では、背景を緑の部分と褐色の部分に2分割しているが、これは抽象絵画に近い構成である。

 死をテーマとした作品としては、今回出ているのは《萬の像》と《ヤキバノカエリ》だけである。前者は、動員のため結核に侵されて死んでいく長女「萬」が自分を描いてくれといった作品で、熊谷の他の作品とはまったく違ったタッチである。後者は、長男が骨壷を持ち、画家と次女がその両脇に立ってこちらに歩いてくる有名な各品だが、これは時間をおいて、気持ちの整理がついた頃に描いたものであるとのこと。

 熊谷は「人の作ったものはその時点で完成しているので描かない」といっているが、志賀直哉にもらった漢時代の犬のヤキモノは《机の上》で描いており、《玩具》も描いている。

 《椿》が2点、《山椿》が出ているが、花の色も背景の水色も微妙に異なっている。《ケシ》は彼の代表的な作品で、つぼみや花の配置もここでなくてはならないという絶対的なものだという説明だった。

 小動物は、身体が不自由になって外へ出なくなってから描いている。《豆に蟻》では、蟻は左の2番目の脚から動かしだすという観察すらあったとのこと。《げんげに虻》では音楽的なものを感じる。

 《百日草》では違う色の線を使っているが、画家にとってはすべてが絶対的な色と形であった。《畳の裸婦》では背景分割が使われ、絶対的な形のバランスが保たれている。《風若葉》は、以前の《風》と同じモチーフ。虹はなくなっているが、風と若葉の勢いは残った。これが1974年にもう一度描いた《風若葉》に変わっていく。赤と黒の輪郭線が混ざったり、《立秋の秋》の雲に輪郭線がないなど、熊谷の画には絶対的なルールはない。

 「猫」はコレクション・アイテムなので、なかなか展覧会に出てこないが、今回は4点集めることができた。《くろ猫》の青い目の目線はこちらを追いかけてくるしなやかさである。

 「鳥」はとても可愛がっていて、自分の食べ物がなくても鳥に与えていた。《はぜ紅葉》、《きんけい鳥》は多彩な色彩のバランスが良い。蝶では、黒い《あげは蝶》を良く描いていたが、地味な《蛇目蝶》も描いている。

 《紅葉》は空の色が美しく、リズミカルである。めずらしい「雪」の画が2枚出ている。《あじさい》は三角と四角と円しかないが、画一ではない。色のバランスにも細かい配慮がなされている。

 月は学生時代のテーマで、最晩年まで何回も出てくる。《宵月》は小さい4号の中に美しい色遣いが凝縮している。

 最晩年の画は、いっそう色彩が鮮やかになり、輪郭線が黒くなる。太陽のシリーズは同心円で、画商が好きな画。夕暮れ、夕月という同心円シリーズもある。

第4章 守一の日本画


 初期の太い線が油絵に転用された。《つばめ》は彫刻家の石川のもらった鳥の羽の筆で描いた唯一の画。初期の日本画は真面目だが、晩年の日本画は自由で大らかである。

第5章 変幻自在の書


 箱書の字を見て、木村が書を勧めたとのこと。意味のないはずの平仮名の世界を目指した。《すずめ》では飛んでいるのか、着地しようとしているのか。《南無阿弥陀仏》は亡くなった長女が自宅の黒板に書いたやわらかい字体をまねたとのこと。禅語が好きで、今回出せなかったが、《無一物》が良いとのこと。

 (2008年2月2日)

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全部観てはいけないルーブルーサニーサイドには気をつけろ

 講演会

担 当: 山口 晃

文 責: とら(美術散歩)

最近、山口晃のトークショーは全部お付き合いしているが、今までのものは白板に得意の画を素早く描きながら語る絵画漫談だった。ところが今日の講演は今までとはまったく違う格調の高いものだった。その内容をサムアップする。

 ■ 《マリアの七つの喜びの祭壇画》1480頃: 古い金箔の板絵。遠近法は不完全で、付き人も小さいが、当時はこれでよかった。現在の画も将来は批判されるだろう。

 ■ アンリ・ベルジョーズ《聖ドニの殉教》1416年頃: 死体をしっかり見せるところが違和感があるが、古い板絵は日本に来ないのでルーブルでしっかりとみること。

 ■ ヤン・ファン・アイク《宰相ロランと聖母》1435: かっちりとした油絵だが、当時絵具が悪かったため一般に厚塗りができず、水彩が透過して見えるところがある。空は厚塗りでも大丈夫。

 ■ ボッチチェリ《若い婦人に贈り物をするビーナスと三美人》1483: ボッチチェリの画は質の差が激しい。線描のめくるめくような微妙な線が残っているところに注意すること。フレスコは残るがつやがない。剥がすことをストラッポと呼ぶ。

 ■ レオナルド・ダヴィンチ《モナリザ》1503−06: 写真をパチパチ撮っているので、展示されているものは贋物!したがって見なくても良い。筆の刷毛目のつかないスフマートで、鮫肌状態だが、きめは揃っている。横から見ると最後に描いた盛り上がりの部分が分かる。

 ■ ニコラ・プッサン《夏あるいはルツとボアズ》1660−4: 17−18世紀の画は玉石混淆だから真面目に見ていると大変。アルチンボルトやクリベッリは好きだが。

 ■ フェルメール《レースを編む女》:: 類型のない画である。光のとらえ方が違う。光を玉のように置く。ラピスラズリの青を使う。映像的で、はかなく弱いが絶妙で、官能的ともいえる。小品しか作れなかったことは理解できる。

 ■ 彫刻《キリスト降架》13世紀中頃: 古拙な味がする。肉体と魂を引き離そうとしている。彫刻にはレプリカが多いことに注意。

 ■ ダヴィッド《皇帝ナポレオンと皇后ジョセフィーヌの戴冠》1806−7: 薄塗りのヘロヘロ、カサカサの画で地が見えている。このように粗いが観客の焦点が違い、画のあった場所に戻してみるとチョウド良い。

 ■ ターナー《小川と湾の遠景》1845: この画を面白がったイギリス人が面白い。

 ★ カフェ: 暑かった。日当たりを避けろ!サニーサイドに気をつけろ。おなかを一杯にすると、画に対する渇望感が減少する。

 ★ 自分の画をルーブルに置くとしたら(質問): 贋作

 (2008年1月12日)

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美術講演・映画 2007

ミネアポリス美術館の浮世絵

 ギャラリートーク ーメモ

担 当: 天島 新 学芸員

文 責: とら(美術散歩)

1.初期の浮世絵: 鳥居清信、奥村政信、奥村利信、西村重長らの浮世絵は、手彩色でむらがある。それでも富川房信の《西王母》になると色数が増え、次の錦絵への移行が感じられる。

2.鈴木春信: 見当をつけて多色摺とする「錦絵」は春信によって始められた。厚紙を使い、上品な絵で、知識人のサークルの間で楽しむ「知的な遊び」であった。当時は太陰暦で、29日の月と30日の月の区別が必要だったが、錦絵はそれを知るための絵暦として使われたのである。18歳くらいの若い女性の美人画であるが、和歌を下敷きとした《見立て佐野の渡り》、二十四孝の《見立孟宗》、腕を切られた鬼の茨木童子が渡邊綱の兜を掴んだ故事にならって女が男の傘を掴んでいる《見立羅生門》、旅人を鉢植えの木を焚いて温めた《見立鉢の木》、山吹の花を差し出す《見立太田道灌》など、古典の教養があることを前提としている。彫りの技術が素晴らしいことは、髪の生え際の出来栄えをみれば分かる。《見立佐野の渡り》の雪や《五常 禮》の白無垢の模様はエンボス、すなわち「きめだし」の技法が使われている。《三十六歌仙 源重之》などの文字も彫られているが、当時の書物もこのように作られており、技術的には完成していた。

3.勝川春章・春英: 個性的な顔立ちの役者絵。五代市川団十郎の大きな鼻をそのままに描いている。

4.鳥居清長・勝川春潮: 春信よりは年かさでチョット脂の乗ってきた八頭身美人。続き物は、それぞれでも独立して鑑賞できるようになっている。清長は、役者絵の鳥居派でありながら美人画を描いていたが、喜多川歌麿に押されて、役者絵に戻っていく。

5.喜多川歌麿: 最近は「歌丸」と呼ぶようになってきた。歌麿も最初は《画本虫撰》のような花鳥画を描いていた。寛政の改革の時代であり、有名な《婦人相学十躰 浮気之相》にしても白雲母は使っているが、色数は少ない。当時は表現にも制限があり、《高名美人六家撰 富本豊雛》では名前を描くのをはばかって、判じ絵としている。それでも《天狗面》では夏の着物の下の体が透けて見えている。

6.東州斎写楽: 寛政6年の1年間だけの絵師。《市川蝦蔵の竹村定之進》は市川団十郎と同一人物で、やはり鼻が大きく個性的でリアルな表現となっている。やはり少ない色数で仕上げている。

7.歌舞妓堂艶鏡: これも世界で7種類の絵しか見つかっていない寛政8年の絵師で、リアルでモダンな役者絵を描いている。

8.歌川豊国: ヒョロッとした役者絵。当時はこのような姿がうけたのだろう。

9.葛飾北斎: 初めは《金魚売り》や《大道芸人》のように横長、多彩色の上品で贅沢な画を描いていた。これらの絵の下には狂歌が書かれており、仲間うちで楽しんでいた絵である。北斎はその他に読み本を描いて暮らしていたが、70歳ごろからその画風がガラッと変わる。ちょうど外国からベロ藍が入ってきた頃である。《百物語》、《富嶽三十六景》、《諸国瀧廻り》、《諸国名橋奇覧》などのシリーズがそれである。北斎は、実景を見ないで絵を構成していたようで、《富嶽三十六景 甲州 三坂水面》に映る富士山は位置がヘンであり、夏なのに雪を頂いている。また、《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》のような時化の時に、舟を出すはずがない。北斎は花鳥画の錦絵も描いており、《朝顔に蛙》では蛙を探してみてほしい。

10.歌川広重: 本名は安藤広重で、歌川広重はいわばペンネーム。北斎と違い、広重はその辺にありそうなババくさい風景を叙情的に描いている。すべて初摺とはいえないが、きわめて早い時期の摺りのものが揃っている。《東海道五十三次 蒲原》ではこのような大雪は降らないのだが、広重はシリーズに変化をつけるために雪景色を描いた。《東海道五十三駅続画》は《東海道五十三次》のすべての絵を張った贅沢なもので、貴重なもの。《木曽海道六十九次之内》も出ているが、広重は実景を描いたのではなく、当時のガイドブックを参考にして描いた。《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》はゴッホが模写した有名な絵で、上部に黒のぼかしが入っているが、絵師はぼかしを入れることを指示するだけで、作業は摺師に一任された。《名所江戸百景 真間の紅葉手古那の社継はし》のような極端な遠近法を取り入れたのは、かなり晩年になってからである。広重の武者画は風景画の中に人が描かれているだけといった感じで、今回出ている歌川国芳の武者絵に及ばない。

(2007年10月9日)

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パルマ イタリア芸術の都 もう一つのルネサンス

 新日曜美術館ーメモ

文 責: とら(美術散歩)

 今朝の新日曜美術館は素晴らしい番組だった。そこで、夜に再放送を聞きなおしメモを取った。ゲストには、今回のパルマ展を企画した国立西洋美術館のキュレーターの他に、声楽家の秋川雅史氏が出演しておられ、途中に会場からストラデッラの《教会のアリア》を熱唱された。

1.コレッジョ: パルマ大聖堂の大クーポラの天井画《聖母被昇天》↓には、キリストが降りてきてマリアを迎え、アダムやエヴァその他大勢の人物↓↓が描かれている。下から見上げると非常に立体的に感じられる。


 この傑作を描いたコレッジョは、コレッジョという小さな町に生まれた。当時、フィレンツェでは、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロが活躍していた。彼の描いた《聖カタリナの神秘の結婚》にはレオナルドのような「ぼかし」が入っている。↓

 コレッジョはその後パルマに出て、サン・ジョヴァンニ聖堂の天井画《聖ヨハネの彼岸への旅立ち》を描いたが、これは建築空間を絵画空間に変えるようなものであった。その画は優美でやさしく、音楽が聞こえてくるように神聖で、フレスコ画こそコレッジョの本領を発揮するものであることを示した。↓

 パルマ国立美術館に所蔵されている《4聖人の殉教》は聖フラビアを描いたものであるが、この画は今回出展されている《キリスト哀悼》と対をなすものである。対面の窓からそれぞれ反対側に掛けられた画に光が当たるようにされており、《キリスト哀悼》ではキリストの体がとくに明るくなっている。

 《幼児キリストを礼拝する聖母》の色彩は素晴らしい。これは、コレッジョがローマに出かけてラファエロの画やシスティーナ聖堂をみて学んだ成果であるが、ヴァザーリは美術家列伝の中で、「コレッジョはデザインには問題があるが、色彩表現については彼の右にでるものはいない」と述べている。
 
2.パルミジャニーノ: 今回出展されている《ルクレティア》を観ると、髪飾りや毛髪が極端に細かく描かれていることが分かる。この画の背景は黒で劇的な効果を高めている。パルミジャニーノの有名な《長い首の聖母》では、人物は長く引き伸ばされ、S字形の曲線を描いている。↓

 これはマニエリスムと呼ばれる手法であるが、《凸面鏡の自画像》を見ても自分の美意識にこだわるという傾向が現れている。↓

 パルミジャニーノは若い頃コレッジョの影響を受け、コレッジョもパルミジアーノを買っていたようである。実際にサン・ジョバンニ聖堂には、パルミジアーノの壁画も残っている。馬の脚など壁面から飛び出しているように見えるほど巧い。幼児の壁画はコレジョもパルミジャニーノも描いているが、前者がかわいいだけの幼子であるのに、後者には自我のようなものさえ表現されている。

 その後パルミジャニーノはローマへと旅立つ。その途中のフォンタネラートという小さな町のサン・ヴィターレ城で、天井画《ディアナとアクタイオン》を40日間で描いている。↓

 この画は、緑の蔦、果物や花、大勢の天の子、古代彫刻像で構成されているが、コレッジョが女子修道院の小部屋に描いた16分割の天井画↓にみられる緑の蔦、天の子たち、ギリシャ神話と酷似している。しかしパルミジャニーノの《ディアナとアクタイオン》の人物には、伸張、曲線といったマニエリスムの特徴がすでに現れている。

 コレッジョの画は、官能的で、肉体を自然にみられるままに描いているが、パルミジャニーノの画は、知的で、エレガントであり、彫像のように冷たい。すなわち自己の美意識を主張しているのである。パルマを離れて15年後に、ステッカータ聖堂で描いた天井アーチの乙女たちのエレガントさは、マニエリスムそのものである。この聖堂の祭壇の右には竪琴を持った《ダヴィデ》が掛かっており、左側には今回出展されている《聖チェチリア》が掛かっていた。アーチから手が飛び出している迫力のある画である。両者音楽に関係がある画で、パイプオルガンの扉絵だったとのことである。このように音楽の話題となったところで前述のアリアの独唱があった。

3.パルメーゼ家: パルマは生ハム(プロシュット)でも有名であるが、財力を蓄えたのはチーズ(パルミジャーノ・レッジャーノ)の独占的販売。公爵家は藝術・美術に関心が深く、「ピロッタ宮殿」の中には木製のパルメーゼ劇場が初めて創られ、初代の教皇パウルス3世はミケランジェロにシスティーナの天井画を描かせたことで知られている。2代目のオータヴィオ公爵はその「庭園宮殿」の装飾をジオラーモ・ミロラやヤコブ・ベルトーヤのようなマニエリスムの画家たちに任せた。「接吻の間」の壁画などがその成果である。

4.パルマ派の黄金時代: パルマ国立美術館には、パルマの黄金時代の傑作が残っている。アンニバーレ・カラッチの《キリストとカナンの女》は光と影のバランスを巧く使っている。彼の画の光の効果や影の描き方は独特なもので、カラバッジョの一方向からだけの光とは明らかに違っている。スケドーニの《キリストの墓の前のマリアたち》は素晴らしい画である。マリアたちの心理的なインパクトが衣服の質感に内蔵されている。色彩のグラデーションと強い陰影によって、時間が止まったような劇的な瞬間が切り取られている。

5・まとめ: コレジョはラファエッロと並び称されるルネサンスの大画家であるが、パルマ派全体を見ていかないと17世紀、18世紀への西洋美術史が繋がらない。パルマ派はルネサンス以降の美術史の大きな潮流の役割を果たしていたのである。

(2007年6月24日)

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ロシア絵画の歴史

 東京都美術館講演会ーメモ

 演者: ウラジミール・グーセフ(国立ロシア美術館長)

文 責: とら(美術散歩)

1.講演者の紹介: 1945年生れ、1969年ペテルブルグ美術アカデミー入学、美術史専門
 
2. 国立ロシア美術館の紹介: 110年前に、ニコライ2世が設立、父親のアレクサンドル3世に捧げた。ミハエル大公の宮殿(ミハイロフスキー宮殿)を中心に、ストガノフ宮殿、マーブル宮殿、ミハエイロフスキー城の4箇所が美術館となっており、合計面積はヴァチカン市国に匹敵する。


3. 宗教画: 9-10世紀にビザンチンからロシア正教を導入した時に発するイコンで、ギリシャの影響を受けているが、次第にロシア的になり、絵具が作られる土壌が地域によって異なるため、地域によって異なる色合いとなっている。15世紀までは画家の名を書くことは罪となるため不明であるが、それ以後には有名イコン画家の名前も残っている。


4. 古典主義
1) 肖像画:18世紀のピョートル大帝は文化的にヨーロッパに遅れていたロシアの改革に取り組み、ヨーロッパから画家を呼び、またロシアの画家を留学させた。その結果、人間を画の対象とする時代となった。イコンのような定められた規則から離れられたので、ロシアの肖像画にもヨーロッパにひけをとらないものが出てきた。一方、ピョートルは服装までもヨーロッパ化したので、伝統的な服装が失われたことは残念なことであった。


2) 風景画:ピョートルの時代には、サンクト・ペテルブルグの建設などが描かれている。エカテリーナ2世の時代は、啓蒙主義の時代と呼ばれ、教育や法律の整備が進んだが、彼女の肖像画のなかには、時代を反映して貿易船などが描きこまれている。


5. ロマン主義: 帝国美術アカデミーが創立され、ロシア人画家はイタリアに留学したが、自分たちでは独自の絵画を描きたいと思っていた。シェドリンは、近景は茶色、中景色は緑色、遠景は青色という古典絵画の決まりごとを無視した作品を作った。スプリンスキーはロマン主義的な画を描いている。


6. センチメンタリズム:通常の人を描きたいという流れはセンチメンタリズムと呼ばれる。ヴェネツィアーノフの《穀物の倉庫》は一般人をモデルに使い、光をとらえて描いた。遠近法も良い。農奴であったストローカは素晴らしい風景画を描いたが、主人にいじめられ自殺に追い込まれた。有名な《民衆の前に現れるキリスト》はトレチャコフ美術館の所蔵であるが、ロシア美術館にも習作が残っている。この画には赤い服を着たニコライ・ゴーゴリも描かれているが、その趣旨は荒野をさまよって民衆の前にあらわれたキリストによってすべての人が救われるということであるが、これを信じない人、不快を表現する人、キリストの出現にまだ気付いていない人などが描き分けられている。


7. 画家各論
1) アイヴァゾフスキー: 日本でも有名な海景画家である。記憶に基づいて描いた画家である。北斎の富嶽三十六景に通じるものがある。今回出展されている《アイヤ岬の嵐》はトテモ重要な作品であるし、画家名も作品名もAなのでロシア美術館の所蔵作品リストのトップに来ている。


2) ペートロフ: 賭博で金を無くした将校が、地位をほしがる商人の娘と結婚する状景のような社会批判画をかいているが、これは文学におけるドフトエフスキーやゴーゴリに対応するものである。


3) クラムスコイ: 美術アカデミーに対抗し、14人の同士と移動派を結成し、地方で展覧会を開いた。彼は写真屋の助手をしていたこともあって、写真に匹敵するような精密描写を得意とした。


4) イリア・レーピン: もっとも偉大な画家といわれ、もっとも偉大な文学者である《トルストイの肖像》を描いた。この画ではトルストイは裸足であることに留意してほしい。《ボルガの船曳き》の労働者は決して抑圧された奴隷階級の男たちではなく、自由人である。賃金をもらっても、すぐに酒に費ってしまって、もとの重労働にもどっていた。レーピンはこのような社会問題の批判をしたのである。彼の描いた《国家評議会会議》では政治家の序列に従って並んでいるところを描いているが、皇帝は遠くに坐っているため、遠近法にしたがって小さく描かれている。これらの人々は、いずれにせよテロリズムによって殺される運命にある。


5) シーシキン: 写実的な精密画を描いている。


7.モダニズム: モダニズムの芸術になると一気に描こうとするようになり、ロシア・アヴァンギャルドでは、新しい形を見つけることが重要になり、古代ロシア、日本の浮世絵、アフリカ美術を参考にするようになる。その中で、チローノフは、植物のように育っていく絵画を描き、シャガールは子供の心を失わず、カンディンスキーは抽象絵画、マレービッチは《黒い四角》にみられるようなイコンのような画に回帰した。


(2007年4月28日)

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近世風俗画から肉筆浮世絵へ

 塩とたばこ博物館講演会ーメモ

 演者: 田沢裕賀 (東京国立博物館 研究員)

文 責: とら(美術散歩)

(総論)
1.近世とは:
洛中洛外図が描かれ始めた室町時代の16世紀前半から明暦の大火のあった17世紀半ばまでをいう。

2.技法からみた分類

 1)風俗画とは、屏風や障壁画などの大画面の肉筆画。


 2)浮世絵には、版画と肉筆画がある。前者は何枚も摺れるが、後者は一枚ものであり、掛軸・絵巻・屏風の形態をとる。

3.主題から見た分類
 1)「初期の風俗画」の場合には、風俗は絵巻などの主題の一部として描かれている。具体的には、「名所絵」は、寺社、霊地、歌枕を主題としており、洛中洛外図がその代表的なものである。「月次絵」は年中行事、「祭礼図」は日吉山王や祇園の祭礼を描いたものである。「特定の出来事の記録」としては、秀吉の吉野の花見や秀吉が亡くなる年の醍醐の花見などがある。


 2)「肉筆浮世絵」については、「名所絵」とは上野浅草や吉原・歌舞伎町といった新興地が描かれている。「月次絵」は年中行事である。その他に「物語絵」、「美人画」があり、「役者絵」は家康が将軍になった慶長8年に出雲の阿国が歌舞伎踊りをおどって以降のものである。


 3)江戸初期の風俗画については、名所絵から2大悪所がある四条河原図となり、さらにこれが二大悪所を描くものとなっていく。「洛中洛外図」の洛は洛陽をもじった京都のことであり、100点以上の「洛中洛外図」が残っている。「洛中洛外図」は向かい合わせに置いて、その間に坐って楽しんだものである。「四条河原図屏風」には南座のあった鴨川周辺と遊郭のあった「六条三筋町」が描かれる。「阿国歌舞伎図屏風」では寸法が小さな絵となっている。「野外・邸内遊楽図屏風」も数多く描かれている。「岩佐又兵衛」は、謀反の罪に問われた荒木村重の息子であるが、死罪を免れて絵師となった。彼は福井と江戸で活躍し「風俗画から浮世絵への橋渡し」の役を果たした。「寛文美人図」は小ぶりの掛軸であるが、一人立の美人画であって、肉筆浮世絵に連なるものである。菱川師宣は肉筆浮世絵の祖であり、遊里や歌舞伎を主題とした「北楼演劇図鑑」などを描いている。


(各論)
1.浮世絵:北斎の富嶽三十六景、広重の亀戸梅屋敷が版画の代表作であり、肉筆浮世絵の代表作は菱川師宣の見返り美人図である。


2.洛中洛外図:上杉本は信長が謙信に贈ったものである。季節の流れを表しており、拡大してみると風呂、遊女の客引き、秀吉と北の方の醍醐の花見などが描かれているのが分かる。


3.国宝「花下遊楽図」:狩野長信の作。関東大震災の際に一部が失われているが、残った部分には八角堂、男装姿の出雲阿国や見物の女性などが描かれている。


4.四条河原図屏風・阿国歌舞伎図屏風:豊臣方の方広寺と徳川方の二条城を対応するものとして描いた屏風がある。二条城の周辺には四条河原と六条三筋町が描かれている。池田家に伝わった岡山本の中には、三筋町の様子が詳しく描かれており、南蛮渡りの三味線も見られる。四条河原には阿国以外にも遊女の歌舞伎を描いたものがあり、さらに相撲、風呂、野糞なども描かれている。


5.邸内遊楽図:尾張徳川家ゆかりの寺院の《遊楽図屏風(相応寺屏風)》には、かぶき者、喧嘩、うどんのような屋外の遊楽図だけでなく、双六、かるた、風呂といった邸内の遊楽図も登場してきている。さらに塩とたばこの博物館所蔵のものには、坊主、インチキ双六、将棋などが見られる。坊主などは、カット集にもとづいておなじ図像が描かれている。カット集ができたのは、それほど需要があったからだろう。尺八を吹く人、徳利を持つ人にも同じ絵柄のものがある。


6.岩佐又兵衛:又兵衛には団扇に張りつけたような画があるが、これには人物のみが描かれている。又兵衛は中国古典に精通していたようで、和漢を対比した画が少なくない。


7.寛文美人図:今回塩とたばこの博物館に展示されている作品の中に、光琳ゆかりの小西家に下絵が存在しているものがあるが、その中には寛文美人図的な女性が描かれており、この頃には「人を鑑賞の対象とする」ようになってきたことが分かる。


8.彦根屏風:右隻は室外、左隻は室内の情景で、京都で描かれたものであるが、「三味線の音合わせ」など繊細な表現が見られ、かなり優れた画家が描いたものと思われる。


9.肉筆浮世絵:菱川師宣、宮川長春の絵などが供覧され、細かな説明があった。


(結論)
このように古い風俗絵巻などでは添物であった風俗、とくに人物が次第に独立した画題となって肉筆浮世絵に移行していったのである。

(2007年4月22日)

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奇跡のエンターテイメント 国宝「信貴山縁起」の大宇宙

 ハイビジョン特集ーメモ

文 責: とら(美術散歩)

第1巻 飛倉の巻(山崎長者の巻)
(ストーリー)
僧の托鉢に供物を捧げることをケチった山崎の長者は鉢を倉の中に隠してしまった。すると鉢が動き出し、倉全体が揺れて、突風に乗って鉢ごと飛んでいく。それを見る野次馬。そして馬に乗っての追跡劇。その向こうには信貴山。「飛鉢の法」を使う「命蓮(みょうれん)上人」の庵には黄金の鉢が置かれている。上人に許しを乞うたところ、倉の返却は断られたが、米俵は返してもらえることとなった。上人がこの鉢の上に一俵の米俵を乗せさせると、沢山の米俵がドンドン山を越えて飛んでいく。奈良の鹿もこれを見上げてビックリ。長者の屋敷では子供たちが手習いをしている。そこへ米俵が戻ってきたので女たちが騒ぎだした。アリガタヤ・アリガタヤ。


(エンターテイメント)
人の動き、倉や米俵が飛んでいくところが絵巻とともに動画で示される。とても楽しめる。


(セリフ付け長い絵巻のコピーの上に大勢の小学生が乗っている。それぞれが登場人物がしゃべっていると思う言葉を色紙に書いて、噴出しのように登場人物の口に貼り付けている。この噴出しの言葉には傑作が多い。小学生もこの絵巻を大いにエンジョイしていた。


(マンガ・コラムニスト夏目氏の解説)
一番右の2人の人物はつま先立ちして覗き込んでいるが、彼らの視線が絵巻を読む方向となる。女の顔を品定めしている男のところでその方向は斜め左下に変わるが、その女の視線の先に鉢が置かれている。このように作者は鑑賞者を巧みに誘導している。


(ウンチク)
1.信貴山には銅の托鉢が残っている。2.山にこもって力を得るという山岳密教には「飛鉢伝説」が伝わっている。3.青蓮院には飛鉢に関する2冊の古文書が残っているが、これによると飛鉢の法を得るには断食・断水・不眠・不臥を続けて龍を呼び、この龍の頭に鉢を乗せて飛び回らせるのであるという。4.信貴山には「命蓮上人像」が残っているが、この画では上空に龍が舞っており、その頭上には鉢が乗っている。5.この絵巻に龍が描かれていないのは、眼に見えない力を強調しているのである。


(再び夏目氏の感想)世俗的でドラマチックなエンターテイメント。ワクワクするような絵で、人々の心をつかむ。この絵描きに挨拶するなら「イェイ」、音楽を流すならロックンロール。

 

第2巻 延喜加持の巻
(ストーリー)平安時代の醍醐天皇が重い病に罹る。僧が祈祷に向かい、町は噂が飛びかう。普通の祈祷では効果が得られぬので、馬に乗った役人が高僧を探しに奈良の信貴山に向かう。役人は秋の山には目もくれず山頂の命蓮上人の庵に達する。上人のお出ましを願うが、上人は自分の代わりに「剣の護法」という少年を派遣する。場面変わって、こちらは京の清涼殿。役人が重臣に事の次第を報告。3日後にキラキラ光るものが帝の夢の中に現れ、風が吹き抜けて重病が治ってしまった。絵巻では剣を沢山身につけた「剣の護法」という少年が、信貴山から雲に乗り、「輪法」という輪を転がしながら清涼殿に降りてきて、風を御簾の下に送っている。治ってよかったと話し合う女性の周囲には紅葉が色づいている。褒美として位を望むか、領地を望むかと聞かれた上人は「わずらわしいものは何も入らぬ」と答えたという。アリガタヤ・アリガタヤ。


(小山聡子先生のウンチク)
剣の護法のモデルとしては、滋賀県西明寺の不動明王の脇侍の矜羯羅童子、制た迦童子のような童子像が考えられる。末法の時代には人は穢れているので仏の救いはないが、子供は穢れを嫌わず救いにきてくれる。


(森村泰昌のウンチク)子供のときから慣れ親しんだ大阪・四天王寺に輪法がある。仏の教えが拡がっていくことの象徴である。


(エンターテイメント)2006年5月29日に森村泰昌を中心に「剣の護法」プロジェクトチームを結成。音は「内側からやってくる音」が無垢な心の響きとしてよいということになった。7月9日に映像収録を開始した。森村泰康昌は子供になりきるために膝や頬に紅をさし、沢山の剣をつけて、紐で吊られて演技をした。実際の映像では、絵の右側に小さな炎が上がり、小さな少年像が出現する。そしてこの炎と少年がだんだん絵の中央から左側に出現するようになる。山の上で小さな「剣の護法」となった少年は右方向に戻り、突然森村が扮装した等身大の「剣の護法」となって絵から飛び出して演技し、最後はふたたび小さくなって絵の右側に降りてくる。

 

第3巻 尼公の巻
(ストーリー)命蓮上人は信濃の国の出身であるが、20年前に奈良の東大寺で受戒するためと別れた上人を、姉の尼公が探す巡礼の旅の物語。従者を連れ、馬に乗って旅する尼公。奈良につき東大寺・興福寺の辺りで「命蓮小院(こいん、小僧のこと)を知らないか」と尋ねるが、このように古いことを知っている人はいない。尋ねあぐねた尼公は東大寺に参籠、大仏の前で徹夜の勤行をつとめた。絵巻には祈るだけでなく、横たわっている姿もある。これは夢の中で仏のお告げを聞く(夢見する)様子である。絵巻はこの夜を異時同図法で描いている。仏のお告げは「ここから西の方、南に寄って、未申の方角の山、紫の雲のたなびくところ」。「早く朝になれ」とあたりを見回す尼公。そして信貴山に出発。山のお堂の中に人の気配がしたので、「小院はお出でか」と尋ねると上人が顔を出し、念願の再会を果たす。二人は積もる話を交わし、尼公は衲(たい)という自分が太い糸で縫った衣を上人に渡す。今まで紙の衣しかなく寒かった上人は、衲を衣の下に着けて破れるまで使った。尼公も信濃に帰らず、仏の道にいそしんだ。信貴山はこのように霊験あらたかな巡礼地である。アリガタヤ・アリガタヤ。


(宗教学者山折氏らのウンチク)1.これは庶民の寺参りの願望を尼公を借りて表したもの。2.長野善光寺では朝のお勤めには尼も加わる。3.命蓮上人の塚のすぐそばに質素な尼公の塚もある。4.飛倉の中に破れた衲の残りが保存されており、昔はこれを切り取ってお守りにしていた。


(エンターテイメント)
尼公に扮した女優「白石加代子」が詩人「高橋睦郎」の台本を朗読し、演技しながら巡礼を進めていく。この台本は絵巻の詞書にあたるもので、全体としては紙芝居のような雰囲気をかもし出す。これもとても面白かった。

まとめ 独創的な奇跡の物語絵巻に、新しい映像技術と現代アートが加わった素晴らしいエンターテイメント作品である。


(2007年1月2日)

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美術講演会 2006

M.C.エッシャーの絵画と錯視構造

 国学院大学若木タワー竣工記念美術講演会ーメモ


演 者:木原俊介(共立女子大学)
コメンテーター:宮下誠(國學院大学)
司会:小池久子(國學院大学)

文 責: とら(美術散歩)

1. 技術の表現における心理学的アプローチ:

 「美術史の学者は宗教や心理学に近寄るべきではない」との教訓があるが、エッシャーの場合には「心理学」を無視するわけにはいかない。「描くのは知っているものであって、見ているものを描くのではない」という言葉があるが、これは「見たいように描く」ということでもあり、これはエッシャーにも当てはまる。


2. 錯視構造について: 

 錯視構造とはillusion systemの訳である。illusionを「幻影」と訳す場合があるが、具合が悪い。ラテン語でil-lu-doreとは「遊び」であり、illusion systemとは「遊びの世界」なのである。

 エッシャーの画には1つの画に2つの形態を組み込んでいるものがあるが、これは人間が同時に2つの形態を認識できないことを利用した「遊び」である。また立方体を描く場合、辺の描きこみ方によって、画像全体のイメージが大きく異なってくることも応用している。

 「物質が生命を生み、生命が精神を生み出す」という言葉があるが、ホイジンガーが人間をhomo lu-densと呼んだのは、生命体が「遊び(lu)の精神」を得たことによってはじめて人間となりえたことを意味している。


3. 版画の基本的な問題について:
 

 画の発展過程を辿ると、点・線・面の組み合せにはじまり、これに陰影法が加わり、さらに遠近法が加わっている。

 エッシャーの父は港湾技術者で明治6年から5年間滞日している。彼が作った福井県の三国港は九頭竜川の土砂によって使われなくなったが、「遊び心」で作ったドーム建築の小学校が今も記念館として残っている。


 エッシャーは生活の糧を父の資力に負っていたが、父から「おまえは壁紙でも作っているのか」といわれたという。

 実際問題として版画家だったエッシャーは、世界を二次元的に見ざるをえなかった。彼は、物体を表裏・左右・上下という対立(ボードレールの照合という言葉に相当)したものとして見ていたのである。


 凸版では、版木と版画は逆転しており、一方エッチングは凹版で逆転していない。すなわち凸版と凹版の絵画は鏡像となる。このことからエッシャーは鏡にひきつけられていった。版画では図像と地が簡単にに逆転される。エッシャーはこのような世界に住んでいたといえる。


4. トリッック・アートについて:

 永久運動を錯覚させる画、「山上の旅人が麓の宿の女性のタバコに火をつける」画(ホガースの作品、ホックニーのパラフレーズ)、ペンロースの「不思議な悪魔の三角形」、ギリシャのディオニソスの皿における黒絵式図像と赤絵式図像の逆転など、トリック・アートの歴史は長い。

 エッシャーの版画では、図と地が交錯している。さらに明暗も交錯し対比されている。《アマルファーの階段》・《昼と夜》がその好例である。光は上から当たるので、光と影との上下関係も重要である。


5. 平面の正則分割:
 

 「正則分割」とは分かりにくい日本語だが、英語ではregular division of the planeと平易な言葉である。

 エッシャーは、ムーア人の作ったアルハンブラ宮殿のタイルにみられる幾何学模様を参考にし、これに現実的な姿すなわち具象的形態をはめこむことを考えついた。このように抽象形態からシステムを学んだものの、具象的なものを組み込むためには、エッシャーの努力と思考力が必要だった。


 エッシャーの「見たいものを描きたい」という精神は、「無限」という壁に突き当たる。彼はこの無限性・永遠性という概念をその対極にある「限定空間」に閉じ込めることを試みた。具体的には、画の辺縁に行くほど図像を小さく (最小2mm)していくのである。

 彼はこのために非常に精緻な幾何学的研究を行っているが、その過程はエッッシャー・ノートに残っている。「霊魂の復活」ともいわれるトカゲの永久運動、騎士のトリック、さらに「メビウスの環」なども無限性の表現の典型である。


6. 立体表現について: 

 エッシャーはイタリア旅行によって平面的なオランダとはまったく異なる立体的な風景を見て大きな衝撃を受けた。そして理想的景観(トポスあるいはユートピア)を意識したと考えられる。そしてこれが彼の正則分割を立体に向わせたのである。ちなみに「ユー=eu」とは「気持ちがよい」とのことであり、euphonyとは気持ちのよい音楽、euphoriaとは幸福感である。


 耳きり事件以後の唯一のゴッホ自画像は鏡を見て描いているので、切った左耳は右側に描かれている。版画の場合にはこれが逆転する。球面体に写ったエッシャーの自画像では、筆は左手、パレットは右手に持っているが、これはエッシャーが左利きだったからである。

 球面体は自分のみならずその周囲も写すが、その裏面は見えず隠れた世界となる。イメージが辺縁に向ってだんだん小さくなっていく円形の絵画は球面体の表現であるともいえる。


7. ユートピアの表現に向って:

 しかしエッシャーのイタリア風景はこのようには表現されてはいない。一方、イスラムのモスクのドームは、半円形の理想の空間であり、神が現れる場所となっている。このようにユートピアとしては一定のレトリックで規定された世界が必要である。

 ローマのサンクレメンテ教会のキリストの磔刑図に見られる唐草模様の中には、そのよう「メディコスモス」が残されている。これは楕円形の渦巻状のものであるが、そこはこの空間でしかエピファニーが起こりえないトポスなのである。背景のゴルゴダの丘が暗黒とすれば、その反対の真昼すなわちエピファニーの世界である。

 エッシャーは球面体のこのような力に気付きながら道半ばで死んでしまった。裏から見た球面体になぜ気付いてくれなかったのかと思う。

 エッシャーの世界は、同じものを繰り返す「異形の世界」である。最近の新しいエッシャー論にはついていけないが、自分としては「トポスあるいはユートピアの中にエッシャーの美が表現される」と思う。


(2006年11月11日)

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山口晃と歩く東大界隈

 東京大学出版会「山口晃が描く東京風景ー本郷東大風景」刊行記念講演会(山口晃氏講演)メモ

 丸善本店3階の日経セミナールームに聴講に行った。同行者はTakさん、Yukiさん、はろるどさん、Lysanderさん、さちえさん。
 山口晃の作品は埼玉県立近代美術館の「木村直道+遊びの美術」展で「歌謡ショウ図」を観たことがあるが、どういう人なのかはまったく知らなかったのでちょうど良い機会だった。

 「山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈」という本を売り場で買って講演会場に入った。1969年生まれの溌剌とした男性。彼の作品と写真による実景が交互に映し出されていくなか、ホワイト・ボードに漫画をすばやく描きながらアドリブの効いた話が進んでいく。

 まず山口の出身校である東京芸大と今回の名所図畫の対象となった東大との関係について一くさり。東京芸大は上野の山、東大は不忍通りを谷としてこれに対面する本郷台にある。上野の山に立てこもった彰義隊は、本郷台から飛んでくる大村益次郎の大砲の弾にあえなく敗残した。予算の上からも芸大と東大は雲泥の差である。


 以下、山口晃の画を参照しながら、講演の内容を記載した。画の説明や感想は一部私が補足した。後での質疑応答の中で、山口は実景を見て書くことは少なく、実景とイメージの間に一定の距離を置いていること、原画は出版されたポストカードよりひとまわり大きい程度であるとの答えがあった。また気合の入れ方によってでき不出来があるとの正直な話もあった。


山口晃:赤門ー販促カード1. 赤門:奥さんに聞いたところ赤門というと雷門をイメージするということで「帝国大学」という赤提灯のぶら下がった門になった。明治の中ごろまで、赤門に「帝国大学」という看板がかかっていたとのことである。門から出てくるのは袴をはいた東大生。(スタートの画だけに良く考えてある。)


2. 百万石:東大脇の立派な料亭。一度入ってみたい。画には駕籠で送られてきた高級武士が入っていく。その向うには現代の人々が描かれている。(これも出来が良い。)


3. 旧発電所:
実景を見ないで写真をもとに描いた。現在は塀で囲まれていて近づけない。いろいろなものが散在している。東大という所は形態にムトンチャクである。廃墟のような画となった。(面白みにかける。)


4. 教授の部屋:法文二号館の木庭顕教授室。ローマ史専門。廊下にあった面白い流し、木彫りの熊などは実際にはなかったもの。木庭教授曰く「短時間だったのによくここまで観察された」とのこと。(最高傑作)


5. 工学部上部建増し:2005年に旧建築を保存したままその上に作った不思議な建造物。V字形の柱で支えられている。専門家が考えたのだからいいのでしょうがとの皮肉。(アイディアとても良。)


6. 三四郎池:有名スポット。猫を一匹描き込んだ。(名所絵葉書のようでツマラナイ。)


7. 七徳堂:
屋根は瓦なのに下部はコンクリートという帝冠様式が面白かった。中は柔道場・剣道場などに使われている。(おもしろい。)


8. 法文2号館地下街:
実際にある地下のショッピング・センターの下に電車を走らせて見た。地下には「メトロ」という喫茶店はあるが、地下鉄は想像の産物。芸大に通っていた時、上野から大学まで電車があれば!と夢想していた。 (傑作)


9. アルムな場所:
実験用の山羊の小屋。とても面白く内部の写真もよく撮れている。(傑作)


10. 仮設の庇:
面白い風景なので描いてみた。写真を見ると別な角度から描いたほうが良かったようだ。(なかなか)


11. ビヤホール化計画:
理学部2号館横のトテモ味けない場所。ここの建物の形態だけを利用して、想像上のビヤホールを作ってみた。提案の意味をこめて描いてみた。(実景との落差最大の傑作)


12. 東大タワー:山の上に建っている赤い鉄塔ははっとするほど美しい。そういうおもいで東大タワーを描いてみた。航空法の制約についても考えて描いた。(面白くない)


13. ラテンな清掃員:
見たことはないが確かに存在したという目撃情報があった人物像。工学部と法文の間を行き来しているらしい。ユニークな帽子が描けた。日中の姿と帰るときの意気揚揚とした姿の差を描いた。(大傑作)


14. 秘密の花園:
病院の駐車場入口の守衛さんが丹精している植物たち。ペットボトル・ポット・電話機・ボーリングのトロフィーなど廃品の利用がとても面白いため気合が入った。「亜麻李李簀」という字が気にいった。ある程度の教養がある人に違いない。(アイディア倒れ?)


15. 謎の建物:
大講堂南側。(ひどくつまらない画。失礼!)


山口晃:外階段ー署名入り16. 外階段:附属病院第一研究棟。その横にとっても怖い所があった。(この画に署名をもらった。理由:この場所を知っていたから。)


17. S坂:根津神社の脇。隣は毎日新聞の寮。権現坂だが森鴎外はS坂と呼んでいた。実景とはちょっと違っている。(努力賞)


18. 環境安全センター:
窓の相互の角度が面白かった。これは実景そのままで、外階段が目立つ。(この場所もよく通った。)


19. 第2食堂前ロータリー:
ロータリーの左側に変な建物を描きこんでみた。(おもしろくない。)


20. 東京大学出版会:
今回の出版元に敬意を表して気合を入れて描いた(?)。がけっぷちにたっている。もちろん地理的な表現であるが。(やむをえず描いたためか、良くない)


21. 旧診療棟グレーゾーン:
文字通り灰色の建物。屋上にペントハウスがあったので、これをちょっと変えて緑の銅屋根としてみた。(異様な迫力)


22. レッテルの店:
「両山堂」。どうみても写真の実景に負けている。(本人の言うとおりうまくない。)


23. 本郷館:見学禁止なので外観のみ。3階を4階にして描いた。味のある建物。(そこそこ)


24. 安田講堂:建物の上に幟や大砲を書き込んだ。正面に小競り合いを描きこもうとも思ったが自制した。(その通り、迫力不足)


(2006年11月4日)

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新版画と川瀬巴水の魅力

 ニューオータニ美術館講演会(渡辺章一郎氏講演)メモ

合計111枚の版画や写真をパワーポイントで示しながら、渡辺庄三郎の孫の章一郎氏が90分間流れるような講演をされた。下記はその一部であり、川瀬巴水の作品解説は省いてある。終わって質疑応答が20分以上あったのも例外的であり、版画愛好者の多いことが実感された。

1. 渡辺版画店
 明治になり、日露戦争の頃には伝統的な浮世絵は半減してしまった。これを憂えた渡辺庄三郎は1906年に浮世絵の復刻を始めた。外国人をおもな顧客とし、その好みに合わせたサイズのものとした。
 さらに渡辺は同じ技法を用いて「新作版画」を作成することにした。従来どおり、絵師・彫師・摺師・版元の協力によるものだが、芸術性の高いものをめざし、従来よりも摺作数を多くした。しかしこれらは内容的には浮世絵風のもので、もっぱら輸出用であった。外人に受ける伝統的な絵柄が多く、小原祥邨が≪雪柳にカラス≫を描いているのはカラスが利口な鳥として外人に人気があるからであった。

2. 初期の「創作版画」
 山本 鼎の≪漁夫≫に始まり、戸雁松亭、恩地孝四郎らが自画・自刻・自摺のオリジナリティーの高い版画を創作しだした。

3. 外国人の浮世絵師
 ジャポニスムの影響を受けた外人が来日し、渡辺のもとで浮世絵を制作するようになった。オーストリア人カペラリー、イギリス人バートレットの作品は、その経済力をつぎ込んだ素晴らしい版画であった。カペラリーは≪雨中女学生の帰路の図≫を制作し、渡辺に木版画の伝統的技法を用いて時代に即した版画を作ることができることを説いた。

4. 初期の「新版画」
 このような新版画を制作するという渡辺の要請に最初に応じた画家は橋口五葉である。≪浴場の女≫、≪髪梳る女≫は有名である。彼は後に独自の工房を持ったが、41歳で夭折した。鏑木清方門下の伊東深水、川瀬巴水、さらに吉田博が新版画の運動に加わった。伊東深水の≪対鏡≫は有名である。山村耕花は大正の写楽といわれる誇張した絵をかいた。川瀬巴水の≪塩原おかね路≫はその第1作であり、≪東京十二ヶ月三十間堀の暮雪≫では巴水が描き終わるまで渡辺が傘をさしかけていたとされる。吉田博は洋画もこなし、≪穂高山≫のようなアルプスの版画もある。

5. 昭和期の「創作版画」
 前川千帆の≪地下鉄≫、恩地孝四郎の≪東京駅口≫、元締めと呼ばれた深沢索一の≪神宮球場早慶戦ノ日≫、藤森静雄の≪夜の銀座≫など時代にあった画題や技法の創作版画は国内の評論家には評判が良かったが、国内外を通じて売れ行きが良くなかった。

6. 関東大震災後の「新版画」
 1923年の大震災により東京にあった浮世絵や版木がほとんど失われ、経済的苦境に立った渡辺は「売れ筋商品」の製作に眼目を置かざるをえなくなった。川瀬巴水の≪芝増上寺≫、≪馬込の月≫、伊東深水の≪眉黒≫、≪吹雪≫はこの頃の作品である。
 巴水と深水は仲がよかった。巴水は酒好き・女嫌い、深水は女好き・酒嫌いであったが、ウマがあったらしい。深水の娘の朝丘雪路は川瀬巴水のことを「タコのオジサン」と呼んでいたとのことである。
 川瀬には渡辺版以外の作品もあるが、酒井川口版が明らかに派手であるが、その他の土居版、芳寿堂版は渡辺版とほぼ同様である。
 戦火の迫る1935年以降には、輸出の激減、国内販売の減少により新版画もほとんど売れなくなってしまった。

7. 第二次大戦後
 進駐軍兵士のなかに版画を求めるものが多く、一時的に版画業界は盛り返した。現代版画と新版画の融合も計られたが一時的なもので終わった。現代の「創作版画」には畦地梅太郎の≪助かった鳥≫、斉藤清の≪会津の冬≫、池上壮豊のシルクスクリーン≪赤富士 翔≫、藤田不美夫の≪早春の川岸≫など素晴らしいものが多い。


(2006年8月5日)

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カミーユ・クローデルとイタリアー伝統と美術

 府中市美術館講演会(上村清雄氏講演)メモ

1. この講演に登場する主要人物は下記の通りである。
    カミーユ・クローデル(1864-1943)
    オーギュスト・ロダン(1840-1917)
    ミケランジェロ(1386-1466)
    ドナテッロ(1336-1466)
    メダルド・ロッソ(1858-1928)・・・イタリア人、ロダンと同時代パリで活躍。
    チェッリーニ(1500-1571)・・・フィレンツェで活躍。

2. 19世紀末ヨーロッパ彫刻には下記の二つがあった。
   記念碑的建築:(例)自由の女神
   断片で宇宙を語るもの:(例)ロダン《神の手》、クローデル《真理》

3. ロダンーミケランジェロ・ドナテッロークローデル
   ロダンとミケランジェロ:鼻がつぶれた男の彫像・画像という共通点がある。
   クローデルとドナテッロ:前者の《若きローマ人》は後者の《ダビテ像》に通ずる。

4. 髪の変容
   クローデルの《クロト》では髪の毛が全身を覆うが、マグダラのマリアも裸身になる寸前に髪が伸びて隠すという点が似ている。

5. クローデルーロッソーロダン
   ロダンやクローデルの彫刻には台座が残っている。ロッソは未来派のバッラと同じような新しい造形に向っているが彫像には台座がある。ボッチオーニの像にも台座が残っており、造形は新しいが、形式は古いともいえる。ブランクーシのような20世紀彫刻では台座が消失する。 ロダンは二つの部位が一体化していくが、クローデルはあくまで二つの部位を分離させている。クローデルの作品はシルエットが明解で、ロッソとは異なる。 手という細部で全体を表す作品を、クローデル・ロダン・ロッソの3人共つくっている。19世紀に特有なものかもしれない。

6. 「ペルセウスとメドゥーサ」
   今回は展示されていないが、クローデルの《ペルセウスとゴルゴネス》はチェッリーニの《ペルセウス》と同じテーマである。

7. クローデルーロダンーチェッリーニ
   ロダンの《ガラテ》は1890年の作で、クローデル1887年の《束を背負った若い娘》の盗作ではないかとの説があるが、前者は台座と一体化しており、後者は明らかなシルエットを有するので異なっているといえる。この点、チェッリーニの《ナルキッソス》1548-1565を見ると、脚にもシルエットがある。

参考文献 レーヌ=マリー・パリス著、なだいなだ、宮崎康子訳:カミーユ・クローデル 1864‐1943.みすず書房、1989年

(2006年7月29日)

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アンドリュー・ワイエス―記憶を引き出すマジック

丸沼芸術の森 美術鑑賞会 (中村音代氏講演)メモ

<はじめに>
現在フィラデルフィア美術館でアンドリュー・ワイエスの回顧展が開かれている。そのテーマはMemory and Magicであるが、今回の第6回「丸沼の森 アンドリュー・ワイエス展」のテーマもそれにちなんでいる。ワイエスは、夏はメーン州クッシング、冬はペンシルヴェニア州チャッズ・フォードを生活の拠点としているが、今回は丸沼に所蔵されているクッシングのオルソン・ハウス・シリーズの一部を展示している。ワイエスのテンペラ画は少なく、ビル・ゲイツですら一点しか所蔵していない。したがって本展では主としてテンペラ画の習作としての素描画や水彩画を展示しているが、水彩画の中にはほとんど本画といえるものもある。

1. ワイエスのプロフィール・・・1917年7月生れで、現在88歳でもうすぐ89歳である。最近はさすがに衰えが目立ち、フィラデルフィアの回顧展にも車椅子で出席したとのことである。ワイエス22歳の1939年、自分の水彩画を見てもらうためクッシングのジェームス氏を訪れたところ、当人は不在で、出迎えたのは17歳の娘ベッツィだった。そしてベッツィは避暑に来ている際に、卵、ミルク、ブルーベリーなどを買いに行っていて仲良くなっていたオルソン家のクリスティーナをワイエスに紹介したのだという。ワイエスとベッツィの2人は翌年結婚する。クリスティーナは3歳ごろから歩行困難となっており、手の指も変形していたという。病因はポリオであるともいわれたことがあるが、現在ではリウマチであったと考えられている。貧困の中にも気品が高く、魂の交換ができるほどの精神性を有するオルソン家のクリスティーナと弟のアルヴァロに共感して、その後30年間生活をともにした。クリスティーナは、炊事くらいはできたようであるが、足が悪いため弟とともに1階で暮らし、ワイエスが2階と3階を使っていた。

2. 絵を描き始めたきっかけー父N.C.ワイエスの影響・・・父は有名なイラストレーターであり、ワイエスの絵画技術を指導した。彼には芸術至上主義を貫くことができるだけの経済的余裕もあった。しかし一方、父に対してはオディプス・コンプレックスを有しており、1945年に父が死亡してからはじめて絵描きとして一本立ちになったという面がある。

3. 「記憶を引き出して描く」ということ・・・ワイエスは、物をそのまま描くのではなく、自分がその物の本質から感じられるものを観る人に伝えるように描くといっている。そのためには描きたい対象の本質を一旦記憶に止め、これを想起しながら描くという「記憶を引き出して描く」方法を使っている。

4. 影響を受けた画家たち・・・ワイエスの素描はデューラーの影響を受けている。またドライブラッシュの技術もデューラーの作品に学んでいる。これはデューラーの《野兎》を見れば明らかである。

5. 技法について・・・1)素描、2)水彩、3)ドライブラッシュ、4)テンペラが主なものであるが、その詳細についてはかなり以前のインタビューで話した以外あまり明らかになっていない。彼はフェンシングを得意としていただけあって、鉛筆で描くのが早く、途中で鉛筆が折れることも少なくなかったが、その場合でも折れた鉛筆を使って描き進んだという。先に述べたドライブラッシュとは水分を絞った筆で水彩絵具を使って描く技法である。テンペラは卵黄と酢に絵具を混ぜて描く技法で、ボッチチェルリの昔からあって、画としては長持ちするが、描くのに時間がかかり、疲れるため1年に2枚ぐらいしか描かなかった。孫に聞いた話だが、ワイエスは赤い卵は使わなかったとのことである。

<おわりに>
 「オルソン・ハウス・シリーズ」はワイエス家→線維会社経営者→映画会社経営者→日本人→アメリカ人→日本と動き、いったん須崎氏へ購入打診があったが高かったのであきらめていた所2年後に再打診があり、半額になったので丸沼へ入った。最近、愛知県立美術館にワイエスのテンペラが入ったが、これはここには日本を代表するワイエス研究家の高橋秀治氏がおられるからで、ワイエスが自分の作品は自分の国よりも日本で理解されていると考えていることとベッツィ夫人を代理としてそろそろ身の回りの整理をはじめておられることと関係があるのではないかと思う。

<展示品の説明>
@ 《オルソンの家》の階段の踊り場にはスペースがあるが、これはクリスティーナの場所である。階段の一部が精密に書かれた習作が《クリスティーナの世界・習作》の裏面に描かれている。オルソン家は200年にわたって作られてきた堅牢な家で、ゴシック的あるいはメディチ家的であり、ワイエスはその屋根はクリスティーナの鼻に似ているといっている。
A 《クリスティーナの世界》の習作に見られるように、彼女はその辺を這って移動していたようである。長時間モデルを務められなかったので、一部は夫人が代行している。
B《海からの風》のテンペラは日本にきたときに「ワイエスのカーテン」として有名になった。クリスティーナの曽祖父は魔女裁判官の地位にあった名家であり、この鳥の刺繍のある豪華なカーテンもオルソン家に古くから伝わったものであるが、これが風にたなびく様はオルソン家が滅びていくことを象徴している。事実弟のアルヴァロも骨の悪性腫瘍に侵されていた。
この画には100枚もの習作がある。最初は今回展示してあるよう習作に見られるように、クリスティーナと海からの風を重ねて描いていたが、最後には《海からの風》と《クリスティーナ》の二つの完成作が作られた。後者はビル・ゲイツの所有となっている。
C《オイルランプ》・・・クリスティーナの弟アルヴァロは控えめな性格で、既に有名になっていたクリスティーナをたててほとんどモデルにならなかったが、この《オイルランプ》はその例外である。
D 《アンナ・クリスティーナ》習作・・・晩年のクリスティーナの深い精神性を表している。顔だけでも十分なのであるが、優れた質感の椅子も書き入れている。
E 《オルソンの納屋の内部》《アルヴァロの馬》・・・これらの水彩は本画である。白の表現は画用紙を残す方法をとっており、白絵具は使っていない。紙はイタリアのパブリアーノとのことである。レンブラントの光と影を髣髴とさせる。
F 《卵の計量器》《青い計量器》・・・余白の美が明らかである。はじめはアルヴァロを描き込む積りだったようであるが、描きこまなくてもそのスペースが彼の存在を意識させる。これらの2枚は水彩ではあるが本画である。青という色を巧みに使っているが、ワイエスは青をみると気持ちが高揚すると述べている。
G 《幽霊》・・・Revenantの翻訳で、幽霊というタイトルが正確かどうかわからない。自画像のようでもあるが、予期せず急に有名になって自分の存在感を失ったワイエスが黄泉の世界から立ち上がってきた人物として描かれている。
H《ワイエスの家》・・・羽目板の数まで正確に描かれている。


<おまけ ヘルガのこと>
 ドイツ系看護婦エルガとのことは17年間も秘密にされており、彼女の裸体を描いた「ヘルガ・シリーズ」240点は15億で売れたという。現在、ワイエス、ベッツィ、ヘルガはともに暮しているようである。先ごろのフィラデルフィア美術館での回顧展の正式なパーティに、ヘルガはフリルのついた白の派手なロングドレスで現れ、出席者の顰蹙を買ったとのことである。 

(2006年5月27日)


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ギリシャにおけるキリスト教受容−キリスト教成立初期にみる−

恵泉女学園大學シンポジウム「キリスト教とギリシャ文化」(川島重成氏講演)メモ

1. 異教文化の敗北?・・・ローマ時代以降、キリスト教が西欧文化の中心となるが、「ギリシャにおいても古代ギリシャ文化は異教文化としてキリスト教に敗北してしまったという単純な図式でよいのであろうか」という疑問について考察してみたい。

2.アウグストゥス時代におけるイエスの誕生・・・イエス・キリストがユダヤで生まれたのはヘロデ大王の時代(37-4BC)である。現在では歴史をAD (anno Domini)とBC(before Christ)に分けているが、実際にキリストが生まれたのはBC4年とされている。これは27BC-14ADの皇帝アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus August)の統治時代である。この頃ローマには一旦平和が戻っていた。これをPax Romanaと呼ぶ。最近アメリカの一国支配下に平和が維持されている状況をPax Americanaということがあるのはこのアナロジーである。ルカによる福音書第二章によると、全世界の人口調査をせよとの勅令がアウグストゥス皇帝から出された。ダビデの家系であるヨセフは、身重の許婚の妻マリヤとともにベツレヘムというダビデの町に上っていったのは、この登録をするためだった。この時にイエスが生まれたのである。

3.新約聖書の史的背景としてのギリシャ文化圏・・・395年にローマ帝国が東西に分裂するように、東地中海世界のギリシャ語文化圏と西のラテン語文化圏は分かれて存在していた。ヨハネによる福音書第十九条は、イエス磔刑時の罪状書はヘブル・ローマ・ギリシャの3カ国語で書かれていたとしている。また、旧約聖書はヘブライ語であるが、新約聖書はギリシャ語で記されていた。キリスト教の伝道を行ったパウロはユダヤ人であるがギリシャ語を話していた。このような「散らされた」(ディアスポラの)ユダヤ人はヘレニストと呼ばれている。さらに重要な事として、ギリシャ語は現在も生きた言葉として話されているのである。BC4世紀のアレキサンダー大王の東征に伴い、マケドニアに及んでいたギリシャ文化が東方に拡大し、それまで使用されていた方言が共通語のコイネー・ギリシャ語に変わっていった。事実、アレキサンドリアで翻訳された旧約聖書(セプトゥアギンタ;70人聖書)はこのコイネー・ギリシャ語に翻訳されているのである。

4.パウロのアレオパゴス演説・・・使徒行伝第十七章には、パウロが伝道のためアテネに赴いた際、アレオパゴスの評議所で演説を行ったことが記されている。このころアテネでは偶像崇拝が盛んであったが、パウロは「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのに気づき、その神がキリスト教の全能の神であるという演説を行ったのである。脱線するが、実際に書かれていたのは「知られない神に」ではなく「知られない神々に」だったいう話も残っている。しかし、キリストの復活の話を聞くと、アテネの人の多くはパウロを信用しなくなってしまったが、後にアテネの守護聖人となったアレオパゴス裁判人のデオヌシオなど一部のものはこの話を信じたとのことである。

5.「ギリシャ」は「非キリスト西洋」の代名詞?・・・古代ギリシ文化はキリスト教の存立以前から存在しているものであり、ギリシャ自体はキリスト教的である。慣習的に「西洋」とはイタリア以西を指すものであって、東地中海風土のギリシャは決して西洋の代表ではないことにも注意する必要がある。したがって、ギリシャ文化→ローマ文化という構図は成り立たない。

6.ギリシャとキリスト教の構造的対応・・・ギリシャ文化すなわち古代ヒューマニズムは人間的なものに強い関心を示していたが、それだけでなく人間すなわちヒューマニズムを超えるものへの指向もあり、その両者が緊張関係にあったともいえる。これに対してキリスト教はヒューマニズムを超えるものとして開かれてきたのである。

7.ギリシャのキリスト教受容の要因・・・マケドニアのアレキサンダー大王の東征は、ギリシャ本土のポリス文化の崩壊をもたらし、東方も含めた共通文化としてのヘレニズムが誕生した。またギリシャでは、自分の知らない神が存在する不安やドドネの神託において「どの神に訴えたらよいか教えてくれ」とゼウスに向って聞いているような多神教の問題点に起因して、5世紀にはギリシャ文化自体が変容してきていた。このような状況下においてキリスト教が受容されていったものと考えられる。

8.エウリピデス悲劇の特質・・・古典劇作家のうち、オイディプスのような英雄を書いたソフォクレスやアイスキュロスと異なり、エウリピデスはゼウスをはじめとするオリンポスの神々を信ぜず、英雄を書くこともしなかった。その意味でエウリピデスは預言者の役割を果たしたといえる。その代表例は「メーディア」である。彼女は夫の裏切りにあって息子を殺害しているのであるが、エウリピデスは彼女をして女性の惨めさ、不幸さについて具体的に「わたくしは一度お産するくらいなら三度戦争に出ることも厭いません」とまで語らせている。

(2006年5月20日)

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フランス近代絵画とジャポニスム
ブリジストン美術館土曜講座(高階秀爾氏講演会)メモ

1. 1867年のパリ万博・・・1853年にペリーの来航があり、日本も鎖国の眠りから覚めたわけであるが、これは同時に産業革命を基盤とする交通輸送手段の発展の結果でもあった。パリ万博に先立つ1862年のロンドン万博にはウォールマット公使が持ち帰った日本の文物が出展されている。この時にフランスの詩人ゴーチェの娘Judith Gautierが日本からきたものを見て感動し、その後日本美術のフランスへの紹介に尽力した。パリ万博の開かれた1867年は、徳川幕府の最後の年で、幕府が作った日本館のほかに、佐賀鍋島藩と薩摩島津藩がそれぞれ別に出展していた。パリ万博の日本館の様子は当時のフランスの英字新聞に載せられた版画によって知ることができる。

2. 日本の大衆芸術の紹介・・・はじめは日本の芝居や踊りが興味を惹いたようで、パリのオペラ座でも《夢》という日本を題材とした演劇が上演された。当時は着物・扇子・傘などが珍しがられた。蝶々夫人のお菊さんの画では目が釣りあがっているが、当時西欧人からみると日本人の目は釣りあがっていると理解されていたようである。1900年になってからであるが、川上音二郎劇団の貞奴の舞台が大評判になり、Kimono Sada Yaccoという着物がパリで作成、販売された。


3. 工芸における日本の影響・・・エミール・ガレのガラス器に鯉のデザインがみられるのは、Japon Artistiqueという雑誌に鯉の絵が載っているように、鯉が日本的なものととらえられていたからである。また「日本では日常品に芸術品が用いられている」という事実も西欧人からみれば驚きであった。ガレはその他にバッタ、トンボ、草模様などの日本のモティーフを多用したガラス器や木工品を作り、ルネ・ラリックはトンボの有名なブローチ・髪飾り・櫛などを製作した。

4. 浮世絵の影響・・・はじめは広重の草子ものの中に見られる魚の干物なども興味を引いたようである。事実、ロイヤル・コペンハーゲンの焼物にもこのようなデザインのものがある。ギュスターヴ・モローの水彩の中にも日本の絵草子の影響とおもわれるものがある。扇子や団扇などが大変興味を惹いたようで、モーリス・ドニ、ゴーギャン、マネなどの絵の中に静物として取り込まれている。陰影やグラデーションがなく、それでいてきっちりと対象をとらえるという浮世絵の影絵的性格、上から見た俯瞰的な構図、さらには縦長の作品などの日本の影響は、ボナールの画にはっきりと見てとれる。また北斎の富嶽三十六景のような連作は、モネがいろいろな連作を描いたことと関係がある。事実、モネが過ごしたジベルニーには多数の浮世絵が残っている。セザンヌがセント・ビクトワール山をくりかえし描いたことも北斎などの影響であろう。北斎の「波」は特に有名で、ドビッシーの交響詩《海》の楽譜の表紙となっているほどである。また《エッフェル塔三十六景》を描いた画家アンリ・リヴィエールは、自分の印鑑を画に押していてほどのいれこみようであった。


5. 画と文字の統合・・・ルネ・マグリットの《これはパイプではない》という画がある。これは「このパイプは画だから、これからタバコはすえない」というマグリット特有のユーモアであるが、CET N’EST PAS UNE PIPEという文字板はパイプの画の下に貼りつけられた形で描かれている。西洋絵画ではルネッサンス以降、画と文字が混ざり合うことはなかった。中世の写本ですら絵と文字は別々なものとして作品を構成していた。ロセッティやミレイのようなラファエル前派の画家はテニソンの詩集《シャーロック》に挿絵を描いているが、これでも画と詩が上下に分かれた配置となっている。ウリアム・モリスは字と画を一体化しようと出版社に働きかけたが、できあがったものはやはり別々なものであった。日本では先ごろの琳派展に出ていた本阿弥光悦筆・俵屋宗達下絵の《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》のように絵と字の統合が完成している。字の大きさ、配置などが「散らし書き」になっているのである。これは日本では絵と書のいずれにも筆を使うということと関係がある。これを模倣した日本の和歌の翻訳集《蜻蛉集》が、1884年パリで刊行された。西園寺公望がまず翻訳し、前述のJudith Gautierがこれを直し、山本芳翆が画を描いたもので、字の大小といい、配置といい、みごとな散らし書きとなっている。この本は当時評判となったらしく、ギュスターヴ・モローも購入したとのことである。マラルメは、《Le Hasard》において活字による散らし書きを試みているが、これはヨーロッパでは前衛であった。アポリネールは、《Il Pleut》において活字による絵文字作成に挑戦している。でき上がった冠、ハート、雨などは結構上手いが、活字による雨の線などはやはりギクシャクしている。

6. 絵画におけるジャポニスム・・・1)ホイッスラー:日本の衣裳・屏風・団扇など浮世絵からの転用を行った画がある。

2)マネ:《ゾラの肖像》では花鳥画の金屏風や浮世絵が描かれており、《モリゾの肖像》では彼女の肖像の上に3枚続きの海女の浮世絵らしき絵がかかっている。《笛を吹く少年》の表現は日本的であり、鳥居清永に類似の構図の絵がある。《マラルメの肖像》には金屏風が描かれており、絵全体を塗りこめて、背景を閉ざしている。《ナナ》では背後に川と鶴が描かれ、紳士が半分で断ち切られた浮世絵的な表現となっている。

3)モネ:《ラ・ジャポネーズ》は第2回印象派展に出品された画であるが、打掛の背中や裾に模様があり、これを見せるためモデルのカミーユは無理な姿勢をとっている。手にした扇は三色なので、フランスの三色旗が残っているとのジョークがある。この画の団扇の中に《海老で鯛を釣る図》の一部が描きこまれているものがあるが、この全体図を写した皿が残っている。《ジベルニーの太鼓橋》は広重の《江戸百景 亀戸天神》と似ている。《睡蓮》では、空を直接描かず、水に映ったところだけを描いていることや、ヴァリエーションの連作を作っていることは日本絵画との関連があるといえる。モネは「自分の画は、『陰によって実在を示し、部分によって全体を見せる』という古い日本の絵からきている」と述べている。

4)ロートレック:鳥獣戯画や白隠の絵にみられる太い線、細い線を使った線描はきわめて日本的なものであるが、《アヴリルのポスター》では太さを違えた線を使い、さらに歌姫を斜め上から見た構図とし、書き文字を入れ、《ブリュアル》ではモデルに日本的な服装を着せ、さらにハンコのような署名を描きこむなど日本の影響が強かった。

5)ドガ:広重の《仲見世》では、門や建物の一部しか見せずに全体が表現されているが、このような構図はドガの《競馬場》、《アブサン》、《バレーの踊り子》などに取り入れられており、《サーカスの曲芸師》では逆に下から見上げる視線となっている。

6)ヴァロットン:《子供が遊んでいる画》では上からの俯瞰法を使っている。

7)ゴッホ:ゴッホは、1886年にパリに出てから、急に明るい画を描きだしたが、これには二つの理由がある。第1は印象派の画家の影響、第2は日本の浮世絵の影響である。浮世絵は安物しか持っていなかったようであるが、1987年の《タンギー爺さん》には、実在の浮世絵がいくつもとりこまれている。渓泉栄泉の模写《花魁》では、人物を左右逆に描いている。これは美術雑誌で既に逆になっていたからである。豊国や広重の影響も大きい。特に広重の模写《花咲く梅の木》では、文字を書き加えていること、空を赤く描いていることが注目される。《種まく人》では太い切り株が途中で切れた構図となっており、《ムスメ》のスカートの模様がすべて前向きになっているのも日本的である。《耳きり後の自画像》では目は釣りあがっていないが、《ゴーギャンに贈った自画像》では目が釣りあがっている。ゴッホは南フランスに来て、「日本にきた」といったそうである。

8)ゴーギャン:《説教の幻影》では、ゴッホと同じく空が赤く描かれ、樹が斜めに切れており、取っ組み合うヤコブと天使は北斎漫画のデザインを借用しており、登場している牛は宗達の真似ではないかとの説もある。

9)ブラマンク:《ドランの肖像》は日本的である。

10)マティス:ブリジストン美術館の《縞ジャケット》は平面的で、線描が多く、日本的である。このようにジャポニスムは20世紀にも残ったといえる。

(2006年5月13日)

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小林頼子氏の講演

レンブラント・フェルメールの時代ーオランダの光を訪ねて

ブリジストン美術館

 Juliaさんに誘われて、ブリジストン美術館に小林頼子氏の講演を聴きに行った。私は、氏の本を2冊持っている。一つは「フェルメールの世界」(NHK出版、1999)、もう一つは「謎解きフェルメール」(新潮社、2003)である。出かける前に後者を読み直して、ちょっと予習して出かけた。

 会場には、Juliaさん、Nikkiさん、鈴木さん、ミズシーさん、花子さん、Takさんご夫妻、Toshiさんご夫妻など馴染みの顔が見えていた。

 忘れないうちに、講義の内容を記しておくことにする。

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T.17世紀オランダの政治と経済

 ネーデルランドは南部(ベルギー)と北部(オランダ)からなっており、ヤーコブ・ファン・カンペンの《冬景色、1610》に見られるように、周囲のことが写実的に描かれた画が特徴的である。

 16世紀におけるスペイン・ハプスブルグ家の収奪とカトリックの強制は、1588年に北部の独立をもたらした。独立運動のオラニエ公ウィレム(後に暗殺、次いでマウリッツ公、さらにフレドリック・ヘンドリック公といった総督による政治体制に移行した。これらの総督は王族でなく、富裕な市民の支配体制ともいえるものだった。

 このため肖像画が市民にも広がった。このような肖像画の例としてあげたレンブラントの《商人の代表》は毛皮商人を描いたものであり、ニコラース・ルッツの《コンスタンチン・ハイヘンス》はヘンドリックの秘書で有数の知識人であった。

 その後、アントウェルペンの封鎖によって、交易の中心がアムステルダムに移り、冨も人もベルギーからオランダに移った。カンペンの《フレドリック・ヘンドリックの勝利の行進》、ヘイデンの《アムステルダムの商品取引所》、フォーゲールの《北海でのニシン漁》などはこのようなオランダの反映を描きだしており、オランダの勢力は東インド会社を通じて長崎の出島にまで及んだ。

 独立戦争中にはカトリックの宗教画がプロテスタントの攻撃の的となった。これは、モーゼの偶像崇拝禁止に基づくものである。1649年に描かれたサーレンダムの《シント・オデュルフス教会》を観ると、説教壇はあるが祭壇はなく、壁画がまったくない白壁ばかりである。自宅に宗教画を置くことまで禁止されたわけではなかったが、教会・王族・貴族からの大口の注文がなくなったことは画家に大きな影響を与えた。

 まとめると、17世紀オランダのキーワードは、下記の3つである。

  @ 王族・貴族の不在と市民の関与

  A 経済の隆盛

  B プロテスタント

 

U.17世紀のオランダ絵画

 肖像画、とくに全身肖像画は以前は王族・貴族に限られていたが、これが商人に移ってきた。肖像画は必ず注文主に引き取られるから、画家としては安心である。

 風景画は、17世紀オランダで初めて成立したものであるといってよい。

 風俗画は、日常のジャンルであり、ヤン・ステーンの《シンタ・クラースの贈物》はその代表例である。良い子には靴下に飴が入っており、悪い子には鞭が入っている。

 静物画はきわめて写実的である。代表例としてラヒェル・ライスの《花の静物》があげられるが、この画家は14人の子供の母親である。

 画家の経済状態は、ホドの《貧しい画家》、オスターデの《アトリエの画家》。フェルメールの《アトリエの画家》から見て取れる。単純労働者の日当が1.5ギルダーだった時代、画家の年収は100ー700ギルダー程度であった。

 当時オランダには400ー800人の画家がおり、年間600万枚の画が描かれた。このため競争が激しくなり質の良い画が作られる反面、低価格であり、大量に生産されたオランダ絵画は現在でも市場に出ているほどである。オランダ絵画は分かりやすい、小さい、安いという特徴がある。

 まとめると、17世紀のオランダ絵画のキーワードは、下記の4点である。

   @ 日常に向けられた視線

   A 写実的ジャンルの勃興

   B 写実的な描写

   C 当時のモラルの反映

 モラルとしては、第一にこの世のはかなさ、すなわちヴァニタスがあげられる。ヤン・ステーンのマウリッツハイスの画の中には、皆が騒いでる屋根裏に骸骨とシャボン玉を吹いている子供を小さく描いてヴァニタスを戒めている。

 第二には、勤勉であることがあげられる。デ・ホーホの《母の義務》、カスパー・ネッチェルの《しらみとり》、テルボルフの《母の世話》は、いずれも母親が子供の頭頂部の髪からしらみを取っている画であるが、子供は玩具すなわち遊びを捨て、母親に身を任せている。これは勤勉な状態を象徴している。

 フロマンタンは、「この時期のオランダ絵画には理念がない」といっているが、このようにはっきりとした理念を認めることができる。

 


V.ブリジストン美術館の17世紀オランダ絵画

 @ アンソニー・ヤンスゾーン・ファン・デル・クロースの《レイスウェイク城の見える風景》

 この作者はハーグの人である。色数が少なく、水平線が低い、空や雲に力が入っている、前景に大きなモチーフを置いて奥行を出しているなどこの時代のオランダ風景画の特長が出ている。汚れているが、ニスをとればきれいになる。

 この画は以前はヤン・ファン・ホイエンのものと考えられていた。ヤン・ファン・ホイエンは生涯に1300点も描いた多作家で、現在でも市場に出ており、小さいものでは200-300万円程度で買える。

 オランダ風景画は次の4段階を経過している。

 @) 世界風景画: 神の視点のように高いところから遠望し、空気遠近法によって遠くの山をダンダン青くしている。例)コーニンクスロー《山岳風景》

 A) 人間の視点(1610-20年代):視点が下がってくる。例)エサイアス・ファン・デン・ヴェルデ《渡し舟》

 B) モノクロームの時代(1630-40年代、バブルの時代):ヤン・ファン・ホイエンのようにオーカー色に限定され、視点がどんどん低くなる。これは大量生産の必要性に対応した描き方である。

 C) 操作した風景画:ヤーコブ・ライスダールの《ヘントハイム城》のように、山というものに理念を抱き、それをドラマチックに表現するように情景を操作する。この画の場合は、城が建っているのは実際には低い丘なのに、立派な山の上となっている。

 

 A レンブラントの油彩画

 レンブラントは初めアムステルダムでラストマンの弟子となり、いったんハーグに帰り、再びアムステルダムに戻った。はじめはプロモーターを介して画をうっていたが、そのうち市民権を取り、自分で画を売れるようになり、結婚し、13,000ギルダーものお金を払って家を購入した。オランダのバブル時代には、お金を借りても利子さえ払っておけば、元金を請求されることはなかったが、1952年にオランダが英蘭戦争に負けたのをきっかけとして大不況となり、元金を返済するよう請求された。レンブランドは版画などを大量に購入していたことも加わって、1652年に破産した。家を手放し、孫の貯金箱にも手をつけたという悲惨な話も残っている。

 初期のレンブラントの画には模倣と創造が同居しているといわれるが、数年でオリジナルなものを作ることができるようになった。レンブラントはカラバッジョの光と闇に学んでいるが、カラバッジョのように光を分散させず、光を集める明暗画法を確立し、自分のブランド・マークを刻印した。カラバッジョの《パウロの改宗》とレンブラントの《牢獄のパウロ》を比較すれば、そのことは明白である。レンブランドが宗教画や神話画のような物語画を描いているのは、レンブラントがイタリア画家のような正統派をめざしたこと、私宅ではこのような画を架けることが許されていたこと、さらにオランダ人がエラスムスの寛容精神によってカトリック地区の存在を容認したことも関連がある。

 ブリジストンにあるレンブラントの油彩画は小品で、銅板に描かれている。一部にRの署名があり、年次が162X年となっている(X=不詳)。昔は《聖ペテロの否認》と呼ばれていたが、銅板が右側で薄いため、右側に主題部分があり、全体の画が半分に切られたのではないかとされている。現在のの名称は《聖書あるいは物語に取材した夜の情景》となっている。

 この画の作者がはたしてレンブランドであったか否かについては従来より問題となってきた。レンブラント・リサーチ・プロジェクトでは1642年までのレンブランド作品の帰属について検討した。その後、新たなリサーチ・プロジェクトが発足し、2005年12月に、まず自画像の検討結果が発表された。二つのチームのメンバーで重なっているのは1名だけなので、異なる結論となる可能性もある。しかし結局は権威者の判断が優先され、グレーゾーンは残る。自分の意見は既に報告書に書いた。ダウ、ボールテル、スプレーウの可能性があるとほのめかされたが、最終的には「これは皆さんが明暗、細部、人物、構図のまとめ方をみて、自分で結論を出す問題である」として結論を避けられた。

 

 B レンブラントの版画

 @) 自画像: 近代人のように自らを見つめていたわけではなく、表情の研究に使っていた。

 A) 聖母の死: デューラーの画の影響がある。

 B) クレメンテ・デ・ヨング: これは第4ステージのもの。レンブランドは版画では、ステートごとに刷って製作の過程を残しており、これが版画の利点であると考えていた。

 C) 山上の教え: 100ギルダー版、2点 

 

W.フェルメール

 フェルメールはレンブラントより25歳若いが、画を描いたのは20年間だけで、43歳で早死にした。レンブラントのように63歳まで生きたらどんな画を描いたか興味がある。 現在残っているのは32点程度だが、失われたものも含めて60点程度、年2-3枚程度の寡作である。

 レンブラントが光と闇を描き、フェルメールは光の無限のニュアンスを描いたといえる。これは《窓辺に水差を持ち女》を見れば一目瞭然である。最初は《マリアとマルタの家のキリスト》のような物語画を描いた。これは良い画であるが、光と影があり、カラバッジョの影響が残っている。フェルメールはこれから1-2年で自分の型を作ったが、その間をつなぐ画がなかったのでメーヘレンにつけ込まれた。メーヘレンの贋作事件は美術史を専門とするものに衝撃を与えた。

 フェルメールの画には光が白いビーズのように描かれており、印象派的である。《デルフトの眺望》でも光が当たらないはずのところにこの白いビーズ状の光の点が描かれている。

 また人物の窓に近いほうを暗くし、遠いほうを明るくして、人物を浮き立たせている。このように表現を工夫し、操作を加えている。すなわちたんなる写実ではなく、描写に対して関与しているのである。カメラ・オブスクーラの話は分かりやすいが、フェルメールの画はこのような写実だけではない。《牛乳を注ぐ女》では瓶や壷の縁、さらには落下するミルクにも青の小点が描き加えられている。

 フェルメールは、幾何学的遠近法の消失点・消失線に留意しつつ、目で見る世界よりも画像の世界を重視している。換言すれば、描きたいイメージのため現実を使っているのである。フェルメールは、自分の頭に描いた現実をわれわれに訴えることを意図したのである。(2006年2月4日)


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美術講演会 2005

大高保二郎先生の講演:バルセロナの光と影、ガウディとピカソ

ブリジストン美術館の地中海学会秋季連続講演会「地中海都市めぐり講演会」第1弾である「バルセロナの光と影、ガウディとピカソ」を聴いた。ちょっと前に家内とこの美術館に青木繁の画を観にきた時に、この講演会があることを知って、入場券を2枚購入した。ところが家内が急性腰痛ということで、1人で聴くことになった。

早稲田大学教授ということで、大高先生は話慣れておられる。話口はゆっくりだが、途中にアーとかウーとかいう言葉が入らない。自分の話をテープレコーダにとって聞き直してみると、赤面するほどこのような無用な雑音が入っている。その点この先生のリズムは崩れない。したがって聞き取りやすい。

本年9月、バルセロナにしばらく滞在した。そのこともあってこの講演会に遭遇したことは幸運であった。英語ではこのようなことをセレンディピティというが、日本語には適当な訳語がない。

前置きが長くなったが、内容はマラガからバルセロナにピカソがやってきた頃、ガウディはすでに認め始められていたので、ピカソはガウディを知っていたはずであるというところから始まる。しかもピカソのアトリエの一つはグエイ館の筋向いだったから、当然グエイ館も見たはずであるとの意見である。

大胆な仮説である。理系の私にはこのような論理の飛躍は非常に気になるが、さりとて反論すべき根拠を持ち合わせているわけでもない。

この頃(19世紀後半)のカタルーニャは、産業革命に比肩しうる近代化をなしとげたが、これによって富裕なブルジョワジー層と貧しい労働者階級の間の深刻な対立がもたらされた。

ガウディのほとんどの建物が富める層の居住地として開発された「新拡張地区」に建てられたのに反し、ピカソは歓楽街・貧民街と化した旧来の「ゴシック地区」に止まり、その中で10回もアトリエを変えたとのことである。

このような事実から、大高教授は、ガウディはバルセロナの光を浴び、ピカソはバルセロナの陰を背負って、パリに行き、青の時代の絵画に連なっていくのであるとの結論を出された。

講演は次第に熱を帯びてきて、大分時間を超過した。本筋からちょっと脱線した余話的なところはとくに面白かった。(2005年10月22日)

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