マニラ美術散歩  (日本美術は別ページ)


マニラに行ってきた。1時間の会議なのに往復8時間以上かけて旅行するのであるから、インターネット時代といってもまだまだ発展段階にある。しかしながら、現地に行かなければ分からないことも少なくない。

フィリピンの美術は「アジアの美術」の教科書でもほとんど触れられていないが、本当に何もないのであろうか。わずか24時間の滞在時間で、美術散歩に充てられた時間は4時間に過ぎなかったが、それでも、リサール医師の像と「おせいさん」の画、マニラ・メトロポリタン美術館の所蔵品など、フィリピン美術の一端を覗くことができた。(2005.11a)

 


マニラ: イントラムロス 

サン・アウグスチン教会

イントラムロス《メモラーレ1945》マッカーサーと一緒:クリックしてみてくださいここはスペイン統治時代の壁に囲まれた歴史的な場所である。残念ながら第2次大戦によって、サン・アウグスチン教会を除いて、すべての建造物が破壊され、壁にはなお銃弾の痕跡が多数残っている。

馬車に乗ってひと回りした。入り口にはこの地で命を落とした多くの人に捧げる鎮魂の像がある。《メモラーレ1945》という名がついている。比・米・日のわけ隔てなく祀られており、乳児を抱いているマリアにも似た女性の像が、心に訴えてくる。

山下司令官が処刑された場所の近くには、マッカーサー司令官の彫像があり、記念写真を撮った。宮本三郎の描いた山下司令官の画を思い出し、かれが本当に処刑されなければならなかったのか・・・ということが頭によぎった。

(2005.11a)


マニラ: リサール記念館

サンチャゴ要塞

 

リサール記念館おせいさん ホセ・リサール:クリックしてください 今回のマニラへの旅で、リサール医師と「おせいさん」という女性に遭遇した。

フィリピン建国の父とあがめられているホセ・リサールは、1888年2月29日、欧州への亡命の旅の途中、日本に立ち寄った。

リサールはマドリード大学で医学を学ぶかたわら、 スペインとカトリック教会を批判した小説「ノリメ・タンへレ(我に触るな)」をヨーロッパで発表し、 スペイン政府から反逆の書として激しく非難され、帰国したリサールは小説の発禁と国外追放の処分を受けた。

日本逗留はごく短期間の予定だったが、日本の魅力に取りつかれ、出発を延期した。 そこに出会ったのが「おせいさん」こと臼井勢似子である。維新で没落したとはいえ、 江戸旗本の武家育ちで、つつましく、編み物と絵画を得意とし、英語とフランス語を学んでいた。 22カ国語に精通していたという語学の天才・リサールは、 たちまち日本語を覚え、彼女に東京や日光、箱根などを案内して貰ったりした。 「日本人は温順、平和、勤勉で将来のある国民である」、 「日比関係を緊密しなければならない」などと、手紙や日記に書き残している。 また歌舞伎の忠臣蔵を見て、身を捨てて、主君に尽くす浪士たちの行動に、わが身をおきかえて感動している。 「おせいさん」も、兄が彰義隊に加わり、上野で戦死しているだけに、 独立の志士として不遇な状況にあるリサールに深い同情の念を抱いた。

こうして27歳のフィリピン青年は日本と「おせいさん」にすっかり魅了されてしまう。 リサールはスペイン公使館から、日本に開業医として残って欲しいという要請を受けた。 心の通う「おせいさん」とともに、この国に留まりたいという気持ちが湧いたのも当然であろう。 しかし、フィリピン独立のために、自分を待っている同志がたくさんいる。断腸の思いで、日本を離れる決心をする。 4月12日、横浜港からの出発を明日に控えて、リサールと「おせいさん」は、別れの一時を目黒のお寺で過ごした。 「おせいさん」も武士の娘、リサールの志を察して、別れの覚悟は固めていた。 「おせいさん」と分かれた晩、リサールは次のような手記を残している。

『日本は私を魅了してしまった。美しい風景と、花と、樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ。 おせいさんよ、さようなら、さようなら。 思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。 この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活ができる道が申し出されているのに。 私の青春の思い出の最後の一章をあなたに捧げます。どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。 どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。もうやめよう。 みんなおしまいになってしまった。さようなら。さようなら。』

ヨーロッパに渡ったリサールは、2冊目の小説「反逆者」を発表し、 フィリピンでの独立運動の機関誌にも投稿を続けた。 1892年には家族や友人の反対を押し切って祖国に戻るが、逮捕され、ミンダナオ島流刑となった。 4年間の流刑を終えてマニラに戻った彼を待ち受けていたのは、 そのころ激化していた独立勢力の武装蜂起を教唆したとの濡れ衣をきせられ、名ばかりの裁判の後、 銃殺刑に処せられるという運命であった。

処刑当日、別れに来た妹に形見として渡したアルコールランプの中には、 「最後の訣別」と題した14節のスペイン語の詩が隠されていた。 ここではその第1節を紹介したい。『さようなら、なつかしい祖国よ、太陽に抱かれた地よ、東の海の真珠、失われたエデンの園よ、 いまわたしは喜んできみにささげよう、 この衰えた生命の最もよいもの「最後の訣別」を、いや、生命そのものを捧げよう、 さらに栄光と生気と祝福が待っているなら、何を惜しむことがあろう。』 1896年12月30日の朝、35歳のホセ・リサールはスペイン軍によって銃殺刑に処せられた。

訪れたサンチャゴ要塞には、リサールが最後の時を過ごした独房が再現されていた。そこにはこの「最後の訣別」の一部が大きな字で光の中に浮き上がっていた。

また訪れたリサール記念館では、優美な「おせいさん」の着物姿の画を観ることができた。 (2005.11a)

 

田逸する
マニラ・メトロポリタン美術館

 

チケットイダルゴ:民衆に曝されるクリスチャンの乙女短時間の旅なので、ハイヤーを駆使した。運転手は英語が上手である。フィリッピンは英米に続いて3番目に英語人口が多い国だから当然といえば当然だが、旅行者にとっては便利至極。

このハイヤーの運転手に「メトロポリタン美術館へ」と頼んだが、そんな美術館は知らないという。そこでガイドブック片手に筆者が案内することになった。行ってみると何のことはない。フィリピン中央銀行の地域内にあり、所蔵品も銀行のものらしい。云ってみれば、日本銀行美術館なのである。

1階は、フィリピンの巨匠の油彩が並んでいる。画家の名前や製作年代を特定できないものが多いけれども、肖像画には良いものが多く。女性の襟の表現は17世紀のオランダ絵画のように緻密である。これはオランダ→スペイン→フィリピンという流れよるものではなかろうか。

なかにとりわけ目立つ大きな油彩画が2点並んで展示されていた。画家はイダルゴFelix Resurrection Hidalgoで、画像の《民衆に曝されるクリスチャンの乙女 Christian Virgin exposed to populace》は1994年の作品、《アケロンテの舟 Boat of Aqueronte》は1987年の作品である。いずれも力強い表現で、説得力がある。彼は元来はフィリピン人であるが、ヨーロッパ、とくに長年パリに住んでいたアカデミズムの画家で、新古典主義的な作品を描いている。時期的には印象派と重なるが、この新しい流れとは明らかに一線を画していたようである。 ルーナJuan Lunaもイダルゴと同じ立場で国際的な評価を受けたフィリピン出身の画家であった。

一番奥に大きな祭壇画がひっそりと置かれていた。うっかりすると見落としてしまうような場所である。中央上段には、十字架のキリスト、そして中段には向って左から大天使ガブリエル、聖ペテロ、聖バチスタ、聖ステファノ、アレキサンドリアの聖カテリナ、洗礼者ヨハネ、聖パウロ、聖ニコラウス、聖母マリアが並んでいた。裾絵の内容は十分には理解できなかったが、もっとも右には水に入れられる嬰児が描かれていた。これは13世紀のLippo Hemmiの作となっているが、どのようにしてここにあるのであろうか。

2階はフィリピンの現代絵画である。表現主義的なものは少なく、落ち着いた抽象絵画が目立った。

地下には、この美術館が誇る金細工と土器のコレクションがある。金細工は10-14世紀の装飾品であるが非常に精巧なものである。土器は古いものはBC220、新しいものはAD1400のものであるが、全体にシンプルな造形であった。 (2005.11a)

 

 


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