日本美術散歩 10-3 (海外美術は別ページ)

BASARA 10.8
諸国奇人伝 10.9 小泉淳作 10.9 古賀春江 10.9 ハンブルグ浮世絵 10.10
南宋の青磁 10.10 円山応挙ー空間の創造 10.10    

目 次 ↑


円山応挙ー空間の創造: 三井記念美術館

 

 開館5周年記念の特別展として、応挙の大作が三井記念美術館に集まっている。
若い頃に西欧の遠近法を習得する機会となった「眼鏡絵」が何点も出ている。お気に入りは、《三十三間堂通し矢之図》、《宇治図》、《四条河原納涼図》、《円山座敷図》、《石山寺図》。

 三井寺円満寺門主 祐常の「萬誌」の中に、応挙の二つの絵画空間理論が記されていた。1.三遠の法: 「平遠・深遠・高遠」、すなわち三次元の描写法。2.遠見の絵: 近くでは不連続な描き方でも、遠くから見ると連続して見える。

円山応挙:雲龍図屏風(部分 「応挙様式の確立ー絵画の向こうに広がる世界」は、「迫央構図」のこと。例えば、右の絵が画面の奥に向かい、左の絵が画面の手前に向かって描かれ、その中央が空いているような技法である。

 これについては、重文《雲龍図屏風》が豪快で、技法もよく分かった。右の龍は画面の向こうに消え、左の龍が戻ってきた時には、手に玉を持っている↓。墨絵淡彩であるが、鱗の金泥の使い方や雲の巻き上がる様は大向こうを唸らせる。

 草堂寺の重文《雪梅図襖・壁貼付》は右に若木、左に老木が描かれているが、全体に力が弱くて、あまり感動しない。

 《淀川両岸図巻》は、船内から左右の岸を交互に見上げているところを、上から見下ろした絵としている。これはまことに見事な立体感覚。色彩も美しい。

 大乗寺の重文《松に孔雀図襖 16面》は、金地に単純な墨絵であるが、孔雀に彩色されているような錯覚! 3本の松、3羽の孔雀、4つの岩と構成要素は少ないが、全体として堂々たる姿である。特に中央の松の枝は大きく右に伸びて、全体をまとめている。  三井の国宝《雪松図屏風》は、右の松が手前に、左の松が向こうへ向かっていく。「迫央構図」の完成した姿だとされていた。大乗寺と三井の障壁画を比べると、前者は豪快、後者は軽快というところだろうか。

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南宋の青磁: 根津美術館

 

 (龍泉窯 南宋 13世紀) 日本には鎌倉時代より龍泉窯の青磁が入ってきているが、これは中国から見れば輸出用の一般向きやきもの。これが室町以降、茶道具の砧青磁として珍重されてきた。気泡のため、美しく澄んだ半透明感がある。

 今回は、国宝の青磁下蕪瓶(アルカンシェール美術財団)、 重文の青磁槌形瓶(梅沢記念館)、重文の青磁筒形瓶(銘大内筒、根津)、重文の青磁鳳凰耳瓶(銘千声、陽明文庫)と国宝の青磁 鳳凰耳瓶(銘萬声、和泉市久保惣記念美術館)、重文の青磁鳳凰耳瓶(大阪東洋陶磁美術館)、重文の青磁輪花碗(銘馬蝗絆、東博)、青磁輪花洗(銘青海波、金沢市立中村記念美術館)などの名品が並んでいる。

(米色青磁 南宋官窯 12−13世紀) 酸素が不足した窯で高温状態にすると、酸化鉄の中の酸素も奪われて 釉は青色に発色するのに対し、酸素が十分な窯で通常の火力で焼くと、釉薬の鉄と酸素が結合し 赤茶色に発色するという機序によって「米色青磁」ができる。

 紅葉山文庫から、青磁盃・青磁洗・.青磁下蕪瓶3点の他、個人蔵の青磁下蕪瓶が1点出ていた。

(南宋官窯 12−13世紀) 宮廷用の良質の青磁は、北宋の汝窯から南宋の官窯に伝わっている。今まで、砧青磁は飽きるほど見てきたが、南宋官窯のものはそれほど多くない。明るく透明感のある青緑色で、貫入が幾層にも重なっている。南宋官窯の「郊壇下窯址」は以前から分かっていたが、「修内司窯址」の全容は最近になってようやく分かってきたとのこと。

 青磁管耳瓶(個人蔵)2点、東博の青磁洗と重文の青磁輪花鉢、MOA美術館の青磁壺、出光美術館から重文の青磁下蕪形瓶が出ていた。

(陶片・磁片) 米内山康夫元杭州領事が郊壇下窯址で採集した米内山陶片は南宋時代(12−13世紀)のもの。米色のものもある。南宋〜元 13−14世紀の龍泉窯青磁片は、福岡市博多遺跡、鎌倉市内遺跡、京都市内遺跡、東京大学構内から出土したものが展示されていた。

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ハンブルグ浮世絵コレクション展 : 太田記念美術館

 

 ハンブルグ美術工芸博物館の初代館長であるユストゥス・ブリンクマン(1843-1915)ならびにコレクターのゲルハルト・シャック(1929-2007)という1世紀離れた2人の収集家の浮世絵コレクション4500点余が「ハンブルグ美術工芸博物館」にある。今回は、この中の237点の初来日展。

第1章 優品に見る浮世絵の展開:

 1.初期浮世絵版画の時代: お気に入りは、菱川師宣の墨摺筆彩《酒呑童子》。全19点揃はハンブルグだけ。

 2.錦絵の完成: 鈴木春信《三十六歌仙「源宗宇朝臣》は色残りが素晴らしい。 礒田湖龍斎《諌鼓鳥》は、鶏の白い羽の空摺が美しい。

 3.錦絵の黄金時代: 喜多川歌麿の《婚礼の図 三枚続》と《婚礼色直し之図 三枚続》が並んでいたが、見事。

 4.多彩な幕末の浮世絵: 葛飾北斎《冨嶽三十六景 東都駿台》の錦絵と校合摺が並置されていた。錦絵の制作過程に興味をもつところは流石に「美術工芸博物館」。

魚屋北渓《三十六禽続 猫》第2章 稀少な摺物と絵暦:

 この章がこの展覧会の見せ場。私の大好きな水滸伝が出ていた。 岳亭春信《水滸伝五虎将軍》の摺物五枚続である。
 《ゴンクール旧蔵摺物帳》は、摺物23点の貼り付け。魚屋北渓《三十六禽続 猫》がお気に入り。

第3章 美麗な浮世絵の版本: お気に入りは、葛飾北斎らの《男踏歌》。

第4章 肉筆画と画稿、版下絵: 肉筆画では、勝川春章《桜下花魁道中図》はしっとりとした墨彩色。  川鍋暁斎の《恵比寿 大黒》が愉快。第5章 参考作品 一筆斎文調・勝川春章ほか《墨摺団扇絵集》の中の一枚「子供の相撲」が出ていた。 

 浮世絵フリークならば見逃せない展覧会である。

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古賀春江の全貌 : 神奈川県立近代美術館 葉山

 

古賀春江:孔雀 古賀の画は「カメレオンの変貌」といわれるように、写実画、キュビスム、シュルレアリスム、クレー風と多彩な画風。38 歳という若さでこの世を去った画家は、文学にも傾倒し、さまざまな詩を残しているが、これらも難解。

第一章 センチメンタルな情調 1912-1920: 郷里や旅先の風景を題材にした水彩画を中心に古賀の出発期が紹介されていたが、写実的な画ばかりである。 お気に入りは、水彩《柳川風景》と油彩《考える女》。 水彩画《婦人像》のモデルは、古賀の妻好江夫人。立体感を追求した軽快な筆致や明るく透明な色彩などセザンヌの影響が強く表れている。

第二章 喜ばしき船出 1921-1925: 1921年、わが子の死産に想を得て創作した《埋葬》が、翌年の二科展で二科賞を受賞し、一躍注目を浴びた。1922年には若手作家によって結成された前衛グループ「アクション」にも参加し、キュビスムに学んだ造形を追究していく。 お気に入りは、 《観音》、《生誕》、《二階より》、《海水浴》、《室内》。

第三章 空想は羽搏き 1926-1928: 1926年頃から、空想的な要素を濃くした世界へと画風を転換させ、クレーからの影響がみられる独自の幻想性あふれる作品を描き、この時期から詩作も増えていく。 お気に入りは、《月花》、《煙花》、《山の手風景》、《蝸牛のいる田舎》。 《収穫》。

第四章 新しい神話 1929-1933: 1920年、代表作《海》で古賀は画風を一転させた。雑誌の図版や絵葉書など既成のイメージを引用するモンタージュ作品が見られるようになる。シュルレアリスムを取り入れつつ独自の超現実主義理論を打ち立てて、絵画にも詩にも新しい表現を求めていった。 この章のお気に入りは、《素朴な月夜》、《鳥籠》、《窓外の化粧》、《単純な哀話》、《現実線を切る主智的表情》、《孔雀》、《そこに在る》、《深海の情景》、《サーカスの景》。

 夭折が惜しまれるが、もう少し長生きしたらどのような個性を確立したのであろうか。 古賀は慢性的な疾患に苦しんでいた。年譜で彼の病歴を追ってみると、古賀は第4期梅毒に罹患しており、それが彼を苦しめ直接の死因ともなったことがわかる。

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小泉淳作展 : 日本橋高島屋

 

小泉淳作:蓮池 東大寺1260余年にわたる歴史の中で、初めて襖絵が制作された。5年がかりで40面の襖絵を描いたのは鎌倉の建長寺と京都の建仁寺に天井画を揮毫した日本画家 小泉淳作画伯。今回は、東大寺の40面すべてが展示されている。

 本坊の「大広間 蓮池」に描かれた16面に達する長い襖絵《蓮池》、「大広間 桜」には、襖絵《しだれ桜》、《吉野の桜》、《本坊の桜》、「上段の間」には、《聖武天皇御影》と《光明皇后御影》が、襖絵《鳳凰》、《飛天》、《散華》に囲まれていた。

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諸国畸人伝: 板橋区立美術館

 

 今回、安村敏信館長が選ばれた「畸人」は、下記の10人。

1.菅井梅関(1784−1844)陸奥: 仙台生れ。松島で龍巻をみて龍と思って描いた《昇龍画》は2006年仙台市博物館で開かれた「大江戸動物図館」で見ている。今回は《虎図》の2点、《海鳥図》、《舊城古梅之図》、《鵞鳥図》のような自由闊達な筆さばきを見せている。梅関の晩年は不幸で、井戸に身を投じ、自ら命をたったという。

2.林十江(1777−1813)常陸: 《木の葉天狗図》、《鰻図》、《蜻蛉図》、《花魁・遣手婆図》、《白桃図》、《龍図》、《十二支図鑑》のうち、今まで見たのは東博の《鰻図》だけ。素早い筆線によって描かれた奇抜な構図の南画。お気に入りは《蜻蛉図》のギョロリとした目。指先と爪で描いたカリカリとした指頭図の《龍図》。

3.佐竹蓬平(1750−1807)信濃: 伊那生れで、飯田に南画を広めた。龍之介が自殺した床に蓬平の《墨蘭》が掛けてあったとのこと。《虎図》の目はまるで朝鮮絵画。時代を超越したような味のある山水画や人物画も良い。

4.加藤信清(1734−1810)江戸: 経典の字で描いた珍しい「文字絵」。江戸龍興寺の陽国和尚の援助を得て全50幅の文字絵《五百羅漢図》を描いているが、夢の中に霊験が現れて、それからスラスラと描けるようになったとのこと。

狩野一信:五百羅漢図 第55幅 神通(部分5.狩野一信(1816−1863)江戸: 38歳の春に、源興院主了瑩上人の援助を得て、10分の1の原図を制作開始した。48歳で死ぬまでに96幅を完成させた。残りの4幅は弟子の一純が完成させ、増上寺に寄進した。今回は3点出ていたが、濃厚な極彩色の描写、洋風の陰影など幕末の異様なムードを伝えている。20011年3月に江戸東京博物館で100幅すべてが公開されるという。期待したい。なお東博平常展の特集で「幕末の怪しき仏画」で見た狩野一信の五百羅漢図」50幅は完成図の4分の1図の大きさだった。どうせならば、増上寺蔵と東博蔵あわせて150幅を見てみたいものである。

6.白隠(1685−1768)駿河: ユーモラスな禅画を得意とする臨済宗中興の祖なのであるから、「畸人」というより「宗教家」。永青文庫の「白隠とその弟子たち」展や「妙心寺展」で大分見たので、今更という気がしないでもないが、見ると結構楽しんでしまう。《出山釈迦図》、《すたすた坊主図》、《蓮池観音図》、《目一つ達磨図》、《寿布袋図》、《大黒天鼠画賛》などはユーモラスで、白隠の独壇場。

7.曾我蕭白(1730−1781)京: 対決展で、《群仙図屏風》や《唐獅子図壁貼付》など代表作をみているが、以前から模写は知られていたが、新たに原本が出てきた《群童遊戯図屏風》を見ると、今更のようにこれは只者ではないという感を持つ。これは九博蔵の6曲2双の銀屏風。右隻は、牛、闘鶏、相撲、ツバメ。左隻は、涼む女性、子犬、ウナギ、魚釣、亀、カワセミなどが、しっかりとした色彩で描かれている。情景はほほえましいが、一人ひとりの子供の眼を見ると、気持ちが悪い。

8.祇園井特(1755−没年不詳)京: 《手あぶり美人図》は首のない年増芸妓の肉筆浮世絵。京都ではこういったデロリとした女性を好むのだろうか。摘水軒記念文化振興財団の対幅の《美人図》は、展示室の中央に横置きにしてあるので見難いが、これはまさに「京の大首絵」。東博で最近見た《京美人夏化粧図》や《婦女と幽霊図》も似た印象だが、これらをもって「美人画」とはいいにくい。こういったデロリ美人はマイタイプとはいいにくい。今回出ていた《虎御前と曽我十郎図屏風》は、出光美術館の「肉筆浮世絵のすべて」で見ているが、ギョッとしたという記事が残っている。三井記念美術館の「NIPPONの夏」で見た祇園井特の《納涼美人図》は、鉄漿が毒々しく嫌い」という記事が残っている。

 
9.中村芳中(生年不詳―1819)大坂: 享和2年(1802)、江戸の近江屋ついで金華堂から《光琳画譜》を出版したが、中身は光琳模様を単純化し、丸っこくした「芳中画」ばかり。中村芳中はいろいろな「琳派展」に顔を出してくるが、千葉市美術館の《白梅図》は何度も見ているし、その他のものもあまりピリッと来ない。畸人というより常人ではなかろうか。

10.絵金(1812−1876)土佐:  絵金は高知生れ。江戸で狩野派を学び、帰国後、土佐藩家老桐間家の御用絵師となったが、狩野探幽の贋作を描いたという疑いによりその身分を剥奪された。その後は、もっぱら町絵師として活動し、土佐の夏祭りのために、芝居絵屏風を数多く描いた。現在は赤岡町の絵金蔵に23点が保存され、赤岡町の夏祭りの宵には、絵金の屏風を辻に並べ、蝋燭の灯火で芝居絵を堪能することができる。今回の4枚はすべて赤岡町から来たものである。 いずれも、泥絵具の強烈な色彩によって、芝居の情念、色気、血しぶきを描き出している。これぞまことの「超畸人」。

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上村松園展: 東京国立近代美術館

 

上村松園:焔1章 画風の模索、対象へのあたたかな眼差し: 17歳の《四季美人》は、すでに出来上がった画である。 22歳時の《一家団欒》には、縫物をする母親、おはじきで遊ぶ女児、幼児をあやす年配の男性が描かれている。 24歳の時に描いた《人生の花》は、母親に連れられた花嫁。類似の異作が2点出ていた。25歳の時には、《浴後美人》という大胆な裸体画を描いている。 1907年の《長夜》はお気に入り。まるで浮世絵を見るようである。《虫の音》の簾の向うの表現は絶妙。

2章 情念の表出、方向性の転換へ: 1914年の《舞仕度》では、舞に出る若い娘の不安さが表出されている。 ところが、1915年の《花がたみ》では、作風が異なってきている。これは、後の継体天皇と分かれる「照日の前」の舞い狂う姿。精神病院での取材や能面の写生から生み出した顔つきは凄い。散り来る紅葉、手に持った花かごや落ちている扇もただ事ではない。 1917年の《焔》は六条御息所の生霊。足がない。振り返る顔は凄絶。着物の蜘蛛の巣文様も嫉妬と執念を表している。この画は、感情描出の一つの到達点であろう。 派手で技巧を凝らした《楊貴妃》の薄物越しに乳房が見えている。

3章 円熟と深化: この時代になると、画題や描き方も次第にマンネリ化してきたのではなかろうか。

3章−1 古典に学び、古典を超える: お気に入りは、中宮彰子に桜の枝を差し出す《伊勢大輔》、堂々とした《天保歌妓》、耳元でささやく《春宵》、大伴黒主の陰謀の書き込みを万葉集草子から洗い流した《草子洗小町》。

3章−2 日々のくらし、母と子の愛情: お気に入りは、子供も一緒の《虹を見る》、蝶を見守る《春粧》、イチローのようなS字形の構えの《春雪》、針に糸を通す《夕暮》、破れた障子を修理する《晩秋》。

3章−3 静止した時間、内面への眼差し: お気に入りを強いてあげれば、《新蛍》、《簾のかげ》、《鼓の音》、《初夏の夕》、《鼓の音》など。

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三菱が夢見た美術館: 三菱一号館美術館

 

 この美術館の開館記念展第2弾。前回の「マネ展」が高橋明也館長のお得意の展覧会とすれば、今回は三菱お得意の「岩崎家と三菱ゆかりのコレクション」展。

岩崎弥太郎:猛虎一声山月高序章: 「丸の内美術館」計画 三菱による丸の内の近代化と文化: ここでは、コンドルの設計図《丸の内美術館》がポイント。不思議なことに、この美術館にはトイレがない。

第一章 三菱のコレクション 日本近代美術: ここでは、山本芳翠の十二支が見もの。伝山本芳翠の《花》はとても美しいが、これはサインからみて、むしろ川村清雄の作品ではないかという。黒田清輝の《裸体婦人像》は、展覧会で下半身を覆われた「腰巻事件」の張本人。同一画家の《春の名残》、岸田劉生の《童女像(麗子花持てる)》・《静物》、安井曽太郎の《菊》もお気に入り。

第二章 岩崎家と文化 静嘉堂: 国宝《曜変天目》は何回かお目にかかっているが、これは門外不出で今回も短期間の展示。有名な茶入《付藻茄子》・《松本茄子》も再見。野々村仁清の派手な《色絵吉野山図茶壷》や橋本雅邦の《龍虎図屏風》は今回始めてみた。岩崎弥太郎の一行書《猛虎一声山月高》は、出だしは上手いが、終わりのほうはちょっと力がない 南宋時代の《周礼》・《李太白文集》、室町時代の《徒然草》、江戸時代の奈良絵本《羅生門》など文庫の所蔵品はすべて初見。しっかりと楽しんだ。

第三章 岩崎家と文化 東洋文庫: 国宝が2点出ている。中国最古の詩集「詩経」の一部である《毛詩》と中国南北朝時代の詩文の注釈集《文選集注》。《義経記》、《東方見聞録》、《ロビンソン・クルーソー漂流記》、《ターフェル・アナトミア》、《解体新書》、ジョン万次郎談の《難船人帰朝記事》、土佐海援隊蔵板の《和英通韻以呂波便覧》も面白かった。

第四章 人の中へ街の中へ: 日本郵船と麒麟麦酒のデザイン 美人画風のポスターでは橋口五葉、多田北烏のもの、船自体のポスターではゲオルギー・ヘミングの作品が良かった。

第五章 三菱のコレクション 西洋近代絵画: お気に入りは、ミレー《ミルク缶に水を注ぐ農婦》、ルノワール《長い髪をした若い娘》・《パリスの審判》、マルケ《トリエル・晴れた日》。

 分かりやすい組み立ての展覧会だった。それぞれの章は今後もう少し掘り下げた展覧会になるのだろう。

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田中一村 新たなる全貌: 千葉市美術館

 

  2006年「とちぎ蔵の街美術館」で開かれた「田中一村の世界」を見て、この画家の概略を知ることができた。「新たなる全貌」という今回の展覧会の副題は、今回の展覧会に合わせて全国規模の調査研究を行い、今まで隙間になっていた一村の経歴の穴埋めができてきたという意味のようである。

1.東京時代:: 一村の父は彫刻家で、一村に米邨(べいそん)という号を与え天才教育を行ったらしい。今回の展覧会には7歳時の短冊や9歳時の色紙が出ていたが、まことに見事なものである。10代で南画に自在な才能を発揮し「神童」と呼ばれていたとのことである。

 1926年に東京美術学校に入学したが、わずか2ヶ月で中退し、以後南画を描いて一家の生計を立てた。しかしこの時代の作品は次第に売画の富貴図ばかりとなり、折角の才能が朽ちていくことがはっきりと認められる。一村自身もこのことに気づいたのであろう。1931年ごろ、そして自らの心のままに描いた象徴的な日本画《水辺にめだかと枯蓮と蕗の薹》は後援者には受け入れられなかったため、後援者とも縁を切り、自らの力で画道に精進することとなった。

2.千葉時代: 1938年に千葉に暮らすようになった。 この時代には一村は温和な千葉近郊の風景画や花鳥画を沢山描いている。蕪村・鉄斎・木米・八大山人に倣った山水画や観音図なども描いているが、これは戦後の生活のためだったのかもしれない。1947年には川端龍子主催の青龍展で《白い花》が入選したが、その後の日展や院展では落選して、中央画壇への絶望を深めた。1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意した。おそらくお金のために描いたと思われる天井画や襖絵も巧い。

田中一村:奄美の海に蘇鉄とアダン3.奄美時代: 1958年に50歳で奄美大島に渡り、大島紬の染色工で生計を立てながら絵を描き始めた。そこでは、一村は完全に孤立していたわけではなく、島の人との交流を物語る色紙などがのこっている。1977年69歳で没。その後、日曜美術館で田中一村が紹介されて以来、日本のゴーギャンとして有名になった。

 奄美時代作品は大胆な大作が多く、素晴らしい色彩である。《奄美の海に蘇鉄とアダン》では、奄美の花や樹の向こうの海上に三角形の岩が描かれている。幸せはこの「立神」を通って奄美の島にやってくるという。ゴーギャンのタヒチの雰囲気に似ている。

 栃木でも観た《アダンの浜辺》に再会した。アダンの実がいかにも印象的だが、展示されていた一村の手紙を読むと、「空の雲と浜辺の小石の表現に満足した」となっていた。そういう目で見れば、灰色の雲は生き物のようだし、小石は実に丁寧に描かれていた。

 《不喰芋と蘇鉄》は、激しい色彩の乱舞のエネルギーに圧倒される。「クワズイモ」の一生を描いたものらしい。出展リストを通観すると、まだまだ製作時期が不明のものが多く、この画家の研究はまだまだであることが分かった。

(2010.8a) ブログ


納涼 妖怪・化け猫: UKIYO-e TOKYO

 

国芳:見立東海道五十三次 岡部 猫石の由来 オバケには2種類ある。ひとつは鬼・化け猫・河童・土蜘蛛などの異形の動物、すなわち化け物。第二は、幽霊・怨霊などの恨みを抱いて死んだ人間。

1.幽霊: 源氏に滅ぼされた平家の怨霊2点、逆に清盛に殺された源氏の怨霊、伊賀局の讒訴によって自殺に追い込まれた藤原基任の亡霊、幼子を残して死んだ母親の亡霊、六条御息所の霊に取り付かれて殺された夕顔の幽霊、桜吹雪の中に立つ遊女の精霊、洗濯物を幽霊とまちがった弥次・喜多がそれぞれ一点ずつ。

2.化け物: 化け猫11点、鬼4、土蜘蛛4、狐3、狸2、河童2、蝦蟇1、舌切り雀1、その他の怪獣4が主人公。

 絵師は、国芳11点、国貞10、芳年10の3人で大半を占める。その他は、広景3、二代国貞2、周延2の他、国虎・国周・暁斎が各1点。

 面白かったのは、国貞の《尾上松緑死絵》。幽霊ものを得意とした松緑の死を悼んで、酒呑童子、ろくろ首、土蜘蛛、犬神の犬、すくと院の天狗、天竺徳兵衛の蛇、なかさひな尊者の龍、道成寺の般若、蝦蟇仙人のぶすま、仁木の鼠、同 蝦蟇が集まってきている涅槃画。

 もうひとつ面白かったのは、芳年の《戯画帖 応挙之幽霊》。幽霊画で稼いだ円山応挙が幽霊にされてしまっている。

(2010.8a) ブログ


BASARA展: スパイラルガーデン

 

天明屋尚:思念遊戯 現代美術家・天明屋尚氏のキュレーション。

 チラシには、「侘び・寂び・禅の対極にあり、オタク文化とも相容れない華美(過美)で反骨精神溢れる覇格(破格)の美の系譜『BASARA』をテーマに、大胆かつダイナミックな和の世界が展開されます」と書いてある。

 辻惟雄の「日本美術の歴史」によると、時代や分野を超えた日本美術の特質は、@かざり、Aあそび、Bアニミズムであるとされている。

 「ばさら」とはこのような日本美術の特質の具体的な表現であるともいえる。おもしろい発想の企画だった。

(2010.8a) ブログ


有元利夫展: 東京都立庭園美術館

 

厳密なカノン 38歳で夭折した画家の没後25年回顧展。シュールな画である。

 画家の脳裏に浮かんだままに描かれ、画家の思いつくままにタイトルがつけられたのではあるまいか。

 一人だけの不思議な人物が繰り返し出てくる。2年前にこの美術館に棲み付いた舟越桂の怪人たちが、画となって再訪してきたかのようである。

 暑い夏の邸宅にはピッタリの企画だった。

(2010.8a) ブログ


唐招提寺: TNM & TOPPAN MUSEUM THEATER

 

 修理が完成した金堂のVRと御影堂内の東山魁夷の障壁画が今回の見せ所。

 すっきりとした作品だった。

(2010.7a) ブログ


いのりのかたち: 根津美術館

 

金剛界八十一尊曼荼羅(部分 この美術館の仏教美術コレクションがまとまって出ている。まずホールやその奥に常設の仏像がある。その中の重美は《十一面観音立像龕》(唐時代 7世紀) と《地蔵菩薩立像》 (平安時代 1146) 。

 これに加えて今回は特別展として沢山の重美級の仏画・仏像が登場している。《阿弥陀如来坐像》(高麗時代 1306)は、朱色がはっきり残っている。画の中に元に出かけた忠烈王(1236- 1308年)の早期高麗帰国願文が書かれているとのこと。

 《大日如来坐像》(平安時代 12世紀): 青、赤、緑、紫の濃淡を段階状に塗り分ける繧繝彩色(うんげんさいしき)に、金・銀の輝きを組み合わせた優美華麗な装飾を施した宝壇、壮麗を極める五智宝冠や着衣には引き込まれる。

  《金剛界八十一尊曼荼羅》(鎌倉時代 13世紀)が今回の目玉。まず216.0 x 209.8cm の大きさにびっくりする。優美な仏像と花が散らされたこの曼荼羅は、わたしが今まで見たもののナンバー・ワン。平安時代の円仁が唐より持ち帰ったものの複写ということであるが、それにしても細部まで色彩が残っている。

 《不動明王立像》(平安時代 12世紀): これはかっこいい仏さま。小像ながら存在感がある。色彩がしっかり残っており、しかめっ面がなんともいえない。


 《十二因縁絵巻》(鎌倉時代 13世紀): これは面白い宗教説話絵巻。十二因縁とは、現実の人生の苦悩の原因。この絵巻は、折た王(せったおう)が羅刹(鬼)にたとえられた12の因縁を次々にたずね、ついに苦悩の根本である無明羅刹を降伏させるという内容。

(2010.7a) ブログ


トリック・アートの楽しさーだまされる楽しさ: 損保ジャパン東郷青児美術館

 

佐藤正明:Subway No23 今回の展覧会は現代アートにおけるトリック・アートを紹介している。高松市美術館のコレクション。

 章立ては、第1章 虚と無をめぐって、第2章 オプ・アートとライト・アート、第3章 スーパー・リアリズム、第4章 古典絵画をめぐって。

 お気に入りは、高松次郎、名和晃平、上田薫、佐藤正明、金昌烈、福田美蘭。

 なかなか楽しい展覧会だった。

(2010.7a) ブログ


奈良の古寺と仏像 會津八一のうたにのせて: 三井記念美術館

 

金堂天蓋天人 法隆寺 平城遷都1300年記念の特別展。東京にいながらにして、これほどの数の国宝や重文の仏像・仏具に接する機会は少ない。

A. 金銅仏: 飛鳥〜奈良時代の小さな金銅仏がずらり。・《釈迦如来及び脇侍像(戌子年名) 法隆寺》、・《菩薩半跏像(伝如意輪観音) 東大寺のものと岡寺のもの》、・《押出吉祥天立像 唐招提寺》、・《押出阿弥陀三尊及び僧形図 法隆寺》、・《菩薩立像 法隆寺》。

B.會津八一関係資料T: 壁面には、法隆寺金銅壁画のコロタイプ印刷版の軸。そこに書かれた八一の歌は「おほてらの かべのふるゑに うすれたる ほとけのまなこ われをみまもる」。ケースの中には、八一の書「学規」のほうに目がいった。 曰く、一.深くこの生を生きるべし、一.かえりみて己を知るべし、一.学芸を以って性を養ふべし、一.日々新面目あるべし。

C.奈良の古寺と仏像T: こちらには、東大寺、西大寺、唐招提寺、薬師寺の仏さま。・《四天王立像 東大寺》、《五劫思惟阿弥陀如来坐像 東大寺》、・《塔本四仏像 西大寺》。

D.仏教工芸品: 錫杖、磬、舎利塔・厨子、鬘、天蓋などのすばらしいものが出ていた。キャプションにそれぞれ使い方のマンガが書いてあってよく分かった。 お気に入りは、《黒漆塗舎利厨子 興福寺》、国宝《金銅宝塔 西大寺》、《十三重石塔納置品 般若寺》、《厨子入智光曼荼羅図 元興寺》、《金堂天蓋天人 法隆寺》。

E.會津八一関係資料U: ここには八一の書、歌書、歌碑拓本がいくつも出ていた。お気に入りは、《會津八一筆「すいえんの」の歌+杉本健吉画の朱色の「飛天図」》。F.奈良の古寺と仏像U: これは、長谷寺、室生寺、当麻寺、橘寺、法隆寺、大安寺、秋篠寺、元興寺の所蔵の仏さまたち。 お気に入りは、《十一面観音菩薩立像 長谷寺》、・国宝《釈迦如来坐像 室生寺》、・《吉祥天立像 当麻寺》、・《伝日羅立像 橘寺》、・国宝《観音菩薩立像(夢違観音) 法隆寺》、・《広目天立像 大安寺》、・《聖徳太子立像 元興寺》、・《如意輪観音菩薩坐像 元興寺》。

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屏風の世界ーその変遷と展開: 出光美術館

 

南蛮屏風 T.”日本式"屏風の誕生: 中国では風よけに使われていた。日本に伝わってから最初は山水屏風が密教儀礼に使われていたが、装飾的な大画面屏風へと変化していった。《山水(さんぜい)屏風 南北朝》は、高僧の背面に置かれていたもので、地味な景観画。これに対し、《日月四季花鳥図屏風 室町》はド派手な屏風。《四季花木図屏風 伝土佐光信》は落ち着いた好品。《四季花鳥図屏風 能阿弥》はすっきりとした水墨画で、鳥たちが生き生きとしている。《四季花鳥図屏風 伝雪舟等揚》の淡彩は美しいのだが、全体的には不安定な構図。《西湖図屏風 狩野元信》は、名勝のゆったりとした風景。椅子に座ってじっくりと眺めた。

 U.物語絵の名場面: 《天神縁起尊意参内図屏風 室町時代》は、牛と波の表現が劇的。《業平東下り図屏風》の富士山を業平の位置から見ると迫力満点。《宇治橋芝舟図屏風 桃山時代》は、金地の派手な屏風。《蟻通・貨狄造船図屏風 伝岩佐叉兵衛》の右隻に描かれているのはギョッとする船。《三十六歌仙図屏風 伝岩佐叉兵衛》の上部は歌仙図、中央以下は団扇図流し。《源氏物語図屏風 岩佐勝友》の細密描写に驚かされる《源氏物語澪標図屏風》の裏面の松の樹には葦手で文字が描き込まれている。

 V.風俗画の熱気(前期): 《南蛮屏風 桃山時代》を折り曲げた屏風を見ると、船が黄金の雲から飛び出してくるように見える。《祇園祭礼図屏風 桃山時代》は、人物が比較的大きく描かれているのでわかりやすい。《江戸名所図屏風 江戸時代》は、色落ちもなく、各所の詳細がはっきりと分かる。双眼鏡でじっくりと楽しんだ。《阿国歌舞伎図屏風 江戸時代》では多少色落ち。《大阪夏の陣図屏風 江戸時代》の城内は良いとして、場外は悲惨な残酷物語。《世界地図・万国人物図屏風 江戸時代》に、北極や南極から見た図も挿入されているのに驚いた。

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錦絵の美―国貞・広重の世界: 静嘉堂文庫美術館

 

国貞:江戸自慢 4万6千日 静嘉堂の浮世絵コレクションは岩崎弥之助の妻、早苗夫人(後藤象二郎の長女)の遺愛のもの。美人画中心の「歌川国貞展」が1996年に開かれるまで、その存在すらほとんど知られていなかった。

 今回は国貞・広重展となっているが、主力はやはり国貞の美人画。

  「今風化粧鏡」、「星の(や)霜当世風俗」などの揃物や三枚続がたくさん出ていて楽しめた。今回の広重は完全なさしみのツマながら、国貞と合作の《双筆五十三次》と《六十四余洲名所図会》のシリーズの一部が出ていた。

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