日本美術散歩 06-3 (海外美術は別ページ)
化け物の文化誌展 06.10 | 荒木経惟ー東京人生 06.10 | 歌川国芳 06.10 | 駅2006 06.10 |
大江戸動物図館 06.10 | 田中一村 06.10 | 浦上玉堂 06.11 | 美ボ展 06.11 |
UKIYO-E 06.11 | 山本丘人展 06.11 | 現代日本画名作展 06.11 | 大川美術館 06.11 |
揺らぐ近代ー日本画と洋画のはざまに 06.12 | 東京国立近代美術館 常設展 06.12 | 応挙と芦雪 06.12 | 興福寺国宝館06.12 |
興福寺東金堂 06.12 | 奈良国立博物館 06.12 | 千住博展 06.12 | 迷宮+美術館 06.12 |
旅行けば:練馬区立美術館 06.12 | 山口晃個展:ラグランジュポイント 06.12 | 戸方庵井上コレクション 06.12 | 大津英敏展 06.12 |
柄澤齋展 06.12 | 摺師・正文堂の仕事 06.12 | 川柳と浮世絵で楽しむ江戸散歩 06.12 | 川崎小虎と東山魁夷 06.12 |
目 次
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初めて川崎小虎の絵をまとまって見ることができました。山種美術館で大分前に《ふるさとの夢》というメルヘンティックな大きな画を見たきりです。今回は初期の大和絵風のものから、西洋的な題材の絵に変わっていく経緯がよく分かりました。大和絵といっても小虎のは淡い色彩でホンワカした絵です。私が気に入ったのは《囲碁》という絵です。2人のお姫さまが囲碁を楽しんでいますが、碁盤、碁器、手あぶりの蒔絵の表現がとてもリアルです。 だんだんに、西洋的なテーマになっていきます。静物、動物、鳥、人物そして自転車の絵まで描いています。どれも穏やかな色彩で気持ちが和む絵で、《小梨の花》《春庭》《ひよこ》が私は好きです。《春庭》では2匹の仔犬が体を寄せて気持ちよさそうに庭で寝ている絵です。 小虎の女婿である東山魁夷の画は相変わらずの風景画。これも穏やかな絵です。多分小虎も魁夷も穏やかな豊かな生活を送ってたのでしょう。(2006.12t) これほど沢山の川崎小虎を見たのは初めてである。ロマンティックな絵で見ていて疲れない。お気に入りの第一は《沈鐘》。水底に沈んでいる。緑の水草に囲まれて眠っているようである。《狐火》は上杉謙信の娘八重垣姫が婚約者の武田勝頼に父の罠を知らせんと摺るところ。《小梨の花》は三浦環宅の玄関。《春の訪れ》、《囲碁》、《教会堂の夜》、《浜に立つ女》、《麻布に桃》、《行く秋》、《雪静か》、《春庭》、《最果ての駅》、みみずくの《三兄弟》も良かった。 小虎が見せた写真集の景色を尋ねて東山魁夷夫婦が北欧を廻って画を描く話も良い。《白夜》はスウェーデン、《林のささやき》はデンマーク、《スオミ》はフィンランドとのこと。二人とも絵巻の模写をしている。小虎は《土蜘蛛草紙》と《百鬼夜行》、魁夷は《信貴山縁起》と《伴大納言》。小虎の遺伝子は子供の鈴彦、春彦、麻児に伝わっていることがそれぞれの展示作品から分かった。(2007.1a) |
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川柳は江戸時代から多くの人びとに親しまれている。俳句が主として自然を詠んでいるのに対して、川柳は人情の機微や社会生活の矛盾などをユーモアや風刺を込めて口語調で詠んでいるのが特徴である。 今回の展示には、江戸名所・旅・なりわい・吉原・歌舞伎・信仰・遊戯など、江戸時代の人びとの暮らしの哀歓を詠んだ句が約200点並んでいる。これについては入口で配布された川柳の解説書を読むとよく分かることになっている。 そして、それぞれの川柳に関係のある事象について、歌麿・写楽・北斎・広重ら著名絵師が描いた浮世絵や版本を出展されている。そのほか吉原で用いられていたきせるやたばこ盆、寺子屋で使用されていた机や本箱といった民具や遺物も展示されている 。 私はもっぱら浮世絵の鑑賞をしたいのだが、川柳も気になってつい説明書のほうにも目がいく。集中すべき対象が二つあるため、かなり時間がかかる。そして疲れる。一緒に行った家内はその後の予定があるため30分で出て行ったが、わたしは3時間もいて浮世絵の作者や画題を書きとめたりした。 一例をあげると、有名な広重の《名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿》が展示されている。例の大きな馬の脚の向こうに宿場が見えている画である。ここの川柳は「新宿の子供は早く背が伸び」である。案内書を読むと、馬糞を踏むと背が伸びるという俗説を踏まえて詠んでいるということが分かるという仕掛けである。 もう一例。ゴッホが模写したことで有名な広重の《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》の傍の川柳は、「いい日和梅から亀へおし廻し」。この場合の梅とは亀戸の梅屋敷、亀とは亀戸天神の略称で、小春日和だからこの2ヶ所を廻るといった意味。これは広重の画やそのタイトルをみれば何となく想像がつくが、やはり説明書を見てしまう。 したがって、まずこの説明書を手に入れて、これを読んでおいてからこの展覧会に行くのが正解であろう。入場料は僅か100円であるから、費用は問題ではない。 この企画展は4階で開かれていたが、2階に降りると「ミニ企画コーナー」があって、館蔵の浮世絵が出ていた。河鍋暁斎の博物図《古今珍種》、国芳の《風流人形 当盛見立て人形の図 二かい座敷の図》と《一流曲独楽 竹澤藤次》、作者不明のラクダ図が面白かった。(2006.12a)
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横浜で摺師・佐藤正夫(1901-82)親子が営んでいた「正文堂」の作品ならびに道具の展示である。浮世絵の復刻版画の仕事もされたそうだが、今回展示されているのは団扇、クリスマスカード、ポチ袋、千社札、結納目録、懸け紙、マッチラベルなどの日用品である。普通なら捨てられてしまうようなものであるが、ここに陳列されているものを見ると立派なアートである。 摺師とは「一枚の馬連(ばれん)を懐中にして飛び出せば、何処に往っても、食うに困らないといふ、腕一本の職業である」という。その馬連が展示してあり、右のポスターにも大きく印刷されている。
懸け紙では「横浜名物 千代田の栗最中」のイガから飛び出す栗が上手く描けていた。 マッチラベルでは「かつ半」の豚の顔が面白かった。豚が三段に摺られているが、これは後で奥さんが切り離してマッチ箱に貼り付けたとのことである。ちなみにこの「かつ半」は現在も中区長者町6丁目で営業中。 カラー印刷の発達により、正文堂は20年ほど前に廃業しているが、残された作品や道具をみると、彫師や摺師が手間暇かけて作ったアートが実用に供されていたのはそれほど昔ではないことに気づく。木版画の歴史の一面を教えてくれる良い展示である。 そのあと常設展もみてきた。入口におおきな仏像の複製があった。鎌倉浄光寺の《木造勢至菩薩》で鉈彫りの味がよく出ていた。これも複製だが、伊勢原市宝城坊の《日向薬師》も良かった。 画では、横浜宝生寺から十王図が4枚出ていた。地獄の裁判官であるが、かなりの迫力。 室町時代の啓孫の《出山シャカ図》も味わいのある画だった。 丹波コレクションから摺りの良い浮世絵が多数展示されておりエンジョイした。とくに一龍斎芳豊の《中天竺舶来大象之図》は1863年にマラッカから来た像を描いたもので、遠州屋彦兵衛版のものだった。 五姓田義松の《少女像》はかわいらしい田舎風の娘、《一ツ橋》・《風景》もそれなりに楽しめた。 (2006.12a) |
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柄澤 齊(からさわ ひとし)の名前を知ったのは最近のことである。松涛美術館で開かれた「迷宮+美術館ー コレクター砂盃富男が見た20世紀美術」で非常に印象的な二つの柄澤 齊の作品を観たからである。それは大腿骨にアダムとイヴを描き込んだ《神話B》と裏返しの心臓が載せられているラテン語が書かれた皿《地の皿》であった。 ところが偶然のことに柄澤 齊の初めての回顧展が鎌倉で開かれているという情報を知ったので、なんとか時間を都合して閉展前日に滑り込んだ。 「イメージの迷宮に棲む」という形容詞が柄澤の上についている。二つの展覧会は「迷宮」というキーワードを共有しているのである。 観客はそれほど多くないが、拡大鏡を持ってしっかりと観ているような人もいた。彼の得意とする木口木版は黄楊(つげ)の木を輪切りにしたものであるから比較的小さい。それでもそこに細密に彫りこまれている。そのイメージの多くは独創的・幻想的・文学的で、適当な遊びもある。 第T章 小口木版画がこの展覧会の中心で、初期中間版画、肖像T−XXX、死と変容、方丈記、植物の睡眠などに細分されていた。この木口版画が所狭しと掛けられている展示室にたたずむと、本当に異次元の世界に連れ込まれた感じがする。 第U章は、コラージュで摺り損じた材料を貼り付けたものと書いてあるが継ぎ目がまったく分からない。 第V章は、リーブル・オブジェ。西洋の古書を利用した立体コラージュやボックスオブジェであるが、柄澤の文学に対する傾倒が表れている。 第W章は、水彩・素描(細密画)であるが、彼の技術の高さを示している。第X章は墨の作品「和風マーブル」、第Y章は装画・装丁・挿絵である。 お気に入りの作品は↓
図録も素晴らしい。本の装丁・装画も手がけるアーチストだけに、図録そのものがアートである。新作の版画1枚がおまけで付いていた。 (2006.12a) |
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群馬の経済界の重鎮井上房一郎のコレクションで、群馬県立近代美術館に寄贈されている。これは日本と中国の水墨画のコレクションとしては全国でも指折りの質の高い有名なものである。 200点以上のコレクションの中から、今回は厳選された60点あまりが出展されている。 日本絵画だけでも、一休、雪村、狩野永徳、元信、山楽、探幽、海北友松、岩佐又兵衛、宮本武蔵、俵屋宗達、尾形光琳、乾山、中村芳中、酒井抱一、池大雅、池玉潤、浦上玉堂、丸山応挙、谷文晁、司馬江漢、北斎、大塩平八郎、白隠、仙高ニくればオールスター勢ぞろい。 主な作品の感想を下記にまとめてみる。
(2006.12a) |
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古色蒼然たるビルの5階の会場に入ると、6幅の広い軸装の「六武人図」が待っている。墨の濃淡が巧みである。武人の持物を、壱と弐は1本の大刀、参は2本の大刀、四は錫杖、五はなんとマシーン・ガン、そして六は弓。姿勢はそれぞれに異なり、動的である。
最後の部屋に入ると今回の展覧会のダイレクトメールの原図と桃と椿の花図が展示されていた。その部屋に山口氏がおられたのでしばらくお話しをした。六武人図や隠し部屋の武人群図は自分の自由な発想から生まれたものだそうであった。 今回の展示は意外なテーマであるともいえるが、これは氏の持ち前のユーモア精神と観客を飽きさせないサービス精神に基づくものであろう。解説によると「今回の作品では図像を読み解く事から更に意識を広げて『絵を体験する』というテーマに挑戦した」とのことである。これが今回のラグランジュポイントという展覧会名の意味なのであろう。 (2006.12a) |
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一言でいうと風景画展。しかしこれだけの展覧会を自前のコレクションだけでできるのだから、練馬区の実力は凄い。 主な油彩・水彩の画家の名前を挙げると、麻田鷹司、奥田元宋、小野具定、田崎広助、斉藤長三、池田幹雄、福井爽人、榑松正利、中尾彰、大沢昌助、塙賢三、山口薫、水田舜人、河井新蔵、田辺三重松、鳥海青児、萬鉄五郎、野見山暁治、佐藤敬。 この他に昭和初期の「日本版画協会」が選んだ「新日本百景」のうち17点も出品されていた。このシリーズは美術出版社の「浮世絵の歴史」にも書かれていないもので、今回初めてお目にかかった。学芸員らしき女性に聞くと、「新日本百景」のコレクションはこの美術館の誇りだとのことである。台北や平壌の風景が日本の風景の中に入っているだけでなく、その選定文書には「銃後の眼」・「報国精神」・「木版部の総動員」などいう文章が存在しいている。このため戦争記録画の場合と同じくアジアの人への反応を考えてあまり公にされなかったのではあるまいか。 主要な作品はデータベースに著作権を保護された画像として美術館のホームページにアップされているので、下記の感想表からリンクを張っておいた。
(2006.12a) |
迷宮+美術館 コレクター砂盃富男が見た20世紀美術:松涛美術館
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渋谷区立松涛美術館のこの展覧会はいつでも観られると思っていたら最終日になってしまった。 いさはい・とみお氏はユニークな人である。日銀マンだったのだ。そのくせ自分で20世紀アートを制作・評論・蒐集するという三面六臂の阿修羅のような人物だ。1992年から2001年まで前橋市内で開館していた「イサハイ・ベル・イマージュ美術館」に展示されていた砂盃富男のコレクションから今回出展されている。 観てみると、この展覧会は前衛美術の集合である。そして作者の数が多い。この砂盃氏は「20世紀美術のウォーキング・ディクショナリー」だったのだと思う。 展覧会の第1部は、海外作家のコレクション、第2部は戦争と画家たち、第3部は国内作家のコレクション、そして第4部は砂盃富男の活動である。 印象深かったのは、第1部ではヴォルスの毛の生えた《心臓》と着色された《ミル収容所》、ポスターの画であるサビエの《オスロから来た若い女》、書の影響を受けたアレシンスキーの作品、サム・フランシスのそのほかは青い《上部の黄色》などである。 第2部では、ピカソの《フランコの夢と嘘》、ミロのポスター《スペインを救え》、浜田知明の初年兵哀歌ともいうべき《風景》、上野誠の原爆の像《火の中の鳩》である。 第3部では、金子真珠郎の《Phase》、草間弥生の大きな点描《野に忘れた帽子》、小山田二郎の《鳥女》、柄澤斉の大腿骨にアダムとイヴを描き込んだ《神話B》と裏返しの心臓が載せられているラテン語が書かれた皿《地の皿》であった。 第4部の砂盃富男の作品としては《煌く森の炎》が良かった。また彼がクリスト/ジャンヌ・クロードの梱包藝術の紹介者であったことも初めて知った。 (2006.12a) 画家の説明のあるサイトへのリンク
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2004年11月に川越市立美術館で開かれていた「戦後美術俊英の煌き展(文化庁買い上げ美術作品展」で千住博のウォーターフォールを初めて観て、その感性の豊かさに感心していた。 ところが昨日から『フィラデルフィア「松風荘」襖絵を中心に』と言う副題の下に「千住博展」が開かれている。今朝の新日曜美術館ではこの襖絵の作成状況が映像で紹介されていた。千住博の「博」は右肩の「`(点)」を取った字だそうだが、ここでは「博」で代用させていただく。 フィラデルフィアのフェアモント公園内に現存する書院造りの「松風荘」は1954年に日米友好を願って、日本から米国市民への贈り物として、吉村順三の設計により建築されたものである。 当初の東山魁夷の襖絵は、管理上の不備により全て損傷してしまいまっていたが、最近になって千住がこの襖絵20枚を無償で制作、来年5月に寄贈されることとなっている。 今回、山種美術館でこの襖絵が初公開されているという。テレビを見終わってすぐに山種美術館に駆けつけた。 今日は昨日とはうって変わった好天気。半蔵門からの散歩も楽しい。まだ早いので襖絵を独占することもできた。特に第2室では、自分一人が三方の襖に囲まれるという幸運に恵まれた。 正面の垂直に落ちる一本の滝(左図)は、滝壺で三角形の飛沫をあげ、滝底では左右に線状に広がっており、宗教的な感動さえ覚える。してその両脇の襖画は奥のほうは山肌の色であるが、手前の方は堂々たる飛瀑で、轟々たる滝音が聞こえてくるようだった。正面の滝を本尊とすると、左右の滝は脇侍のようであり、この部屋全体がお寺の本堂のように思えてきた。 千住は現代アートで使われるアクリル絵具を流し込み、吹きつけ、最後に初めて日本画の筆を使用しているが、出来上がったこの作品はまさに日本文化の真髄を表現していた。米国におけるこのような千住の活動は、現在東京国立近代美術館で開かれている「日本絵画の揺らぎ」の延長線上にある。そしてこの襖画は、フィラデルフィアの「松風荘」という伝統的な日本建築の中で、「新しい日本絵画」として国際的に高い評価を受けることになると思う。 千住の古い作品としては、1984年のビルシリーズと呼ばれる《街・校舎・空》、《夜景》、《G市の記録》が出ていた。松本竣介ばりの象徴的都市画である。1987年の《月光》は斜め三列に分割した軸装の絵。1989年の《南方》は、左側は従来の日本画であるが右側は田中一村かアンリ・ルソーといった混淆的作品。1989年の《水・渓谷》は山が樹の年輪ように描かれた不思議な作品。同年の《四季・春》や2000年の《夜桜》はインパクトが弱い。1997年の《8月の空と雪》は墨をたらした画に小さな月を描き込んだものらしい。 最新作品の「フォーリングカラーズ」は、滝をいろいろな色彩で表現したものである。オランダの友人に勧められたものだという。確かに赤の滝は鮮烈であるが、10種類以上の滝が出てくるとアンディー・ウォーホルのマリリン・モンローや毛沢東のようでぞっとしない。 (2006.12a) |
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興福寺の境内を出て、地下道をくぐるとすぐに奈良国立博物館に着く。今回は本館に展示されている数多い仏像を見て回った。メインテーマは「大和の仏たち」である。 父が生前には毎週末に何時間もかかる列車に乗って京都や奈良の仏像に会いに行っていたが、わたしの場合仏像はコレカラである。西洋美術、日本美術と次第に自分の興味が広がってきたが、知識が増えるとともに面白さが深まってきている。仏像の場合も知識を少しずつ増やしていきたい。 ボランティアの方が付き添ってくださったので、楽しく会話しながら勉強することができた。あまり沢山観すぎて収拾がつかないので、ここでは今回の目玉展示を中心に記事を書きたい。 1.法隆寺金堂《多聞天立像》 法隆寺の金堂四天王像のうちの《多聞天立像》の展示が行われていた。飛鳥時代のもので、それ以後のものとも明らかに違う。仏像はなにげなくすっきりと立っている。すこぶる簡素である。後代の多聞天は悪い邪鬼を踏みつけているが、この仏像ではイタズラそうに首を持ち上げた天邪鬼である。 このように百済観音と同時期の国宝が何気なく平常展に展示されているところに奈良国立博物館の凄さがある。 ボランティアは四天王の説明をし始めた。マージャンの東南西北(トン・ナン・シャー・ペー)にあわせて持国天・増長天・広目天・多聞天(じ・ぞう・こう・た=地蔵買うた)、相撲の緑・赤・白・黒房に相当する、多聞天は単独では毘沙門天であるといったことである。持・増・広・多(じ・ぞう・こう・た=地蔵買うた)は知っていたが黙って聞いていた。 2.館蔵《兜跋毘沙門天立像》 「注目の逸品」コーナ−では、木造の《兜跋毘沙門天立像》が出ていた。これは館蔵の重文で平安初期に唐から伝来し現在は東寺にある兜跋毘沙門天立像の模刻である。これは11世紀の彩色像でなかなかの出来栄えである。仏像は大きすぎても小さすぎても異物感があるが、この像高は164 cmであるから人間並みの大きさで親しみやすい。 「兜跋毘沙門天」は西域の兜跋国(現在の吐魯番トルファンとも吐蕃チベットともいわれる)に出現したといわれ、王城鎮護のために城門に安置されるものである。通形の毘沙門天は邪気を踏んでいるが、兜跋毘沙門天は地天女が下から支えているのですぐに分かる。東京国立博物館の「仏像展」にも藤里毘沙門堂のものが出品されていた。 この仏像は、鳳凰を現した宝冠をかぶり、特殊な外套のような服をまとい、腕には海老籠手、脛には脛当を付けている。 3.その他 すぐお隣の興福寺からも国宝の脱活乾漆立像3体と行賀坐像が来ていた。興福寺の「国宝館」が狭すぎるからだろうか。 また光背だけを集めたコーナーがあり、驚いた。とくに当麻寺の《木造光背》は素晴らしい色彩が残っていた。 (2006.12a) |
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建物自体が国宝に指定されている。柱は太く、触ってみると15世紀の樹の勢いが伝わってくる。前一間が吹き放しとなっており寒い風が入ってくる。このような環境で鎮座しておられる仏たちは皆力強い。 1.薬師如来坐像 (室町時代、1415年):銅造。 堂々とした威厳をたたえた仏像である。もともと726年に聖武天皇が元正天皇の病気平癒を願って作られた仏像の再興像。 2.日光・月光菩薩立像 (白鳳時代、7世紀末): 銅造。国宝館にある仏頭とともに1187年、飛鳥山田寺から興福寺の僧が奪ってきたもの。 3.文殊菩薩坐像(鎌倉時代初期): 寄木造。ふくよかな丸顔で、体格も良く、若々しさが伝わってくる。円座の下に獅子。これは「興福寺国宝展」でみた。 4.維麻居士坐像(鎌倉時代、1196年、定慶): 寄木造。写実的な彫刻として広く知られている。眉をひそめ、こちらを睨みつける激しい容貌や痩せた肉体は文殊菩薩と対照的である。四角座の下に獅子。これも「興福寺国宝展」でみた。 5.十二神将像(鎌倉時代初期): 寄木造。ダイナミックな動きの表現が素晴らしい。いずれの像も頭上には十二支の標幟をつけているが、暗いので単眼鏡で見ても識別できない。大部分は「興福寺国宝展」でみているはずだが、どれを見たのかも覚えていない。 6.四天王立像(平安時代初期): 一木造、怒りの表現が見事である。 (2006.12a) |
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2004年の「興福寺国宝展」で観ることが出来なかったホトケサマだけに御会いするつもりだったが、再会を果たした仏像の前からも去りがたかった。国宝に指定されている仏像に限ってメモしておく。リンクは文化財データベースに張らせていただいた。 1.仏頭 (白鳳時代、685年): もとは滅亡した蘇我氏を追慕する飛鳥の山田寺の本尊である金銅の丈六薬師如来像。1187年に興福寺の僧に奪われて東金堂の本尊となった。1411年の火災で完全に失われたとされていたが、1937年に現在の本尊の台座の中から頭部だけが発見された。 2.阿修羅 (天平時代、734年): わが国でもっとも人気のある仏像のひとつ。前回は何時お目にかかったか忘れている。修学旅行の時かもしれない。 釈迦の請願を守護する八部衆の一人だが、昔は悪鬼だったとのこと。 像は三面六臂、上半身は裸である。顔は正面は眉をひそめた深刻な表情であるが、左右の面はいたって無表情な少年のような顔つき。余分な筋肉がそぎ落とされ、広く伸びた4本の腕と合掌した2本の腕はこの像に素晴らしい空間性を与えている。 「はりぼて」のような乾漆像で軽いため火災の際にも持ち出され、助かったのであろう。鳥の頭を持った異形の迦楼羅を含むその他の八部衆や十大弟子のなかの六像も乾漆像である。 3.板彫十二神将(平安時代): 素晴らしい出来栄えで、それぞれの特徴が良く表現されている。動きのあるものはトクに印象的。日本にもこのように世界に通ずる技法が普及していたとは知らなかった。 4.法相六祖(鎌倉時代、1189年、康慶): 一部は「興福寺国宝展」でお目にかかっている。とても写実的な彫刻であることを再確認した。 5.金剛力士(鎌倉時代): 口を開けた阿形と口を閉じた吽形。この印象的な作品は東京の展覧会では異彩を放っていたが、奈良では仏様の中にそれなりに安住していた。 6.天灯鬼・龍灯鬼(鎌倉時代、1215年、康弁): 口を開け、左肩に燈籠を担ぐ赤鬼「天灯鬼」と口をヘの字の結んで燈籠を頭に乗せる青鬼「龍灯鬼》にも再会できた。またお会いしたいユーモラスな作品。 7.千手観音(鎌倉時代): 国宝館の中央に堂々と安置されている。天井まで届きそうな背の高さ。これでは東京の展覧会に持ってくるのは不可能である。持物の多様さは驚異的。 (2006.12a) |
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ブログに書いた次第で久し振りに奈良に来た。この県立美術館はまったく色気のないハコ。でも今回の中味は抜群。応挙と芦雪の師弟展である。前期とほとんど総入替の後期最終日に滑り込んだ。
テーマ別に応挙と芦雪が並べられ自然と両者を比較するように仕組まれている。その計画に乗って感想を書くことにする。
さてこうやって観てくると、応挙は努力の人であり、そして芦雪は感性の人であるということがいえる。静と動という違いに目を向ける人もいる。このようにそれぞれの個性に違いがあることは確かであるが、この二人の画家にはこれらの相違を上回るだけの数多くの共通点・類似点があることを今回の展覧会は教えてくれた。自分自身、今まで二人の相違点にばかり目を向けていたのではないかという気がしてくる。 人物・花鳥・山水のいずれにおいても画題はきわめて似ている。二人の子供に対する愛情深い眼差しを見るだけで、この二人の師弟としての連続性を読み取ることができる。応挙の《波状白骨座禅図》を観ると、彼も芦雪の負けない「遊び心」を持っていたことが分かる。そのような自由な描き方が出来たか否かは、画家自身の個性によるというよりも、その置かれた環境によるのではなかろうか。 (2006.12a) |
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T.明治・大正期の美術 U.昭和戦前期の美術
V.戦争記録画
W.1950-60年代の美術 (2006.12a) |
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日本画と洋画という二つのジャンルに区別されたのは1907年の文展である。この展覧会は日本画と洋画の並存という100年以上続いたこの事実を見直してみようとするものである。この観点から近代絵画史を考えると、作品、画家の側の視線と制度の視線の不一致という事実がクローズアップされる。 この展覧会を観ていくと、実際にはこの二つのジャンルは初めはそれほどはっきりしたものではなく、かなり人為的なものだったことが良く分かる。 ある画家は洋画家から日本画家への変身を遂げている。その逆もある。ある画家は一つの画の中に大和絵・南画・浮世絵など伝統的な日本画の要素と洋画の要素を混在させた画を描いている。画のコンセプトのみならず、屏風や掛け軸と額縁といって形式、さらには絵具などの材料が混在していることがある。 このような日本画と洋画の中間に属する作品を観ると、両者の住み分けに慣らされてしまっているわれわれ現代人は、なにか不安定ともいうべき不可解な感覚にとらわれる。 第一章 狩野芳崖・高橋由一、日本画と洋画の始まり: 狩野芳崖の《仁王捉鬼》が西洋顔料の強い色彩によって彩られ、高橋由一の《鯛(海魚図)》が江戸絵画に似た構図を示すように、日本画と洋画はその「はざま」に位置する作品からはじまった。高橋由一の《写生帖(瞬間弄写)》は北斎漫画の再現のようである。 第二章 日本画の深層、日本画と洋画の混成: 画家たちは日本画と洋画の「はざま」で手探りで実験的な制作を行い、試行錯誤した跡が見てとれる。河鍋暁斎の《河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』パリス劇場表掛りの場》、ボストン美術館から来たビゲロー・コレクションの小林永濯の三作品や橋本雅邦の《弁天》は見応えがある。彭城貞徳の《和洋合奏之図》はヴァイオリンと尺八の合奏、日本的油彩画を貼った《油絵屏風》も面白い。 川村清雄の《瀑布》も良かった。 第三章 日本絵画の探求 日本画と洋画の根底: 日本画と洋画という概念が整えられてもなお、日本画家は日本画の革新を、洋画家は洋画の日本化を求める傾向があり、日本画と洋画の区別を超えた「日本絵画」を目指していたともいえる。 浅井忠の日本画《琵琶法師》、竹内栖鳳の《ヴェニスの月》、、黒田清輝の《赤き衣を着たる女》、横山大観の《迷子》、菱田春草の秋木立》は印象的な画だった。
第五章 洋画の中の日本画: 大正期の洋画家は、一方でで日本の風土に根ざした絵画表現すなわち「日本的油絵」を模索した。、線や平面的な画面構成、絵具そのものの質感、屏風などの形式に関心が寄せられた。 藤田嗣の《タピスリーの裸婦》は乳白色の裸婦と猫と花のアンサンブルで、日本画の細い輪郭線を採用している。小出楢重の《松竹梅屏風》は彼の作品とはほとんど信じられない屏風形式の力作。カラリストと呼ばれる梅原龍三郎の《北京秋空》の空は油彩だが、宮殿には岩絵具を使っている。 第六章 揺らぐ近代画家たち 日本画と洋画のはざまで:
日本画も洋画ものこした画家を紹介している。 萬鉄五郎、岸田劉生、森田恒友、小杉放菴、近藤浩一路、須田国太郎、川端龍子、素テル、熊谷守一の9人である。小杉放菴の《羅摩物語》、須田国太郎の《校倉》・《老松》、川端龍子の《竜巻》、熊谷守一の《白仔猫》・《海の図》がとくに良かった。 (2006.12a) |
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桐生の町は東京からはなかなか遠い。小春日和に誘われて往復7時間の遠出をした。近道はかなりの坂道、最後はさらに急勾配の階段。美術館自体がこの山を掘って形になっており、5階から入る。中にはエレベーターがないので体力勝負。 良く知られていることだが、常設展に素晴らしい作品が多い。 松本竣介の東京と盛岡を一体化した《街》がこの美術館を代表する。この透徹な青の中に潜む不安感。これは時代の投影を受けた松本の心象風景。松本の《ニコライ堂》、《運河風景》、そして絶筆の《建物》も完成度が高い。 野田英夫の《都会》。この美術館を有名にしている作品である。これはアメリカと日本の狭間に立った野田の心象都会画。 しかしその他にも好作品が目白押し。廊下や階段の壁面にまで展示されており、狭い美術館がはじけそう。 藤島武二のパステル《ブルーターバン》は素晴らしい青が引き立つ。関根正二の《静物・花》は彼が求めてやまなかったヴァーミリオンの絵具が重なるように塗りこめられている。三岸節子の《花》の白絵具も同様である。彼女の画の傍には、好太郎の死後彼女がはげしい恋に落ちた年下の菅野圭介の画が掛けられている。清水登之の《育夫像》は外国生活や従軍画家として活躍した清水の痛恨の作品。新日曜美術館でも紹介されていたが、清水登之展示室ではこの1点だけが異質の存在だった。 島崎藤村の三男である島崎蓊助の《リューベックにて》は褐色に閉じ込められた風景。高松次郎の白い板に映る淡い《影》は、両側に大きな窓のある部屋の隅においてあったが、その窓からは紅葉、そしてその向こうには桐生の街が遠望され、素晴らしい雰囲気をかもし出していた。武田久の《冠と鳥》、ベン・シャーンの《農夫》、ピカソの《海老と水差し》もよかった。 第70回企画展は「都市と生活ー生活圏へのまなざし」である。初めにざっと見た時には雑多な画が並んでいるだけの企画と感じたが、ギャラリーラリートークを聞いて理解が深まった。企画展は小さい部屋ながら4章に分けてあった。 第1章「アメリカンシーンの画家たち」では20世紀初頭にヨーロッパからニューヨークに避難した画家の米国の暮らしを見つめる作品が並んでいた。ジョン・スローンの《夜の窓辺》の建物と建物の間に洗濯物を干している情景や『9−11』を予告するようなゲオルグ・グロスの《ゴールデン・シティ》が印象的だった。 第2章は「1970‐90年代の大量生産・大量消費のわが国の都会」。岡田節夫の《ラッシュアワー2》は渋谷駅でわたしが見慣れていた風景。 第3章は「都市の中の画家」。菅井汲の《フェスティバル・ド・トウキョウ》は各国の言葉を超えて国際的に通じるマークの集合。横尾忠則の《葬列U》は7枚ぐらいのプレキシガラスにシルクスクリーンで張りつけられた葬列の人物たち。映画のシーンからとったものとのこと。 最後の「ドミトリー・ミトロヒンの街と生活」は 旧ソビエト連邦の穏やかな日常生活を写した版画。政治と生活は別の存在である。 結論としていえば、松本竣介や野田英夫の心象都会画の系譜がこの企画展で紹介されていたのである。 (2006.11a) |
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八王子市の市制90周年記念として開かれている現代日本画壇を代表する画家たちの作品展。すべて20世紀に活躍した画家の北澤美術館所蔵作品。会場に入ると山口華楊の《白狐》が迎えてくれる。どこかで観たというデジャヴ。次いで華楊の《青柿》と《秋晴》。この二つの黒猫は、菱田春草の《黒き猫》の竹内栖鳳の《班猫》の翡翠色の目を兼ね備えている。『北澤美術館所蔵日本画名品集』(東方出版)の表紙はこの《青柿》。《秋晴》では虫食いのある柿の葉のたらし込みが絶妙。 次の部屋は東山魁夷の部屋。入ったところには《緑のハイデルベルグ》。宝石のような緑に霞む情景は実に素晴らしい。アルト・ハイデルベルクの唄「遠き国よりはるばると、ネッカーの川のなつかしき、岸に来ませし我が君に、いまぞ捧げんこの春の、いと麗しき花飾り。いざや入りませ我が家に、いずれ去ります日もあらば、しのび賜れ若き日の、ハイデルベルクの学びやの、幸多き日の想い出を」を思い出す叙情的な作品。魁夷は若い頃ベルリン大学に留学している。ロマンチックな想い出でもあったのだろうか。部屋の真ん中に置いてある椅子に坐って《月影》・《曙》・《白夜》などの名品に囲まれた。これぞ眼福。 加山又造の《新雪の桜島》の青は絶品。空の青が山の稜線となり、麓で藍となり、再び海の青となる。まるで自然の営み。稜線を染める赤のアクセントも鋭い。もちろん山稜の青や赤は谷筋の新雪の白を背景にしているから目に飛び込んでくるのである。一方、横山操の《赤富士》では、真っ赤な山や黄色い草木におおわれた丘が画面からせりあがってくる。奥田元宋の《晨輝》は朝日に輝く磐梯山が五色沼に写っている景色であろうか。 薄桃色に染まる山肌は何ともいえない。《霧雨の湖》は紅葉の映る湖をスーット横切る水鳥。奥田元宋はまさしく「紅葉の画家」。 野村義照の《暮色》は古代ギリシャ遺跡、《聖堂》はゴシック教会。いずれも幻想的なヨーロッパ風景。宗教的な高みに達している。パリにもアトリエがあるという。これぞ国際的日本画。あるいは日本画という言葉はすでに陳腐化しているというべきなのだろう。 小山茂の《椎の実》を食べるリスの毛並み、そして《蜻蛉》の翅と竹竿のリアリティーには驚かされた。坂本幸重の《鮭》は新聞紙に乗っているサケだが、そのウロコが絶品。とても言葉には表せない。新聞紙の文字も手書きのように見える。ただ感嘆するのみ。 (2006.11a) |
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新日曜美術館で紹介されていた山本丘人の回顧展だが、ようやく平塚美術館に行って来ることができた。往復70Kmのドライブ。立派な美術館。駐車場の出入りにはICチップのようなものを使う。 2.表現主義的絵画(1945〜60年代前半) 3.複合的絵画(1960代後半〜1970年代前半) 4.心象的絵画(1970年代後半以降) 図録が展示室に置いてあったので実物と比べてみたが画像が明るすぎて同じ画には見えない。画の説明も不十分。しかし折角遠路来たのだからと一応受付できいてみたら、初版・再版ともに売り切れとのことだった。ミュージアム・ショップはこの受付だけ。 コンピュータ室で山本丘人のビデオを見た。展示作品がどんどん出てきて楽しめた。ただし音が割れていて聴きにくい。何とかならないものか。 レストランは空いているのにひどく待たされた。手際の悪い男性ウェイター3人がウロウロ、シェフは1人だけだからのようだ。味はよかったがいらいらした。 (2006.11a) |
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美ボ展(美術館ボランティアが選ぶコレクション展):千葉市美術館
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千葉市美術館の32人のボランティアが企画した展覧会。 「美ボ展」と略されている。展示品選定、ポスター図案作成、展示レイアウトなどすべてをボランティア中心で進めたものという。 約7000点の所蔵品の中から投票で選ばれた57点が展示されている。 現代美術・近世近代版画・近世近代絵画の単純な章立て。もったいぶった章立ての多い最近の展覧会の中ではかえって新鮮味がある。
質においては江戸東京博物館で開催中の「江戸の誘惑―ビゲローコレクション」に引けをとらないかもしれない。
ボランティアの選んだトップ5は、@
喜多川歌麿「納涼美人図」、 A棟方志功「二菩薩釈迦十大弟子」、B円山応挙「秋月雪峡図」、C鏑木清方「薫風」、 D浜口陽三「19と1つのさくらんぼ」との結果が会場出口に表示してあるのはどうかと思う。その下に観客の投票箱が置いてあるが、心理的な影響をあたえてしまう。あくまでも観客が主で、ボランティアは従でなければ主客逆転である。 (2006.11a) |
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快晴の文化の日。千葉市美術館で開かれている特別展「浦上玉堂」の初日へ。あまりにも有名な《東雲篩雪図》は国宝展で何回もお目にかかっており、そのたびに不思議な絵だなと思っていた。今回の展覧会には、展示替えはあるものの、総数237点が出品されるという。これは勉強のよい機会だと思って出かけた。 休日でもあるし、ある程度混んでいることを覚悟していたのだが、意外と空いている。全体の4分の1ほど見たところで、メモをとりながらこちらに向ってくる男性がいる。「いづつやさん」だった。そこで意外な発見についての意見交換をした。やはり興味が同じところに向っていたらしい。 江戸時代の文人画家「浦上玉堂」(1745〜1820)は、ドイツの建築家ブルーノ・タウトによってゴッホに比せられ、「彼は日本美術の空に光芒を曵く彗星のごとく、独自の軌道を歩んだ。」と語ったとのことである。 彼は岡山の武士であったが、50歳で脱藩出奔し、全国を遍歴した後、京都で酒と琴を愛し、ほろ酔いの中で即興演奏のように山水画を描いた。 展示は「序章」に始まり、第1章「岡山在住期を中心に」、第2章「画業展開期」、第3章「旅と交友」、第4章「大作」、第5章「郭中画」、第6章「画帖」、第7章「書」、第8章「七弦琴」という分類である。初めは分類に従って展示されていたが、途中からはいくつかの分類の作品がまとめて陳列されている。部屋の関係なのだろうが、画・文・書・琴など広いレパートリーをこなした玉堂の展示としてはこのように渾然一体となっているのがかえって良かった。 会場に入ったところにあるのは梅原龍三郎旧蔵の《対山撫琴図》。 山が聳え立つ画だが、ところどころに白い○のようなものが書かれている。キャプションによるとこれは「陰陽思想に基づく男性イメージ」とのこと!本当かなと思って観ていくと似たようなイメージがある作品が結構ある。大分後のほうだが、《山澗読易図》のキャプションにも易経の男女の陰陽との関係が書かれている。そういう目で見てみると、ちょっとそういう気にもなってくる。《幽林間適図》の1の入った○などは女性イメージ?そういえば重要文化財の《鼓琴余事帖・風高雁斜図》はこのようなイメージの集合!屹立する山峯の大作に囲まれていると、これらが男性の象徴に見えてくる。というわけですっかり玉堂(あるいは千葉市美術館)にやられてしまった。 ひょっとするとキャプションが誤解を招きやすい文章となっていたのであろうか。東大出版会の雑誌「UP」の最近号に千葉市美術館長・小林忠氏の「音楽と詩を絵にした山水画家、浦上玉堂」という文章が載っていたが、これによると「老荘の隠遁思想に憧憬し、陰陽五行の自然の哲理に従って自足した。そうした玉堂の精神風土は終始一貫して変わることがなかった」となっている。 これ自体もけっして平易な文章とはいえないが、「老荘の隠遁思想に憧憬」とは世俗から文人生活に隠遁した浦上玉堂が自分自身を大自然の中の小さな人間として描いたということだろう。するとその後の「陰陽五行の自然の哲理」とはどういうことなのだろうか。「「陰陽五行説」とは「陰陽説」と「五行説」が合わさったものであるが、キャプションの表現はあくまで「陰陽説」に立ったものではなかったのではないのか。 変な感想を先に書いてしまったが、お気に入りを挙げると、《琴写澗泉図》・・・一陣の風が巧みに表現されている、《秋山晩酌図・隷書南風歌》・・・屏風に張られたキュートな小品、《青山雨晴図》・・・茶色と緑で彩色された美しい扇面、《水流雲在図》・・・緑の美しい小品、《山邨読書図》・・・川端康成が梅雨時に掛けた雨に霞む山景、《深林絶壁図》・・・圧倒的な迫力の重要美術品、《山雨染衣図》・・・バランスのよい名品、《渓声書声図》・・・雄渾な直立峰の林立!、《山水画帖》・・・心地よい柔らかな曲線美、《煙霞帖》の青山紅林図》・・・代赭色の紅葉が素晴らしい重要文化財。 《寒林数家図・春山雨意図》は屏風に18世紀後半から19世紀にかけての文人・画家たち、田能村竹田2点、浦上玉堂2点、岡田半江、高橋草坪、池大雅、頼山陽、森寛斎、帆足春雨の作品を張りつけたものである。この時期の代表的文化人のそろい踏み。 玉堂の作った七弦琴が何本も展示されていた。黒と貝蒔絵のコントラストが美しい。彼は琴の演奏・作曲だけでなく実際に制作していたのである。息子「春琴」の描いた琴を弾く玉堂の絵も出ていたが、とてもエレガントな文化人である。その風貌は日本のゴッホとはとても思えない。このように武士を捨て自由に藝術に生きることのできた江戸時代はさだめし良い時代だったのだろう。 (2006.11a) (追 記) 2006.11.19の新日曜美術館「浦上玉堂」を見た。琴の専門家の話は良く分かったが、岡山県立美術館の守安収氏の話にはがっかりした。老荘の隠遁思想についてはしっかり話されたが、陰陽説に関しては問題のイメージを「白く抜けた空き地」と表現されただけだった。 |
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田中一村は1908年 - 栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に生まれた。 彼の故郷の栃木市で「市制70周年記念 秋の特別企画展: 田中一村の世界」が開かれている。湘南新宿ライン・両毛線を乗り継いで栃木到着。蔵を利用したユニークな美術館である。秩父の加藤近代美術館も蔵を利用した美術館だったが、つぶれてしまった。 出展作品は、画が40点、写真が12点。画としては館蔵1点、個人蔵3点の他はすべて奄美の田中一村記念美術館の所蔵。 1.東京時代:: 田中は、1926年 東京市芝区の芝中学校を卒業。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれたとのことである。1926年に東京美術学校(日本画科)に入学。 同期に東山魁夷、橋本明治らがいるが、同年6月に中退し、以後南画を描いて一家の生計を立てた。これが彼の「東京時代」である。 したがって、この時代の出展作品はすべて南画。5点出ていたが、彼の日本画の卓越した才能が発揮されている。 2.千葉時代: 1938年に千葉に暮らすようになった。「千葉時代」である。 1947年には川端龍子主催の青龍展に入選したが、川端と意見が合わず、青龍社からも離れた。1955年の西日本スケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意した。 この時代の出展作品は19点あったが、それぞれに作風が異なり、田中の画業の遍歴が見てとれる。《千葉寺・麦秋》は珍しく人物が描かれている美しい画。1955年に九州で描かれた《高千穂@》は素晴らしい南国の情景で、奄美時代の作品を予告する。 3.奄美時代: 1958年に奄美大島に渡り、大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始めた。このとき一村、50歳。「奄美時代」の始りである。5年働き、3年画を描き、2年で個展の費用を稼ぐという10年計画だった。 1977年69歳で没。その後、日曜美術館で田中一村が紹介されて以来有名になった。日本のゴーギャンとも呼ばれている。画としてはむしろアンリ・ルソーだが、植物園にしか行かなかったルソーと違い実際に南国に住んだのだからやはりゴーギャンか。 奄美時代の大きな作品としては《海辺のアダン》の色彩がもっとも印象的だった。そういえば彼の生涯を描いた映画「アダン」が会期中に上映されるとのこと。《奄美の杜G〜ビロウとブーゲンビリア》や《奄美の杜C〜草花と蝶》もやや落ち着いた色彩ながら南国的。それほど大きな画ではないが《熱帯魚》の赤と緑が鮮烈だった。 4.写真: 彼の趣味であった写真によって南国の植物や彼自身の姿を知ることができた。 小規模だが、田中一村の全貌を概観する好展覧会である。彼は「画は他人のために描くのではなく。自分のために描くのだ」といっていたという。高島野十郎に通う孤高の画家。 帰りには蔵の街をノンビリ散歩した。巴波川(うずまがわ)にそって歩き、「塚田歴史伝説館」にも寄った。駅までは「歌麿通り」。晩年、歌麿がこの地で過ごしたとのこと。良い美術散歩だった。 (2006.10a) |
ブログに書いた次第で仙台市博物館に急行することとなった。以前にここの常設展を見たことがあるがかなり昔である。サイト内検索で1992年4月のことと分かった。 この特別展の会場に入るといきなり若冲の《白象群獣図》が迎えてくれる。大画面を6000個以上の1cmのマスに区分し、そのマスごとに濃淡2種類の灰色を施すという凝りようである。 「マス目描き」としては静岡県立美術館やプライスコレクションのもののような派手な色彩ではなく、黒のほかは灰色と茶色だけという落ち着いた色彩である。「四十八茶・百鼠」という和の伝統色ばかりなのである。 絵に描かれている動物は、象のほかに、麒麟・熊・2匹の手長猿・栗鼠・鼬である。動物はいずれも奇妙な姿勢をとっている。まさに江戸のマニエリスム!奇想の系譜。
また朱色の印が3つ捺されており、一番下のものははっきりと《若冲居士》と読み取れる。したがってこれが若冲の作品であることは疑いを入れない。これにくらべると先日観たプライスコレクションの《鳥獣花木図屏風》はこのような印がないだけでなく、構図が単純であるため若冲の本作かどうかについて専門家の間で意見が割れている。いずれにせよこれはホンモノ。わざわざ仙台まで駆けつけた甲斐があった。 会場は動物の絵であふれている。若冲以外の有名画家のものも少なくない。探幽・応挙・始興・芦雪・岸駒・文晁・祖仙・抱一・呉春・豊国・北斎・広重・国芳・崋山・江漢・・・よくもこれだけ集めたものである。 まず第1章「動物大集合」として涅槃図・十二支図があり、ついで第2章が「動物画」としてまとめてあった。鼠=白井直賢、猿=森祖仙、鶏=伊藤若冲、鹿=東東洋というようにお得意が決まっていた。動物画はしばしば吉祥画ともなっていたとのことである。ここでは十二支の順に一つずつ画像を載せることとする。じつは展覧会自体もおおよそ十二支の順に並べられていた。 次には第3章「江戸のペット事情」として猫と犬の絵があつめられており、さらに第4章「ふしぎな動物たち」として珍獣や妖怪の絵や資料が集められていた。ここには大阪の瑞龍寺の河童・人魚・龍のミイラも陳列されていた。ちょっと前に国立科学博物館で観た「化け物の文化誌展」と同断である。なるほどここは美術館でなく博物館である。最後に第5章「動物を極める」で博物学の資料が提示されていた。 ほとんど宣伝されていない展覧会であったが、とてもよかった。美術館と違い、キャプションの説明も簡明。図録もコンパクトで、内容は平易である。一気に読み終えることができる。最近の美術展の厚くて、重くて、高くて、そして絶対最後まで読むことのできない美術展図録とは天地の差である。(2006.10a) |
待ち人の眼差し「駅2006」 Vol1 仙台:仙台駅ー東京ステーションギャラリー
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東京駅赤煉瓦駅舎の復旧工事に伴い、東京ステーションギャラリーは5年間休館。その間も東日本鉄道文化財団は美術館活動を続ける。 その第1弾が仙台駅で開かれている。市川平、田中信行、長岡勉、林武史の4人のアーティストの立体作品が、人が行き交い、通過する駅空間に設置されている。 仙台市博物館で伊藤若冲のマス目描の絵を観にきたついでに、一つだけ作品を観て見た。田中信行の《介入》。そばを通る人々は「ナンダロこれ?オブジェ?」と首をかしげている。赤い鉄骨で四角にくみ上げられ真ん中の床に黒い四角形のガラス板らしきものが置かれている。自分の見ている位置からはこれの向こうにエスカレーターとトイレが見える。これらを取り込んで不思議なアートとなっている。 (2006.10a) |
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江戸東京美術館の常設展、「江戸の美」の浮世絵コーナーには国芳の版画が8点でていた。 いまNHKテレビ放映中の「ぎょっとする江戸絵画」のなかに国芳が入っており、そのテキストに載っている絵もいくつか展示されている。例えば《源頼光公館蜘蛛妖怪図》や《東都首尾の松》などである。ほんとうに良いタイミングである。 その他は、東都名所の《両国の涼》・《新吉原》・《大森》、《東都富士見三十六景 昌平坂の遠景》、《浮世又平名画奇特》、《当子奉納願お賀久面》。 (2006.10a) |
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東京江戸博物館でのアラーキーの写真展。 特別展示室の一つは「東京人生」。若き日の石原慎太郎の笑顔、湯船に浸かった王貞治の裸体、日本刀を持った三島由紀夫の裸体など、1960年代から2006年の今日までの東京に住む人間の姿を通してみた現代史。 全体としてみれば、この展示はアラーキーの人生を雄弁に物語っている。 別な展示室には「平成色女」。アラーキー好みの彩色写真あるいはカラー写真。なぜトカゲが肌に這っている写真が多い。変態。 そのほか常設展のあちこちも壁に「色夏」、「中村座」、「百花繚乱」などが展示されている。これらは無難。いずれにせよこのように奔放な作品を発表できるアーティストは幸せだろう。 (2006.10a) |
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誘われて思いがけない展覧会を国立科学博物館で観た。 第一会場は「日本に生息した化け物たち」である。天狗・河童・人魚のミイラがたくさん出ていた。新聞によるとこれらは動物の骨などを利用した模型であるとのことであるが、キャプションには何も書いてない。そのほうが子供の夢を壊さなくていい。江戸時代には《妖怪絵巻》など化け物を題材にした物語や浮世絵が製作されているが、これは中国や西欧の書物を基にしたものであり、化け物は日本のみならず中国・西欧でもその存在が信じられていたということが分かる。 第二会場は「化け物の進歩」となっている。この時代には化け物は実在の生き物として科学の対象になっていた。展示された博物学の資料たちはこのような科学の進歩の足跡である。この会場には寺田寅彦の含蓄のある言葉がいくつか紹介されていた。「幸いなことに、自分たちが子供の頃には、田舎にはたくさんの化け物が住んでいた。科学の目的は実に化け物を捜しだすことであり、現在の科学教育は昔の化け物教育に戻る必要がある。」(2006.10a) |