美術オピニオン

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目 次

2006
    ルンガ沖夜戦 クラークフィールド攻撃
血戦ガダルカナル 動植綵画の新タイトル 高松塚処分 アンドリュー・ワイエス:記憶を引き出すマジック
フランス近代絵画とジャポニスム 鄭和とアラビア・ルネサンス 飛鳥美人の「泣きぼくろ」 小林頼子氏の講演
2005
ネットにのった「わだつみの声」 大高保二郎氏の講演 キトラ壁画もピンチ(4) 戦争画の本質
無言館と戦争責任 本郷新の生誕100年 ボッティチェリのヴィーナス ボッティチェリのヴィーナス 高松塚・キトラ(7)
ステーションギャラリーの休館 ステーションギャラリーの休館 海山十題(4) 残された絵画  
2004
高松塚・キトラ(6) 本郷新の生誕100年 バリア・リッチ美術館 高松塚・キトラ(5)
高松塚・キトラ(4) 海山十題(3) ダ・ヴィンチ・コード 海山十題(2) 高松塚壁画(3)
海山十題(1) キトラ壁画(3) 高松塚壁画(2) キトラ壁画(2) トラ壁画(1)
田中英道 METの尾形光琳 高松塚壁画(1) 香月泰男展  

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美術オピニオン 2006

ルンガ沖海戦:清水良雄

 

 ルンガ沖海戦とは、1942年11月30日夜にガダルカナル島ルンガ岬の沖にて日本海軍とアメリカ海軍の間で行われた海戦である。


 第三次ソロモン海戦後、ガダルカナル島周辺海域の制海権を失った日本海軍は、同島の日本陸軍への補給を闇夜に駆逐艦の高速に頼って行うしかなかった。この輸送をいち早く察知した米海軍は、その阻止のため部隊をガダルカナル島沖に派遣する。


 1942年11月30日夜、田中頼三少将は駆逐艦8隻で構成される第二水雷戦隊を率いて補給物資輸送を行っていた。米艦隊はレーダーにより、日本軍駆逐艦を発見、攻撃準備を整え接近しつつあった。警戒任務を受けていた駆逐艦「高波」は接近中の米艦隊を発見し、旗艦「長波」へ報を送る。これを受けた田中頼三少将は全艦に突撃を命じた。米艦は哨戒のため独行していた「高波」に集中砲火を浴びせ、同艦を大破炎上させた。しかしその後、日本の各艦の放った魚雷が次々と米艦隊に命中、米軍は大きな被害を受けた。圧倒的な戦力差の中、日本海軍が伝統の夜間水雷戦で勝利を収めた最後の海戦となった。


 田中少将は、戦闘終了後直ちに艦隊を戦線より離脱させ、4日後の夜再度ガダルカナル島に突入し輸送物資を海上へ投下させ、輸送任務を完遂させたのであった。後日、米軍は田中少将の戦術を高く評価し、「田中こそ不屈の闘将である」と言わしめ、「タフネス田中」というあだ名をつけたとのことである。


 清水良雄の「ルンガ沖海戦」はすでに不利になっていた戦況を国民に知らせず、このようななかでの単発的な勝利を画にすることによって国民を欺いていたのである。

(2006年8月24日d)

 

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クラークフィールド攻撃:佐藤敬

 

 1941年12月8日、日本は米国、英国、オランダに宣戦布告し、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。午前1時30分(現地時間7日午前6時)に第1次攻撃隊が真珠湾めがけ発艦し、3時19分に突撃命令が下った。その後攻撃を反復し在泊中の米国太平洋艦隊に壊滅的打撃をあたえた。


 同日午前7時45分、フィリピン攻撃の第一陣としてミンダナオ島のダバオ飛行場を攻撃、ついでマララグ湾を攻撃した。


 引き続き行われたのがフィリピンへの渡洋爆撃である。午前9時15分、台湾の台南、高雄、両基地から発進した戦爆連合の攻撃隊は片道約800kmの長距離を翔破して、フィリピンの米軍基地、クラークフィールドとイバを襲撃した。

 午後1時30分、目的地上空に到達、日本機の襲撃を予期し迎撃体勢にあった米軍機は全機燃料補給のため地上にあったので、これを海軍航空隊は攻撃、大半を撃破、多大な戦果を挙げた。その後も13日まで4回の攻撃により、比島の米航空隊に壊滅的打撃をあたえ、事実上米航空戦力を無力化した。

 このようにクラークフィールド攻撃は日本軍の緒戦の成功例であり、佐藤敬の「クラークフィールド攻撃」はその戦果を誇示するものとなった。

(2006年8月24日c)

 

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娘子関を征く:小磯良平

 

娘子関を征く:小磯良平 1937年の山西戦場における日本軍と中国軍の戦闘の勝敗を決めたのは、忻口と娘子関での戦争であった。

 河北省との東部省の境に位置する娘子関は太行山脈の隘路にあり、嶮しい山岳地帯を背にした要衝である。1937年10月、太原攻略を目指す日本軍とこれを阻もうとする中国軍との間で激戦が繰り広げられた。


 太原攻略のためには、日本軍は北の忻口と東の娘子関からしか侵攻できなかった。娘子関を日本軍が攻撃した場合には、、河北省や山東省に展開する中国軍から側面を攻撃される可能性があった。
このため中国軍の閻錫山は娘子関方面を楽観視していた。

 兵力約8万の日本軍に対して、中国軍は40万人の大兵力だった。ただし、娘子関は第一線の正面が150Kmと広く、各部隊の担当場所が広すぎるという問題があった。

 そこで日本の北支軍は中国軍の裏をかいて、娘子関守備軍の背後を脅かすことを狙った。 実際には、21日中に娘子関前面の雪花山陣地が陥落し、23日には旧関が突破され、戦線は崩壊した。 そして11月8日、板垣兵団を中心に日本軍は総攻撃を開始、太原は陥落した。


 小磯良平の「娘子関を征く」は実際の戦闘場面ではないが、このように日中戦争のターニングポイントとなった山岳戦に赴く兵士を描いたものであり、戦意高揚の目的を十分に果たしていたのである。

(2006年8月24日b)

 

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血戦ガダルカナル:藤田嗣治

 

 ガダルカナル島の戦いとは、第二次世界大戦において1942年8月以降日本軍と連合軍がソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。


 太平洋戦争開戦後の緒戦の勝利のあと、将来の反攻拠点となりうるオーストラリアを孤立させる米豪遮断作戦が計画された。この作戦の遂行にあたって前進飛行場の建設適地とされたのが、ガダルカナル島であった。しかし、アメリカ艦隊をおびき寄せるべく実行されたミッドウェー攻略作戦では、日本海軍は逆に主力空母4隻を失うこととなり、米豪遮断作戦の実施は一時中止されることとなった。


 しかし、ソロモン諸島に航空基地を建設する必要を感じていた現地海軍部隊はガダルカナル島での飛行場建設を決定し、7月上旬から海軍設営隊約2600名が建設作業を行っていた。設営隊がこの地に赴いた当初、日本軍は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、当地においても戦闘能力のある人員は設営隊と海軍陸戦隊を合わせても600名足らずであった。


 しかし、アメリカ軍は早くも7月4日以降ガダルカナル島への爆撃を開始し、8月7日早朝に上陸した。日本軍はアメリカ軍の攻撃に圧倒されて背後のジャングルに逃げ込み、完成間近の飛行場はアメリカ軍の手に落ちた。


 その後日本軍の行ったガダルカナル島奪回作戦には、一木支隊2400人、川口支隊約4000人が、丸山師団(第二師団)20,000人以上が投入されたが、いずれも撃退された。


 次に佐野師団(第三十八師団)がガダルカナルに派遣されたが、待ちかまえていた米艦隊との間で海戦(第三次ソロモン海戦)となった。この海戦で、日本軍は大きな打撃をこうむったため揚陸に成功した兵力は、兵員がわずか2000名、重火器はほとんど皆無、食料が4日分という惨状で、第三十八師団はとうとう米軍に対する攻撃すら行うことができなかった。


 その後、大型輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦が夜陰に乗じて高速で島に接近し、細々と補給を行うことしかできない状況に陥った。このようにガダルカナル島での戦いはすでに日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、日本軍は撤退に向けて動き始めた。しかし、実際の撤退決定までは1ヶ月以上もの時間を要し、その間にも多くの将兵が餓死していった。


 ガダルカナル島に上陸した総兵力は31404人、うち撤退できたものは10652人、それ以前に負傷・後送された者740人、死者・行方不明者は約2万人強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5000人、残り約15000人は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定されている。 一方、米軍の損害は、戦死約1000名、戦傷約4000名であった。国民には敗北の事実は隠され、撤退は「転進」という名で報道された。そのため、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。


 藤田嗣治の「血戦ガダルカナル」はこの戦闘の地獄絵である。藤田は、勝者と敗者との区別もつかないこの殺戮の場面を、歴史画家のまなざしで描ききっている。 画家にとってはドラクロアのような虐殺画を描く絶好の機会であったという考えを否定することはできない。藤田自身はまったく気付いていないことであるが、この画は「普通の人間が、相手を殺さなければ自分が殺される」という戦争の本質を伝える教材として活用していかねばならない。

(2006年8月24日a)

 

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動植綵画のタイトルとランキング

 

 三の丸尚蔵館で伊藤若冲の動植綵画を中心とする「花鳥展」が開かれている。5期に分けて展示するため、全体像がつかみにくい。そこで全体を並べてみた。

 確かにブログ仲間のTakさんが指摘されているように「●●●●図」というタイトルは現代的ではない。Takさんのブログに投書したタイトルを後でまとめておくつもりだったが、毎晩の宿題は応えるのでここに登載しておくことにした。新画題には家内の意見も入っている。

 最後の欄に5段階の「お気に入り点」をつけてみた。最終的なランキングは後ほど5の中から選ぶ予定です(7月27日)。→第5期のブログにベストテンを書きました( 8月12日)。

番号
旧画題
新画題
T
01
芍薬群蝶図
蝶の楽園
3
11
老松白鶏図
時を告げる鶏
4
14
南天雄鶏図
南天に隠れて
4
19
雪中錦鶏図
融 雪
4
22
牡丹小禽図
牡丹の花咲く頃
3
26
芦雁図
生きる力
5
U
03
雪中鴛鴦図
寒い鴛
4
08
梅花皓月図
月 光
4
15
梅花群鶏図
雅宴の鶴
5
16
棕櫚雄鶏図
熱き雄鶏
3
18
桃花小禽図
春の囀り
2
29
菊花流水図
曲水の大輪
5
V
02
梅花小禽図
闇き梅
2
04
秋塘群雀図
群れ飛ぶ雀
4
06
紫陽花双鶏図
紫陽花の季節
3
12
老松鸚鵡図
珍客到来
5
13
芦鵞図
孤独な鵞鳥
5
17
蓮池遊魚図
群 遊
3
W
05
向日葵雄鶏図
盛 夏
4
07
大鶏牝雄図
見返り鶏
3
20
群鶏図
雑 踏
5
23
池辺群虫図
虫たちの世界
5
24
貝甲図
波打際
3
25
老松白鳳図
火の鳥
5
X
09
老松孔雀図
白孔雀
5
10
芙蓉双鶏図
愛の囁き
4
21
薔薇小禽図
棘を避けて
3
27
群魚図(蛸)
親子蛸
5
28
群魚図(鯛)
遊 魚
2
30
紅葉小禽図
紅 葉
3


(2006年7月27日、8月12日)

 

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高松塚古墳壁画事故調査委員会と関係者処分

 

 私は高松塚古墳の現状を憂えて、ホームページの中で何度も意見を述べてきた。壁画の損傷は事故であり、人災である。調査委員会の厳しい報告をうけて、ようやく所轄の大臣や長官は「日本国民」に謝罪しているが、これは歴史に対する犯罪であり、謝罪して許しを乞うべき相手は「過去・将来にわたるすべての人類」であることが分かっていない。

<今までの管理人の意見>
06.02.10 飛鳥美人の「泣きぼくろ」
05.05.06 高松塚壁画の緊急手術
04.09.26 高松塚壁画を文化庁にませておいてよいのか
04.09.20 高松塚壁画の破壊責任追及
04.08.11 高松塚壁画の破壊についての責任
04.07.08 高松塚壁画の保存管理責任
04.06.20 高松塚壁画の保存事故


今回一応の処分が出たので、その結果をまとめておく。

1. 事故の経緯: 
 1) 損傷事故は2001年以降のカビ対策の作業中に起きた。
 2) 一連の不祥事は伏せられていた。
 3) この工事では担当部署の連絡が悪く、人任せだった。
 4) 石室解体案が壁画を傷めたことを隠蔽するために出されたとの疑念
 5) 2006年6月19日、調査委員会(委員長、石沢良昭・上智大学長)が報告書を提出


2.報告書で指摘された問題点:

 1) 文化庁の事故の重大性に関する認識の欠如
 2) 文化庁の情報公開に対する認識の甘さ
 3) 文化庁の意思決定の過程があいまいで、組織の判断能力が不十分
 4) 文化庁の縦割り行政による無責任体質


3.文部科学省と文化庁の管理者の自主返納
 (自主返納者1) 小坂憲次・文部科学相=大臣俸給全額、1月分
 (自主返納者2) 河合隼雄・文化庁長官=俸給の20%、1月分
 (自主返納者3) 加茂川幸夫・同庁次長=俸給の10%、1月分


3.担当官の処分
 (被処分者1) 湯山賢一・元美術学芸課長(現奈良国立博物館長)=給与20%を1カ月減給
 (被処分者2) 林温・元主任文化財調査官(現慶応大教授)=戒告
 (被処分者3) 木谷雅人・元文化財部長(現京都大副学長)=訓告
 (被処分者4) 常盤豊・元記念物課長(現文科省初等中等教育局教育課程課長)=厳重注意。

(2006年6月22日)


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アンドリュー・ワイエス―記憶を引き出すマジック



丸沼芸術の森 美術鑑賞会 (中村音代氏講演)メモ

<はじめに>
現在フィラデルフィア美術館でアンドリュー・ワイエスの回顧展が開かれている。そのテーマはMemory and Magicであるが、今回の第6回「丸沼の森 アンドリュー・ワイエス展」のテーマもそれにちなんでいる。ワイエスは、夏はメーン州クッシング、冬はペンシルヴェニア州チャッズ・フォードを生活の拠点としているが、今回は丸沼に所蔵されているクッシングのオルソン・ハウス・シリーズの一部を展示している。ワイエスのテンペラ画は少なく、ビル・ゲイツですら一点しか所蔵していない。したがって本展では主としてテンペラ画の習作としての素描画や水彩画を展示しているが、水彩画の中にはほとんど本画といえるものもある。

1. ワイエスのプロフィール・・・1917年7月生れで、現在88歳でもうすぐ89歳である。最近はさすがに衰えが目立ち、フィラデルフィアの回顧展にも車椅子で出席したとのことである。ワイエス22歳の1939年、自分の水彩画を見てもらうためクッシングのジェームス氏を訪れたところ、当人は不在で、出迎えたのは17歳の娘ベッツィだった。そしてベッツィは避暑に来ている際に、卵、ミルク、ブルーベリーなどを買いに行っていて仲良くなっていたオルソン家のクリスティーナをワイエスに紹介したのだという。ワイエスとベッツィの2人は翌年結婚する。クリスティーナは3歳ごろから歩行困難となっており、手の指も変形していたという。病因はポリオであるともいわれたことがあるが、現在ではリウマチであったと考えられている。貧困の中にも気品が高く、魂の交換ができるほどの精神性を有するオルソン家のクリスティーナと弟のアルヴァロに共感して、その後30年間生活をともにした。クリスティーナは、炊事くらいはできたようであるが、足が悪いため弟とともに1階で暮らし、ワイエスが2階と3階を使っていた。

2. 絵を描き始めたきっかけー父N.C.ワイエスの影響・・・父は有名なイラストレーターであり、ワイエスの絵画技術を指導した。彼には芸術至上主義を貫くことができるだけの経済的余裕もあった。しかし一方、父に対してはオディプス・コンプレックスを有しており、1945年に父が死亡してからはじめて絵描きとして一本立ちになったという面がある。

3. 「記憶を引き出して描く」ということ・・・ワイエスは、物をそのまま描くのではなく、自分がその物の本質から感じられるものを観る人に伝えるように描くといっている。そのためには描きたい対象の本質を一旦記憶に止め、これを想起しながら描くという「記憶を引き出して描く」方法を使っている。

4. 影響を受けた画家たち・・・ワイエスの素描はデューラーの影響を受けている。またドライブラッシュの技術もデューラーの作品に学んでいる。これはデューラーの《野兎》を見れば明らかである。

5. 技法について・・・1)素描、2)水彩、3)ドライブラッシュ、4)テンペラが主なものであるが、その詳細についてはかなり以前のインタビューで話した以外あまり明らかになっていない。彼はフェンシングを得意としていただけあって、鉛筆で描くのが早く、途中で鉛筆が折れることも少なくなかったが、その場合でも折れた鉛筆を使って描き進んだという。先に述べたドライブラッシュとは水分を絞った筆で水彩絵具を使って描く技法である。テンペラは卵黄と酢に絵具を混ぜて描く技法で、ボッチチェルリの昔からあって、画としては長持ちするが、描くのに時間がかかり、疲れるため1年に2枚ぐらいしか描かなかった。孫に聞いた話だが、ワイエスは赤い卵は使わなかったとのことである。

<おわりに>
 「オルソン・ハウス・シリーズ」はワイエス家→線維会社経営者→映画会社経営者→日本人→アメリカ人→日本と動き、いったん須崎氏へ購入打診があったが高かったのであきらめていた所2年後に再打診があり、半額になったので丸沼へ入った。最近、愛知県立美術館にワイエスのテンペラが入ったが、これはここには日本を代表するワイエス研究家の高橋秀治氏がおられるからで、ワイエスが自分の作品は自分の国よりも日本で理解されていると考えていることとベッツィ夫人を代理としてそろそろ身の回りの整理をはじめておられることと関係があるのではないかと思う。

<展示品の説明>
@ 《オルソンの家》の階段の踊り場にはスペースがあるが、これはクリスティーナの場所である。階段の一部が精密に書かれた習作が《クリスティーナの世界・習作》の裏面に描かれている。オルソン家は200年にわたって作られてきた堅牢な家で、ゴシック的あるいはメディチ家的であり、ワイエスはその屋根はクリスティーナの鼻に似ているといっている。
A 《クリスティーナの世界》の習作に見られるように、彼女はその辺を這って移動していたようである。長時間モデルを務められなかったので、一部は夫人が代行している。
B《海からの風》のテンペラは日本にきたときに「ワイエスのカーテン」として有名になった。クリスティーナの曽祖父は魔女裁判官の地位にあった名家であり、この鳥の刺繍のある豪華なカーテンもオルソン家に古くから伝わったものであるが、これが風にたなびく様はオルソン家が滅びていくことを象徴している。事実弟のアルヴァロも骨の悪性腫瘍に侵されていた。
この画には100枚もの習作がある。最初は今回展示してあるよう習作に見られるように、クリスティーナと海からの風を重ねて描いていたが、最後には《海からの風》と《クリスティーナ》の二つの完成作が作られた。後者はビル・ゲイツの所有となっている。
C《オイルランプ》・・・クリスティーナの弟アルヴァロは控えめな性格で、既に有名になっていたクリスティーナをたててほとんどモデルにならなかったが、この《オイルランプ》はその例外である。
D 《アンナ・クリスティーナ》習作・・・晩年のクリスティーナの深い精神性を表している。顔だけでも十分なのであるが、優れた質感の椅子も書き入れている。
E 《オルソンの納屋の内部》《アルヴァロの馬》・・・これらの水彩は本画である。白の表現は画用紙を残す方法をとっており、白絵具は使っていない。紙はイタリアのパブリアーノとのことである。レンブラントの光と影を髣髴とさせる。
F 《卵の計量器》《青い計量器》・・・余白の美が明らかである。はじめはアルヴァロを描き込む積りだったようであるが、描きこまなくてもそのスペースが彼の存在を意識させる。これらの2枚は水彩ではあるが本画である。青という色を巧みに使っているが、ワイエスは青をみると気持ちが高揚すると述べている。
G 《幽霊》・・・Revenantの翻訳で、幽霊というタイトルが正確かどうかわからない。自画像のようでもあるが、予期せず急に有名になって自分の存在感を失ったワイエスが黄泉の世界から立ち上がってきた人物として描かれている。
H《ワイエスの家》・・・羽目板の数まで正確に描かれている。


<おまけ ヘルガのこと>
 ドイツ系看護婦エルガとのことは17年間も秘密にされており、彼女の裸体を描いた「ヘルガ・シリーズ」240点は15億で売れたという。現在、ワイエス、ベッツィ、ヘルガはともに暮しているようである。先ごろのフィラデルフィア美術館での回顧展の正式なパーティに、ヘルガはフリルのついた白の派手なロングドレスで現れ、出席者の顰蹙を買ったとのことである。 

(2006年5月27日)


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ギリシャにおけるキリスト教受容−キリスト教成立初期にみる−



恵泉女学園大學シンポジウム「キリスト教とギリシャ文化」(川島重成氏講演)メモ

1. 異教文化の敗北?・・・ローマ時代以降、キリスト教が西欧文化の中心となるが、「ギリシャにおいても古代ギリシャ文化は異教文化としてキリスト教に敗北してしまったという単純な図式でよいのであろうか」という疑問について考察してみたい。

2.アウグストゥス時代におけるイエスの誕生・・・イエス・キリストがユダヤで生まれたのはヘロデ大王の時代(37-4BC)である。現在では歴史をAD (anno Domini)とBC(before Christ)に分けているが、実際にキリストが生まれたのはBC4年とされている。これは27BC-14ADの皇帝アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus August)の統治時代である。この頃ローマには一旦平和が戻っていた。これをPax Romanaと呼ぶ。最近アメリカの一国支配下に平和が維持されている状況をPax Americanaということがあるのはこのアナロジーである。ルカによる福音書第二章によると、全世界の人口調査をせよとの勅令がアウグストゥス皇帝から出された。ダビデの家系であるヨセフは、身重の許婚の妻マリヤとともにベツレヘムというダビデの町に上っていったのは、この登録をするためだった。この時にイエスが生まれたのである。

3.新約聖書の史的背景としてのギリシャ文化圏・・・395年にローマ帝国が東西に分裂するように、東地中海世界のギリシャ語文化圏と西のラテン語文化圏は分かれて存在していた。ヨハネによる福音書第十九条は、イエス磔刑時の罪状書はヘブル・ローマ・ギリシャの3カ国語で書かれていたとしている。また、旧約聖書はヘブライ語であるが、新約聖書はギリシャ語で記されていた。キリスト教の伝道を行ったパウロはユダヤ人であるがギリシャ語を話していた。このような「散らされた」(ディアスポラの)ユダヤ人はヘレニストと呼ばれている。さらに重要な事として、ギリシャ語は現在も生きた言葉として話されているのである。BC4世紀のアレキサンダー大王の東征に伴い、マケドニアに及んでいたギリシャ文化が東方に拡大し、それまで使用されていた方言が共通語のコイネー・ギリシャ語に変わっていった。事実、アレキサンドリアで翻訳された旧約聖書(セプトゥアギンタ;70人聖書)はこのコイネー・ギリシャ語に翻訳されているのである。

4.パウロのアレオパゴス演説・・・使徒行伝第十七章には、パウロが伝道のためアテネに赴いた際、アレオパゴスの評議所で演説を行ったことが記されている。このころアテネでは偶像崇拝が盛んであったが、パウロは「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのに気づき、その神がキリスト教の全能の神であるという演説を行ったのである。脱線するが、実際に書かれていたのは「知られない神に」ではなく「知られない神々に」だったいう話も残っている。しかし、キリストの復活の話を聞くと、アテネの人の多くはパウロを信用しなくなってしまったが、後にアテネの守護聖人となったアレオパゴス裁判人のデオヌシオなど一部のものはこの話を信じたとのことである。

5.「ギリシャ」は「非キリスト西洋」の代名詞?・・・古代ギリシ文化はキリスト教の存立以前から存在しているものであり、ギリシャ自体はキリスト教的である。慣習的に「西洋」とはイタリア以西を指すものであって、東地中海風土のギリシャは決して西洋の代表ではないことにも注意する必要がある。したがって、ギリシャ文化→ローマ文化という構図は成り立たない。

6.ギリシャとキリスト教の構造的対応・・・ギリシャ文化すなわち古代ヒューマニズムは人間的なものに強い関心を示していたが、それだけでなく人間すなわちヒューマニズムを超えるものへの指向もあり、その両者が緊張関係にあったともいえる。これに対してキリスト教はヒューマニズムを超えるものとして開かれてきたのである。

7.ギリシャのキリスト教受容の要因・・・マケドニアのアレキサンダー大王の東征は、ギリシャ本土のポリス文化の崩壊をもたらし、東方も含めた共通文化としてのヘレニズムが誕生した。またギリシャでは、自分の知らない神が存在する不安やドドネの神託において「どの神に訴えたらよいか教えてくれ」とゼウスに向って聞いているような多神教の問題点に起因して、5世紀にはギリシャ文化自体が変容してきていた。このような状況下においてキリスト教が受容されていったものと考えられる。

8.エウリピデス悲劇の特質・・・古典劇作家のうち、オイディプスのような英雄を書いたソフォクレスやアイスキュロスと異なり、エウリピデスはゼウスをはじめとするオリンポスの神々を信ぜず、英雄を書くこともしなかった。その意味でエウリピデスは預言者の役割を果たしたといえる。その代表例は「メーディア」である。彼女は夫の裏切りにあって息子を殺害しているのであるが、エウリピデスは彼女をして女性の惨めさ、不幸さについて具体的に「わたくしは一度お産するくらいなら三度戦争に出ることも厭いません」とまで語らせている。

(2006年5月20日)

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フランス近代絵画とジャポニスム


ブリヂストン美術館土曜講座(高階秀爾氏講演会)メモ

1. 1867年のパリ万博・・・1853年にペリーの来航があり、日本も鎖国の眠りから覚めたわけであるが、これは同時に産業革命を基盤とする交通輸送手段の発展の結果でもあった。パリ万博に先立つ1862年のロンドン万博にはウォールマット公使が持ち帰った日本の文物が出展されている。この時にフランスの詩人ゴーチェの娘Judith Gautierが日本からきたものを見て感動し、その後日本美術のフランスへの紹介に尽力した。パリ万博の開かれた1867年は、徳川幕府の最後の年で、幕府が作った日本館のほかに、佐賀鍋島藩と薩摩島津藩がそれぞれ別に出展していた。パリ万博の日本館の様子は当時のフランスの英字新聞に載せられた版画によって知ることができる。

2. 日本の大衆芸術の紹介・・・はじめは日本の芝居や踊りが興味を惹いたようで、パリのオペラ座でも《夢》という日本を題材とした演劇が上演された。当時は着物・扇子・傘などが珍しがられた。蝶々夫人のお菊さんの画では目が釣りあがっているが、当時西欧人からみると日本人の目は釣りあがっていると理解されていたようである。1900年になってからであるが、川上音二郎劇団の貞奴の舞台が大評判になり、Kimono Sada Yaccoという着物がパリで作成、販売された。


3. 工芸における日本の影響・・・エミール・ガレのガラス器に鯉のデザインがみられるのは、Japon Artistiqueという雑誌に鯉の絵が載っているように、鯉が日本的なものととらえられていたからである。また「日本では日常品に芸術品が用いられている」という事実も西欧人からみれば驚きであった。ガレはその他にバッタ、トンボ、草模様などの日本のモティーフを多用したガラス器や木工品を作り、ルネ・ラリックはトンボの有名なブローチ・髪飾り・櫛などを製作した。

4. 浮世絵の影響・・・はじめは広重の草子ものの中に見られる魚の干物なども興味を引いたようである。事実、ロイヤル・コペンハーゲンの焼物にもこのようなデザインのものがある。ギュスターヴ・モローの水彩の中にも日本の絵草子の影響とおもわれるものがある。扇子や団扇などが大変興味を惹いたようで、モーリス・ドニ、ゴーギャン、マネなどの絵の中に静物として取り込まれている。陰影やグラデーションがなく、それでいてきっちりと対象をとらえるという浮世絵の影絵的性格、上から見た俯瞰的な構図、さらには縦長の作品などの日本の影響は、ボナールの画にはっきりと見てとれる。また北斎の富嶽三十六景のような連作は、モネがいろいろな連作を描いたことと関係がある。事実、モネが過ごしたジベルニーには多数の浮世絵が残っている。セザンヌがセント・ビクトワール山をくりかえし描いたことも北斎などの影響であろう。北斎の「波」は特に有名で、ドビッシーの交響詩《海》の楽譜の表紙となっているほどである。また《エッフェル塔三十六景》を描いた画家アンリ・リヴィエールは、自分の印鑑を画に押していてほどのいれこみようであった。


5. 画と文字の統合・・・ルネ・マグリットの《これはパイプではない》という画がある。これは「このパイプは画だから、これからタバコはすえない」というマグリット特有のユーモアであるが、CET N’EST PAS UNE PIPEという文字板はパイプの画の下に貼りつけられた形で描かれている。西洋絵画ではルネッサンス以降、画と文字が混ざり合うことはなかった。中世の写本ですら絵と文字は別々なものとして作品を構成していた。ロセッティやミレイのようなラファエル前派の画家はテニソンの詩集《シャーロック》に挿絵を描いているが、これでも画と詩が上下に分かれた配置となっている。ウリアム・モリスは字と画を一体化しようと出版社に働きかけたが、できあがったものはやはり別々なものであった。日本では先ごろの琳派展に出ていた本阿弥光悦筆・俵屋宗達下絵の《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》のように絵と字の統合が完成している。字の大きさ、配置などが「散らし書き」になっているのである。これは日本では絵と書のいずれにも筆を使うということと関係がある。これを模倣した日本の和歌の翻訳集《蜻蛉集》が、1884年パリで刊行された。西園寺公望がまず翻訳し、前述のJudith Gautierがこれを直し、山本芳翆が画を描いたもので、字の大小といい、配置といい、みごとな散らし書きとなっている。この本は当時評判となったらしく、ギュスターヴ・モローも購入したとのことである。マラルメは、《Le Hasard》において活字による散らし書きを試みているが、これはヨーロッパでは前衛であった。アポリネールは、《Il Pleut》において活字による絵文字作成に挑戦している。でき上がった冠、ハート、雨などは結構上手いが、活字による雨の線などはやはりギクシャクしている。

6. 絵画におけるジャポニスム・・・1)ホイッスラー:日本の衣裳・屏風・団扇など浮世絵からの転用を行った画がある。

2)マネ:《ゾラの肖像》では花鳥画の金屏風や浮世絵が描かれており、《モリゾの肖像》では彼女の肖像の上に3枚続きの海女の浮世絵らしき絵がかかっている。《笛を吹く少年》の表現は日本的であり、鳥居清永に類似の構図の絵がある。《マラルメの肖像》には金屏風が描かれており、絵全体を塗りこめて、背景を閉ざしている。《ナナ》では背後に川と鶴が描かれ、紳士が半分で断ち切られた浮世絵的な表現となっている。

3)モネ:《ラ・ジャポネーズ》は第2回印象派展に出品された画であるが、打掛の背中や裾に模様があり、これを見せるためモデルのカミーユは無理な姿勢をとっている。手にした扇は三色なので、フランスの三色旗が残っているとのジョークがある。この画の団扇の中に《海老で鯛を釣る図》の一部が描きこまれているものがあるが、この全体図を写した皿が残っている。《ジベルニーの太鼓橋》は広重の《江戸百景 亀戸天神》と似ている。《睡蓮》では、空を直接描かず、水に映ったところだけを描いていることや、ヴァリエーションの連作を作っていることは日本絵画との関連があるといえる。モネは「自分の画は、『陰によって実在を示し、部分によって全体を見せる』という古い日本の絵からきている」と述べている。

4)ロートレック:鳥獣戯画や白隠の絵にみられる太い線、細い線を使った線描はきわめて日本的なものであるが、《アヴリルのポスター》では太さを違えた線を使い、さらに歌姫を斜め上から見た構図とし、書き文字を入れ、《ブリュアル》ではモデルに日本的な服装を着せ、さらにハンコのような署名を描きこむなど日本の影響が強かった。

5)ドガ:広重の《仲見世》では、門や建物の一部しか見せずに全体が表現されているが、このような構図はドガの《競馬場》、《アブサン》、《バレーの踊り子》などに取り入れられており、《サーカスの曲芸師》では逆に下から見上げる視線となっている。

6)ヴァロットン:《子供が遊んでいる画》では上からの俯瞰法を使っている。

7)ゴッホ:ゴッホは、1886年にパリに出てから、急に明るい画を描きだしたが、これには二つの理由がある。第1は印象派の画家の影響、第2は日本の浮世絵の影響である。浮世絵は安物しか持っていなかったようであるが、1987年の《タンギー爺さん》には、実在の浮世絵がいくつもとりこまれている。渓泉栄泉の模写《花魁》では、人物を左右逆に描いている。これは美術雑誌で既に逆になっていたからである。豊国や広重の影響も大きい。特に広重の模写《花咲く梅の木》では、文字を書き加えていること、空を赤く描いていることが注目される。《種まく人》では太い切り株が途中で切れた構図となっており、《ムスメ》のスカートの模様がすべて前向きになっているのも日本的である。《耳きり後の自画像》では目は釣りあがっていないが、《ゴーギャンに贈った自画像》では目が釣りあがっている。ゴッホは南フランスに来て、「日本にきた」といったそうである。

8)ゴーギャン:《説教の幻影》では、ゴッホと同じく空が赤く描かれ、樹が斜めに切れており、取っ組み合うヤコブと天使は北斎漫画のデザインを借用しており、登場している牛は宗達の真似ではないかとの説もある。

9)ブラマンク:《ドランの肖像》は日本的である。

10)マティス:ブリヂストン美術館の《縞ジャケット》は平面的で、線描が多く、日本的である。このようにジャポニスムは20世紀にも残ったといえる。

(2006年5月13日)

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鄭和とアラビア・ルネッサンス

 昨晩、NHKの特集番組「偉大なる旅人 鄭和」を見た。昨年、北京の中国国家博物館で「鄭和西洋航海600周年記念展」を観て、そのレポをホームページに書いていたので、とても興味深かった。

1371年、鄭和(幼名 馬三保)は、馬哈只の子として雲南でイスラム教徒として生まれた。祖父から「メッカを巡礼することはイスラム教徒の神聖な義務であり、人生は一生旅である」と繰り返し教えられていた。先祖はチンギス・ハーンの中央アジア遠征のときモンゴルに帰順し、クビライのとき雲南の開発に尽力した色目人である。彼がイスラム教徒の出身なので、のちの永楽帝は鄭和を航海の長として使おうと考えたのであった。


朱元璋が明を建てると、元の影響下にあったこの地は討伐を受け、12歳だった鄭和は捕らえられて去勢され、宦官としてのちの永楽帝に献上された。朱元璋の死後、永楽帝が帝位を奪取するため建文帝と争った靖難の変において馬三保は功績を挙げ、永楽帝より鄭の姓を下賜され、宦官の最高職である掌印太監とした。


 永楽帝は事業家で、万里の長城の修復、紫禁城の建設を行った他、1403年から巨大帆船の建造を始め、鄭和をその航海の指揮者に任じた。1405年、南京から第1次航海へと出た。その後、鄭和は6年かけてインドに3回航海している。第2回の航海出発は1407年、第3回出航は1409年であった。最大の船は120mを超す長さで、6階建ての巨艦であり、船団は200隻、総乗組員は27,000人にのぼる。

 長楽でモンスーンの風待ちをした際、航海の安全を祈って作った大釣鐘を、昨年北京で見ることができた。その写真はこのブログに収載した。これは仏教であるが、道教の廟にも参拝して、イスラム教だけでなく、仏教・道教を信じる乗組員の信頼を得たということである。


 長楽を出発した船団は、仏教国のチャンパ王国(ベトナム)に達し、この国と平和的に朝貢貿易関係を結ぶことができた。
マラッカ海峡には巨大な龍が住むといわれていたが、その実体は中国人の陳祖義という海賊であり、これを捕らえた。その後マラッカ国王には中国人妻を娶らせている。ここに倉庫を4つ建て、貿易の基地とした。現在でも中国の丘と呼ばれる墓地が残っている。


 次いでジャワ島のスクランを訪れているが、ここには鄭和像を祭る寺廟が二つあり、現在もお祭が行われている。そのときには二つの鄭和像が一緒になる。


 次にインドを目指し、セイロン島に着いた。ここは中国系仏教徒、タミール系ヒンズー教徒、ペルシャ系イスラム教徒が言語も別で抗争していたが、このような宗教的対立を嫌う鄭和のメッセージが3つの言葉で刻まれた石碑が残っている。また現地の王に鄭和の船団が攻められたが、その裏をついて宮殿を攻めてからくも勝利を収めたこともあった。


 そして鄭和はついにインドのカリカット(古里)に到着し、朝貢貿易による中国からの絹織物や陶磁器を扱うアラビア商人や胡椒を扱うユダヤ商人と接触し、ここに商品倉庫を建設して基地とした。鄭和は他の宗教や文明を尊重して貿易を行うのみで、植民地とすることはなかった。


 1412年、アラビア・アフリカを目指せという永徳帝の命を受け、1413年、200隻、27,000人で4回目の船出をした。コロンブスの船の5倍の大きさであった。カリカットからモンスーンに乗って1ヶ月でホルムズ島(イラン南部)に到着した。鄭和自身はホルムズに止まり、商品倉庫を作り、紫禁城に飾る宝石類を買い集めていたという。鄭和がなぜそこに止まったかは謎である。当時のイスラム文化はヨーロッパ文化よりも優れており、とくにカマールという北極星と水平線の角度を測る道具を用いた天文航法を鄭和も取り入れ、その後ヴァスコ・ダ・ガマもアラビア人の水先案内人を雇ったという。


 ホルムズから、宦官の馬歓らはアデン(イエメンの主要港、阿丹、世界遺産サナンの近く)に達し、さらにメッカ(天方)に着いた。このことは馬歓の書いた「瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)」に記録されているが、最近早稲田大学の家島彦一教授がパリ国立図書館に保存されていたラトゥール王朝の年代記の中に宦官のジェラール・ウッディーンが中国から訪れたことがアラビア語で記載されていることを発見した。


 5回目は1417年に出発し、本隊は前回と同じくアデンまで到達したが、途中で分かれた分隊はアフリカのマリンディ(ケニア東海岸)まで到達したことが明らかになっている。ここは金銀・象牙・動物の交易地で、アラビア人・ペルシャ人・インド人が活躍していたところであるが、15世紀の貴族の墓に中国磁器の皿が環状に嵌め込まれている。またすぐ北のラム島に中国船が座礁したという言い伝えがあるが、最近海底から龍の浮彫のある明代の壷が海中から出てきた。またこの近くのパテ島にはシャンガという肌の色の薄い人たちの集落があり、そこには中国の磁器が伝わっている。そこの人のDNA鑑定を行ったところ、確かに中国人の遺伝子があり、ムワマカという19歳の女性が奨学金をもらって鄭和の出発した南京で医学を勉強しているとのことである。


 6回目は間があいて1421年2月になるが、このときの足跡は不明で謎がある。ヴェネティアに残っている修道僧フラ・マウロの世界地図にはインドからアフリカ南端を回る航路が記されており、そこに中国船らしき書き込みがあるという。英国のメンジースは彼らがアメリカ大陸に達したという大胆な仮説を書いてベストセラーズになっている。本当ならば、コロンブスの新大陸発見の70年前に中国人がその栄誉を担っていることになる。


 1921年に紫禁城が焼失し、モンゴル人との戦いも激化する中、永楽帝は64歳で死去した。これは鄭和の第6回目の航海中であった。次の康熙帝はこの航海を中止したが、そのあとを継いだ宣徳帝がインド航路を復活し、60歳の鄭和に7回目の航海を命じた。出発は1431年で、本人はインドまでしか行けなかったが、馬歓らの先遣隊は海路ジッダに着き、そこから陸路メッカに達した。鄭和は1433年インドで死亡したという。


 鄭和死後の明は鎖国的になり、航海は行われなくなった。この大航海の記録は第4次航海と第7次航海に同行した馬歓の「瀛涯勝覧」や費信「星槎勝覧」、鞏珍「西洋番国志」などの民選の資料として現在に残されている。 しかし鄭和の公式記録は再び大航海を起こされることを危惧した劉大學副大臣により焼かれてしまった。

 鄭和らが去った後にヴァスコ・ダ・ガマがインドに達したが、彼らは残酷で、地元民やイスラム教徒を虐殺した。異教徒を尊重した鄭和とはまったく逆であった。今回の鄭和ブームの立役者はケ小平で、改革開放路線の象徴的存在となっている。実際に、アラブ首長国連邦のドバイにおける「アラビア・ルネサンス」において果たしている現代中国の役割は非常に大きい。中国とアラビアが平和的に交易していた昔に返るという世界戦略がこのアラビアの地で実効をあげつつある。

(2006年5月4日)

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藤田嗣治展と説明責任

 藤田嗣治展が東京国立近代美術館で開催されている。今までこの画家のまとまった展覧会は国内では開かれてこなかった。これは、藤田が戦後日本を追われるようにしてフランスに戻ったこと、君代夫人が何回も藤田の画の日本での公開について厳しい対応をしたことなどがその原因であると考えられてきた。

 NHKの近藤史人ディレクターの著書「藤田嗣治 異邦人の生涯」を読むとその概要が書かれている。近藤の活躍で今回NHK共催の藤田嗣治展が国立近代美術館で開くことになったのであろう。いままで観られなかったものが見られるのであるから、美術ファンとしては歓迎すべきことである。

 しかし3月から4月にかけてNHKが藤田についての紹介番組は私が見ただけでも5回ぐらいはあった。しかもその内容はほとんど同じであるといってよい。最後に「藤田君代」という名前が出てくる番組もあった。もしNHKが君代夫人に擦り寄って、夫人寄りの意見のキャンペーンを行っているとしたら、公共放送としては許されることではない。

 藤田については、美術評論家「夏堀全弘」の書いた伝記に藤田本人が全面的に手を入れた手記がある。また生前藤田が述べていたことについての君代夫人の証言がある。藤田の戦時中・終戦直後の行動についての放送を聞いていると、この藤田寄りの証拠以外についてあまり実証を行わないまま放送した可能性を否定できないと思われた。

 画家というものは時の権力におもねなければ生きてゆけない存在であるといってしまえばそれまでであるが、具体的には、@藤田は父親が軍医総監であったことを利用して戦争画作成に当たって中心的役割を果たしたこと、A終戦直後GHQに全面協力して戦争画のリスト作成の中心人物になったことの2点が問題であると思われる。

 私は、以前にも書いたように、藤田は戦意高揚という目的で戦争画を描いたとは思わない。むしろ戦争を利用して芸術作品を描いたのであると思っている。しかし、戦争に斃れた人々を描いて、自ら「尤も快心の作」と公言していることについては、これがいかに画家の業であるとしても、許容できないとする人が多い。

 NHKが、戦後この戦争協力を「他の画家も皆やっていたことなのに、藤田にすべての責任を負わせるのは至当ではない」という藤田側の意見のみを取り上げて世論操作をしているのであればきわめて大きな問題である。

 NHKが今なすべきことは、何回も展覧会の宣伝をして展覧会収入をあげ、家族に莫大な著作権料を払うことではなく、藤田側以外の証言や意見を集め、その実相に迫ることである。

 その第一段は、主催者が果たすべき責任は「今回の藤田嗣治展が近代美術館で開かれたにもかかわらず、近代美術館に置かれている藤田の14点もの戦争画のうち展示されたのはごく少数であった」ことの理由を明らかにすることである。このことが君代夫人の意向に沿ったものであるならば、主催者である東京国立近代美術館やNHKは既にその公正性を失ったといわれても仕方あるまい。

 主催者がこの展覧会の終了とともに、この説明責任を果たすことを期待する。(2006年5月4日)

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飛鳥美人の「泣きぼくろ」

国宝壁画を修復・保存するため、2005年9月から石室冷却でカビの繁殖を抑え、2007年2〜4月に石室解体を予定している奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末?8世紀初め)で、「飛鳥美人」と称される西壁の女性像の顔に黒い染みができていることが、2006年2月9日、奈良市で開かれた同古墳壁画恒久保存対策検討会で文化庁から報告された。

 文化庁によると、2月2日の定期点検で撮影した写真を検討中に、目元にほくろのような黒い染みがあると気付いた写真。過去の写真も調べたところ、昨年9月ごろ既にあったと分かった。なんともお粗末な見逃しである。同じ女性像の肩に縦2センチ、横3センチの黒い染みがあることも判明した。これも2004年に発行した写真集で、既に認められるとのことである。

 古代壁画を専門とする専門官がゼロに近い現在の文化庁の状況はきわめて憂うべきである。私が、何度も書いているように、外国の専門家の協力を仰ぐべきである。高松塚古墳壁画の発見当時に、外国のフレスコ画の専門家が壁画を剥がす事を提言していたが、文化庁はこれを無視していたという事実を忘れてはならない。

 「国宝高松塚古墳壁画?保存と修理?(文化庁監修 第一法規出版、1987.3)」には、1972年の高松塚古墳発掘直後、10月7日?10月13日に来日して、現地調査をしたフランスの研究家2人の見解が掲載されている。2人はフランスのラスコー洞窟壁画保存の研究者で、Y.M.フロドボー(フランス文化省歴史記念物主任調査官) と J.フォション(パスツール研究所地中微生物・生物科学部長)である。

高松塚古墳の壁画の保存に関する見解

1.高松塚の壁画は、フレスコであることはほぼ確実と思われる。石灰層内への顔料の浸透がはっきり観察できる。石灰層の現状は極度に危険である。層は剥離している。この原因は過剰の湿気による石灰層の劣化で、それは更に石と下塗りの間および下塗りそれ自身の中に入り込んだ木の根によって、事態が重大化している。

2.この壁画は、剥がして強化し、移し替えを行うべきであると思われる。この作業は現在では実現可能である。 これについては、日本の現地で協力するためにヨーロッパの熟練者を日本に招くことが望ましい。

3.石の継ぎ目のすきまは、弾力のある不透水性の物質で塞ぐことが必要であろう。この壁画は諸作動の振動で剥落し破壊される危険が多分にある。したがって、何よりもまず壁画をはずして必要作業の完成まで収蔵しておくべきであろう。再び取り付ける前には、必ず全設備の殺菌を行わなければならない。

(2006年2月4日)

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小林頼子氏の講演

レンブラント・フェルメールの時代ーオランダの光を訪ねて

ブリヂストン美術館

 Juliaさんに誘われて、ブリヂストン美術館に小林頼子氏の講演を聴きに行った。私は、氏の本を2冊持っている。一つは「フェルメールの世界」(NHK出版、1999)、もう一つは「謎解きフェルメール」(新潮社、2003)である。出かける前に後者を読み直して、ちょっと予習して出かけた。

 会場には、Juliaさん、Nikkiさん、鈴木さん、ミズシーさん、花子さん、Takさんご夫妻、Toshiさんご夫妻など馴染みの顔が見えていた。

 忘れないうちに、講義の内容を記しておくことにする。

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T.17世紀オランダの政治と経済

 ネーデルランドは南部(ベルギー)と北部(オランダ)からなっており、ヤーコブ・ファン・カンペンの《冬景色、1610》に見られるように、周囲のことが写実的に描かれた画が特徴的である。

 16世紀におけるスペイン・ハプスブルグ家の収奪とカトリックの強制は、1588年に北部の独立をもたらした。独立運動のオラニエ公ウィレム(後に暗殺、次いでマウリッツ公、さらにフレドリック・ヘンドリック公といった総督による政治体制に移行した。これらの総督は王族でなく、富裕な市民の支配体制ともいえるものだった。

 このため肖像画が市民にも広がった。このような肖像画の例としてあげたレンブラントの《商人の代表》は毛皮商人を描いたものであり、ニコラース・ルッツの《コンスタンチン・ハイヘンス》はヘンドリックの秘書で有数の知識人であった。

 その後、アントウェルペンの封鎖によって、交易の中心がアムステルダムに移り、冨も人もベルギーからオランダに移った。カンペンの《フレドリック・ヘンドリックの勝利の行進》、ヘイデンの《アムステルダムの商品取引所》、フォーゲールの《北海でのニシン漁》などはこのようなオランダの反映を描きだしており、オランダの勢力は東インド会社を通じて長崎の出島にまで及んだ。

 独立戦争中にはカトリックの宗教画がプロテスタントの攻撃の的となった。これは、モーゼの偶像崇拝禁止に基づくものである。1649年に描かれたサーレンダムの《シント・オデュルフス教会》を観ると、説教壇はあるが祭壇はなく、壁画がまったくない白壁ばかりである。自宅に宗教画を置くことまで禁止されたわけではなかったが、教会・王族・貴族からの大口の注文がなくなったことは画家に大きな影響を与えた。

 まとめると、17世紀オランダのキーワードは、下記の3つである。

  @ 王族・貴族の不在と市民の関与

  A 経済の隆盛

  B プロテスタント

 

U.17世紀のオランダ絵画

 肖像画、とくに全身肖像画は以前は王族・貴族に限られていたが、これが商人に移ってきた。肖像画は必ず注文主に引き取られるから、画家としては安心である。

 風景画は、17世紀オランダで初めて成立したものであるといってよい。

 風俗画は、日常のジャンルであり、ヤン・ステーンの《シンタ・クラースの贈物》はその代表例である。良い子には靴下に飴が入っており、悪い子には鞭が入っている。

 静物画はきわめて写実的である。代表例としてラヒェル・ライスの《花の静物》があげられるが、この画家は14人の子供の母親である。

 画家の経済状態は、ホドの《貧しい画家》、オスターデの《アトリエの画家》。フェルメールの《アトリエの画家》から見て取れる。単純労働者の日当が1.5ギルダーだった時代、画家の年収は100ー700ギルダー程度であった。

 当時オランダには400ー800人の画家がおり、年間600万枚の画が描かれた。このため競争が激しくなり質の良い画が作られる反面、低価格であり、大量に生産されたオランダ絵画は現在でも市場に出ているほどである。オランダ絵画は分かりやすい、小さい、安いという特徴がある。

 まとめると、17世紀のオランダ絵画のキーワードは、下記の4点である。

   @ 日常に向けられた視線

   A 写実的ジャンルの勃興

   B 写実的な描写

   C 当時のモラルの反映

 モラルとしては、第一にこの世のはかなさ、すなわちヴァニタスがあげられる。ヤン・ステーンのマウリッツハイスの画の中には、皆が騒いでる屋根裏に骸骨とシャボン玉を吹いている子供を小さく描いてヴァニタスを戒めている。

 第二には、勤勉であることがあげられる。デ・ホーホの《母の義務》、カスパー・ネッチェルの《しらみとり》、テルボルフの《母の世話》は、いずれも母親が子供の頭頂部の髪からしらみを取っている画であるが、子供は玩具すなわち遊びを捨て、母親に身を任せている。これは勤勉な状態を象徴している。

 フロマンタンは、「この時期のオランダ絵画には理念がない」といっているが、このようにはっきりとした理念を認めることができる。

 


V.ブリジストン美術館の17世紀オランダ絵画

 @ アンソニー・ヤンスゾーン・ファン・デル・クロースの《レイスウェイク城の見える風景》

 この作者はハーグの人である。色数が少なく、水平線が低い、空や雲に力が入っている、前景に大きなモチーフを置いて奥行を出しているなどこの時代のオランダ風景画の特長が出ている。汚れているが、ニスをとればきれいになる。

 この画は以前はヤン・ファン・ホイエンのものと考えられていた。ヤン・ファン・ホイエンは生涯に1300点も描いた多作家で、現在でも市場に出ており、小さいものでは200-300万円程度で買える。

 オランダ風景画は次の4段階を経過している。

 @) 世界風景画: 神の視点のように高いところから遠望し、空気遠近法によって遠くの山をダンダン青くしている。例)コーニンクスロー《山岳風景》

 A) 人間の視点(1610-20年代):視点が下がってくる。例)エサイアス・ファン・デン・ヴェルデ《渡し舟》

 B) モノクロームの時代(1630-40年代、バブルの時代):ヤン・ファン・ホイエンのようにオーカー色に限定され、視点がどんどん低くなる。これは大量生産の必要性に対応した描き方である。

 C) 操作した風景画:ヤーコブ・ライスダールの《ヘントハイム城》のように、山というものに理念を抱き、それをドラマチックに表現するように情景を操作する。この画の場合は、城が建っているのは実際には低い丘なのに、立派な山の上となっている。

 

 A レンブラントの油彩画

 レンブラントは初めアムステルダムでラストマンの弟子となり、いったんハーグに帰り、再びアムステルダムに戻った。はじめはプロモーターを介して画をうっていたが、そのうち市民権を取り、自分で画を売れるようになり、結婚し、13,000ギルダーものお金を払って家を購入した。オランダのバブル時代には、お金を借りても利子さえ払っておけば、元金を請求されることはなかったが、1952年にオランダが英蘭戦争に負けたのをきっかけとして大不況となり、元金を返済するよう請求された。レンブランドは版画などを大量に購入していたことも加わって、1652年に破産した。家を手放し、孫の貯金箱にも手をつけたという悲惨な話も残っている。

 初期のレンブラントの画には模倣と創造が同居しているといわれるが、数年でオリジナルなものを作ることができるようになった。レンブラントはカラバッジョの光と闇に学んでいるが、カラバッジョのように光を分散させず、光を集める明暗画法を確立し、自分のブランド・マークを刻印した。カラバッジョの《パウロの改宗》とレンブラントの《牢獄のパウロ》を比較すれば、そのことは明白である。レンブランドが宗教画や神話画のような物語画を描いているのは、レンブラントがイタリア画家のような正統派をめざしたこと、私宅ではこのような画を架けることが許されていたこと、さらにオランダ人がエラスムスの寛容精神によってカトリック地区の存在を容認したことも関連がある。

 ブリジストンにあるレンブラントの油彩画は小品で、銅板に描かれている。一部にRの署名があり、年次が162X年となっている(X=不詳)。昔は《聖ペテロの否認》と呼ばれていたが、銅板が右側で薄いため、右側に主題部分があり、全体の画が半分に切られたのではないかとされている。現在のの名称は《聖書あるいは物語に取材した夜の情景》となっている。

 この画の作者がはたしてレンブランドであったか否かについては従来より問題となってきた。レンブラント・リサーチ・プロジェクトでは1642年までのレンブランド作品の帰属について検討した。その後、新たなリサーチ・プロジェクトが発足し、2005年12月に、まず自画像の検討結果が発表された。二つのチームのメンバーで重なっているのは1名だけなので、異なる結論となる可能性もある。しかし結局は権威者の判断が優先され、グレーゾーンは残る。自分の意見は既に報告書に書いた。ダウ、ボールテル、スプレーウの可能性があるとほのめかされたが、最終的には「これは皆さんが明暗、細部、人物、構図のまとめ方をみて、自分で結論を出す問題である」として結論を避けられた。

 

 B レンブラントの版画

 @) 自画像: 近代人のように自らを見つめていたわけではなく、表情の研究に使っていた。

 A) 聖母の死: デューラーの画の影響がある。

 B) クレメンテ・デ・ヨング: これは第4ステージのもの。レンブランドは版画では、ステートごとに刷って製作の過程を残しており、これが版画の利点であると考えていた。

 C) 山上の教え: 100ギルダー版、2点 

 

W.フェルメール

 フェルメールはレンブラントより25歳若いが、画を描いたのは20年間だけで、43歳で早死にした。レンブラントのように63歳まで生きたらどんな画を描いたか興味がある。 現在残っているのは32点程度だが、失われたものも含めて60点程度、年2-3枚程度の寡作である。

 レンブラントが光と闇を描き、フェルメールは光の無限のニュアンスを描いたといえる。これは《窓辺に水差を持ち女》を見れば一目瞭然である。最初は《マリアとマルタの家のキリスト》のような物語画を描いた。これは良い画であるが、光と影があり、カラバッジョの影響が残っている。フェルメールはこれから1-2年で自分の型を作ったが、その間をつなぐ画がなかったのでメーヘレンにつけ込まれた。メーヘレンの贋作事件は美術史を専門とするものに衝撃を与えた。

 フェルメールの画には光が白いビーズのように描かれており、印象派的である。《デルフトの眺望》でも光が当たらないはずのところにこの白いビーズ状の光の点が描かれている。

 また人物の窓に近いほうを暗くし、遠いほうを明るくして、人物を浮き立たせている。このように表現を工夫し、操作を加えている。すなわちたんなる写実ではなく、描写に対して関与しているのである。カメラ・オブスクーラの話は分かりやすいが、フェルメールの画はこのような写実だけではない。《牛乳を注ぐ女》では瓶や壷の縁、さらには落下するミルクにも青の小点が描き加えられている。

 フェルメールは、幾何学的遠近法の消失点・消失線に留意しつつ、目で見る世界よりも画像の世界を重視している。換言すれば、描きたいイメージのため現実を使っているのである。フェルメールは、自分の頭に描いた現実をわれわれに訴えることを意図したのである。(2006年2月4日)


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美術オピニオン 2005

ネットにのった「わだつみのこえ」(ある雑誌の随想)

最近、ある雑誌に頼まれて、随想を書いた。この話はこのコメント欄に何度か書いたことのまとめのようなものなので、ここに再録する。

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 昨年、2004年6月のことである。梅雨の東京を離れて札幌に出張した。北海道には梅雨がない。本当に爽やかな青空が迎えてくれた。食べ物が美味しいのはいつものことだが、色々な花がいっせいに咲き出しており、見事だった。人間のほうも活気が出てきたようで、若者は大通り公園で「よさこい・そーらん」を乱舞していた。

 私も、この良い天気、爽やかな空気、美しい花々に誘われて札幌の彫刻や絵画を見て廻ることにした。
タクシーで「札幌彫刻美術館!」と言ってから、「その前に近くの西高校に行ってくれ」と付け加えると、運転手が「何かあるのですか」と聞く。「有名な彫刻があるからちょっと廻ってほしいのだ」と答えると、怪訝な顔をして、「そういう客は初めてだ」という。この高校の前身は札幌第二中学であり、有名な具象彫刻家を輩出している。本郷新、山内壮夫、佐藤忠良などである。この高校の前庭には、佐藤忠良の「蒼穹」がある。タクシーを待たせて前庭に入っていくと、大きく手を広げた裸婦像が待っていた。題名どおり澄み渡った青空のもと、校庭の垣根の前に咲き誇った紫の花菖蒲がこの裸婦像を見守っていた。いつのまにかタクシーの運転手も車を降りてきて、「これはきれいですね。良いものを見せてもらいました」と感謝された。


 話はこれからが本筋である。そのままタクシーで本郷新記念札幌彫刻美術館に行った。本館の前庭には「わだつみ」、「裸婦」、「砂」などが配置されていたが、いずれも素晴らしい。特に、彼の代表作の「わだつみ」は、戦没学生の手記「聞け、わだつみの声」を具象化したものであるが、その第1作は当初その構内に設置を予定されていた東京大学当局に拒絶されたため、立命館大学に引き取られ、第2作も北海道大学に拒否されて、ここ本郷新記念札幌彫刻美術館の前庭に立っているのである。本郷新という彫刻家はあまり有名ではないが、彼の彫刻は全国的にいろいろな場所に置かれており、筆者の住まいの近くの区役所や美術館の前にも立っている。稚内の「氷雪の門」はあまりにも有名だが、その作者が本郷新であることを知っている人は少なくなってしまっている。

 向いの本郷新記念館は靴をぬいて上がるようになっており、私が入っていくと男性が慌てて電燈をつけた。ここは本郷のアトリエを保存したものであり、大きな石膏像がたくさん展示してある。そこから階段を登ると、彼の作ったテラコッタが並んでいた。とくに「土と火の祭り」は素朴な顔面の集合で、不思議な作品であった。
昨年10月に、再び本郷新記念札幌彫刻美術館を訪れた。同行の家内のたっての希望があったからである。今回の展覧会は「躍動する人体の魅力」と副題が付いていて男性像が多かった。老人の像は顔も頬がこけて、やせた裸身もリアルだ。彫刻を作る前にモデルをいろいろな角度からデッサンするようでその画も一緒に展示されていた。

 東京から何度も観に来る私を見つけた館長さんから、お茶をご馳走になり、お願いをされた。「明年は本郷新の生誕100年となる。ついては全国の方に知ってもらいたいと思い、NHKの日曜美術館の45分のほうで紹介してもらいたいと交渉しているが、まだ良い返事をもらえない。なんとか力になってもらえないだろうか」ということであった。

 筆者は美術好きで、「美術散歩」というホームページを立ち上げている。現在のネット社会では、同好の者たちが覆面ながら緊密に情報交換を行っている。そこで筆者はインターネットによる全国的な応援活動を開始した。いわゆる草の根運動である。幸い、美術愛好家ホームページの交差点に位置している方の全面的な協力が得られた。その結果、ホームページの掲示板やブログでコメントが飛び交い、少なくとも野外彫刻家「本郷新」の存在の重要性が見直されてきた。

 2005年6月のことである。ことの発端から、ちょうど1年後である。朝の日曜美術館を見ていると、来週の日曜美術館の45分は「本郷新」という予告があった。私どもの応援がどのくらい援けになったかはさだかではなないが、とにかくうれしいニュースである。 早速、館長さんにお祝いのメールを送った。同時に、 全国の美術ファンの間でもお祝いのメッセージが飛び交った。筆者は皆さんのサイトに「なせばなる」という格言を添えて返事した。
 

 この話には、さらに後日談がある。札幌市の観光局が、本郷新の生誕100年を記念して全国に散らばっている彼の彫刻の写真コンテストを行ったのである。筆者は、偶然その案内を見つけたので、再びネットでこの情報を配信した。このことも全国の美術ファンの話題となり、沢山の作品の応募があったとのことである。筆者も応募したが、もちろん当選するわけもない。ただ筆者の応募作品の画像は、現在も札幌市のホームページに載せられているので、ときどきこれにアクセスしてにやにやしている。(2005年11月20日)

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大高保二郎先生の講演:バルセロナの光と影、ガウディとピカソ

ブリジストン美術館の地中海学会秋季連続講演会「地中海都市めぐり講演会」第1弾である「バルセロナの光と影、ガウディとピカソ」を聴いた。ちょっと前に家内とこの美術館に青木繁の画を観にきた時に、この講演会があることを知って、入場券を2枚購入した。ところが家内が急性腰痛ということで、1人で聴くことになった。

早稲田大学教授ということで、大高先生は話慣れておられる。話口はゆっくりだが、途中にアーとかウーとかいう言葉が入らない。自分の話をテープレコーダにとって聞き直してみると、赤面するほどこのような無用な雑音が入っている。その点この先生のリズムは崩れない。したがって聞き取りやすい。

本年9月、バルセロナにしばらく滞在した。そのこともあってこの講演会に遭遇したことは幸運であった。英語ではこのようなことをセレンディピティというが、日本語には適当な訳語がない。

前置きが長くなったが、内容はマラガからバルセロナにピカソがやってきた頃、ガウディはすでに認め始められていたので、ピカソはガウディを知っていたはずであるというところから始まる。しかもピカソのアトリエの一つはグエイ館の筋向いだったから、当然グエイ館も見たはずであるとの意見である。

大胆な仮説である。理系の私にはこのような論理の飛躍は非常に気になるが、さりとて反論すべき根拠を持ち合わせているわけでもない。

この頃(19世紀後半)のカタルーニャは、産業革命に比肩しうる近代化をなしとげたが、これによって富裕なブルジョワジー層と貧しい労働者階級の間の深刻な対立がもたらされた。

ガウディのほとんどの建物が富める層の居住地として開発された「新拡張地区」に建てられたのに反し、ピカソは歓楽街・貧民街と化した旧来の「ゴシック地区」に止まり、その中で10回もアトリエを変えたとのことである。

このような事実から、大高教授は、ガウディはバルセロナの光を浴び、ピカソはバルセロナの陰を背負って、パリに行き、青の時代の絵画に連なっていくのであるとの結論を出された。

講演は次第に熱を帯びてきて、大分時間を超過した。本筋からちょっと脱線した余話的なところはとくに面白かった。(2005年10月22日)

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キトラ壁画もピンチ:外国の専門家の応援が必要

今日、2005.9.16の朝日新聞朝刊に、キトラ壁画の写真がのっている。これは文化庁提供のもので、 東壁の獣頭人身十二支像のの周辺や顔と胸のあたりがバクテリアで茶色っぽく汚れている。

茶色いところが細菌感染南壁の朱雀にも細菌が見つかっているという。これらは、カビの殺菌剤に使ったエタノールを栄養源にしている可能性があるとのことである。

その他に、北壁の獣頭人身十二支像の子や丑の間に黒カビが見つかり、天井の天文図にも黒いシミが拡がっており、カビが疑われている。壁画は劣化が進んで崩落の恐れがあるため、昨夏にはぎ取り作業が始まり、これまでに白虎(西壁)、青竜(東壁)などを取り外したが、こんな状態となってしまっている。作業が遅すぎたといわれてもしかたがあるまい。

同庁記念物課の斎藤憲一郎課長補佐は「専門家の意見を聞き、壁画保存のための最善の方策について検討したい」と話したそうであるが、わが国の専門家の実力は既に判明している。大至急、外国の専門家の応援を要請すべきである。(2005年9月16日)

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戦争画の本質

  8月15日が来ると、第2次大戦の話題がメディアをにぎわすが、今年2005年は戦後60年の節目ということで例年よりも広い範囲の議論がなされている。最近、小泉首相の靖国神社参拝に対して、中国・韓国で反日運動が広がったこともあって、戦後はまだ終わっていないという感を強くする。


 第2次大戦は画家にも大きな影響を与えた。横山大観のように軍部におもねって国粋画を描いた画家、戦争記録画を描いた従軍画家、応召して靉光のように戦病死したり、香月泰男のように抑留の辛酸を舐めたり、さらには美術学校を繰り上げ卒業させられて戦地に駆り出され戦死した無言館画学生などその幅は広い。

 この時代、軍部は国民の士気を鼓舞するため、全国で戦争画の展覧会を開催するなど、戦争画制作を組織的に推し進めたようである。画家の多くも「日本美術報国会」(会長・横山大観)などの統制団体に加入し、軍の方針に協力したことも事実である。


 そこでここではその中で戦争記録画を描いた画家に焦点を当ててみたい。戦後多くの戦争記録画が米軍に接収されたが、現在は国立近代美術館に収められている。国立近代美術館の収蔵品目録をネットで調べてみると、この中に有名作家が多いことに驚く。藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎、伊原宇三郎、中村研一、猪熊弦一郎、向井潤吉、田村孝之介、川端龍子、吉岡堅二、福田豊四郎、橋本八百二、高畠達四郎、福沢一郎、石井柏亭、和田三造などの多くの著名画家が戦争画を描いている。聖戦美術展(1939-41)、海洋美術展(1941)、大東亜戦争美術展(1942-43)、 陸軍美術展(1944)、戦時特別文展陸軍省特別出品(1944)、戦争記録画展(1945)の出展目録の中にこれらの戦争画家の名前が連なっている。


 私自身、今年4月、国立近代美術館でゴッホ展が開かれた際に、ついでに観た常設展示の中に藤田嗣治の「アッツ島玉砕」を見つけて驚愕した。戦死者の死体が累々と並んでいるさまは西洋の歴史画のように見事に描かれてはいた。私は、これは一種の反戦画ではないかという気もしたが、調べてみると藤田嗣治は多くの戦争記録画を描いており、中にはどうしても戦意高揚を目的としたとしか思えない画があること、そのため戦後フランスに去ったことなど考えると、「アッツ島玉砕」は戦争という歴史的事実を利用して、歴史画を描きたいという自己の欲望を満たしたのに過ぎないのではないかと考えるに至った。菊畑茂久馬は「玉砕の殺戮地獄の資料を取り寄せては、その絵画的再現に夢中になっていたのである。そこには死屍累々たる血のしたたる群像描写に狂喜している絵描きのすさまじさが見える」と述べている。また河田明久は「画家たちは戦争に際し、西洋美術の厚い伝統を一気に取りこむ起死回生の機会ととらえた。アングルやダヴィッドのように入念な準備と仕上げによるモニュメンタルな大作を描く千載一遇のチャンスだったわけです。藤田は戦争画を描くことがうれしかったし、悲惨さに泣きながらも快感に打ち震えていたはずです」と述べている。

 小磯良平:娘子関を征く 小磯良平は、柔らかなタッチの女性像を描く画家で、私も好きな画家である。神戸に彼の美術館ができた時には、東京からわざわざ観にいったほどである。しかし彼はかなりの数の戦争画を描いていたと知って驚いた。戦後、彼は戦争画の話を持ち出されることを嫌悪していたという。 しかし小磯は少なくとも四回従軍し、戦争画は高い評価を受けていた。「娘子関(じようしかん)を征(ゆ)く」 は代表的な作品である。小磯は卓越した描写力と表現力を持ち、西洋の歴史画に意欲があったとのことである。これが彼をして戦争画の群像表現にのめりこませたものではあるまいか。

  日本軍がシンガポールの英国軍に降伏を迫る様子を描いた宮本三郎の「山下・パーシバル両司令官会見図」は、美術の教科書にも出てくる代表的な戦争画である。最近、世田谷美術館の分館となった宮本三郎美術館を訪れたところ、彼の「飢渇」が展示されていた。これは負傷し倒れこむ若い兵士の画で、水面に写る自分の目玉が大きく飛び出していることに驚いているものであり、これを見る限り反戦画といっても良いのである。しかしながら彼もまた戦意高揚画を描いているという事実から眼をそむけることはとうていできない。

 今まで、美術史はこれらの事実を直視することを避けてきており、戦争画は「日本絵画史の空白」となっている。戦後60年の今こそ、戦争画の本質を見つめ、画家の業に迫るべきであろう。(2005年8月16日)

註) 2006.4.7に、東京国立近代美術館の上記の戦争画美術展サイトへリンクされなくなったので、あらかじめ記録してあった戦争画美術展一覧をpdfファイルでアップします。

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無言館と戦争責任

戦没画学生の画を集めた上田の「無言館」の展覧会が、今年2005年3月東京ステーションギャラリーであった。「無言館」とは、野見山暁治・窪島誠一郎 両氏の努力によって、1997年に開館したものである。そこの展覧会で、58名の方々の作品・遺品に接した。美術学校を繰り上げ卒業し、戦場に送られ、そして戦没あるいは病没されたのである。画業を続けられなかった無念さが、一人ひとりの戦没画学生のキャプションで紹介されていたが、本当に残酷な現実に耐えた人々の叫びが聞こえてくるようあった。私自身、感動して、画を落ち着いて観ることができなかった。会場には予想をはるかに上まわる数の人たちが観に来ておられた。大勢の人がいながら、不気味に静まり返っている様子は、そこだけ外とはまったく違う空間となっていた。このことを本サイトに書いたところ、多くの方がステーションギャラリーに観にいかれ、このような感動を共有されたとの知らせがあった。

その後、無言館の石礎「記憶のパレット」に、何者かが赤いペンキをかけるという残念な事件があった。しかし7月24日の朝日新聞朝刊によると、館主の窪島誠一郎氏は「無言館にはいろんな意見があっていい」と語り、ペンキの一部をあえて残して修復されたとのことである。

今朝、7月29日の朝日新聞の「声」欄では、畠山重興氏が、いまだに誰が何のためにしたのか分からないので、赤いペンキをかけた人に対して「積極的に名乗り出て、その意図について語っていただけないでしょうか」との投書をされている。

そこで思い立って、信州の無言館に出かけることにした。東京駅から長野新幹線で上田へ。そこから上田電鉄「別所温泉線」に乗り換えて「塩田町」駅に降り立った。そこまではネットで調べていった通りで、順調であった。ネットによると、この駅からシャトルバスがあるということで、探してみたが「信州・鎌倉シャトルバス」という名前の上田と別所温泉間の定期バスが1日6本でており、次のバスは1時間以上待つという状況であることが判明し、驚いた。しかし、駅の前にはウォーキング・マップがあり、2.3Km歩けば、無言館に着くことがわかった。

そこで気温34℃以上の炎熱の中、日陰のまったくない田舎道をテクテク歩いた。最後のところがかなりの上り坂で、大変な散歩であった。ただし、ここで大発見があった。舗装された登り道の縁石に赤いペンキで2本のいたずら書きがあったのである。山上の無言館についてみると、皆マイカーやタクシーで来ておられるようであり、こんなに遠いところを歩いて登ってくるものはほとんどいないということが分かった。館主や新聞記者もこのことには気づいておられない可能性がある。

無言館:記憶のパレット

無言館前の「記憶のパレット」には手前に赤いペンキが残してあったが、それほど見苦しくないないようになっていて安心した。そしてこのパレットの赤ペンキは、上り坂の縁石の赤ペンキと同じ色であることを確認した。すなわちこれは単なるイタズラと考えるべきであろう。確信犯的なものであれば、縁石にまでイタズラ書きをする必要はないからである。

無言館はコンクリートの打ちっぱなしの建物で、十字架の形をしており、まるで大きなお墓のような建物である。中に入って驚いた。窓もなく、室内は驚くほど高温で、まるでサウナ状態であった。絵画の保存という観点からも最低の状態であった。なんとか国の支援ができないものであろうか。このような戦争の犠牲者に対する国家の責任が果たされていないともいえよう。ただ、外へ出ると、木陰では、風も吹いており、しぼるような汗もしばらくして乾いてきた。戦没画学生の命であるこれらの画を祀るロケーションとして最高である。

たまたま、夜のテレビ朝日の報道ステーションで、この無言館からの生中継があった。菅原文太さんが、いくつかの画や家族への絵葉書を紹介されていた。彼は何回もここに来ているようで、迫力のある説明であった。ジャケットを着ておられ、ライトがあかあかと点けられている状態ではさぞ暑かったのではないだろうか。彼の顔がだんだん紅潮してきていたのは、もちろん温度のせいばかりはないことは言うまでもないことではあるが。(2005年7月29日)

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本郷新の生誕100年(第2弾)

昨年、このHPから「本郷新生誕100年」をNHKの日曜美術館で放映してもらうことをインターネットで応援していただくようにお願いしていたが、今週の日曜美術館の45分の部分で放映されることになった。

http://www.nhk.or.jp/omoban/k/0605_7.html

私どもの応援がどのくらい助けになったかは分からないが、とにかくうれしい次第です。

早速、館長さんに次のメールを送った。 (2005年6月1日)

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本郷新札幌彫刻美術館
館長 様

昨年は、6月と10月にそちらにお伺いしました。
家内と10月に伺った時、別室でお茶をご馳走になりました。

その時、2005年は本郷新の生誕100年になること、
NHKの新日曜美術館の45分のところで放映してもらいたいと思っていることを伺いました。

その時、私は美術のホームページを作っているから、
そこから全国のインターネット美術フアンの応援を頼むことをお約束しました。
それが、かなりの輪になって広がって行きました。
その一部を、私のホームページから添付文書でご紹介します。

今朝の日曜美術館で来週の日曜美術館の45分は「本郷新」という予告がありました。
万歳!万歳!

私どものネットの輪がどのくらいお役に立ったか分かりませんが、とにかく祝杯です。
来週を楽しみにしております。

「美術散歩」管理人 「とら」 (2005年5月29日)

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ボッティチェリのヴィーナス

今回、ベルリン博物館島から東京に来ている「ベルリンの至宝展」の目玉の一つはボティチェリの「ヴィーナス」である。有名なウフィッツイ美術館の[ヴィーナスの誕生」との比較が話題になっている。ブログを見ると、ウフィッツイのものに軍配を上げて入るものが多いが、私は余計なもののないベルリンのものがシャープで好きである。

ここでは和辻哲郎の「フィレンツェ古寺巡礼」(角川文庫 1956年2月10日刊)の一節を引用しておきたい。

これは1928年3月26日にフィレンツェで書かれたものである。

ボティチェリの作ではやはり「ヴィナスの誕生」が一番いいと思う。色もわりにあっさりしてゐていゝと思う。しかし実物を見てあっと驚くほどのことはなかった。中央のヴィナスの髪の毛などは、金色で中々美しいし、右側のニンフの白い衣み散らしてある藍色の文様なども中々いゝと思ったが、しかし全体の色調は何となく眠そうな、鈍い調子である。写真で想像してゐた、デリケート過ぎるほど鋭い神経の慄え、と言ったやうなものは、色彩の上では見出すことが出来なかった。

中央のヴィナスと似通った格好をしたヴィナスの絵がベルリンにある。あれは非常に感服してみたものであった。あれを思い出して、この本物の方は、ベルリンの絵のようにボティチェリ式ではない。これは甚だ皮肉な現象であるが、実際、ボティチェリ風の癖は本物の方が少ないのである。肉体の描き方の非常にデリケートな鋭さというやうなものは、ベルリンの絵の方が強く感じさせる。

和辻哲郎がこの文章を書いたころには、ベルリンの絵はボッティチェリの真作かどうか疑問となっていたそうであるが、今回の展覧会のカタログにはそのようなことにはまったく触れられていない。(2005年5月7日)

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高松塚・キトラ壁画の保存を文化庁に任せてよいのか(第7弾)

やっと高松塚壁画の保存のために石室解体することになった。ただ文化庁は、今になっても解体作業中の壁画の保護方法には「詳しい検討が必要」としている。

どうして突然解体・搬出に決まったのか、このような方法ははたして日本人がやったことがあるのか、外国の専門家の手助けを必要としないのか、などの重要な問題はまったく不詳である。

重要な文化遺産をここまで追い込んだ文化庁には、これらの問題について国民を納得させる「説明責任」がある。(2005年5月6日)

本件に付き、朝日新聞(2005年05月11日)に続報が載っていたので、ここに引用させていただく。

 特別史跡・高松塚古墳(奈良県明日香村)で劣化が進む国宝壁画の修復・保存策をめぐり、文化庁の恒久保存対策検討会(座長=渡辺明義・元東京文化財研究所長)は11日、東京都内で会議を開き、壁画の描かれた石室を解体して取り出す案など5案について議論した。石室解体案に賛成の委員が大勢を占めたが、反対の意見もあり、結論は夏にも開く次回会議に持ち越した。

 また、検討会は当面の緊急対策として、石室内の温度を15度以下に下げるため冷気を通すパイプを石室周辺に埋めることや、墳丘全体を覆う仮設の囲いの設置を決めた。

 検討会は考古学、美術史、保存科学、生物学などの専門家24人で構成し、この日は23人が出席。同庁は(1)現在の保存施設を改良(2)墳丘全体を外気から遮断(3)石室を鉄板などで囲い地盤から遮断(4)石室解体(5)壁画はぎ取り――の5案を示し、各案の利点や問題点を説明した。

 同庁は、(1)、(2)はカビや壁画劣化の防止効果が期待できず、(3)は耐震性に問題があり、(5)は壁画の劣化が激しく作業が困難と指摘。(4)の石室解体案については「カビ抑止や絵の修復に大きな成果が期待できる」と、効果を強調した。

 このため、委員の間では「解体やむなし」とする声が多く聞かれたが、(3)についても「温度、湿度が管理しやすく有効だ」との意見があった。また、「石室内の温度を下げる緊急対策の成果をみて決めるべきだ」「特別史跡の価値を損なわない保存を考えてほしい」などの慎重論も出た。

 会議後の記者会見で渡辺座長は、次回は(3)と(4)を中心に議論したいとした上で「解体案が最良と思うが、各案の是非を世論に問いたい」と話した。

専門家であるべき文化庁が保存方法を「世論」に聞くという。責任逃れのためだとは思うが、もう外国の専門家に任せた方が良い。

さらに本日(2005年5月13日)の朝日新聞にやっと文化庁の責任を追及する社説が出た。本コメントでは、昨年から何回も述べていることであるが、やっ新聞も自分のオピニオンを出したことは評価できるが、何と遅いことか。これではオピニオン・リーダーということはできない。(2005.5.13)

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東京ステーションギャラリーの休館

ステーションギャラリーは東京駅の中にあって、赤レンガの壁を持つ洒落た美術館である。最近では、香月泰男展、無言館展など、第2次大戦の悲劇を訴える素晴らしい企画があった。

そのステーションギャラリーが、明年から5年間も休館すると言う。理由は、東京駅のリニューアルのためであるとのことである。東京駅は元来3階建てであったが、空襲によって3階部分が焼け、現在は1階と2階だけ使われているのであるが、これが修復されるということである。

国鉄から大変身を遂げたJR東日本の1大プロジェクトであり、そのこと自体は歓迎すべきことである。しかしながら、そのために5年間も休館するというのはいかがなものであろうか。

関係者に聞くと、その間も何とか場所を探して展覧会を続けたいという希望は持っているが、具体的なことは決まっていないらしい。

この美術館のユニークな企画は、オリジナリティに富む立派なたキュレーターたちによって立案されているのであろうが、このような長期間の休館の間、有能な人材をつなぎとめておくのは困難かもしれない。

美術愛好家の皆さん、何か良い知恵はないものでしょうか。(2005年4月13日)

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海山十題(4)

日本橋三越で開かれている横山大観展を観た。前回の海山十題展は彼の軍国主義に反発して、わざと見逃した。

今日は近代美術館のゴッホ展に行こうと思って地下鉄に乗ったが、休日で大混雑しているのでないかと思い、そのまま三越にいってしまったのである。

まず展示されていたのは「無我」、これには3バージョンがあるそうだが、なかなかのものである。ろうけつ染めの着物が素晴らしく、童子の体つき・顔つきもなんともいえない。

しばらく観ていくと、紅葉というとてつも大きな派手な画があった。その後に墨絵風の画が続き、ついで私の仇敵の「乾坤輝く」が出てきた。海山十題の一つである。富士山に真っ赤な太陽というか日の丸というか軍国絵画である。大観はこの収入を戦闘機購入の資として寄付したという。紀元2600年記念ということも気に入らない。大体この太陽は血の色で、富士山の姿を台無しにしている。

戦争末期、自分の後輩の美大生が繰上卒業・徴兵され、戦場に散った頃、この大観は軍部にぺこぺこして酒を飲んでいたのである。つい最近、ステーションギャラリーで観た無言館展は上記の戦没美大生の作品を集めたものである。大観の「乾坤輝く」のために死んでいった学生は本当にかわいそうである。

高齢の大観の画はまことに惨めである。この頃彼は「米を食べず、米の汁を飲む」と称して、酒ばかり飲んでいたらしい。アル中である。酒を買うために画を描いたのかもしれないが、無残である。戦没画学生の怨霊に取り付かれたのかもしれない。(2005年3月21日)

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残された絵画

戦没画学生の画を集めた上田の「無言館」の展覧会を観た。終戦60年記念ということです。 遺族の方たちも高齢になっておられることでしょう。

野見山暁治・窪島誠一郎 両氏の努力によって、平成9年に開館したこの「無言館」のことは、ちょっと前に聞いたことがあったようですが、すっかり忘れてしまっていた。私も平和ボケだ。

今回、58名の方々の作品・遺品に接する機会となった。生まれた年は、明治42年ごろから大正13年ごろに集中している。美術学校を繰り上げ卒業し、戦場に送られ、そして戦没されたのだ。

画業を続けられなかった無念さが、一人ひとりの戦没画学生のキャプションで紹介されていたが、本当に残酷な現実に耐えた人々の叫びが聞こえてくるようであった。私自身、感動して、画を落ち着いて観ることができなかったた。

会場には予想をはるかに上まわる数の人たちが観に来ておられた。大勢の人がいながら、不気味に静まり返っている様子は、そこだけ外とはまったく違う空間だった。

図録を買って帰る勇気はなかった。図録はなくてもこの展覧会の雰囲気は一生忘れることはないと思う。(2005年3月13日)

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美術オピニオン 2004

高松塚・キトラ壁画の手術治療(第6弾):石室開封

キトラ壁画については、このコラムで第1弾第2弾第3弾のオピニオンを表明してきたが、昨日のNHKスペシャルで、「石室開封」が放映された。 今までの記述と重複する所もあるかもしれないが、その内容をここに収録する。

1.2003年春:文化庁のプロジェクト(現地保存の原則:コンクリート壁の覆屋で温度・湿度を管理する):リーダー=川野辺渉(東京文化財研究所)

2.2004年1月:石室の開封(特殊服を着用、エアー・シャワー使用後に作業;石室を覆っている土を除去し、4日目に盗掘口に達する:ハイビジョン小型カメラ+無放熱ライトで内部を撮影)

○石室の大きさ:幅1.0m、奥行き2.4m

○四神:北壁(玄武、亀と蛇、正面)、西壁(白虎)、東壁(青龍、泥に覆われている)、南壁(朱雀、盗掘口の側)

○十二支像(青龍の左下の寅をはじめ、五体が確認された、これらは時を司る神で、被葬者を永遠に護る)

○天文図(天井にある金色の星と朱の連結線および環状線、北斗七星もよく見える)

3.2ヵ月後:石室入り口付近に白カビを発見。エタノール・ガーゼで覆ったが効果なく、山本記子(東京文化財研究所研究員:欧州で壁画修復も学ぶ:模型で内部に入る練習後)が中に入って観察

○東壁の青竜やその下にある獣頭人身像(十二支・寅像)には亀裂が多く、白虎に至っては大部分の漆喰が壁から浮き上がっている。→応急処置として3日かけて300枚のレーヨン紙を貼り付けた。

4.石室内の発掘調査(棺の金具、歯・人骨の一部が出てきた。歯はかなり減っているので高齢者-日本書紀で可能性のある被葬者は4人、とくに安倍御主人(あべのううし、阿部村にあるから)あるいは百済王善光が最大の候補)

5.開封から5ヶ月後:カビが壁画の上に見つかった。いたるところにカビが生えている。現地保存している高松塚でも黒カビが生えたが、薬液処理で白虎が著しく退色している。⇒高松塚の二の舞はぜったいに避ける!!

6.委員会で大激論⇒既に浮き上がっている白虎と西龍を剥がすことに決定

7.2004年9月、山本記子が西龍と白虎(前脚の部分は剥がれず)の剥離に成功⇒全体をはがし、石室から取り出すことに決定!!現在、白虎の前脚を剥がす準備をしている。

ガンバレ、山本記子(のりこ)!!!!!
(2004年11月22日)

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本郷新の生誕100年を迎えるにあたって

本郷新が明年生誕100年を迎える。このことについて、本HPの美術散歩(日本)のひとかたち展BBSに書いたが、その後の進展を併せ、ここにもう一度書いてみたいと思う。

簡単に言うと、札幌の本郷新記念彫刻美術館長に「新日曜美術館で彼の生誕100年について紹介してもらいたい」という希望を伺って、ネットによる草の根PRを始めたのである。BBSを再録すると、

美術愛好家の皆さん。

札幌の本郷新記念「札幌彫刻美術館」に、また行ってきました。6月にも一人で行ったのですが、今回は同行の家内がどうしてもというわけで・・・。
本郷新の野外彫刻は北は稚内公園の「氷雪の門」、南は鹿児島鴨池公園の「太陽の賛歌」に至るまで全国にあります。

ちょっと気付きませんが、東京にも沢山あります。「母と子」は世田谷区役所に、「奏でる乙女」は六本木交差点に、「花束」は上野公園に、代表作の「わだつみのこえ」は世田谷美術館に、「蒼穹」は中央大学にといった具合です。

東京から何度も観に来る私を見つけて、館長さんから、お茶を頂き、お願いをされました。
「明年は本郷新の生誕100年となる。ついては全国の方に知ってもらいたいと思い、NHKの日曜美術館の45分のほうで紹介してもらいたいと交渉しているが、まだ良い返事をもらえない。なんとか力になってもらえないだろうか」ということでした。

私自身はNHKの担当者を知らないので、皆さんのお力をお借りして、これに関するサポーターを増やせればと思っています。

彼の代表作の「わだつみのこえ」は、戦没学生の手記「聞けわだつみの声」を具象化したものですが、この第1作は当初、東京大学構内に設置される構想だったのですが、当局に拒絶され、立命館大学に引き取られ、第2作も北海道大学に拒否されて、今は本郷新記念札幌彫刻美術館の前庭に立っています。

このような戦中・戦後の歴史を本郷新の彫刻から回顧することもきわめて意義のあることと考えています。ご協力いただければ幸いです

幸い、美術愛好家HPの交差点であるTakさんの全面的な協力が得られ、そのHPやブログでコメントが飛び交い、少なくとも野外彫刻家の本郷新の存在の重要性がが見直されてきている。

私はBBSで、Takさんや美術愛好家の皆さんに次のようなお礼を書いた。

ご案内いただいたブログには、早速、六本木にある「奏でる乙女」が雨にうたれる素晴らしい写真が載っていました。全国各地にこのような野外彫刻が立っている写真がネットを通じて拝見できれば、うれしいことですね。

日本最北の稚内に「氷雪の門」があります。終戦を迎え、ロシア兵が迫り来る中、最後の電信を打った後、青酸カリで全員自殺された樺太の若い女性真岡郵便局員9名の鎮魂式が毎年行われていますが、私はツアー旅行中、偶然にその儀式に出会いました。そしてその記念碑である「氷雪の門」の作者が本郷新であることをはじめて知りました。

そしてこれもまた偶然なのですが、札幌で「わだつみのこえ」のある本郷新彫刻美術館の実情を拝見し、館長さんのお考えを伺うことになりましたので、これは何とかしなくてはと思い、ネット友人の厚意にすがることにしたのです。

あちこちで商業的美術館が閉鎖される中、わが国にとってこのように大切な個人美術館をなんとか・・・と思い、いわゆる「勝手連」を立ち上げたらどうかと思った次第です。予算はゼロ。ただただネットの威力を頼るのみです。

なお「氷雪の門」は映画になり、下記の美しいページで紹介されています。

http://www.shinjo-office.com/page029.html

その後、「わだつみのこえ」のブロンズ像が全国に立っているという事実にについても、理解が深まってきた。そこで、私はもう一度BBSで、次のように書いた。

Takさん、こんばんは。

教えていただいた blog:Museum a_go_go を訪問しました。

全国にいくつの「わだつみのこえ」があるのか?という疑問がありましたので、札幌彫刻美術館パンフレットの「本郷新制作 全国野外彫刻所在地」(Takさんの画像BBSに貼り付けた地図)を拡大鏡でみると、なんと全国7箇所に「わだつみのこえ」のブロンズ像が立っていることが分かりました。1.札幌:北海高校、2.札幌彫刻美術館、3.長万部:平和祈念館、4.東京:世田谷美術館、5.神奈川県立近代美術館、6.京都:立命館大学国際平和ミュージアム、7.和歌山市民体育館がそれです。

いずれにしても、ネットの輪が広がっていくのは本当に嬉しいことです。

「わだつみのこえ」については、堀内英樹氏のHPに詳しく書かれているのでここで紹介させていただきたいと思う。

2003年12月8日は、1941年に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が始まった日だ。この日を記念して、立命大国際平和ミュージアムで、第50回目の「不戦のつどい」が開かれた。これは京大滝川事件から70年、学徒出陣から60年、「わだつみ像」建立から50年という記念すべき節目で行われた。

京大滝川事件は、戦前のファシズムによる学問弾圧として知られている。右翼議員から滝川幸辰
法学部教授が共産主義的であると攻撃をうけ、当時の鳩山一郎文部大臣が、京大総長に滝川教授の辞職要求したことから、末川博教授ら教官の3分の2がこれに抗議して法学部を去った。末川博氏は、
立命大に迎えられ、45年から69年まで学長・総長を務めた。

「わだつみ像」は、戦没学生記念会が「二度とペンを銃に変えない」との決意のもとに、彫刻家・本郷新氏に制作を依頼し、50年に完成された。戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」に込められた、学生生活半ばで洗浄に散っていった学生の嘆き・悶えを表現している。立命大は、全学挙げて
わだつみ像の建立に取り組み、制作から3年後の53年に像を迎えた。

当時総長であった末川博氏は台座に「像とともに未来を守れ」と記した。そして碑文には、次の言葉が記されている。

 未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだえを象徴するのがこの像である。本郷新氏の制作。
「なげけるか いかれるか はたもだえるか きけ はてしなきわだつみのこえ」この戦没学生記念像は廣く世にわたつみ像としてしられている。
           一九五三年一二月八日  立命館大学総長 末川博しるす

イラクやアフガニスタンで各国の若い生命が聖戦という名のもとに散っていっている現在、本郷新のブロンズ像を見直すことの意義はきわめて大きいと思う。(2004年11月3日)

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国立西洋美術館: バリア・リッチ・ミュージアム

今回のマティス展は、 マティス好きにはこたえられない展覧会でしたね。私も昭和26年に戦後初めてのマティス展を見て以来、何回も見てきましたが、今回は最高のシナゾロエだと思いました。

「一つだけ難を言えば展示場所が悪い」というTakさんの感想文には大賛成です。そこで私の今回の体験談をひとつ。

地下3階から「階段でなく、エレベーターで」地下2階の会場に戻る方法をご存じですか?体の事情でそういう人も多いはずです。

まずエレベーターの所在がわかり難いので、そこの女性に聞くと一応案内してくれます。

エレベーターで地下2階に上ると、入口の外の映像コーナーに出てしまいます。これは間違えたナと思ってまた地下3階にエレベーターで降りて、もう一度聞くと、「1回外に出てから、入りなおすのだ」という。

「初めからそういえば良いのに」と思いつつ、エレベーターで地下2階に戻り、ガードマンのオジサンに聞くと、「本当にここは困るんですよ」と言いながらも、私が確かに地下3階からエレベーターで上がってきた者であって、タダデ入場しようとしている不埒な者ではないことを、携帯電話をかけて確認する。

そして入口の脇の非常口から、一旦最初の部屋に「入れていただいて」、そこからおもむろにカーテンを開けて、目的の最後の部屋に案内してくれる。

そこに並んでいる素晴らしいマティスの画を気持ちを落ち着けて鑑賞することができるようになるには、どんなに「人間のできている」人でも最低10分はかかります。

国立西洋美術館は、バリア・リッチ・ミュージアムなのです。
(2004年10月3日)

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高松塚・キトラの壁画の緊急手術(第5弾)

BBSでTakさんから、NHKで「画像解析で国宝壁画の謎に迫れ!」の放送が9月25日にあるとの連絡がきた。しかし当日は中学校の同期の同窓会があり、卒業後53年目に初めて再会する日だった。そこでビデオ収録したものを今朝みた。


対象は高松塚壁画で、主として「蛍光撮影」、一部に[赤外線撮影]や「X線撮影」という科学的方法で、解析した結果の放送であった。「蛍光撮影」は、直接試料を採取できない貴重な絵画の分析に使うもので、微量の染料をとらえることができるため、長い年月の間に消えかかって見えなくなった本来の絵の様子の一部を再現することもできる。ただしこれは、これまでも「源氏物語絵巻」などにも利用されており、決して新しい手法ではない。


NHKは、古墳の中が狭いことと、湿度が100%であるため、この方法の利用が今日までできなかったことを強調しているが、東京文化財研究所がこの壁画の保存に失敗している現状を許容する方向に一般の意見を誘導しているとしか思えない。


高松塚壁画に、アフガニスタン原産のラピスラズリ顔料が使われている可能性も明らかになり、古代の壮大な東西交流の一端が示されたこと自体は興味ある事実である。


しかし問題は、1300年保存されていた壁画に僅か30年間でカビが生え、防カビ剤の使用によって「白虎」の輪郭がほぼ完全に消えてしまったことなのである。東京文化財研究所では、今になって各種の顔料や染料を湿度100%の環境に置いて、これらの変化を調べているが、こんなことは30年前にできたことである。番組では、今回の科学的検査ではじめて、「白虎」の輪郭線は最初に考えた「墨」ではなく、退色しやすい植物染料の「藍」だった可能性がでてきたのであるとしているが、このことは当初「墨」であると判定した担当者を免責するものとはいえない。

唯一の救いは、この当事者である某「名誉」教授が、「このような科学的研究の結果は受け止めざるをえない。保存方法についても考えなおす段階にきている」ことを認めたことである。すでにキトラ壁画では剥離作業が進められている。高松塚壁画もマッタナシである。(2004年9月26日)

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高松塚・キトラの壁画破壊責任の追求(第4弾)

高松塚壁画・キトラ壁画については、それぞれこのコラムの第1弾T第2弾T第3弾Tおよび第1弾K第2弾K 第3弾Kとして意見を述べてきたが、9月16日の朝日新聞朝刊によると、成城大学の上原和名誉教授が「中国・唐墓の保存に学べ:剥離・修復は50基500点を超す」と言う意見述べておられる。

中国・西安の陜西省歴史博物館の申天遊館長は、「高松塚やキトラ古墳の壁画の劣化状態は本当に残念です。誰にも見せないという日本政府の保存方法に問題があり、誰のために保存するのかという思想がないからである」と指摘されたそうである。そして「現在の中国では、文化遺産は国家や民族だけのものではなく、全人類のものと考えている」と明言されたそうである。

この博物館には、1961年に発見された永泰公主唐墓(706)の壁画が、翌年に剥離されて以来、今日まで約50の唐墓の壁画が剥離され、保存されている壁面は500を超えているとのことである。ところが1972年に高松塚壁画が発見されてからも、日本政府の文化財関係者が保存の問題で、この唐墓壁画センターの修復室を訪れたことがないという。

エーゲ海サントリーニ島の壁画を発掘していたアテネ大学マリナトス教授は、高松塚が密封されていることについて、「それはエゴイストだ。発掘した壁画はすべての人類の宝であり、世界中の人々に見せなければならない」と話しておられたそうである。

すなわちこのコラムで繰り返し述べてきた筆者のオピニオンの方がずっと国際的なのであり、このような人類の常識が通用しないわが国の文化財保存の関係者、すなわち文化庁の担当委員は、世界の人々に対する文化財破壊の責任をとって速やかに辞任すべきである。(2004年9月20日)

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横山大観の海山十題(第3弾)

山に因む十題 龍躍る、海に因む十題 波騒ぐ今夜のエプソンの「美の巨人」で、横山大観の「海山十題」が取り上げられた。

その中で、彼が「乾坤輝く」と「黒潮」に太陽を描きいれたことについて、「お国のために描くのは当たり前だった時代ですが、日の丸を連想させるこの2つの作品を入れたことで、あまりにも軍国的精神が露骨であると中には批判する人もいました。では、大観はただ国を守る為、国威発揚の為だけに、『海山十題』を描いたのでしょうか?」と疑問を投げかけている。

そして最後に、「この国の美しさを愛した画家が描いた富士は、心を写す鏡であり、海は命の根元でした。
今、あなたはこの絵から何を感じ取るのでしょうか?『海山十題』。横山大観が気魄を込めて描いた日本の美の真髄。」と最大限の賛辞を呈している。

平山邦夫氏も「動機は純粋であった。」と弁護しているが、この画によって戦闘機「大観号」4機が作られ、多くの人を殺傷したことをどのように正当化するのであろうか。

またこの絵は紀元2600年を記念して描かれたものである。これは「皇紀」という国粋的な年号によって西暦1941年を読み替えたものである。「奉祝紀元2600年」の歌詞は、「金鵄輝く日本の、栄えある光身に受けて、今こそ祝え大八島、紀元は2千六百年、嗚呼一億の胸はなる」である。私が子供の時に覚えたものであるが、いまでも歌うことができる。この歌とともに、大東亜戦争が進行し、日本軍人のみならずアジアの人たちが多数死傷したことを忘れてはなるまい。

本日はおりしもナイン・イレブンの日である。テロリストによる無法な殺戮とこれに対抗する強大国の復讐という第3次世界大戦が始まっている現在、このようにわが国の戦争責任を軽減するような美術評論は、侵略を受けたアジアの人々は決して許さないであろう。(2004年9月11日)

槿 HOME

最後の晩餐のダ・ヴィンチ・コード

書店に行くとダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」上・下2巻が積み上げられている。なんでも「ハリー・ポッター」以来のベストセラーとのことである。こういった大々的宣伝をしている本はあまり読まないことにしているのだが、「ダ・ヴィンチ」という名前がいかにもinvitingであるため、本屋ではこの本を手にとらないで、横目で眺めていた。

ところが8月の終わりに、久し振りに丸善のT氏が現れて、この本を持ってきてくれてしまった。一緒に働いている若い女性に聞くと、もうとっくに読んだという。

そこでこのハードカバーの本に取り組むことになってしまった。推理小説であるので、詳細に触れることは避けるが、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」について非常に面白いことが書いてあったので、ここにちょっと記しておきたい。

「最後の晩餐」は1999年に修復されて、以前よりよく見えるようになったというものの、今まではキリストの顔だけをボンヤリと見ており、せいぜいどれがユダだろうと探す程度であった。しかしこの本を読んでいくうちに、確実にいくつもの鱗が自分の眼から落ちた。


1) キリストの右側の人物は紛れもなく女性である。「キリストの妻あるいは愛人」のマグダラのマリアという考えは?
2) そのまた右の男性(ペテロ)は右手に短刀を持って入るように見え、左手で女性の首を切るしぐさをしている。
3) 最後の晩餐なのに杯がない。


などがそれである。ただし書中では短刀を持っている手は誰のものだかわからないとしており、米国のHPでも盛んにディスカッションされている。

その他についても詳細に説明されているので、美術ファンの方は必読であると思う。

西洋宗教史の暗黒の部分に踏み込んでいること、象徴や暗号の解読に紙数を費やしていることなどは、人によってはtime consumingと感じられるかもしれないが、それは推理小説のネタとなっているのであるから我慢せざるをえない。

職場で一緒の女性は、この「ダ・ヴィンチ・コード」の前作である「天使と悪魔」を持ってきてくれた。同じダン・ブラウンのラングドン教授シリーズである。今晩からこれと格闘することになる。(2004.9.5)

槿 HOME

横山大観の海山十題(第2弾)

このコラムに大観の「海山十題」の「太陽=日の丸」論を書いてまもなく、8月9日の朝日新聞夕刊に「戦争画を見直す2展―大きなスケールの自省、今こそ」と題して、横山大観「海山十題」展と丸木位里・俊作品展が取り上げられた。

特に前者はいろいろな問題点をはらんでいると書かれている。1940年、日本画界で統率者的存在だった大観は、「紀元2千6百年」を祝い自らの画業50年を記念して「海山十題」の20幅を作り、東京の二つの百貨店で展覧会を開き、その総売上金50万円は陸海軍に寄贈され、軍用機4機が作られたそうである。大観はこの展覧会のあいさつ文に「彩管報国の念やみ難きものあり」と書き、翌年には文部大臣に「国家が強力なる指導精神を以って放漫乱雑なる傾向を規正し、之を一元化」することを主張したとのことである。

これはヒットラーの「退廃芸術」論とまったく同一ではないか。美術家の戦争協力に対する論議は、第3次世界大戦の幕開けといわれる現在特に必要である。(2004年8月14日)

槿 HOME

高松塚の壁画破壊の責任(第3弾)

高松塚壁画については、このコラムの第1弾第2弾として意見を述べてきたが、8月11日の朝日新聞朝刊によると、劣化が指摘されていた高松塚壁画(国宝)について、文化庁は10日、退色のほかに汚れや荒れ、剥落(はくらく)などの傷みが進んでいることを初めて認めたとのことである。

文化庁の加茂川幸夫次長は「壁画の状態を国民にきちんと伝えず、説明責任を十分に果たしてこなかった」と対応に手落ちがあったことを認め、文化庁の調査官や文化財研究所所長として保存に関わってきた渡辺明義 恒久保存検討会座長は「できる限りのことを全力でしてきたつもりだったが、カビや漆喰の崩落の対応に追われ、壁画の汚れや退色が深刻になっている事態を公表しないままできてしまった。私の責任が大きいと痛感している」と話しているとのことである。

彼等はこのような隠蔽についての責任だけとればよいというのであろうか。

1972年2002年最も退色が目立つ西壁の白虎は、既に20年ほど前から黒い輪郭線が薄れていた。西壁の男女の群像、東壁の青竜でも輪郭線が、白虎の口・青竜の尾・天井の星宿では赤色が薄れていた。汚れや荒れは東・西・北壁で確認されたという。

剥落防止のため接着剤を多量に使った部分では黒ずみも見つかった。 また汚れや荒れはカビが原因のものが多かった。退色はカビを取り除いた直後に進んでおり、カビ対策で使った薬品の影響も考えられるという。

こうなれば単なる説明責任だけでなく、文化財破壊の責任をとるべきである。この点新聞論調はいかにも生ぬるい。

文化庁は発見当時の環境を維持し現地で保存することを原則としてきたが、壁画のはぎ取りや石室ごと取り出すことなども検討対象とする方針だとのことであるが、このように国宝の保存に失敗を重ね、しかもその事実を隠蔽してきた現在の担当者に「飛鳥美人」の運命を委ねるわけには行かない。 (2004年8月11日)

槿 HOME

横山大観の海山十題

8月1日の日曜美術館は横山大観記念館からの放送であった。戦中戦後の混乱期に散逸した10枚の画が久しぶりに揃って東京芸大美術館で展示されていることにちなんでの放送であった。


ゲストには島田東京芸大美術館長のほかに、映画監督の吉田喜重監督が出ておられた。独特の美しい風景描写は大観の独壇場であるが、何枚かの画に真っ赤な丸い太陽が描かれていたことが問題となった。富士山(乾坤輝く)や海(黒潮)とともに描かれた太陽は日の丸以外のなにものでもなく、せっかくの山や海の風景がぶちこわしになっていた。


NHKのキャスターや美術館長の見解では、これは時代のせいでやむをえなかったということであったが、吉田監督はこれらの画は不幸であり、大観が画壇の権力者として国粋主義に迎合して日の丸を書き込んだことをはっきりと非難された。言い方はソフトであるが、妥協を許さないその発言にその場のだれもが反論できなかった。


戦地に赴き辛酸をなめた香月泰男の太陽とくらべなんと異なっていることか。また戦争画を描いたため戦後しばらく画を描かなかった海老原喜之助にくらべ、戦後も日本画の権威として君臨し、日本酒におぼれていた大観の人格を尊敬することはできない。原爆の図を描いた丸木夫妻やゲルニカを描いたピカソの対極に位置する人物である。

おりしも広島長崎への原爆投下、敗戦の日が巡ってくる。戦争画と一口に言っても、1)国粋画、2)記録画、3)反戦画を峻別しなければならない。(2004年8月3日)

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キトラ壁画の保存責任(第3弾)

キトラ壁画については、このコラムで第1弾第2弾のオピニオンを表明してきたが、昨日の朝日新聞に、「キトラ古墳壁画取り外しについての座談会」が全面記事として掲載された。 

天井の天文図、北壁の玄武、南壁の朱雀はもっているが、東壁の青竜の下にある獣頭人身像(十二支・寅像)には亀裂が多く、西壁の白虎に至っては大部分が壁から浮き上がっていて、息をかければバサッと落ちそうで、外す以外に選択の余地がないという(澤田筑波大教授、保存科学)。それならば文化庁の委員会でこの壁画を外す・外さないで大議論していたのは何だったのだろうか???

座談会のなかで意見がもっとも割れたのは、この壁画が誰のもので、どのように公開するかという点である。
1.町田文化財研究所長(元文化庁文化財鑑定官):文化財は何でも公開すべきだという意見にはくみしない。
2.澤田氏:壁画のはぎとった部分は石室のもどして、ガラス越しやカメラの映像で公開することはありうる。
3.関明日香村村長:文化財の大切さは分かるが、誰のための財産か。研究者だけが見られるという状態は問題だ。国民に見てもらってこそ、保存の意味もある。
4.永島国際文化財調査研究所長:私も研究者だが、高松塚壁画を見たのは発見時の一度きりだ。
5.和田立命館大教授(日本考古学):私は一度も見たことがない。石室は取り出して展示施設で完全管理をし、現地にはそっくりのレプリカを入れて見てもらう形がいい。

この歴史的な文化遺産の一大事を文化庁関係者だけに任せておいてはいけないことはこの討論内容からはっきり読みとれる。

また高松塚への文化庁の対応に明日香村村議会が不信感を表明していることについても議論があり、以前奈良文化財研究所埋蔵文化センター長であった澤田氏は、高松塚壁画のの保存失敗の責任を認めているが、キトラ壁画に関する責任は明確にされていない。
関村長の「実物を一般公開出来ないにしても、現状を国民に情報開示すべきである。高松塚もキトラも保存方法を議論する委員会に文化庁関係者以外の委員が少なすぎる」という発言に対しては、文化庁側の町田・澤田両氏を含め明確な回答がなされなかった。

私自身はタイガースの自力優勝の可能性が消失する中、キトラの白虎と十二支・寅像が重大なピンチにたっている現状を憂えている。この座談会記事を読んで、文化庁関係者の対応に対する不信感が強まるともに、われわれを代表してして発言を続けている明日香村に拍手!!!を送りたいとの感を強くした。
(2004年7月31日)

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高松塚壁画の保存(第2弾)

6月20日つきの朝日新聞の「高松塚『白虎』劣化進む」という記事に載っている最近のの画像を見ると、発見当初の写真に比べ目を覆いたくなるほどの悲惨な状態である。1972年撮影の白虎は顔やたてがみの描線がはっきりと見え、口の朱色も鮮やかであるのに対し、2002年撮影のものでは描線がほとんど消えかかって黒カビに覆われており、退色が著しい。 筆者はこのような劣化は最近になって判明したものだとばかり思っていた。

しかし7月4日の東京新聞によると、 文化庁が1987年に出した報告書に掲載された白虎のカラー写真と1972年の写真を比べると、既に輪郭がぼやけて描線が薄いとされている。関係者は劣化を知っていたとみられるが、報告書にその記述はなく、問題を認識しながら対策を取らず、情報も出していないことは明らかである。文化庁は「隠すつもりはなかった」と反論しているが、研究者の間では「17年前に原因を追究していれば、最小限に食い止められたかもしれない」と憤りの声が出ているとのことである。

文化庁の担当官は重大な管理責任を問われてしかるべきである。(2004年7月8日)

 

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キトラ壁画の手術(第2弾)

本日の日経朝刊によると、キトラ壁画も危機的な状態にあるという。
「白虎」の頭の側の壁に大きな剥離が起きている写真が載っている。先日の朝日新聞の写真は大分前の写真だったのだろうか。


タイガースファンの管理人「とら」としては、高松塚もキトラも「白虎」が瀕死の重傷であることに強い懸念を抱かざるを得ない。


こうなると予防ではなく、一刻も早い治療が必要である。高松塚古墳のように手遅れになる前に手術が必要なことはあきらかである。未だに修復のリスクが大きいと反対する美術史家もいるそうだが、美術史学者は保存・修復の専門家とはいえず、また手術にリスクはつきものである。ここは「取り外す以外には修復方法がない」という保存科学専門家(沢田正昭筑波大教授など)の意見を信じ、手術の成功を祈るのみである。(2004年7月7日)

 

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キトラ壁画の修復・保存の責任

今朝の朝日新聞に「文化庁、キトラ壁画はがし修復へ」という記事が載っていた。東壁の「虎の十二支像」は「高松塚古墳の白虎像」と違い輪郭も色彩も鮮明であった。


文化庁の保存調査委員会委員に修復方法を尋ねたところ、「特に状態の悪い部分だけをはぎとって修復する」が8名、「どちらともいえない」が6名、「全面的にはぎとって修復する」が3名、「反対」が3名だった由である。修復後の保存方法については、「全面的なはぎとり派」の3名は「施設で展示保存すべき」としているが、「一部はぎとり派」では「修復結果をみてから石室に戻すことも検討すべき」との意見が多かったそうでである。


一方昨日の報道によると、中国や北朝鮮の高句麗遺跡(ここには高松塚やキトラと同じような壁画が残っている)が世界遺産に登録された。そうなると高松塚やキトラの壁画も世界遺産と同等の価値があるいえる。


文化庁の委員に「どちらともいえない」などの無責任な発言は許されない。はたして何人の委員がこのような壁画保存の経験を有しているのであろうか。世界的な文化財の修復・保存には、経験を有するイタリアや中国の専門家の判断を仰ぐべきではなかろうか。
(2004年7月3日)

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田中英道著「日本の美術 傑作の見方・感じ方」を読んで

Takさんが掲示板に書き込んで紹介してくれたPHP新書「日本美術 傑作の見方・感じ方」を読んだ。

西洋美術の専門家が日本美術について詳しく書いたものであるが、その知識量には敬服した。自分としては日本美術の宝庫である奈良にもっと訪れるべきであったと反省した。今からでも遅くないのでこれからでも・・・・・と思わせるるという点では好著である。

内容は非常にクリアカットで分かりやすいが、一部に論理の飛躍があることが気になった。この著者が教科書検定問題で有名になった「新しい歴史教科書」を執筆した田中英道氏と知ってなるほどと納得したりした。以前に買った「市販本:新しい歴史教科書」を読み直してみると、美術史の記述は田中氏の意見がそのまま反映されているようであった。

内容的には、
1. 日本美術史に、西洋美術史に使われている分類を当てはめて、両者の時空を超えた共通性を探ったこと、
2. 日本美術が西洋美術より遙かに進んでいた時代が多かったと主張していること、
3. 文献的には作者不明とされている仏像などの作者を美術的観点から大胆に特定すべきであるとし、自らその特定を行っていること、
などは素人の私にはポジティブに捉えることができたが、これらのことに関する今までの日本美術史専門家の見解を頭ごなしに否定していることには正直言ってネガティブに感じた。

議論の分かれる問題については、国際的な学会等において、できれば科学的あるいは美術的証拠に基づいて、冷静に討論すべきであって、われわれ一般人や中学生を巻き込むのは如何なものかと思うのであるが、わが国の美術史学者集団は自由な科学的討論を許さないアカデミズムの世界なのであろうか。(2004年7月2日)

 

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メトロポリタンの尾形光琳

 

昨日、NHKで美術館紀行「メトロポリタン美術館V」を観た。今回は日本美術に関するものであった。

第二次大戦直後には、アメリカ人は日本人に対して嫌悪感をもっており、日本美術好きのアメリカ人はいたものの、メトロポリタン美術館が日本美術を購入するようなことは夢にも考えられなかったとのことである。しかし朝鮮戦争の際に、日本がアメリカの同盟国になったことで、その偏見が払拭され、一方アメリカを巡回した「日本国宝展」のすばらしさが日本美術への認識を深め、1950年代になるとメトロポリタン美術館でも日本美術の購入が始まった。

当時日本は終戦直後のきわめて貧しく食料にも窮する悲惨な状態であった。なんとも切ない話ではあるが、食うに困った所蔵家が先祖伝来の家宝を泣く泣く手放したことは想像にかたくない。私自身、この食料難の時代を体験しており、着物や道具と米の物々交換も目撃している。

このような日本にやってきたアメリカ人美術商が日本美術品をきわめて安価に買い漁り、アメリカに渡り、現在メトロポリタン美術館に展示されているのである。非常に多数の良質のコレクションであり、非常に残念である。このようなアメリカ人美術商は日本人美術商を通して作品を買い入れており、戦後の日本人美術商の愛国心欠如を嘆くばかりである。「武士は食わねど高楊枝」という言葉はどこに行ってしまったのであろうか。もっともバブル期の日本には商事会社を通じて高額な西欧美術が大量に流入したのであるから、商人というものはどの時代にも、そしてどの国でも金の亡者なのかもしれない。

このようなわけで私はこの放送の最中はずっと不愉快な思いをしていた。しかしそれよりも不愉快であったのはNHKのアナウンサーのこのようなわれわれの心情に全く配慮しない発言であった。メトロポリタン美術館の日本美術は合法的に取得されたものではあるが、このアメリカの美術館を賞賛すればするほど、その時代を生きた日本人の感情を逆撫でしているのであり、このように無神経で感性の鈍い者には美術を語る資格はない。

前置きが長くなったが、メトロポリタン美術館の日本美術の中でもっとも有名なのは尾形光琳の六曲屏風「八橋図」である。これは鳥取の池田家に所蔵されていたものであるが、戦後売りに出され、結局は渡米したのである。このような国宝級絵画の国外持ち出し許可が簡単におりたのは、この絵が本物の光琳作ではなく模写となっていたためであるとのことである。類似の六曲屏風には根津美術館に国宝「燕子花図」があるが、その署名と比較して本物であると結論づけているが、私の見るところ署名の「光」という字がかなり違っている。メトロポリタンの「光」は根津の「光」にくらべ直線的で生硬である。

(2004年6月26日)

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高松塚壁画の保存事故

 

高松塚古墳の壁画が発掘調査されたのは1972年であった。温度変化が少なく、高湿度が維持される地中環境に密閉されて、1300年の時を経てきたものであるため、条件が変化すれば下地の漆喰が崩れたり、カビなどが持ち込まれれば直ちに画面が損なわれる可能性が当時から指摘されていた。


このため1973年に、前田青邨を総監督とし、平山郁夫ら7人の画家によって壁画模写が行われた。筆者は2000年に、東京国立博物館で開催された「文化財保護法50年記念日本国宝展」でこの模写を観る機会があったが、そこに描かれた飛鳥美人や四神の色や形に感動した。描画技術は時代を超えてもあまり進歩していないと思われるほどであった。


ところが2004年6月20日の朝日新聞朝刊に、「高松塚『白虎』劣化進む」という見出しの一面トップ記事が載った。今回壁画発見30周年記念として出版された「文化庁監修 国宝高松塚古墳壁画」の画像を見ると、発見当初の写真に比べ目を覆いたくなるほどの悲惨な状態である。1972年撮影の白虎は顔やたてがみの描線がはっきりと見え、口の朱色も鮮やかであるのに対し、2002年撮影のものでは描線がほとんど消えかかって黒カビに覆われており、退色が著しい。


考古学者や美術史家のコメントでは、「外気や人がはく二酸化炭素、さらには殺菌のための薫蒸剤などが風化を速めた可能性があり、これならイタリアや中国で行われているように、壁画を剥がして外で保存したほうがよかったのではないか」とされ、文化庁の管理責任が問われている。

これに対し文化庁美術学芸課の主任文化財調査官は劣化を認めたうえで、「カビ対策で殺菌を繰り返し、点検で人が出入りする以上、壁画への影響は避けられない。現状を維持できるよう努めたい」という他人事のような発言をしている。


いうまでもないが、1300年保存されてきた貴重な文化財を僅か32年で台なしにしてしまったのはわれわれ現代の日本人なのである。バーミアンの大仏破壊とは違い故意ではないが、高松塚壁画劣化は明らかな過誤を伴う「文化財事故」であり、将来にわたって世界中の人々からの非難は免れない。


現代人が過去の人たちより優れていると考えるのは明らかなおごりである。壁画保存に関しては、現代人は飛鳥人の足元にも及ばなかったのである。また「失敗に学べ」という格言があるが、フランスのラスコー壁画が観覧者の二酸化炭素によって退色してしまったという失敗がここでは生かされなかった。(2004年6月20日)

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香月泰男展あれこれ

ステーションギャラリーで開かれた香月泰男展の感想をアップしています。この展覧会についてMariさんのBBSに下記を書き込みました。ここに再録することをお許しください。

1.香月泰男展について  (投稿日 2004年2月25日)

はじめまして。 戦争体験のない世代にその恐ろしさを伝えていくのには絵画が最も良いメディアだと思います。 私も美術散歩のHPを作っていますが、この香月展のことはちょっと気を入れて書きました。 第3次世界大戦の幕開けといわれる現在、なるべく多くの方に香月のシベリア体験を共有して頂ければと思い、書きこみました。

2.戦争体験と香月泰男  (投稿日 2004年2月29日)

またお邪魔します。
このBBSで香月泰男が見直されていることはすばらしいことです。
前回の私の書き込みは言葉足らずでしたので、付言させてください。

彼の戦争体験には次の3点が含まれています。

1.心ならずも戦争にかり出され、相手の兵士のみならず一般人も殺傷したこと。
2.敗戦によって、逆にシベリアに抑留され、精神的・肉体的な迫害を受けたこと。
3.多くの戦友をシベリアの凍土の下に残し、自分だけが帰国して、平穏な生活に戻ったこと。

このうちの第1については、復員した人の多くは、ほとんど語りません。自己の記憶からも抹殺したいのだと思います。
香月泰男もそうだったのはないでしょうか。少なくとも今回の展示にはこのことをうかがわせる資料はありません。

第2については、時間とともに風化していくものです。
香月泰男の復員直後の作品が意外に明るいのは、意外に早く風化したのか、これを意識的に排除しているのか判然としません。
ただシベリア・シリーズの第1作とされる作品がカラフルなのは意外な感じさえします。

重要なこととして、彼の暗いシベリア・シリーズは、復員後相当の年月が経ってから描き始められたという事実に注目しています。
これは、戦争体験のうち第3の部分が、彼の中で時間とともに、絶対的に、あるいは相対的に大きくなってきたものではないでしょうか。
私は香月泰男のシベリア・シリーズの原点には、このような彼の贖罪の気持ちが存在していると思います。

戦後流行した「今日も暮れゆく異国の丘に、友よつらかろ、つめたかろ」という「異国の丘」が比較的早く歌われなくなったのに反し、
「赤い夕日の満州に友の塚穴掘ろうとは。・・・時計ばかりがコチコチと動いているのはなさけなや」という「戦友」が今も歌われているのもこのようなことと関係があるのかもしれません。

3.皇后さまの香月泰男回顧展 (投稿日 2004年3月25日)

昨日の夕刊によると、3月24日午前、皇后さまがステーション・ギャラリーを訪れて、香月泰男展を鑑賞されたとのことです。
通常と違い、この時期になって、行かれたことに関心を持っています。


4.皇后さまの香月泰男回顧展(続報) (投稿日 2004年3月25日)

皇后さまがステーション・ギャラリーを訪れて、香月泰男展を鑑賞されたのが 会期末だったことに関心を持ちました。
そこで、知人の展覧会関係者に聞いてみました。 答えは、東京ステーションギャラリーから招待券を送ったのではなく、宮内庁から皇后さまがお見えになるとの連絡があった由でした。
香月展については、このBBSでもかなり関心が高まっていましたが、新聞論評も概してポジティブのようでした。そんなこともあって皇后さまはご自身の希望でこの展覧会をご鑑賞になったのではないかと勝手に想像しています。

5. 皇后さまの香月泰男回顧展(第3報) (投稿日 2004年3月26日)


昨日本件について質問した知人から、今朝電話がありました。皇后さまは3月の初めに東京新聞に載った美術評論家Kさんの文章を読まれて、
この展覧会に行くことをご希望になったのだそうです。


6.皇后さまと香月泰男回顧展(第4報) (投稿日 2004年3月27日)

Mariさん、これで最後にしますのでお許しください。

皇后さまがご覧になって、この展覧会にお出かけになるきっかけとなった
東京新聞3月20日(土)朝刊のコピーが手に入りましたので、書き込ませてください。

筆者は、美術評論家の草薙奈津子さんです。

書き出しは、「いまさらこの作家について語ることもあるまいと思う。
しかし代表作として名高い<シベリアシリーズ>の展示場の空気はいまだ体感したことのないものであり、
それを伝えねばという使命感に襲われてしまったのである。」となっている。

そして後段では、「私はこれまでどれほどの展覧会場に足を運んだだろう。でも、鑑賞者が一体となったと感じたのは初めてである。
芸術の力を思い知らされた展覧会であった。」と書かれている。

今回、このBBSをお借りして、いろいろな方と香月泰男をしばし共有できたことを感謝します。
有り難うございました。

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