ドレスデン美術館 05.7 | フィリップス・コレクション 05.7 | モロー展 05.8 | 遣唐使と唐の美術 05.8 |
鄭和西洋航海600年記念展 05.9 | 良渚文化文物精品展 05.9 | ホイットニー美術館展 05.9 | プラートの至宝 05.9 |
デ・キリコ展 05.10 | 20世紀イタリア美術 05.10 | プーシキン美術館展 05.10 | ミラノ展 05.10 |
レオナルド・ダ・ヴィンチ展 05.10 | スコットランド美術館展 05.11 | 宮殿とモスクの至宝 05.12 |
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エトルリアの世界 05.12 | キアロスクーロ 05.12 | 横浜トリエンナーレ 05.12 |
目 次 ↑
横浜トリエンナーレ: 横浜山下埠頭3号、4号上屋 |
寒い冬晴れの日横浜まで行ってきた。海辺なので風が冷たく寒さもひとしおだったが、遠くにみなとみらいの建物群や船が行き交うのが見られた。 会場入り口には、大きなコンテナ4個を組み合わせた大きなオブジェ《ルック・テルー:スパイバンク》があった。沢山の三角の紅白の旗がはためき、インスタレーションのある道《ダニエル・ビュラン:海辺の16,150の光彩》を大分歩いて入り口にたどり着いた。 倉庫内に世界各国のアーチストが作ったなんとも不可解な作品が展示されている。アートサーカス(日常からの飛躍)というテーマ通り静的な展覧会でなく動き続ける展覧会とのこと。ボランティアのガイドさんにくっついていくつかの作品を見て回った。 《ヴィンター+ホルベルト:カステンハウス720.9》・・・プラスティクの瓶ケースを700個以上使って作られた部屋・・・そこから眺めた横浜は美しい 牛乳パックを貼って作った大きな鮫、おなかの中に入ることが出来る・・・中にベンチがあって座ると落ち着いた雰囲気になる 《ウィッカラ:だからどうした》・・・電線を張って、その上に象、キリンなどの動物の作り物を歩かせている。 ・・・両側から動物が行進してくる 真ん中に一匹の小象がパイプを部屋周囲に張り巡らして子午線から見た世界の山の画が・・・富士山もある。 《キュレーターマン:SUPER(M)ART@YOKOHAMA》・・・2055年の世の中を具象している作品・・・その頃流行ると思われるゲーム台がある この外にも、ものすごい数の作品があったのだが、ただ見ただけでは到底不可解なものばかりなので、ガイドさんに主だった作品を解説してもらいながら周れてよかったと思う。 共鳴できる作品はあまりなかったが、現代アートの最先端を見た気がした。 (2005.12t)
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キアロスクーロ: 国立西洋美術館 |
ルネサッンス・バロック時代の木版画「キアロスクーロ」なるものをはじめて見た。 版画にもいろいるあるが、これは同色系の版を何度か重ね合わせて摺ることによって、明暗をはっきりさせるもので、一時は相当に流行したらしい。 まず線をラインブロックで摺り、次いで陰影をトーンブロックを何回か使って摺り重ねていくもので、出来上がったものは単純な版画に比べ重厚で、レリーフのような感じがする。また、同じ画でも青色のものと茶色のものとではずいぶん感じが違う。 ラファエロ、マンテーニャ、ルーベンス、パルミジャニーノの失われた原画に基づくものが多く、なかなか興味深かった。 また、クラーナハやベッカフーミは自分でキアロスクーロをつくっている。これらは非常に美しい作品である。絵師と摺師が同じというのは日本にはないが、このほうがよいかもしれない。 後摺りのものは、線が太くなる他に、木が虫食い状態になって、色がのらないところが出てきている。同じ木版画の浮世絵ではこういうことがなかったが、その理由は何なのだろうか。 浮世絵では、異なる色の版を重ねていくのに対し、これは同系統の色を重ねていくのであるが、いずれも現在のコンピュータ・グラフィックスでいえばレイヤーを使っているということだけなので、他の技法がでてくると、これらは陳腐なものになってしまう。技術が進んでいくと、キアロスクーロも浮世絵も淘汰されていったのは、歴史の必然なのであろう。
(2005.12a) |
エトルリアの世界展: イタリア文化会館 |
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イタリア文化会館改築記念のエトルリア展に行ってきた。JR[市ヶ谷」駅から歩いて15分、靖国神社の近くである。イタリアの建築家「ガエ・アルレンティ」のデザインによるもので、イタリア風のデザインと日本的な幾何学模様が融合しているとのことであるが、とにかく派手な建物である。展示室はそれほど広くない。室内は非常に暗くなっているが、説明には裏から光が当ててあって読みやすい。キャプションの位置が悪くて腰をかがめなければ読めないものが少なくなかった。残念! 「どこから来て、どこへ去ったのか? 謎に包まれたエトルリアの世界」とのキャッチフレーズである。ローマ人がイタリアに定住するまでの先住民族、いわばアボリジニかと思っていたが、展示品を見て驚いた。エトルリア文明ははまさしく文明である。紀元前8世紀から紀元前3世紀あたりのものであるが、展示品は現在でも通用する芸術性を有している。これらはお墓の中からでてきた副葬品であり、いわばネクロポリスの品々である(参考文献: 死後の礼節)。 非常に古いエトルリア世界は平等な世界であったが、ギリシャ文明の流入により、上下関係がはっきりとした階級社会に移行する。商工業の発展とともにエトルリア世界が栄え、そしてこの商工業の衰退とともにエトルリア文明はローマ文明に吸収され、消失していく。これらの過程がよく分るように構成されていた。 エトルリア文字はいまだ完全には解読されていないらしいが、アトリウム・ポジウム・フィブラなど現在でも使われている言葉が使用されていた。とくにフィブラと称する安全ピンのような飾りものが多かったが、これはラテン語の腓骨と同じ言葉である。下腿骨には脛骨(ティビア)と腓骨(フィブラ)があり、両者を合わせるとまさに安全ピンの形で、針の部分は細い方の骨フィブラに相当する。 調べてみると、腓骨(フィブラ)はラテン語のFibula(ブローチの留針、バックルの留金)に由来する。Figo(結びつける)からfigibulaという名詞が生じ、これが短縮してfibulaとなったそうである。これに相当するギリシャ語はperoneで、腓骨筋musculus peroneus、腓骨動脈arteria peronea、腓骨神経nervus peroneusなどに使われている。そうやってみると、このフィブラという言葉はエトルリアで作られた言葉で、これがラテン語となって、今日まで医学用語として生き残っているとも考えられるのではあるまいか。
また気管・肺・心臓・大血管を1塊とした彫刻があったことには驚愕した。この時代に、たとえ対象が動物だとしても、かなり正確な解剖が行われていたとしかいいようがない。レオナルド・ダ・ヴィンチも真っ青である。 この文明について知らないことが多い。そこで立派な図録を買って帰途に着いた。帰りは地下鉄「九段下」から。こちらの方が近い。10分程度である。(2005.12a)
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宮殿とモスクの至宝: 世田谷美術館
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ロンドンのヴィクトリア・アルバート美術館から来た、イスラム美術展だ。世界で下記の3箇所だけのツアーということである。 Kimbell Art Museum, Fort Worth, Texas: 3 April-4 September 2005 Setagaya Art Museum, Tokyo: 1 October-4 December 2005 Millennium Galleries, Sheffield: 14 January-16 April 2006 昨年トルコのイスタンブールに行って、アヤソフィアなどモスクをいくつか見たので興味を持って出かけた。 入るとすぐ、イズニックタイルの陶板画がある。聖地メッカの俯瞰図だ。イスラムはメッカの方を向いて礼拝するので、方向を知ることが肝心である。そこで、方位計、日時計が発達、それらも並んでいた。 イスラムの文字は装飾的なので、陶板画、お皿、蜀台、花瓶、刀等の模様として使われているのが興味深かった。イスラムの宗教美術には人物や、動物は偶像崇拝になるので使わず、草花模様が中心。初期は明るいイズニックブルーと、濃いブルーで描かれていたのが、途中から赤も少し使うようになった。細かい草花模様のタイルで出来た大きな《白色多彩チンターマニ文タイル貼暖炉》にはびっくりした。よくこのような大きなものが運ばれてきたものだ。 《白色多彩花タイル製天板付卓》は本当に素晴らしく「展示物の中で何か一つ上げる」といわれたら迷わずこれにする。また、ガラスにエナメルで彩色を施したランプ、象牙細工の箱、真鍮の飾り皿、金銀象嵌の水差し等も模様が繊細で、イスラム美術の素晴らしさを見直した。アールヌーヴォやアールデコの装飾芸術の源流がここに・・・とパンフレットに書いてあったがそのような気もした。
会期が明後日までというためか、平日なのに意外に沢山の方が観覧していた。イスラム美術を見る機会はあまりないので、本当に観に来てよかった。(2005.12t) イスタンブールのタイル博物館の建物もイズニック・ブルーのタイルで出来ていた。今でもその美しさを思い出す。(2005.12a)
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ベルギー近代の美: 府中市美術館
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府中の森公園の紅葉は見事である。風は冷たいが、良い天気だ。美術館の広告にも枝の陰が写っている。 ドイツ人のベルギー絵画収集家ハインリッヒ・サイモンのコレクションである。 T.印象派の波: エミール・クラウスの画は美しいベルギー印象派、陽光派(ルミニウム)とも呼ばれたらしい。チラシの《マーガレット》の他、《読書する女》と《藁を積む女》が出展されていたが、いずれもモネと同等、あるいはそれよりも優れた作品である。児島虎次郎がクラウスの指導を受けたようで、彼の画が常設展の「ベルギーゆかりの作品」の一つになっている。 アドリアン=ジョセフ・ヘイマンスも印象派であるが、彼の《ウナギ漁の人々》は夜間の漁、それも霧の中という設定で、画全体が白く霞んでいる。今までこれに類する画は観たことがない。今回の展覧会の中でもっとも感動した。 ゲント美術館名品展でも、エミール・クラウスの《晴れた日》やアドリアン=ジョセフ・ヘイマンスの《荒地に沈む太陽》の素晴らしい光に感心したが、今回の展覧会でこの2人の名前が深く刻みこまれた。 ベルギー新印象派、ファン・レイセルベルヘ、レオン・デ・スメットなどの作品も非凡である。 U.ベルギーにおける展開ー個性のきらめき: 象徴派では、スピリアールトの《係船柱に座る漁師のいる波止場》が抜群。向こうに1人漁師が腰かけている。あまりハッピーな状況ではない。この後、どうなるかを心配させる画である。デ・サデレールの《冬の老果樹園》も説得力のある象徴派の大作。 アンソールの印象派的作品が揃っている。《魚と貝》、《野菜とランプのある静物》は明るくて美しい。もちろんドクロの画もあるがその背景は印象派的である。 ブラバン・フォービズムの強い色彩は、マチスのようにそれなりに美しい。フランドル表現主義の荒々しいタッチのなかでは、ファン・デルベルべの《回廊》、イエルペルスの《都合の良い結婚》がマアマアというところ。 シュールのマグリットの《風に解きほぐされた会話》:カーテンの揺れと女性のトルソ、デルヴォーの《会話》:骸骨と半裸の女性、《謎》:全裸の女性たちと並木などはこのコレクターの趣味の良さが現れている? V.抽象絵画へ: 幾何学抽象絵画ではペール、表現主義的抽象絵画ではアレシンスキーが代表的画家であるというが分かった。(2005.11a)
(追 記 1) 府中市美術館の常設展のこと 府中市美術館は環境が良いだけでなく、所蔵作品が立派である。今まで、マネ展、ホイットニー美術館展、そして今回と3度目だが、毎回常設展をゆっくりと観ることにしている。小山田二郎の水彩画が8点、油彩画が2点揃っている。これは比較的最近ステーションギャラリーでまとまった展覧会があったので見慣れている。《鳥女》が3点あり、迫力があった。日本の近代美術の中には、コラン、鹿子木孟郎、青木繁、中村不折、恩地孝四郎、三岸好太郎、松本俊介、靉光などの名品があり、さらに牛島憲之記念館には15点の油彩があり、彼の画風が暗い画から明るい画、そして例の朦朧とした画に変わっていく経過が理解できた。(2005.11.18)
池上先生の引率でこの展覧会を見る会に参加した。温かい小春日和で、紅葉が一段と深まっていた。ちょうど学芸員の音さんのギャラリー・トークを聞くことができた。そしてその後、池上先生と一緒にもう1度回った。今回は参加者が比較的少なかったので、いつもより沢山直接伺うことができたように思う。その中で、記憶に残った言葉を断片的に書き留める。 1.ベルギー文化は、地域的な状況もあって、他文化に寛容である。印象派の受容も早かった。クラウスの3点の画を観ると、アカデミズムから印象派への変化が早い時期に生じていることが分かる。ベルギーは北国なので、光に対して敏感であるという特徴がある。 20人会(Les XX)の影響も大きかった。 アンソール、クノプフ、ゴーギャン、ルドン、ゴッホも関係していたが、ピカールやモースのような文学者、とくに1883年の「現代芸術」の刊行がが印象派の導入の先駆となった。印象派は、混色を用いないで明度を保つという点に特長がある。 2.ベルギー新印象派が大ブームとなったのは、レイセルベルヘの絵画による。フランスの新印象派が風景画を中心とするのに対して、ベルギーは肖像画で、人物の内面に迫ろうとする傾向がある。レイセルベルヘの《クレール・ドゥモルドゥの肖像》はその典型である。新印象派は集中力を必要とする(ピサロの言葉)ことと画家たちが科学的な描画手法に反発したため、新印象派の寿命は短かった。 3.個性的な作品を分類することは困難である。スピリアールトの象徴主義的絵画は最近日本でも人気が出てきている。印象派は外面的なものを取り込んで描くのに対し、象徴主義や表現主義は感情のような目に見えないものを外に表現する。サデレールの《冬の老果樹園》はブリューゲルの画から人物を消去したものと考えることこともできる。 4.フォーブは、色彩の開放、マチスや本展のアルベールの《画家の妻の肖像》に見られるような緑と赤のような補色の使用によって色彩の力を強くするものであるが、あくまで外面的なものの表現法である。 5.表現主義は内面的なものを描くものである。フランドル表現主義の3人はお互いに友人で、ファン・デル・ベルヘの《強迫観念》は友人のデ・スメットの子供が死んだ時の心情を思い計っている。これらの画はずっしりと重いものであり、ドイツ絵画に近いところがある。 6.シュールでは謎解きをしたくなるが、必ずしも作者をそれを望んでいるわけではない。抽象絵画は、物の外面を描くこと→人の内面を描くこと→現実を超えた実体を描くこと→実体のないものを描くこと、という流れの中で理解してほしい。 同じ展覧会でも、このように3回観ると、かなり深く理解することができる。関係の方々に感謝したい。参加者は、Juliaさん、水色ノートさん、Nikkiさん、とらと少数精鋭?(2005.11.26)
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スコットランド美術館展: BUNKAMURA
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スコットランド美術館はエディンバラにある。美しいエディンバラ城が山の上にあり、その裾野にこの美術館が建っている。ラファエロ・ティッツィアーノ・ベラスケス・レンブランド・フェルメール・ロラン・プッサン・ゴッホ・ピカソなどの有名作品がある。 そこにはスコットランド絵画の他、フランス絵画も少なくない。1707年にイングランドに併合された後も、スコットランド人の反イングランド感情が残っており、同じ反英感情を共有するフランスとの間に文化交流が続く心理的な基盤があった。 今回のものは、フランスはバルビゾン派・印象派の画が多く、スコットランド絵画も風景画が多いようであった。1993年 のスコットランド美術館展に出展されたものが15点もあった。トロワイヨンの《仕事を終えて》、コローの《クープロンの風景》、ファンタン=ラトゥールの《桃》・《薔薇》、ブーダンの《ボルドーの港》・《ヴィルフランシュの港》、ドーミエの《セレナード》、シスレーの《シュレヌのセーヌ河》、モネの《ヴェトゥイユの教会》・《港の船》、ドガの《開演前》、ルノワールの《赤ん坊に乳を飲ませる女性》、ミレイの《優しき目は常に変わらず》、ネイスミスの《エディンバラ城とノール湖》、マックロックの《インヴァロッキー城》などが再出展作品である。 あらかじめ前回の図録で予習していったので、以前に観たものであるとの認識はされたが、これらの名画から得られる感動が割引されるわけではない。とくにミレイやネイスミスの画は傑作中の傑作である。 今回はじめてみたものの中での好感度作品は、スコットランド絵画としては、ボニントンの《山々のある風景》、マクタガードの《帰り道で》・《魚を釣る子供》、ヒュー・キャメロンの《干草日和》・《キンポウゲとヒナギク(画家の娘)》、サージェントの《ヒルズ夫人》、ヘンリーの《東と西》、ウォルトンの《矢車菊》、デヴィッド・キャメロンの《青白い光》があげられる。 フランス絵画としては、ロールビー《羊飼いの少年》、ジャック《水飲み場の羊》、ドービニー《花咲く果樹園》、クールベ《峡谷の川》、シスレー《モールジーのダム》アルピニー《遠くの町の眺め》、マリス《アムステル河で》、モネ《積み藁》、モリゾ《庭にいる女と子供》、バスティアン=ルパージュ《お手上げだ》、スーラ《水浴の習作》が良かった。 前回の展覧会がイタリア・オールド・マスターから、スペイン、イングランド、フランス、さらにはスコットランド・グラスゴー・ボーイスに至るまで時間的・空間的に観ることができる包括的展示であったのに反し、今回の展覧会は19世紀のフランスとスコットランドの絵画に限定し、両者を壁紙で色分けして展示することによって、双方を比較しながら観るように構成されていた。(2005.11 a) (追 記) 池上先生との鑑賞会ースコットランド美術館展 今回は、20人以上?の大団体となった。参加者は、池上先生と学生さん9名、Takさんご夫妻、Juliaさん、Yukoさん、ハロルドさん、Megrigami Nikkiさん、ミズシーさん、堀内さん、MIzuiroさん、リカさん、Naoさん、とら・・・。うろ覚えだったので、Juliaさんのブログ(補助記憶装置)で修正。多謝! 池上先生からは、入館前レクチュアで、まずスコットランドの歴史とその芸術地理学的問題の話があった。「英国美術の英国性」という面白い本があるが、イングランドと対抗関係にあるスコットランド・フランスの親近性ということが重要である。 次ぎの話は、スコットランド絵画の特徴である。1)垂直様式(マッキントッシュのような)、2)人間観察(オランダの影響)、3)ピクチュアレスクな風景画、4)周辺性(デタッチメント)などである。 最後に、スコットランド絵画の黎明期の説明、すなわち1)ラムジーを中心とするアカデミー、2)国としての絵画コレクション:1919年に成立した国民協会によるジェノバでの購入+納税のための貴族の絵画物納、4)国民画家レーバーン(独学で、下書きをしない)の登場などである。館内では、お互いの感想を述べ合いながら、とても静かに!鑑賞した。 近くのイタリアンレストランで忘年会。学生さんのボルテージが上がり、大人はタジタジながら、負けずに飲んだり、食べたり、話したり・・・フルに盛り上がった。今年は、いろいろお世話になりました。来年もよろしく。(2005.12.17)
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レオナルド・ダ・ヴィンチ展: 森アーツセンターギャラリー
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レオナルド・ダ・ヴィンチ の直筆ノート「レスター手稿」が 日本で初公開された。この手稿はマイクロ・ソフトのビル・ゲイツ会長がオークションで手に入れたもの。彼はルーブル美術館などの名画の公衆送信権も着々と手に入れている。コンピュータ・ビジネスのリスク・ヘッジなのだろうか。 今回のものは、天文学・地球物理学・流体力学に関するものであり、水の波紋の広がり方やぶつかり方・障害物による水流の変化・流出管の太さによる流れの変化・積み上げブロックなどの模型が出品されており、自分で触ることができるようになっていたので、しばらくこれらで遊んだ。これはフィレンツェ郊外の「レオナルド・ダ・ヴィンチ理想博物館」から持ってきたものだとのことだった。1998年の東京ステーションギャラリーのレオナルド・ダ・ヴィンチ展にもレスター手稿を基にしたものが出ていたが、それが何であったかしっかり覚えていない。 最先端の映像メディアを使用して、レスター手稿の「天文学」・「地球物理学」・「水力学」に関するダ・ヴィンチの独創的な考え方を紹介していた。ビデオなども各所にあり分かりやすくしていた。 肝心の直筆ノート レスター手稿の現物だが、暗くて寒い部屋に陳列されていたが、ときおり手稿や説明にあたる照明が極端に下がるようになっており、読めなくなってしまう。明るいところを探してウロウロする。前に観たものかどうか分からなくなって、2度も3度も見ることとなる。そこで混雑がひどくなるという状況であった。1995年に庭園美術館のレオナルド・ダ・ヴィンチ展でウインザーの解剖手稿を見たときには、温度を下げ、照明も極端に落としてあったが、このように間欠的減光といった面倒なことはしていなかった。これがエリザベス女王とビル・ゲイツの違い? 地球と太陽と月の関係、地球の構造、化石、水の流れの変化などに関する考察はかなり掘り下げたものであった。画としてよかったのは、水滴・シャボン玉・シーソーに乗る2人の人間など単純なものである。そのほかはほとんど見えない。解剖手稿と違い、文字がやたらに多く、画が小さいこともその原因である。 池上先生の引率で行われたこの展覧会の鑑賞会にオンラインの仲間とともに参加した。参加者は、Taksさんご夫妻、Yukoさん、Juliaさん、池上先生ご夫妻・お子さん、池上先生のお父さんのご友人ご夫婦、とら・・・。 学生さんが予習してきた内容を現場で発表する姿をみて、生きた教育がなされていると感心した。 第7紙葉裏は、実際の手稿の前で丁寧に説明していただき、理解が深まった。 学生さんも「前のホールで説明した時よりも、現物を見ながら説明する方がうまくいく」といわれており、実物教育の成果が上がっていた。 終わってから、ちょっと涼しすぎるカフェテラスでお茶。でも話が弾んで、心温まる会だった。(2005.11.1) |
ミラノ展: 千葉市美術館
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レオナルド・ダ・ヴィンチがやってくるというキャッチフレーズの展覧会。なぜこのような質の高い展覧会が、東京ではなく、大阪と千葉で開かれたのか。大阪市立美術館の蓑
豊 館長によると、『 その背景は、大阪とミラノが姉妹都市提携を結んで来年が25周年、そのプレイベントにとお願いをししたこと。
それから千葉市美術館の協力によりミラノ市で「風俗関係の浮世絵展」を開催したことのお返しをしたいということ』の2点であるとのことである。 さてその内容は、次のようにに分類されている。1)ローマ帝国と中世(4世紀から13世紀)、2)ヴィスコンティ家の支配とドゥオーモの建設、3)スフォルツァ家とレオナルド、4)盛期ルネサンス、5)バロック、6)スカラ座と19世紀のミラノ、7)20世紀。すなわちこれはミラノ美術の歴史そのものである。これを十分に理解するため、珍しくイヤフォーン・ガイドを借りた。 古い第1章のものでは、3世紀の《漁師の銀杯》の線刻、《皇帝妃テオドラの頭部像》のヘア・スタイルなどは非常に近代的である。第2章では、《タロット用カード》、《ヴォーゲラの聖体顕示台》が美しい。 第3章では、フォッパの《トリヴェルツィオの聖母》はウフィッツィにあるマザッチオの《くすぐりの聖母》と似た構図のもので魅惑的であり、マンテーニャの版画《海神たちの戦い》・《酒樽の前のバッカス祭》はコミックであった。またブレラ美術館の《スフォルツァ夫妻の没後肖像》はやはりウフィッツィにあるピエロ・デラ・フランチェスカの《ウルビーノ公爵夫妻の肖像》とそっくりの横顔の二連画であった。 さていよいよダ・ヴィンチである。《レダの頭部》は失われた油彩画《レダと白鳥》と関連があると思われる素描である。スフマートによる優美な顔立ちと超技巧的な巻き毛の表現は、流石に天才! もう一つのダ・ヴィンチ《キリストの頭部》は《最後の晩餐》のキリストの準備素描である。他の画家が加筆したと書かれていたので、ちょっとがっかりしたが、こちらは彩色されており、美しい画である。下に両者の比較をしてみた。
レオナルドの後継者のセストの《聖母子と仔山羊》は、ルーブルの《聖母子と聖アンナ》の構図を利用しており、ドッジョーノの《カナの婚礼》は《最後の晩餐》の翻案であった。 第4章の盛期ルネサンスでは、1499年のフランス占領によるミラノ公国終焉のためか、ミラノの画壇はそれほど活発ではなく、この展覧会にはちょっと離れたペルガモのロレンツォ・ロットの《若者の肖像》が出展されていた。第5章のバロックでは、バニスケスの《楽器のある静物》、カナレットやグアルディのヴェッドータが出ていた。いずれも好品であった。第6章では、スペイン、フランス、オーストリアなど列強の間にあったミラノの苦悩がわかるような画が多かった。この中にセガンティーニの《ギャロップで走る馬》と《水飲み場のアルプスの雌牛》があったが、色彩分割による光の表現については甲乙付けがたい名品であった。 最後の20世紀では、カッラ・ボッティオーニ・フーニらの未来派の画やモランディの静物画があった。モランディの《静物》については、デ・キリコ展の追記2に書いた。イタリア語の題はNatura Mortaとなっており、あまり良い和訳とは思えなかった。 全体としては非常に優れた展覧会であった。東京からはちょっと時間がかかるが、ミラノに行くよりはずっと良い。また図録にあるミラノの美術史のヴォリュームは驚異的である。ゆっくり時間をかけて読んでみたい。(2005.10 a)
(追 記)池上先生との鑑賞会ーミラノ展 池上先生ご夫妻・ご子息・ご義弟、ご友人の音楽家夫妻、Takさんご夫妻、Juliaさん・ご友人、ハロルドさん、学芸員の方、とらの参加であった。音楽のプロ・セミプロを交え、かなり高尚な話が飛び交っていた。筆者もおなじみの顔が増えてきてリラックスして参加できた。 その土地の美術は、その土地の政治的状況に左右されることはいうまでもない。ミラノの歴史はそのことを如実に示している。今日は池上先生が、絵画を通してみたナポリの歴史を辿っていただいた。以下は、非常に散漫なメモ・・・。 ★ミラノの歴史についてのメモ: 1.ガリア人の時代(BC5世紀〜) 2.ローマ人の時代(286 マキシミリアヌス帝の居住地; 313 コンチヌアヌス帝のミラノ勅令によるキリスト教公認; 374 聖アンブロシウスー4世紀後半の初代ミラノ司教・ミラノの守護聖人) 3.西ローマ帝国の衰退(402 ラヴェンナへの皇帝居住地の移転、5-7世紀 ゲルマン民族の進入) 4.コムーネ(自治都市国家)の時代(11世紀) 5.シニヨーレ(領主)の時代(13世紀 ヴィスコンティ家がミラノの実権を掌握、14世紀 ペトラルカ、図書館、ドゥーモの建築開始) 6.スフォルツァ家の時代(15世紀 フランチェスコ・スフォルツァ傭兵隊長がミラノ公となるールドイーコ・イル・モーロ、モーロとはムーアすなわち色黒; レオナルドのミラノ移住) 7.フランスのミラノ征服(16世紀初頭) 8.スペインの覇権(16世紀半ば、対抗宗教改革) 9.オーストリアの支配(17世紀初頭) 10.ナポレオンの侵略(19世紀初頭)
★個別の作品についてのメモ: 1.シニヨーレ(領主)の時代にはフランスの影響で石像が作られた。 2.接吻牌は胸に接吻したようだ。そのためか緑のエマイユは一部しか残っていない。 3.タロットカードは剣(スペード)、棒(クラブ)、杯(ハート)、金(ダイヤ)と「アルカナ」からなり、剣と棒には銀が使われている。 4.聖体顕示台には聖体であるパンが入れられ(ワインは入っていなかったようだ)、キリスト出現の願いをかけた。 5.マンテーニャ:イザベル・デステの宮廷画家、《バッカス祭》の中央には男色のようなインモラルな人物像もある。 6.ダ・ビンチ関連の3点の傍には、前回はなかった参照画が貼られていた。 7.ドッジョーノの《カナの婚礼》の新郎はどれか?という学芸員の方の質問には誰も答えられなかった。新郎らしき男性の頭部には「光輪」が描かれているから、答えられないのである。 8.ロレンツォ・ロットの受胎告知はコミックで、猫まで驚いているとのこと。 (2005.12.4)
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プーシキン美術館展: 東京都美術館
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待望久しかった「シチューキン・モロゾフ・コレクション」がやってきた。印象派・ポスト印象派・新印象派・ナビ派・マチスと野獣派・ピカソとキュビスムの第1級の作品の目白押しである。 本日が初日。今日の夕刊によると、9時の開館前に350人並んだそうだが、私がついた10時過ぎには、誰も並んでいない。整理の人も手持ち無沙汰のようだった。それでも中に入ると、結構の人ごみである。混雑を予想してか、展示室内がやけに寒い。これから観にいく人はご用心。 キャプションの位置・字の大きさがちょうど良く、非常に親切な展示であった。その上、光の当て方が上手で、印象派の画、例えばピサロの《オペラ通り、雪の効果、朝》などは屋根の雪がキラキラと輝いていた。 展示品のすべてが素晴らしい。コレはコレクターのシチューキンやモロゾフが慧眼であったというしかない。モネの《白い睡蓮》は今までたくさん観た彼の睡蓮の中で最も美しい画の一つである。 ゴッホの有名な《刑務所の中庭》では太陽光線が限られているさまが、囚人たちの影で見事に表現されていた。憂鬱な青が囚人たちを覆っているが、これはゴッホ自身の鬱的な気分を現しているのだろう。こちらを見ている金髪の男がゴッホ自身であるとのことである。 これには一応は納得することとしたが、本当かな? また上に小さな蝶々が舞っているのはなぜ?花と最も縁が遠いところに蝶々が来るのは?考えさせることの多い画である。 お目当てのマティスの《金魚》は大きな画である。金魚の赤、それを取り巻く植物の緑と赤、そして何気ない机の紫・・・これらが響きあって素晴らしい音を奏でていた。ピカソでは《女王イサボー》の緑が印象的だった。(2005.10 a) 今回の展示方法はとても良かった。片側展示で、混んではいるが、少しずつ進んでいけばよく、両側展示の時のようにまたもう一方に並び直すということなく観られた。そしてキャプションも分かりやすく、カタログの各絵画の説明も分かりやすく、読みやすい。私は夜、寝床で本を読みながら寝付くのだが、今回のカタログは読んでいてナルホドと分かりやすい解説なのでどんどん引き込まれていき、寝付けないほど楽しく読んでいる。(2005.11t)
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20世紀イタリア美術: 八王子市夢美術館
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久しぶりの秋晴れ。午後の仕事を早く切り上げて八王子に行った。駅から歩いて15分、気持ちの良い散歩だった。 夢美術館はビュータワー八王子の2階の瀟洒な美術館。付属施設も多い贅沢なもの。しかし観客は自分を入れてわずか3人。市の財政状態がいいから維持されているのであろう。 今回の展覧会には「福山美術館コレくションより」という副題がついている。入場料は400円、シニア200円。それなのに招待券で入ったので申し訳ない気がした。さらに、立派なチラシの他に展覧会の解説・出品作家の説明・出品リストをとじた贅沢な冊子まで頂いてしまった。 さて、会場に入るとバッラの《変形する形》という大きなタペストリーが迎えてくれる。色彩豊かな素晴らしいもので、先月ミロ美術館で見たタペストリーを思い出した。デ・キリコの《広場での2人の哲学者の遭遇》、デペロの《五本の鉛筆》は色彩豊かで楽しい作品であった。彫刻ではマンズーの《女性の肖像》、マリノ・マリーニの《男性の肖像》があった。これらは現代人の像であるが、古典的な感じがして、まるでローマ人のようであった。モランディーやマリーニのエッチングもなかなかのものである。 戦後間もない頃のものは全体に色彩に乏しくあまり訴えるものがなかったが、1980年以降の新表現主義(トランス・アヴァンギャルディア)の絵は戸惑うばかりの躍動感と色彩感覚にあふれた素晴らしい作品が多かった。このグループの姓がCで始まるキア、クッキ、クレメンテは『イタリア3C』と称され、今回の展覧会にも3人揃って出品されているが、この展覧会ではキアの油彩《少女》が群を抜いていた。(2005.10 a)
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デ・キリコ展: 大丸ミュージアム
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ジョルジュ・デ・キリコ展に行ってきた。この画家の作品は何度も見ているが、このぐらい一堂に会すと壮観である。 幻想絵画・彫像のほかに、古典的写実絵画も展示されていた。デ・キリコは作風によって、大きく3期に分類されるようである。 第1期: キリコ(1888-1978年)は、1912年、サロン・ドートンヌに初出品した折、「若い世代の最も驚くべき画家」と詩人アポリネールに賞賛されて、形而上絵画と呼ばれる独自の世界を確立した。 第2期: 1920年頃から、ルネッサンスの巨匠たちの作品を模写し、その成果を「古典絵画」として作品化するようになった。 第3期: 1960年代以降、デ・キリコは自身の「形而上絵画」を模倣した「新形而上絵画に回帰した。 今回の展覧会は、この第3期の 新形而上絵画と第2期の古典的絵画の油彩を中心に、素描、彫刻を含めて構成されている。ただし、第3期の作品の「キャプションに書かれている年代」と「実際に画に書き込まれている年代」が大きく違っており、そのことは場内にも掲示されていたが、残念ながらその理由について明確な説明がなかった。多分彼の1960年以降の画は1910年代のもののコピーだったことと関係があるのであろう。 まるで白昼夢を見ているような明るく不思議な「新形而上絵画」とその彫像は、東京駅の雑踏に近いこのミュージアムにふさわしい。東京駅という夜昼を問わず煌々として強固な建物の中に、無数の実体不明の人物が不規則に動いているという情景との類似を考えるからなのだろう。 デ・キリコの画に不安遺伝子が潜んでいるように感じられるのは、堅牢で具象的な背景と幻想的人物の鋭い対比にあるような気がする。その点、彫像は幻想的人物のみなので、かえって安定感がある。 ちょっと残念なのは、解説が分かりにくい。高踏的というかあまりに哲学的である。こういった難解な絵画の説明こそ平易であるべきなのに・・・。 これから行かれる方には、入り口にあるビデオ(約8分)を見てから、展示場内に入ることをお勧めしたい。ビデオの説明の方が人間的な話し方ですので。(2005.10a) (追 記1) 前回観にいった時には、今ひとつ分からないことが多く、不消化のままレポートを書いた。その後、もう一度観にいき、デ・キリコの略歴を読んで、レポートの内容を追加した。彼の略歴を見ると、何回か「鬱状態」で入院している。鬱状態のため彼が真の形而上絵画を描けなくなったのか、あるいは形而上絵画を描いていた時代は「躁状態」だったのか、いずれにせよ躁鬱病あるいは躁鬱気質が彼の画風の極端な変遷に関係があるのではなかろうか。(2005.10.22) (追 記2) モランディははじめはデ・キリコ と同じく形而上絵画を描いていた。しかし1920年になるとデ・キリコから離れ、独特なすこしぼやけた灰色と茶色を主体とする静謐な静物画を描くようになった。今日、千葉市美術館で観てきた「ミラノ展」に出品されていたモランディの静物画の中に、テーブルの上に裏返しになり倒れたマネキンが描かれている。これは10年前の形而上絵画に用いられたマネキンである。モランディが形而上絵画と決別したことを示している。2人が同時期に形而上絵画から離れたのは偶然だったのであろうか。(2005.10.28)
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プラート美術の至宝展: 損保ジャパン東郷青児美術館
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プラートという都市を訪れたことのある人はそれほど多くないだろう。フィレンツェに近いだけに、フィレンツェの興亡に影響を受け、そしてフィレンツェからの干渉に常に曝された都市である。その点では、シエナとフィレンツェとの関係に近いともいえるが、当時のプラートの力は盛期のシエナとは比べものにならないものであったようである。 この町には「聖帯伝説」が長く伝えられ、それが信仰のみならず宗教美術の骨格をなしている。「聖帯伝説」とは、聖母マリアの被昇天に際し、腰に巻いた帯を使徒トマスに渡したとする伝承である。12世紀に、この聖遺物がプラート大聖堂の前身であるサント・ステファン聖堂に寄進されたことになっている。プラートでは、13世紀後半からこの聖帯の崇拝が盛んになった。14世紀に敵国ピストイア人による盗難未遂事件があって、プラート政府が、聖帯を保管する目的で、新しく「サクラ・チントラ礼拝堂」を造った。現在も聖帯はこの礼拝堂の祭壇に納められているが、特別な日に限って一般に顕示され、プラート市民の篤い信仰対象となっている。 もう一つこの町の美術が有名なのは、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ修道院にいたカルメル会の修道僧フラ・フィリッポ・リッピとの関係である。プラート大聖堂内のフレスコ画装飾のために招かれた彼が、滞在中に親しくなったサンタマルゲリータ女子修道院の尼僧ルクレツィア・ブーティと、1456年の「聖帯祭」当日に、駆落ち(誘拐?)して修道院を脱走したという大事件の現場となったということでプラートが有名になっっている。 今回の展覧会には多くの佳作が展示されているが、「聖帯伝説」と「破戒僧フィッリッポ・リッピ」を結びつける歴史的な画が出品されていることは特筆に価する。「身につけた聖帯を使徒トマスに授ける聖母および聖グレゴリウス、聖女マルゲリータ、聖アウグスチィヌス、トビアスと天使」という長い名前のリッピの作品がそれである。これは聖マルコが被昇天する聖母マリアから緑色の聖帯を受け取っている祭壇画である。聖母マリアや聖女マルゲリ−タなどの女性像は、非常に世俗的で、官能的なまでの美しさである。とくに聖マルゲリータはルクレツィアをモデルとしているという説があるが、ウフィッツイにある彼の「聖母子と二天使」の聖母マリアと比較するとその類似に驚かされる。 聖女マルゲリータ(コルトーナの)とは、貴族の愛人となった農夫の娘が、改心して女子修道院で献身的なな生活を送った聖女であるが、ルクレツィア・ブーティとは正反対の人生ではないのか。彼女がいた修道院の名前を使うとは大胆きわまりないのではないのか。また一般にルクレティアという名前は、凌辱されて自殺したローマの伝説的夫人、すなわち貞淑な女性の代名詞として知られているのになんとしたことであろうか。 それはともかく、これは素晴らしい展覧会である。キャプションや説明図の内容も近年まれに見る出来栄えである。古都プラートをめぐる歴史、信仰伝説、そして信仰と愛欲のハザマにたった男女について考えさせてくれた。(2005.9a)
Juliaさんから誘われて、池上英洋先生とプラート展を観る会に行ってきた。いろいろと勉強になった。 学生さんと一緒にひと回りし、その後に、われわれ成人グループに対する池上先生の特別ギャラリー講義があった。 リッピの受胎告知のマリアの顔はルクレツィアと似ていないという池上先生に対して、「別のガールフレンドですね」と混ぜ返すと、大笑いになった。 参加者は、Juliaさんのほか、Nikkiさん、はみがきさん、Yukoさん、イタリア語通訳のお嬢さん・・・。新宿の地下街で、ワインを飲みながら楽しい懇談会。その時のスナップ写真にその雰囲気が写っている。(2005.10.15)
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ホイットニー美術館ーアメリカの素顔展: 府中美術館
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9月になれば、暦どおり涼しくなる。散歩をかねて府中美術館に行った。ここは京王線の東府中駅から15分も歩くのだが、「府中の森」公園を通っていけるので、心地よい散歩道である。 途中に、朝倉響子の素敵な彫刻がある。二人の女性がお互いに見つめあったまま、長いすに腰をかけているものである。帰りにこの二人の間に顔を出して、スリーショットを撮った。 ニューヨークのホイットニー美術館は20世紀アメリカ美術のメッカである。ホイットニー・マニュアルやビエンナーレで、ホットな話題を発信している美術館でもある。そこから46点の大作が府中へきている。アメリカ美術の特徴のひとつに、その大きさがある。これはやはりコンクリートの巨大建築にマッチするために美術自体が変容していったものではなかろうか。 著作権の関係で画像を掲載できないのは残念であるが、見慣れた画家の作品が多く、異質な感じは少ない。これは私自身の感覚の変容・変態によるものに違いない。同行した家内はいまだに異物感を感じるという。 ゴットリーブ(凍てついた音)、ロスコ(無題)、ホッパー(クイーンズボロ・ブリッジ、ニューヨークの室内、踏切)、ジャスパー・ジョーンズ(0から9への重複)、ステラ(グラン・カイロ)、リキテンスタイン(窓辺の少女、金魚鉢)、ラウシェンバーグ(スフィンクスのアトリエ)、ウォーホル(2重のエルヴィス、毛沢東)、インディアナ(LOVE),オキーフ(白いキャラコの花)、ポロック(花火)、マザーウェル(バルセロナの午後)、エイブリー(砂丘と海)、バスキア(ハリウッドのアメリカ人、LNAPRK)、ベントン(主は我が牧人)など主要な画家が揃っている。 異物感の少ない画家はホッパーやオキーフであるが、バスキアの「ハリウッドのアメリカ人」にはセブンスター200円と描かれており、インディアナのLOVEはマンハッタンのセヴンス・アベニューや新宿アイランドのストリート・アートともなっているためか、散文的なニューヨークのコンクリートジャングルあるいは東京砂漠アートとして刺激的である。(2005.9a) 現代美術は、ちょっとその良さがつかめない。分かりにくい作品の前で、主人と話をしていたら、見張り役(?)のお姉さんに「静かに」と注意を受けてしまった。後で分かったことだが、その作品はちょっと卑猥なものをイメージする作品であった。(2005.9t)
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良渚文化文物精品展: 中国国家博物館
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2000年9月に、横浜で観た「中国文明展」(世界四大文明展の一つ)で知った「良渚文化」の大々的な展覧会が中国国家博物館で同時開催されていた。これは5000年前の新石器時代後半の揚子江領域の文化で、南京の近くで発見されたものである。 とくに玉器に名品が多かった。図の玉三叉形器は5.2x7.4x1.3cm,玉鳥は2.95x5.1x0.6cm、玉亀は3.2x2.22x0.55cmの小さいものである。さらにもっと小さな玉蝉もあった。その精巧さに舌を巻く。 夏・商・周などの王朝文明に先立つ古代文化が、このように優れたものであるという事実は、美術に関する限り、「人間が果たして進歩しているか?」という大きな疑問を投げかける。 今回の中国訪問は、反日と友好の狭間であったが、個人個人の中国人には素晴らしい人が多く、われわれの領域でも長年にわたり完璧な友好関係が成り立っているのに、国対国の関係となるとギクシャクしてくるのは誠に残念である。 下掲の画像は中国国家博物館ホームページへのアイコン。(2005.9a) |
鄭和西洋航海600周年記念展: 中国国家博物館
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北京に行ってきた。当日、人民大会堂「抗日戦争勝利60周年」記念式典が開かれたので、真向かいの中国国家博物館に入れたのは奇跡的だった。前日にも行ってみたのだが、この行事のため早めに閉館となっており、当日も午後2時からということで、昼食で時間調整して出かけた。 今回仕事で北京に行く機会があったので、時間を割いて「鄭和西洋航海600年記念展」を観たのである。鄭和が出発したのが1405年で、今年が丁度600周年にあたるということで、かなり大掛かりな展覧会となっていた。入場者の中に西洋人が多いことが印象的だった。 明の永楽帝時代に、宦官の鄭和が、7回にわたって東南アジア、南インド、スリランカ、ペルシャ湾岸、アラビア半島、さらにはアフリカ東岸にまで航海し、平和的に貿易を行っていた。このことは有名で、日本の歴史教科書にも載っている。当時は非常に危険な航海であったであろう。航海の安全を願った銅鐘が陳列されていた。 コロンブス(スペイン→西インド諸島)やヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル→インド)に先駆け、しかもはるかに大きな船で、多くの人を乗せて大航海をしていたことは特筆に当たる。西洋人は15世紀の「大航海時代」に東洋を発見したといっているが、むしろ大航海時代は東洋に始まったという歴史的事実はもう少し喧伝されても良かろう。 右下図は中国国家博物館ホームページへのアイコン。(2005.9a) |
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717年に唐へ留学し、36歳という若さで、734年に長安で客死した「井真成」の墓誌が昨年発見された。それを観るため、猛暑の中、上野に出かけた。 灰色の墓誌の蓋には「贈尚衣 奉御井 府君墓 誌之銘」とあり、あまり上手ではないが、勢いのある面白い字の銘文が書かれている。墓誌は白い石に細い非常に上手な字で、12行の銘文で書かれている。本物ではあまりはっきりしないところもあるが、拓本を見ると、はっきりしている。その最後は「死ぬことは天の常道だが(□之天常)、悲しいのは遠方にあることだ(哀茲遠方)。身体はもう異国に埋められたが(形既埋於異土)、魂は故郷に帰ることを願っている(魂庶帰於故郷)」という井真成の気持ちを慮った文章で終わっている。 そのためにチラシには「おかえり」というキャッチフレーズが付けられている。そしてその後に、「日本に帰りたいという彼の想いは、千数百年を越えた今、実った」というご丁寧な説明が付いている。 このような解釈は、墓誌を書いた人や今回の展覧会を企画した人の推量である。本人の本当の気持ちはどうであったのだろうか。遣唐使は前後16回、7世紀から9世紀にかけて朝廷が唐に派遣したものであるが、中には唐に留まって日本に帰ってこなかった留学生もいる。当時の唐と日本の差は、現在のアメリカと発展途上国ほどの差であった。このような場合、豊かな唐に留まること希望する留学生がいても不思議ではない。「井真成」はあしかけ18年間も唐にいて、彼の死に際して「衣を贈られる」ほどに出世していたのであるから、唐で生活し、唐で死ぬことを幸せに思っていたという可能性もある。 このようなことを考えたのは、墓誌に異土という文字を見つけたからである。そして室生犀星の詩を思いだしたからである。(2005.8a) ふるさとは遠きにありて思ふもの ひとり都のゆふぐれに
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ギュスターヴ・モロー展: Bunkamura
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モローの作品は、1995年「モロー展」、2002年の 「フォッグ美術館・ウィンスロップコレクション展」(いずれも国立西洋美術館)で大分観たので、今回はどうしようかなと迷っていたが、島根や神戸で観てきた人のブログなどを読むと、今回の「ギュスターヴ・モロー展」はパリの国立ギュスターヴ・モロー美術館のものばかりということなので、観にいくことにした。 入り口の「24歳の自画像」は、立ち襟でアスコット・タイを付けている。結構おしゃれのようだ。独身を通したといっても、愛人がいたのもうなずける。 「神々の世界」という名前でギリシア神話に由来する作品がまとめてあった。 「英雄たちの世界」の章では、ギリシア神話のヘラクレス、オデュッセウス、イアソン、オイディプスといった人間の英雄を主題とした作品を展示している。これらの作品の様々なヴァージョンや習作を見ることができたが、これは本人の意志により作られた美術館ならではのことである。「ヘラクレスとレルネのヒュドラ」のヘラクレスの姿勢が良いことに感心した。化け物蛇に対してまったくひるんでいないことが、この姿勢からはっきりと見て取れる。 「詩人たちの世界」の章では、詩の神であるアポロと芸術を司る9人姉妹のムーサたちが詩人に霊感を与えている。
「ヘシオドスとムーサたち」は、1995年のモロー展でも観ているが、サーモン・ピンクのバックにぼんやりと人物が浮かび上がるカリエールような画で好感度作品である。
今回展示されていた「サッフォーの死」は、すばらしい衣装や装飾品を身につけたまま崖に身を投げる姿であって、とても印象深い。ここでも怖いという心理がまったく働かない。
最後に、モロー晩年の作品「人類の生」などが展示されていた。これは1995年のモロー展にも出品されていた第2作で、アダム(黄金時代)・オルフェウス(銀の時代)・カイン(鉄の時代)が縦軸、朝・昼・晩を横軸に9枚の画が組み合わされ、その上部に「キリストの勝利」が描かれていた。 前回のモロー展で観たものが相当あったことは10年の間隔から考えて文句を言う筋合いはないが、多くの水彩・習作が前期・後期に別れていて、後期分が見られなかったのは残念だった。 (2005.7a)
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フィリップス・コレクション: 森アーツセンターギャラリー
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有名なルノワールの「舟遊びの昼食」を初めとする名品がワシントンからやってきている。古くはエル・グレコ、新しくはココシュカに至る60点であるが、精選された内容であるため展覧会の価値としては超一流である。 朝一番に入ったので、悠々と観ることができた。AMEXで1人のチケットを購入(¥1500)すると、1枚招待券が無料でもらえるという仕組みがあるのを発見。ただちに実行。チョット得をした気になった。 ここでドラクロアの「パガニーニの肖像」と遭遇した。小品であるが、非常に貴重な画である。図録の説明が不十分なので、ここで説明させていただく。パガニーニは天才的なヴァイオリニスト・作曲家で、彼の曲の演奏には超絶的な技巧を必要とすることは良く知られている。それは彼が「マルファン症候群」という遺伝的な病気の持ち主であったことと関係している。マルファン症候群の人は非常に背が高く、指が蜘蛛のように長い。 このドラクロアの画を観ると、そのことがよく分かる。ヴァイオリンやその弓がまるで子供用のもののように小さい。これは彼が人並みはずれた背の高い人物であったからである。そして何よりも指が非常に長い。パガニーニの曲の演奏に超絶的技巧を必要とするのは、普通の人はこんなに指が長くないからである。 ピアニスト・作曲家のラフマニノフも「マルファン症候群」である。そのため親指から小指までの幅(ストレッチ)が長く、普通の人に比べ、ピアノ演奏上有利である。ラフマニノフがパガニーニの主題による狂詩曲を作っていることもこのことに関係があるかもしれない。(2005.7a)
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ドレスデン美術館展: 国立西洋美術館
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ザクセン選定侯のコレクションの展覧会である。セクション毎に明解な構成がなされており、分かりやすい。 最初のセクションには、科学器具が並べられている。実際に使用したものにしては、装飾が多い。これはザクセン選定侯自身あるいはその側近が使用していたものだからなのであろう。天才デューラーの版画が数枚あったが、いずれもすばらしく精細なものである。 次には、オスマン・トルコからの文物が並んでいる。トルコ石やルビーなどの装飾性の高い剣などであり、ザクセンとの関係が良好であったことを意味している。その点、このセクションに「恐怖と魅惑」という二義的な副題をつけたキュレーターはイスラム文明に対して不信感ないし被害妄想感を抱いていると非難されよう。キリスト教文明とイスラム文明の対立は今も続いているが、十字軍や宗教裁判に代表されるキリスト教文明の残酷さに目をつぶることは許されない。 イタリア文化の影響については、ティツアーノの「白いドレスの女性」が群を抜いている。カナレットやベロットのベッドータは風景画としての歴史的価値が高い。しかしこの程度のものを自前で作れなかったドイツ北部は相当遅れたところだったとだろう。フランスからの奢侈な輸入品に関しても、然りである。 日本や中国からの輸入品が多い。特に伊万里などの磁器の技術がマイセンに剽窃されていくところが、あのようにはっきり展示されると、あまり気持ちの良いものではない。 オランダ美術は今回の目玉の一つである。フェルメールの「窓辺で手紙を読む若い女」は有名な作品であるが、カタログで観るのとは違い、髪の毛や洋服の金糸の輝き、窓ガラスへの顔の映りなどは、実物を観なければわからなかった。人物像の画面に占める割合がもう少し大きければ・・・と思う。レンブランドの「ガニュメデスの誘拐」は変態的な画である。おしっこを漏らすようなアカンボを誘拐して、どうしようというのであろうか?ダウの「祈る陰修士」、コーニンクの「隠者」はさすがである。バルラザール・デンナーの老女2枚には感心した。ロイスダールの「城山の前の滝」は青みが強く迫力があった。 最後の「ロマン主義的世界観」というところで、初めてドイツのアイデンティティがでてきた。フリードリッヒの「雪中の石塚」、「エルベ渓谷の眺め」、「月を眺める2人の男」はいずれも淋しきロマンチストの作品であるが、静かなのが良い。ツインクのセピアインク画、ダールの「満月のドレスデン」、 エーメの「サレルノ湾の月夜」もきれいだった。(2005.7a)
今回は、Takさんに誘われて、初めてOFF会に出席した。そして自分の知らなかったネット社会の変化について勉強させていただいた。だれも顔を知らないという状況で、「青い帽子をかぶっていく」x「青いTシャツを着ていく」というお互いのメール連絡だけで出会うのだから、うまく会えるかどうか心配していたが、携帯電話がきわめて有効であった。こんなことも情報社会の進歩の光の部分である。しかしこのようなネット社会には影の部分も当然あるのであろう。 懇親会があるということであったが、なにせ初めてのことで躊躇していたところ、花子さんに強くすすめられて参加した。有難うございました。メモした参加者は、いずつやさん、Kumiさん、Asakoさん、オランダ・バロック館ご夫妻、Takさんご夫婦、EAIさん、Siyaji−kakさん、Yukoさん, おけはざまさん、ハロルドさん、Juliaさん、リセさん、花子さん、そえさん、とら・・・頑張ったが、全部は覚えきれなかった。とにかく参加者が大勢なこととその盛り上がり方のすごさにびっくりした。 現代社会におけるONライン空間の頼りなさが、このように実体のあるOFFライン環境への参加を促しているのであろう。(2005.7.16)
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