日本美術散歩 05 (海外美術は別ページ)
謹賀新年 | 平成の洛中洛外 05.1 | MOA所蔵名品展 05.2 | 一水会展 05.2 |
無言館展 03.3 | 中宮寺弥勒菩薩 05.3 | 川端龍子記念館 05.3 | 熊谷恒子記念館 05.3 |
横山大観展 05.3 | 将軍のアーカーブズ展 05.4 | 相原求一朗展 05.5 | 大阪城本丸展 05.5 |
山口進・川上澄生展 05.5 | 小倉遊亀展 05.5 | 小山田二郎展 05.5 | 村井正誠展 05.6 |
五百城文哉展 05.7 | 無言館 05.7 | 遣唐使と唐の美術 05.8 | 模写・模造と美術 05.8 |
和田義彦展
05.8 |
加守田章二展 05.9 | 青木繁ー海の幸100年 05.10 | 台東区のたからもの 05.10 |
江戸絵画の楽しみ 05.10 | 燕子花図 05.11 | 北斎展前期 05.11 | 北斎展後期 05.12 |
川端龍子展 05.12 | 吉村順三建築展 05.12 | 幻想のコレクション・芝川照吉 05.12 | リー・ウーハン展 05.12 |
池田清明展 05.12 | 前川國男建築展 05.12 |
目 次 ↑
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前川國男(1905-86)の生誕100年記念展である。展覧会の副題が「モダニズムの先駆者」となっている。内覧会に招待されていたので、木枯らしの吹きすさぶ東京駅に行ってみた。そして驚いた。通常の内覧会とはまったく違っている。まず、人が多い。そして、いつもの高齢者以外に若者が多い。そしてさらにこれらの若者がデジカメで展示物を撮りまくっている。 主催者の東日本鉄道文化財団の挨拶では、この参加者の多さに対する謝辞から始まった。予想を上回る人数だったのであろう。このステーションギャラリーは、東京駅の改修工事に伴い、この展覧会終了後しばらく休館すると言う。便利なロケーション、赤レンガ壁のハード、そして独自の企画で玄人筋にはとても人気がある美術館であったが、いたしかたない。2011年予定のの再開まで待つことになる。 自分自身は、ごく最近、吉村順三建築展を観にいったものの、このジャンルはいたって不案内である。ところが、偶然、会場内で、建設設計会社の社長である旧知のK氏に出会った。そしてショート・レクチャーを受けた。その中で、一番印象的だったのは、丹下健三との比較論であった。前川國男は「権力にすり寄る」といったことからもっとも遠い存在であったというのである。 ル・コルビジェやアントニン・レーモンドにモダニズムを学び、その後は前川建築事務所を核として半世紀にわたる建築活動を実践し、わが国の美術史にその名を残している。丹下は、一時、前川事務所に属していたが、その後、コンペにおいて、前川と張り合う存在となる。1986年に行われた「東京都新都庁舎」は丹下が獲得し、前川は失意のうちにこの世を去った。会場には、前川の残した建物の模型・写真・設計図などが時代ごとに分類され、所狭しと置かれている。木造、プレハブ、コンクリート、打ち込みタイルなど素材の推移、戦前・戦中・戦後というわが国の激動期に対応する建物の変化の一部を垣間見ることができた。いかなる個人も歴史の波を越えることができないのであろう。 驚いたことには、私の知っている建物、入ったことのある建物が多く、また有名美術館が多い。一部だけであるが、下記に記載する。また前川國男自邸は江戸東京たてもの園(小金井市)に保存されているという。是非行ってみたい。(2005.12a) 1. 美術館:東京都美術館、福岡市美術館、 新潟市美術館、熊本県立美術館、埼玉県立博物館、弘前市立博物館、林原美術館 、ケルン市立東洋美術館、国立西洋美術館新館 |
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一水会の池田画伯とはある病院のホールで知り合いになった。1999年3月30日に、画伯の「奏でる」という画の除幕式に立ち会ったからである。その画はお嬢さんがヴァイアイオリンを弾いている画で、譜面台にはHatsueというお嬢さんの名前が記されている。 池田画伯はお二人のお嬢さんをお持ちで、このお二人をモデルに沢山の画を描いておられるが、幸せな家庭と素晴らしい音楽が響きあう素晴らしい画ばかりである。 ときどき一水会の案内を頂くが、自分ではなかなか行けず、家内が1度だけ観にいったことがある。そこで家内もすっかり池田先生の画のフアンになった。そのときのことはこのサイトにも家内が書いている。 今回、横浜で展覧会が開かれたので、久し振りに画伯にお会いした。旧知の奥様のほか、ご長女にも初めてお目にかかる機会を得た。家内も同行したので、皆さんに初めてお会いした。画は人物、風景、静物などが展示されていたが、やはりご家族のモデルになられた画が素晴らしい。今年お嬢さんが結婚されたのことで、「花嫁」という大作を秋の日展に出品されたとのことである。その写真も見せていただいたが、父親の優しいまなざしが画全体に注がれている。 次女の方は、日本画の道に進まれたことである。芸術の遺伝子の素晴らしさである。 (2005.12a)
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李禹煥は私と同じ年の生まれである。韓国生まれの彼が、日本を拠点に本格的な創作活動を展開し、60年代末にあらわれた「もの派」と呼ばれる若いアーティストの中で中心的な役割をにない、また、「もの派」をヨーロッパに積極的に知らせる役割もになってきたということで知られている。 横浜トリエンナーレを見た帰りのちょっと立ち寄ってみた。美術館の前に屏風のように曲がった分厚い鉄板が置いてあり、その前に大きな石ころがゴロゴロと置いてある。これが 李禹煥のいう彫刻である。 美術館の中に入ってみると、ちょうどエレクトーンのライブコンサートが行われていた。末長京さんの演奏である。 キャンヴァスのどこかにわずかな筆の跡があるだけで、あとは広々とした余白の絵画、そしてほとんど観客のいない展示室、そこにこの音楽が響いてとても良い雰囲気であった。 トリアンナーレで現代美術に対して、強い免疫が出来たばかりである。このような作品は容易に受け入れられた。私には、以前のFrom PointとかFrom Lineのような画のほうがわかりやすいが、これはこれでよい。 一方、彼の余白は禅の境地に近いもののような気がし、とても古い物のようにも感じた。要は時代を超えた単純なものの美しさの表現のようであった。 ビデオでは「これらの点や線と周囲の空間との響き合い」を感じてほしいとの李さんの言葉があったが、たまたま爽やかなエレクトーンの音の響きあう空間は理想的な状況といえた。(2005.12a)
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12月といってもよい天気。こんな日に家でくすぶっていてもしょうがない。散歩を兼ねて渋谷に出かけた。ネットで調べると「芝川照吉」という聞きなれない名前の展覧会が松涛美術館で開かれているとのこと。とくに期待しないで美術館に入った。 するとしっかりとした画集が入り口においてあった。パラパラとページを繰ってみると驚いた。有名画家・有名工芸家の作品が数多く並んではないか。 地下の第1展示室で、その謎が解けた。芝川照吉(1871-1923)とは羅紗の直輸入や国内の織物雑貨の商売で成功した芝川商店に婿養子に入った男である。もともとは銀行員であったからよほど見込まれたのであろう。 彼は、近代美術におけるパトロンのさきがけで、わが国の洋画家・工芸家の援助を続け、膨大なコレクションを作りあげ人物である。しかしこれは結果として出来たコレクションであって、彼は美術家と一緒に過ごすことが何よりも好きで、彼らを援助したから集まったのである。ひょっとすると仕事があまり面白くなかったのかもしれない。 いずれにせよ、青木繁、坂本繁二郎、岸田劉生をはじめとする草土社グループ、浅井忠や石井柏亭とその仲間たち、藤井達吉や富本憲吉ら近代化を目指した工芸家たちなど、芝川のコレクションに入っているものはじつに多彩な顔ぶれである。 絵画では、青木繁が 7枚、坂本繁二郎5枚、岸田劉生12枚、石井柏亭5枚の他、有名画家の作品が並んでいた。驚くとともに、言い知れぬ感動を覚えた。漱石との交流もあったようで、彼からの手紙も陳列されていた。2階の第2展示室には、藤井達吉の工芸作品が多数あり、宮本憲吉、バーナード・リーチの作品も並んでいた。 このように質量ともに優れたコレクションであるが、その後、関東大震災や世界大恐慌のあおりでほとんどが散逸してしまった。 本展は、すぐれた蒐集眼によってあつめられたこの「幻想のコレクション」を、できうるかぎり発掘し、往時のすがたを再現しようとしたものである。 芝川は、日本の美術史の裏面における重要な存在であり、このような企画をされた関係者に敬意を表したい。
犬も歩けば棒に当たる。「美術散歩」も大切な展覧会に遭遇する。 (2005.12a) Juliaさん、Nikkiさんと一緒に、芝川コレクションをもう一回観たり、美術映画を見たりした。芝川コレクションの中では、山岡宗八が、芝川の新居を訪れた時の絵巻物をじっくり見た。巣鴨駅で降りて、橋を渡っていくと・・・・・があってと、こと細かに描かれている。現在なら、デジカメで風景を写しながら訪問し、帰ってきてメールで写真を送るということになるのだろう。その分、われわれは日常的に絵を描くという能力を失いつつある。新しきよき時代なのか、古きよき時代なのか分からない。 美術映画の前に、学芸員の人の解説があった。 1.ベラスケスは矮人など恵まれない人を描いているが、ロシアのレーピンの画の中にも、このような恵まれない人が描かれている。 2.モリゾに関するインタビューの中に出てくる「ブールバール」について説明があった。ルイ14世時代に市民税を取るために通常の壁の外側にもう一つ壁を作り、パリ市の範囲を広げたが、その拡張地域をブールバールということであった。ナポレオン3世もその外側にもう一つ壁を作って同じことをした。 《ベラスケスの素顔》という映画は面白かった。 1.ダリが過去の画家を採点しているが、ベラスケスは非常に高得点だった。 2.生地セビリアのサンペトロ教会に今もその記録が残っていることに驚く。 3.その後、マドリッドに移ったが、大成したのはローマで遠近法や明暗法を身につけてからである。 4.ベラスケスは宮廷内にアトリエを持っていたが、身分は役人なので、次第に忙しくなり、画の枚数が少なくなっていった。 5.ベラスケスは紋章をもらったことを誇りにしており、ラスメニーナスの自画像の中に後で書き加えた。紋章を貰った画家は2人だけということで、もう1人の現代画家が紋章をつけた礼装に着替えるところがあった。人間はほとんど進化していない。 《ベルト・モリゾに関するキャスリン・アドラーへのインタビュー》は、ドガら男性の描く女性には娼婦などが多かった時代に芸術活動を実践した女流画家に関する話だったが、画があまり出てこないこともあって、途中で意識を喪失した。(2006.1.14)
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日曜美術館で彼の建築の素晴らしさを放映していた。なかで気に入ったのは、彼の軽井沢の山荘《森に浮かぶ家》である。そこで会場を覗いてみた。それほど広くない会場には、この山荘を含め多くの模型が並んでいる。若い人が多く、エネルギーに満ちていた。 建築は、当然、美術の一部であるが、今まではあまり関心がなかった。しかし生活とのかかわりでいえば、絵画や彫刻などよりはるかに重要なものである。これからは、建築にも目を向けていきたい。 吉村順三の言葉がいくつか記されていた。そのなかでもっとも簡潔な表現の詩的文章を引用する。
日本では建築家でなければ建物のいい悪いはわからないもの 素人の批評するものではないと思っている だけど 芸術的な側面だけでなく 普通の人がみて素直にいいと感じたものが本当にいいもののはず それがいい建築の条件にもなる (2005.12a) |
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《潮騒》は南の島に雪が降るという仮想画で、不思議な気がする。 《爆弾散華》は自宅が焼夷弾に被弾した時の画である。これは龍子記念館で見るともっと現実感がある。被弾した場所が今も残っていて池になっているのである。 《怒る冨士》は戦況が芳しくない時の画で、北斎の《山下白雨》に似た構図であるが、それよりもズット迫力がある。 とくに驚くのは《逆説生々流転》である。狩野川台風が南の平和なヤップ島周辺に起り、次第に大きくなって、金色の目を持つ台風に成長し、莫大な人的物的損害を与えたが、人々はこれを復興し、穏やかな景色が甦るという壮大なストーリーの絵巻物である。 《草の実》は紺色の絹に金泥、それも焼金・青金・白金を使った美しい画である。《紺紙金泥経》を見るようである。《南飛図》は雁が飛ぶ姿を上から見た図で、宇宙船からの視点といってもよい。このような装飾性の強い画は琳派の伝統を引く画のような気がする。 彼もまた戦争協力画家とされているが、今回展示されていた《連作太平洋:竜巻・椰子の篝火・竜巻》を観ると、戦時中の画であるが、好戦的な印象はほとんど感じられない。 仏教への傾斜が強く、《一天護持》は黒字に金泥の蔵王権現の迫力ある描画であり、今回まとめて展示されていた《草描西国三十三ヵ所巡礼》は穏やかな小品の集合である。 龍子は、帝展・院展というアカデミックな世界を飛び出し、日本画に新たな地平を拓いた革新的な画家である。大正・昭和の日本のバロックと称されるのもむべなるかなであると思う。(2005.12a)
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葛飾北斎展にもう1度行ってきた。半数以上の展示品に入れ替えがあったからである。ウイークデーなのにかなり混んでいた。20分待ちである。浮世絵であるから、近くで見なければ分からない。従って通常の展覧会とは違い、見ることができるのは最前列の観客のみである。前回と違い、後ろから強引に割り込んでくる人が多い。北斎展の大衆化ということなのであろう。主催者のほころぶ顔が目に浮かぶ。 前回の経験があっても、全部を見終わるのに2時間半。これならば体力の消耗は軽微である。お目当ての富嶽三十六景では、最前列を求めて列が出来るほどであった。メトロポリタンのものに加え、シカゴ美術館からの出展作が多かった。国内からのものも少なくないが、第1級の作品の多くはこのような輸入品である。まことに残念であるがいたしかたない。むしろこのような現実は、ジャポニズムとして欧米の絵画に計り知れぬ影響を与えたことの証であるので、もって瞑すべきなのであろう。 本当に葛飾北斎は天才である。とくに富嶽三十六景は圧巻である。今回もメトロポリタン美術館の《甲州石班沢》の構図・色調ともに素晴らしかった。やはりペルシャン・ブルーの迫力である。 一部の画が、2度に分けて展示されていたのは残念であった。世界的に名高い《山下白雨》についていえば、前期出品のホノルル美術館所蔵作品と後期のシカゴ美術館のものとの比較が問題となる。全体の色調から見てもその優劣はあまり判然とはしない。そこで画集の写真で比較してみた。もちろん写真の撮影条件の影響を受けるので正確な比較とはいえないが、稲妻の色はホノルルのもののほうが鮮烈であるように思う。しかし上述のように並べて陳列してくれないのだからどうしようもない。もちろんこれにはそれなりの理由があったのであろう。独立行政法人化された今、お役人的な言い訳は許されないが、すくなくともこのような事態に至った理由に関する説明責任がある。 混雑していたので、閉館時間が17:00から18:00に延長された。これは法人化のお陰である。博物館を出るとあたりはすっかり暗くなって、ライトアップされた本館が浮かんでいた。これも法人化のお陰?(2005.12a)
(追 記) 後期の展示作品の中での私の好感度作品というといかにもおこがましいが、今回もあえて挑戦してみる。 【第一期】 15.新板浮絵化物屋舗百物語の図・・・・・・・・お化け屋敷。オカルト映画見たいな絵ので、外人に受けるかも。 28.五代目市川団十郎の暫・・・・・・・・・・・・・・字が上手である。 46.鐘馗図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春朗のサインのある唯一の本画とのこと。絵自身は・・・。 【第二期】 48.ほおずき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・美人二重奏。お化粧のとき、女性が我を忘れるのは、今も昔も変わらず。 49.新絵浮絵忠臣蔵第十二段目・・・・・・・・・・討入のシーン。夜の暗さ、雪の降り方が異様な感じがする。 62.王子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・物売りの女性、女性二人と赤ん坊、これから魚とりに行く悪がき2人、何となく和む佳作。 68.よつや十二そう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・構図が巧みである。空気遠近法も取り入れられている。 71.たかはしのふじ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・橋の下の遠景に富士山がみえる。これぞジャポニズム・ブーム火付けの構図。 72.賀奈川沖本杢之図・・・・・・・・・・・・・・・・・グレート・ウェーブを予告する作品。 97.亀図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・元気のよい亀の頭x2。すこしエロチックかも。 98.遊女の座敷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・赤が美しい。 122.柳の絲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富嶽三十六景を予告する作品。 126.はるの不尽・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富士山らしくないが、手前の女性の着物の赤がなんともいえない美しさである。 132.梅樹図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これぞ日本画。琳派の感覚である。 135.涼をとる美人図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・蚊帳から出た女性が艶かしい。 139.瑞亀図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・井戸から出てきた亀がお酒を飲んでいる。おめでたい絵。 144.唐子舟遊び図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・絵馬。残念ながら傷んでいる。 160.二美人図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これぞ最高の美人。配色・シャープネス、どれをとっても一流。今期だけの出品だがMOAへ行けば観られる。 【第三期】 200.釜に絵馬図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・初と絵のバランスが絶妙。絵柄も面白い。 193.五美人図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮮やかな彩色の五美人。風俗画の極地。 216.梅樹図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・琳派的な装飾性の濃い作品。 【第四期】 242.列子図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・風で舞い上がる男。紅葉のアクセントがきいている。 【第五期】 285.甲州石班沢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富嶽三十六景の一。今回の白眉。人物が生き生きとして、速い流れのリズムが合っている。 289.山下白雨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富嶽三十六景の一。稲妻の厳しいタッチ。これはシカゴのもの。前期のホノルルのものもよかった。 302.本所立川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富嶽三十六景の一。危なっかしい作業をしている男たち。富士山は小さく、全体像が見えない。 314.かめいど天神たいこばし・・・・・・・・・・・・・丸い橋の上から下を覗く人々が面白い。 316.すほうの国きんたいはし・・・・・・・・・・・・・雨の中を渡る人の姿が絶妙。ゴッホに見せてやりたい。 321.五島鯨突・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・勇壮な鯨とり。 322.甲州火振・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松明をつけて夜に魚をとっている。 324.総州銚子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・グレートウェーブと同じ趣向の作品。 351.波に千鳥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・技巧的な構図の藍の絵。 353.水辺の二羽の鴨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・団扇絵の名品。本当に美しい。 379.遊亀・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・半透明なレイヤーを掛けたグラフィックのような近代的感覚の画。 381.信州陬防湖水氷渡・・・・・・・・・・・・・・・・・遠近法に優れた「お見渡し」の絵。 428.汐汲み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長唄の番組の刷物。素晴らしい絵と字のハーモニー。 436.寒山拾得図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・コミカルでダイナミックな好品。 【第六期】 470.若衆文案図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・女のような男。ラブレターに思案中。 487.柳に燕図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・燕の黒が見事なアクセントになっている 495.冨士越龍図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北斎の絶筆ともいえる記念すべき画。富士山を越えていく龍は北斎自身に見えてくる。
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葛飾北斎展に行ってきた。ウイークデーなのにかなり混んでいた。浮世絵であるから、近くで見なければ分からない。従って通常の展覧会とは違い、見ることができるのは最前列の観客のみである。驚くことに、この最前列はゆっくりとした一筋の河のように静かに流れていく。もちろん時間のない人は、この流れの後ろから傍観するしかないが、その人たちはこの世界の宝を見ずして高い入場料を払っていることになる。観客の中には外国人カップルが多かったこと、大きな声で井戸端会議をする観客がいなかったことが特長であった。描いた人がプロなら、観る人もプロあるいはセミプロといったところであろうか。 全部を見終わるのに3時間半。かなりの体力を必要とする。お目当ての富嶽三十六景などは後半に展示されているので要注意。まさに空前絶後の北斎展である。キャッチ・フレーズは「一生に一度」となっていたが、後期にはこの半分が入れ替えとなり全部で500点に達するということであるから、決して誇張ではない。 北斎は、その70年という長い画業の中で30回以上にわたって名前を変えている。これは進歩を求めて倦むことを知らなかった彼の精神の現われなのだろう。今回の展覧会は、その名前の遍歴に沿って展示されているので、彼のすべてを俯瞰できるようになっている。 第1期 (20歳〜: 春朗)・・・・・・・・・・・役者絵 第2期 (36歳〜: 宗理)・・・・・・・・・・・・美人画 第3期 (46歳〜: 葛飾北斎)・・・・・・・・読本挿絵 第4期 (51歳〜: 載斗)・・・・・・・・・・・・北斎漫画 第5期 (61歳〜: 為一)・・・・・・・・・・・・風景・花鳥・歴史・伝説の錦絵版画 第6期 (75歳〜: 画狂老人卍)・・・・・・肉筆画 と少しずつではあるが画風が進歩し、変化していくさまが見てとれる。 しかし一言でいうと、葛飾北斎は古今の天才である。米国誌"Life"が1999年に行ったアンケートで、北斎が「この1000年でもっとも偉大な業績を残した世界の100人」の中に日本人でただ1人選ばれたというのは当然である。彼が晩年を過ごした小布施に残る岩松院の天井画を寝転んでみていると、この天井画を描いた北斎とシスティーナ礼拝堂の天井画に取り組むミケランジェロの姿と重なってくる。 同じ版画でも初刷り・後刷りがこのように違うのかということが次の例でよく分かった。初刷りは200部ほどで、画家の考えた色合いで摺られるが、版木が残っているため、その後は版元が売れやすいと考えた色調に変えて後刷りとして大量生産するものである。有名な富嶽三十六景のなかの《凱風快晴》についていえば、わが国の教科書に載っている東京国立博物館の赤冨士(下図3)は後刷りの最たるものであることが一見して分かる。裾野と中腹の色の変化が唐突すぎるのである。ギメ美術館所蔵作品(下図1)はケルン東洋美術館のもの(下図2)に比べ、山頂から中腹にかけての色調の移行がスムースである。摺る回数が多くなるほど線が鈍化してくるが、これは「題名の字の鮮明度」によって判定されるとのことである。やはりギメのものが一番早い初刷りなのではあるまいか。
グレート・ウェーブとして世界的に名高い《神奈川沖浪裏》についてみれば、全体の色調から見てその優劣はあまりにもはっきりとしている。メトロポリタンのものは東京国立博物館のものに比べ、波・人・山の藍色が深く、波しぶきや富士山頂の白が鮮やかである。白い雲まで見える。後者が初刷りか後刷りかは判然としないが、題名のところを見れば保存状態が悪かったものであるといわざるをえないであろう。(2005.11a)
(追 記 1) 前期の展示作品の中での私の好感度作品というといかにもおこがましいが、あえて挑戦してみる。 【第一期】 29.冷水売り・・・・・・・・人物を右に寄せ、絵の左には何も描かれていない。まるで舞台を見るようである。 45.婦女風俗図・・・・・4人ずつ並んだ美人画の1対。いずれ菖蒲か杜若。 【第二期】 47.略十二段図・・・・美人三重奏。素晴らしい音が聞こえてくるようだ。 49.遠眼鏡・・・・・・・・・教科書に出てくる有名作品。デザインが奇抜。遠眼鏡の草模様が美しく、娘の指が艶かしい。 65.蟻通明神・・・・・・・にわか雨に慌てる様子が巧みに描かれている。 69.おしおくり・・・・・・・これも教科書にでてくる。グレート・ウェーブを予告する作品である。 107.桜花に冨士・・・これぞ日本人の美意識。花の薄紅と樹の「たらしこみ」風の緑が素晴らしい。 108.座敷狂言・・・・・・着物の模様の繊細さ、そして障子に映る影の諧謔がなんともいえない。 128.画本狂歌・・・・・・デザインが素晴らしく、摺りが鮮やかである。
【第三期】 178.子供遊び図・・・・・横山大観の猿回しと子供の画がこれと同じ趣向。 193.見立三番叟・・・・・江戸の三美人。 196.七夕図・・・・・・・・・団琢磨が所有していた美人画。 211.七福神図・・・・・・・清長・国貞・豊春・春英・豊広・北斎の合筆。 212.潮干狩図・・・・・・・近景は中国画、中景は日本画、遠景は西洋画の技法のコンビネーション。 213.春秋美人図・・・・・美しい2幅。 【第四期】 241.鎮西八郎為朝・・・極彩色の歴史画。コミックな画。 248.雪中傘持美人・・・肉感的な美人画。 【第五期】 288.山下白雨・・・・・・・富嶽三十六景の一。稲妻の厳しいタッチ。これはホノルルのもの。後期のシカゴのもののほうが良いとか。 290.凱風快晴・・・・・・・富嶽三十六景の一。山頂から次第に赤く染まっていく色調の変化が抜群。教科書の《赤冨士》の域を超えている。 293.神奈川沖浪裏・・・富嶽三十六景の一。鮮やかな青と白のコントラスト。世界の名品。防弾ガラスで保護しておく必要があるのではないか。 300.甲州三坂水面・・・富嶽三十六景の一。水に写る冨士の姿が絶妙。 313.霧吹きの滝・・・・・諸国滝めぐりの一。下野黒髪山の滝。まるで幻想絵画のようなオドロオドロシイ構図。 337.在原業平・・・・・・・均衡のとれた巧みな画。 355.狆・・・・・・・・・・・・・まるで少女マンガのようなカワイサ。 356.群鶏・・・・・・・・・・・大迫力。伊藤若冲の絵を髣髴とさせる。 357.芥子・・・・・・・・・・・教科書に載っている有名な画。風が描かれているようだ。 361.檜扇・・・・・・・・・・・近代的な感覚の画。 377.滝に鯉・・・・・・・・・すごい迫力。 378.牧馬・・・・・・・・・・・ゴーギャン的な雰囲がある。 386.さらやしき・・・・・・・お化けの絵も上手。 414.将棊・・・・・・・・・・将棋の駒の朱い文字が印象的。 【第六期】 439.参議篁・・・・・・・・・百人一首の説明画。海女がよく描けている。人には告げよ海女のつり船。 453.鷹・・・・・・・・・・・・・大胆な団扇絵。 471.西瓜図・・・・・・・・・おなじみの絵。紐状の西瓜の皮は象徴的意味がある? 472.柳に鳥図・・・・・・・鳥の群れの曲線から風が巧みに描きこまれている。 491.七面大明神・・・・・不思議な妖怪的感覚。 494.扇面散図・・・・・・・琳派のような装飾的絵画。没年の90歳の作。まさしく只者ではないことの何よりの証である。
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昨年のRimpa展では、光琳芸術が、近代日本画のみならず、西欧のジャポニズム にも少なからぬ影響を与えたという点で再評価された。 根津美術館の収蔵する国宝《燕子花図》屏風は、保存修復の為、四年半公開されなかったが、こ の度漸く修復を終え、特別展として久しぶりに展示された。 この《燕子花図》は、『伊勢物語』の文学的世界を表現している。やや平面的な作品であるといわざるをえないが、金箔地と群青の花、緑青の葉との対比は美しく、きわめてポスター的であるといったほうが良い。 その他の好感度絵画としては、《孔雀立葵図》・《鵜舟図》・《中村内蔵助像》・《白楽天図》などがあげられる。 《西行物語絵巻》は、絵がやや稚い感じであるのに比べ、字が流麗で、なんとも伸びやかであるのに感服した。 硯箱・手箱・乱れ箱・角皿に良いものが多かった。尾形光琳の作品は、絵画性と装飾性とを兼ね備えているが、どちらかといえばデザイナーとしての感性がより豊かであったともいえるのではないか。とくに弟の乾山との合作の陶器はいずれも絶品で、《銹絵寒山拾得図》の角皿は気に入った。(2005.10a)
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千葉市美術館は、この秋で開館10周年を迎えるとのことであるが、今回はじめて行った。千葉駅東口を出るとバス(7番)が待っている。二つ目の中央3丁目で降りると、徒歩3分である。
「ミラノ展」の付属展とするにはもったいない内容であった。(2005.10a)
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明治ロマン主義画家「青木繁」の代表作《海の幸》が描かれたのは1904年ということで、既に100年が経過している。この画は通常、久留米の石橋美術館に所蔵されている。1991年に、わざわざこれを観に久留米に行ったのだが、あいにくマリー・ローランサン展をやっていて観ることができなかった。 その後1998年に、中島美千代著の「青木繁と画の中の女」の初版本を入手して、この天才画家が愛した女の「実像」と「虚像」について興味を覚えていた。 青木繁の作品については、東京芸大美術館やブリヂストン美術館などで観る機会があったが、今回のようにまとめて多数の作品をみたのははじめてである。彼の作品は、ある時はギュスターヴ・モローの象徴的歴史画のようであり、ある時にはバーン・ジョーンズの象徴的女性画のようであり、さらにある時にはモネの海洋風景画のようであるが、いずれにせよ観るものに非常に強く訴えてくる。このような画を貧困のうちに描き続けた青木はまさに天才である。 しかし、これに女性が絡んでくると話はややこしくなる。2年後に「海の幸」の中の前向きの男の顔を横向きにして、彼の恋人であった福田タネの白い顔に塗り替えた。さらにその前にいる光の当たった若い男の顔を白くし,青木の顔としてタネのそれとのコントラストをつけたようである。しかしその後、青木の心はまったくタネから離れ、「白々しくも学校出た許りの廿四の我を弄んだ女、密夫を捨てて我に走り寄った女 (青木繁「仮象の創造」)」とタネを悪しざまにののしっていたのである。 言ってみれば、そこに書き加えられたのは青木が愛した福田タネという実在する女性ではなく、ファム・ファタルとしての非現実の女性が描かれたといえるのである。そこで今朝早く起きだして、中島美千代著の「青木繁と画の中の女」を読み直してみた。その直裁的な感想は「青木繁は画才はあるが、人間としては最低の人物であった」ということである。肺結核のため、28歳で夭折したが、これも自業自得である。 ちょうど記念講演会があったので聴いてみた。1人400円也であるが、小さな講堂はいっぱいだった。演者は「城野誠治」氏(東京文化財研究所)で、「記録された虚像と実像ー高松塚から紅白梅図、そして海の幸」という演題だった。最近の高精細デジタル画像、近赤外線画像、蛍光画像などによる分析から得られた結果についての話であり、《海の幸》の行列の後半で赤色を意図的に強くしていることもよく分かった。 新しい方法を使えば、新しい知見が得られるのは当然である。しかしこれを何のために行っているかという基本的な問題が大切である。特に「高松塚壁画はもともとほとんど見えなかったものであるのに、最近メディアがこれを問題にしているのはけしからん」という演者の意見には同意しがたい。最近の手法は「画像形成」と名づけられているが、これに伴って何百年も保存されていた壁画をわずか30年で台無しにした「画像破壊」についても語るべきであった。(2005.10a) (追 記) 一昨日に引き続き、青木繁展を観にいってきた。本日が最終日ということで、結構にぎわっていた。こういう素晴らしい展覧会には何度来ても良い。そこで得た知識を下記に披露する。 1.福田蘭堂と石橋エータロー:青木繁と愛人の福田たねとの間に生まれた男の子は父親の代表作『海の幸』から幸彦と名付けられた。彼のペンネームは「福田蘭堂」である。蘭堂は尺八の名手で、ラジオドラマ『笛吹童子』の<ヒャラーリ、ヒャラリーコ…>の作曲家だが、随筆も書いた。。蘭堂の本妻は松竹のスター川崎弘子だった。蘭堂の子どもがクレージーキャッツの石橋エータロー。『画家の末裔』(講談社文庫)という三人の文章が入った本が出ている。 2.わだつみのいろこの宮の樹:1907年 青木は福田家の支援で、福田家の縁者の家に滞在し、「わだつみのいろこの宮」を制作。呉服商の福田家は絵の衣裳の参考にするため布を提供したといわれ、また、その絵の中央に描かれている木は、古事記に書かれている桂ではなく、福田家の中庭の金木犀だといわれる。おりしも筆者の自宅には金木犀が花をつけ、その短い命を終わらせんとしている。 3.福田タネの顔:確かに『明星』に載っているモノクロ写真では、白い顔は写っていない。しかし今回ご自慢の赤外線写真では何回眺めてもよく分からなかった。
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副題は「20世紀陶芸界の鬼才」。加守田は、京都市立美大の冨本憲吉教授のもとで研鑚を積み、日立→益子→遠野→東京で作陶を続け、異色の才能を発揮して、数々の受賞に輝いた。 私は陶芸の分野はそれほど詳しくはないが、それでも今日の展覧会は特別のものであった。時代によって作風が自在に変化し、時間と空間を超えた異なるタイプの作品群の集合となっていた。 それらの作品群のなかには、古代中国の彩陶文化そのもののような陶器、どこかの発掘現場から出土したばかりではないかと思われるb器(せっき)、日本の縄文土器と見まごう曲線彫りの器、ウィーン世紀末絵画に登場する装飾性の高いジャポニズム模様、そして冨本・浜田風民芸調作品など・・・・・多くの先駆的文化に類似を求めることのできるものがあり、このような多様性がこの作者の特徴であるように感じられた。 高校時代に描かれた港の風景画には、ゴッホのようなうねるような海辺の家並みが力強く表現されていた。このような天才には長命を与えられないらしく、残念ながら加守田も50歳前に白血病で夭折している。しかしこのような鬼才は国際性があるようで、ビクトリア・アルバート博物館の所蔵品(非常に地味な色の陶器)も展示されていた。 加守田章二の「私の陶芸観」がキャプションとして張り出されていたので、ここに紹介したい。1971年4月に東京で開かれた個展の前日に話した言葉である。 私は陶器が大好きです。 しかし私の仕事は陶器本道から完全にはずれています。 私は陶器を作るのではなく、陶器を利用しているのです。 外見は陶器の形をしていますが、中味は別のものです。 これが私の仕事の方向であり、また私の個人の陶芸に対する作家観です。 またチラシに載っている以前の個展の案内状の言葉は次のようである。 自分の外に無限の宇宙を見る様に、自分の中にも無限の宇宙がある。 この展覧会では、彼の「無限の宇宙的なアート」を十分に楽しんだ。(2005.9a)
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松涛美術館は良い美術館だ。第一に、朝は9時から開館している。残暑が厳しい今日のような日には多いに助かる。第二に、とにかく安い。今日の展覧会もなぜか300円で、60歳以上のシニアは無料である。今年6月まで三重県立美術館で開かれていた和田義彦展が800円だったのだから、信じられないほどである。同じ渋谷区民へのサービスなのだろうか。第三には、美術館の内部に素晴らしい吹き抜け空間がある(右図参照)。第四には家から近い。歩いても行けるのだが、今日は暑いのでバスに乗った。 肝心の和田義彦展だが、油彩・テンペラ画は色彩が鮮烈で、特に緑と赤はルドンを思わせる。テーマはかなり自由な発想で、「想い」、「戦火の子どもたち」、「二つの世界」など、孤独・空虚・欲望・生死など人間の深層心理を呼び起こすような情景が画題となっている現代的な画が多かった。画中に犬が沢山登場していたが、これは満州から引き上げる際に飼い犬を置き去りにせざるをえなかったことのトラウマらしい。 板画がなかなか良かった。杉の木目を利用した肖像画は新鮮な感覚であった。今年、2005年の作品に、「W氏」というのがあった。国会の内部を背景に、W氏の肖像が描かれていた。帰りに見ると、入口ホールにいくつかお祝いの胡蝶蘭が飾られていたが、その1つに綿貫民輔という名前があった。今回の衆議院選挙で新党を作った時の人である。この人がW氏ではないかとか考えた。 付 記: 森村誠一氏のHPに、この和田義彦展覧会開催記念パーティの写真があり、そこで綿貫民輔議員が和田義彦画伯の肩に手をかけているところが写っているのを見つけた。 それからプラド美術館やドーリア・パンフィーリ美術館で模写したルーベンスの「プロセルピーナの略奪」他1点・リベーラの人物・ベラスケスの「教皇イノケンティウス十世」は素晴らしかった。デッサンも上手で、絵描きというのは基本的な技術が身についているものであるということを改めて感じた。この点はピカソと同断なのだろう。(2005.8a) この画家の名は知らなかったが、森村誠一の本の表紙を描いていた画家ということで、推理小説が好きなので、何となく見たような記憶がある。 私は今回初めて美術館にシニア会員として入った。嬉しいような、こんな年になったというショックも受けた。(2005.8t) 追 記: 和田義彦の盗作問題が問題となっている。本当であれば、わたしたちを騙した罪は大きい。本件の続報はブログに書くことにする。
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下記の遣唐使展と同じ平成館で開かれていた「模写・模造と日本美術」を観た。私には、井真成よりも模写・模造のほうがインパクトがあった。本物とほとんど違わぬものができているのに驚いた。 特に「玉虫厨子」のエメラルド・グリーンと紅の煌きは、模造のほうが絶対に優れている。これは日本鱗翅学会が全国の昆虫採集家や小中学生に協力を呼びかけて、1万5千匹の玉虫を集め、そのうち時に美しい5348匹の翅が使われたのだそうである。本館に行って、現品を見直してみたが、エメラルド・グリーンの輝きはほんの一部にしか残っていなかった。 また、世親・無着は昨年の「興福寺展」で観たものより人相が良く、なんとなく「暑いのに、わざわざニセモノをみにきてくれたのか」と笑いかけているようだった。 小学生に混ざって、「アナログプリントに挑戦」、「敷き写しに挑戦」をやってみた。そして、このような模写・模造がいかにプロの仕事であるかを実感してきた。
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717年に唐へ留学し、36歳という若さで、734年に長安で客死した「井真成」の墓誌が昨年発見された。 灰色の墓誌の蓋には「贈尚衣 奉御井 府君墓 誌之銘」とあり、あまり上手ではないが、勢いのある面白い字の銘文が書かれている。墓誌は白い石に細い非常に上手な字で、12行の銘文で書かれている。本物ではあまりはっきりしないところもあるが、拓本を見ると、はっきりしている。その最後は「死ぬことは天の常道だが(□之天常)、悲しいのは遠方にあることだ(哀茲遠方)。身体はもう異国に埋められたが(形既埋於異土)、魂は故郷に帰ることを願っている(魂庶帰於故郷)」という井真成の気持ちを慮った文章で終わっている。 そのためにチラシには「おかえり」というキャッチフレーズが付けられている。そしてその後に、「日本に帰りたいという彼の想いは、千数百年を越えた今、実った」という説明が付いている。 このような解釈は、墓誌を書いた人や今回の展覧会を企画した人の推量である。本人の本当の気持ちはどうであったのだろうか。遣唐使は前後16回、7世紀から9世紀にかけて朝廷が唐に派遣したものであるが、中には唐に留まって日本に帰ってこなかった留学生もいる。当時の唐と日本の差は、現在のアメリカと発展途上国ほどの差であった。このような場合、豊かな唐に留まること希望する留学生がいても不思議ではない。「井真成」はあしかけ18年間も唐にいて、彼の死に際して「衣を贈られる」ほどに出世していたのであるから、唐で生活し、唐で死ぬことを幸せに思っていたという可能性もある。 このようなことを考えたのは、墓誌に異土という文字を見つけたからである。そして室生犀星の詩を思いだしたからである。(2005.8a) ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの よしや、うらぶれて異土の乞食となるとても、帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに、ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて、遠きみやこにかへらばや、遠きみやこにかへらばや
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今年2005年3月、戦没画学生の画を集めた上田の「無言館」の展覧会が東京ステーションギャラリーで開催されたことは、以前、本サイトに書いた。 その後7月18日、無言館の石礎「記憶のパレット」に何者かが赤いペンキをかけるという残念な事件があった。しかし7月24日の朝日新聞朝刊によると、館主の窪島誠一郎氏は「無言館にはいろんな意見があっていい」と語り、ペンキの一部をあえて残して修復されたとのことである。今朝、7月29日の朝日新聞の「声」欄では、畠山重興氏が、いまだに誰が何のためにしたのか分からないので、赤いペンキをかけた人に対して「積極的に名乗り出て、その意図について語っていただけないでしょうか」との投書をされている。 そこで思い立って、信州の無言館に出かけた。東京駅から長野新幹線で上田へ。そこから上田電鉄「別所温泉線」に乗り換えて「塩田町」駅に降り立った。そこまではネットで調べていった通りで、順調であった。ネットによると、この駅からシャトルバスがあるということで、探してみたが「信州・鎌倉シャトルバス」という名前の上田と別所温泉間の定期マイクロバスが1日6本でており、次のバスは1時間以上待つという状況であることが判明し、驚いた。しかし、駅の前にはウォーキング・マップがあり、2.3Km歩けば、無言館に着くことがわかった。そこで気温34℃以上の炎熱の中、日陰のまったくない田舎道をテクテク歩いた。最後のところがかなりの上り坂で、大変な散歩であった。 ただし、ここで発見があった。舗装された登り道の縁石に赤いペンキで2本のいたずら書きがあったのである。無言館前の「記憶のパレット」には手前に赤いペンキが残してあったが、それほど見苦しくないないようになっていて安心した。そしてこのパレットの赤ペンキは、上り坂の縁石の赤ペンキと同じ色であることを確認した。すなわちこれは単なるイタズラと考えるべきなのではあるまいか。確信犯的なものであれば、縁石にまでイタズラ書きをする必要はないからである。無言館はコンクリートの打ちっぱなしの建物で、十字架の形をしており、まるで大きなお墓のような建物である。
展示されている絵画、遺品、手紙などはいずれも画学生の無念の象徴であり、直視するに耐えない。画学生たちが出征前に描いた妻や恋人の像、祖母や母や妹の像は、死に行くが学生がこのような限界状況において唯一考えることができた家族の姿である。戦後もすでに60年である。残念ながらこのような真の人間の情景や家族の連帯の多くは喪われている。 ゴッホの死 高橋助幹 オーベルの 丘に萌えたる夏草の 命殺さむ吾命はや 吾が命 いのち死にゆく 寂しさに 鳥の巣穫たる わかき日思ほゆ 病床や 己絵描き 麦秋に 騒立つ群鴉の 磬の鋭き たまたま、夜の「テレビ朝日」の報道ステーションで、この無言館からの生中継があった。菅原文太さんが、いくつかの画や家族への絵葉書を紹介されていた。彼は何回もここに来ているようで、迫力のある説明であった。ジャケットを着ておられ、ライトが点けられている状態ではさぞ暑かったのではないだろうか。彼の顔がだんだん紅潮してきていたのは、もちろん温度のせいばかりはないことは言うまでもないことではあるが。(2005.7a) 塩田町から2キロも日陰のない田舎道を歩く羽目になろうとは思わなかった。しかし歩くっきゃない!肌がじりじりする。最後の500mは山登り。クーラーの効いた 無言館に入って涼むイメージを励みに登った。しかし考えが甘かった。無言館の中はほとんど冷房が効いておらず、窓もない、コンクリートの部屋。汗が引くどころか噴き出してくる。 薄暗い中、観覧している方が意外に多いのに驚く。風景、自画像、家族像、とならんで恋人や奥さんをモデルにした裸婦像もけっこうある。 軍事郵便として出された葉書には家族への思いがびっしりと書かれており、文も文字もとてもしっかりと大人っぽく感じられ、当時の20歳代の方は今の同じ世代よりはるかにしっかり大人であったと思った。 ここの入場料はとくにない。観覧した後、出口で、”気持ちのある方は500円ー1000円で”との掲示があった。ロンドンのナショナリギャラリーの寄付金箱を思い出した。(2005.7t)
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五百城文哉は、1863年に水戸に生まれ、1906年に42歳の若さで没した明治の洋画家である。海外で再発見され日本に里帰りした「水彩画」は東照宮などの日光の社寺が多いが、非常に細密で「スーパーレアリスム」といってもよい。 油彩画は高橋由一に学んだものであるが、初期には暗い「旧派」に属するものであり、あまりぱっとしない。しかし後期には黒田清輝の影響で、光に満ちた「新派」に変化している。 彼が住んだ日光では、目の肥えた外国人旅行客によって五百城の画が求められ、多くの作品が海外に持ち出された。彼の画のサインがBunsai Ioki Nikkoと「日光」が書き込まれているのは、その辺の事情によるのかもしれない。上高地を開いたイギリス人のウェストンらによって英国に紹介され、彼の水彩画が、その当時から海外で高い評価を受けていたことが、最近になって判明したとのことである。 また自宅の庭に高山植物を栽培し、植物学者・牧野富太郎とも交流した。彼の植物画は、いわゆる「ボタニカル・アート」の先駆的存在であり、特に「高山植物写生水彩画」は精細で美しく、一見の価値がある。今回の展覧会を、日本山岳会が創立100年記念事業のひとつとしているのもうなずける。 弟子には小杉放菴や福田たね等の有名人がいるが、今まで彼の画業や作品が紹介される機会は多くはなかった。本展は彼の百回忌にあたる今年、その画業の全貌を紹介しようとするものである。 東京ステーションギャラリーは、このようなユニークな企画で定評がある。明年、東京駅の工事に伴って5年間も閉鎖されるという。その間どうするのだろうか。美術館の命は建物というハードのみではない。学芸員の企画力などのソフトの部分が重要である。仙台でも大宮でも良い。なんとかステーションギャラリーの命脈をつなぐ工夫が必要ではあるまいか。 (2005.7a)
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世田谷美術館にゲント美術館展を見に行った。2階の常設展場で「村井正誠」展が開催されていたので、ついでに観てきた。 わが国の抽象アートのパイオニアということであるが、いままでまったく知らなかった。絵画のほかに、ユニークなオブジェがあって面白かった。 札幌でも彫刻家の「本郷 新」生誕100年展が開催されているが、偶然ではあろうが、優れたアーティストが同じ年に生まれていたのである。(2005.6a)
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特別内覧会に招待されたので、東京ステーションギャラリーに出かけた。階段を歩行器で一段一段上っている老婦人の後について、ゆっくり上ることになった。この女性が、夫人の小山田チカエさんだということは後で分かった。 小山田は57歳の時、夫人と長女を置いて出奔し、愛人と20年間暮らしたのであるが、この特別内覧会にはこの小堀令子さんも出席されていた。こちらの方でも次女が生まれているようだが、これらの娘さんたちが出席されているかどうかは不詳である。 肝心な画のほうだが、ド肝を抜かれた。アンソール・ボッシュ・ミロを加えて3で割り、それにルドンの色彩が載っているという表現であろうか。とにかく百聞は一見に如かずである。日本にこのようなオリジナリティのある象徴主義的シュールリアリストがいたということはまったく知らなかった。 小山田チカエさんが年配の男性と話しておられる言葉が偶然耳に入った。「画は永遠ね。画は永遠ね」と繰り返しておられた。小山田はウェーバー病という先天性疾患、そして胃がんなど肉体的にさいなまれ、家庭的にも上述のような状態であったが、すでに没後14年になる。二人の女性の思いを超えてこれらの鮮烈な画は今世紀に残っていくのだろうと感じた。( 2005.5a)
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105歳まで生きた長寿の画家、100歳を過ぎても画を描いていたそうである。 花、果物の画が多く、花瓶、器が素晴らしい九谷焼であったり、染付け、赤絵であったりで、模様が細かく丁寧に描かれており、花と花瓶のどちらが主人公か分からないほど両方が主張する画である。 絵の中に実際に使われた花瓶も何点か展示されていた。 人物画もあり、上品な老女の博多帯の模様が実に良く描かれているのが印象的であった。「母と子」の画はまるでピカソの「母と子」の画を髣髴させるものであったし、マチス的な裸婦も1枚あった。日本画家でも、ピカソやマチスに影響されたのだと思う。( 2005.5t)
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山口進と川上澄生: 川上澄生美術館 |
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「川上澄生 生誕110周年 創作版画の流れのなかで」という副題の上記美術展を見に行った。渋谷から湘南新宿ラインで宇都宮に行き、そこから日光線に乗って鹿沼に行くのである。片道3時間であるから容易なことではない。 前回行った時ににはお目当ての「初夏の風」が出ていなかったが、今回はネットで調べていったので十分に楽しめた。これ以外の版画も抒情があり、とても素人画家とはいえない。アンリ・ルソーを尊敬していたそうであるが、彼と共通なのはプロのいやらしさががないことである。 同時に展示されていた山口進の版画には初めてお目にかかったが、山の画に優れたものが多かった。 2年前に隣にできた「鹿沼市文化活動交流館」の中にある「郷土資料展示室」を訪れた。素晴らしい彫刻屋台と縄文土器が並んでいた。 これらは「黒川」の川べりにあり、清々しい「初夏の風」を受けながら、駅に戻った。
(2005.5a) |
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EXPO2005にちなんで名古屋城天守閣の金の鯱鉾が降ろされていて手で触れるようになっている。千載一遇の機会であるので、見に行った。「新世紀・名古屋城博」という大げさな名前がついている。 歴史の波をくぐってきたもので、ウィーン万博にも出展されたとのことであるが、第二次世界大戦の際に破壊されているものであるから現在のものはそれほど古いものではない。 それでも実際に見ると、金の光が素晴らしく、しかも堂々としていて一級の美術品である。雄と雌があり、微妙に違っている。触ってみると冷たい金属の触感だけであるが、鱗の1枚1枚に大阪造幣局の刻印が打たれている。 戦災では、天守閣だけではなく本丸も被災し、現在は空き地になっているが、これを復興しようという意気込みが強いようで、今回の障壁画の展覧会もその一環である。障壁画や天井板絵自身は疎開してあったため戦災を免れた重要文化財となっているが、今回のものは創建当時の鮮やかな色彩画を再現したものである。これがなんとも素晴らしい。 昔は雌の虎が豹だと思っていたらしく、雌の虎が子供の虎をなめている絵があった。これはドラクロアの母虎の上で遊ぶ子どもの虎と同じ趣向で面白かった。 また本丸御殿3Dシアターも上映されており、十分に楽しめた。森川勘一郎所蔵の茶道具もひっそり展示されていたが、この中には漆塗天目台(尼崎台)、本阿弥光悦黒茶碗(銘、時雨)、古田織部茶杓(久田宗也書状付き)、宗旦棗(銘、折溜)、渋紙新兵衛茶入(銘、筧)などがあり、目の保養になった。(2005.5t) |
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Artscapeから時々メールが来る。そこにこの相原求一朗展の情報があったので、早速行ってきた。 相原美術館は北海道の帯広郊外の中札内村にあるが、なかなか行けない。札幌道立近代美術館や川越美術館で観たことがあるが、北の大地を描いたスケールの大きい画である。 表参道の「アニヴェルセル表参道」という洒落たビルには、1階にカフェがあり、その奥にはチャペルがあって、結婚式を終わったばかりのカップルが写真を撮っているのが見える。今回の展覧会は、このビルのの地下ギャラリーで催されている。木のぬくもりがある清潔なギャラリーで、相原の雰囲気とマッチしていた。 好感度作品は、早暁十勝岳、残照、田園雨後、白樺のある樹林などである。奥にビデオコーナーがあり、20分間のビデオをわれわれ夫婦だけで楽しんだ。連休の5月1日なのに、それほど空いていたということである。 ギャラリーの入口に戻って絵葉書などを探していると、「満州点描」が置いてあった。ギャラリー内のガラスケースの中にはホンモノも陳列されていたが、これは複刻版とのことで、ページを繰ってみたり、写真を撮らせていただいたりした。そこに載せてあった画はどれも明るい色で、とても戦争中の画とは思えなかった。とくに復員後の相原の画には明るい色調のものが少ないので、ちょっと意外であった。 そこへ画伯の奥様の相原麻木さんがお越しになってなって、私どもにきさくに話しかけていただいた。私も、どうしてここへきたか、中内内に行くために苦労しているが、いまだ果たせないでいることなどを話した。 美術愛好家の皆さん、東京のど真ん中で、それも非常に静謐な環境の中で、相原求一朗をゆっくりと観られる機会を逃されませんように。お勧めの展覧会☆☆☆です。(2005.5a) 相原求一朗の絵は、風景画といっても、イギリスのコンスタブル、オランダのライスダ-ルを思い起こす程とてもスケールが大きい。画から、北海道のいかにも厳しい寒さが伝わってくる。雪の道、解けかかっている雪道、寒さの中凛とした林など素敵だ。今回の展覧会場で画伯の奥様にお目にかかるという幸運を得た。今風の細いパンツスーツをお召しになっていてまったく年齢をを感じさせない方であった。(2005.5t)
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今日の午後三時にゴッホ展に行ってみたが、60分待ちの長蛇の列だったので、あきらめてお隣の国立公文書館の「将軍のアーカイブズ展」を観ることにした。そこで思わぬ勉強をした。 入場料は無料、イヤフォーン・ガイドも無料、そして本日は最終日ということでしっかり混雑していた。皆さん熱心に古文書を読まれるので、牛歩状態での観覧であった。 分かったことは、徳川家康、吉宗、綱吉、家治など各将軍は大変な勉強家であったということである。また家康は出版事業を行っており、とても革新的な文化人であったということも始めて知った。 めったに観られぬ貴重な文書、地図などが多数あり、美術的価値の高い書画などもあった。(2005.4a)
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日本橋三越で開かれている横山大観展を観た。前回の海山十題展は彼の軍国主義に反発して、わざと見逃した。今日は近代美術館のゴッホ展に行こうと思って地下鉄に乗ったが、休日で大混雑しているのでないかと思い、そのまま三越にいってしまったのである。まず展示されていたのは「無我」、これには3バージョンがあるそうだが、なかなかのものである。ろうけつ染めの着物が素晴らしく、童子の体つき・顔つきもなんともいえない。 しばらく観ていくと、紅葉というとてつも大きな派手な画があった。その後に墨絵風の画が続き、ついで私の仇敵の「乾坤輝く」が出てきた。海山十題の一つである。富士山に真っ赤な太陽というか日の丸というか軍国絵画である。大観はこの収入を戦闘機購入の資として寄付したという。紀元2600年記念ということも気に入らない。大体この太陽は血の色で、富士山の姿を台無しにしている。戦争末期、自分の後輩の美大生が繰上卒業・徴兵され、戦場に散った頃、この大観は軍部にぺこぺこして酒を飲んでいたのである。つい最近、ステーションギャラリーで観た無言館展は上記の戦没美大生の作品を集めたものである。大観の「乾坤輝く」のために死んでいった学生は本当にかわいそうである。 高齢の大観の画はまことに惨めである。この頃彼は「米を食べず、米の汁を飲む」と称して、酒ばかり飲んでいたらしい。アル中である。酒を買うために画を描いたのかもしれないが、無残である。戦没画学生の怨霊に取り付かれたのかもしれない。( 2005.3a)
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川端龍子記念館の帰り、馬込文士村散歩をきめこんだ。桜にはまだ早かったが、長い桜並木を第2京浜のほうにかなり歩いて、右折したところに、急な階段があり、息を切らして登ると「熊谷恒子記念館」であった。 一階には仮名書道が沢山並べられている。横にキャプションが付いているが、万葉仮名だか変体仮名だか分からないが、とにかく読みにくい。これはもうカリグラフィーというアートの世界である。 絵入りのものや扇面のものもあり、とても美しかった。 2階に上がると恒子の書斎があり、机が置いてあって、墨がすられている。和紙も置いてあって、「どうぞ一筆書いてください。本日の日付と記念館名を受付で入れますから」と書いてある。このようなところで書くほど厚顔無恥ではない。 出口には芳名帳がおいてあって、観にきた人の住所と名前が書いてある。パラパラと繰ってみると、どれも素晴らしい字であった。(2005.3a)
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JR大森駅から荏原行きのバスに乗って、臼田坂下で降りる。左に曲がったところに、川端龍子の記念館と庭園が向かい合わせにある。 龍子は、とても大きな画を描く。日本画かであるが、もともとは西洋画を志しただけあって、床の間に掛ける小さな画でなく、「会場絵画」と称する大きな画である。 美術館は本当に立派。龍子自身が設計した龍形の建物。中は広く、悠々と15枚の画がかけてあった。伊豆の国、竜巻、爆弾散華、百蝦蟇図などはとても面白かった。 美術館の前には、河津桜が満開であり、龍子公園のなかのアトリエ、本宅、庭などのガイドツアーもあった。龍子が素晴らしい建築の才能も持ち合わせていたこと、なぜ自分がタツの子であると考えたのかなどの説明がよかった。(2005.3a)
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有名な「中宮寺の弥勒菩薩」の特別公開があった。 これ1点を見るわけなので疲れない。表慶館で見てきたばかりの「踊るサチュロス」も1点だけの展示なのでとても贅沢な気分だった。 「東洋の考える人」、「アルカイック・スマイルの典型」などというキャッチフレーズはともかく、ずいぶん長い顔の仏様だ。おそらく韓国文化由来のものであろう。 独特な「蕨手」といわれるヘアスタイル、脚を組んだ姿、やや足指を持ち上げた姿など印象的だった。(2005.3a)
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戦没画学生の画を集めた上田の「無言館」の展覧会。もう終戦から60年経っているのです。 野見山暁治・窪島誠一郎 両氏の努力によって、平成9年に開館したこの「無言館」のことは、ちょっと前に聞いたことがあったようですが、すっかり忘れてしまっていました。私も平和ボケですね。 今回、58名の方々の作品・遺品に接する機会となりました。生まれた年は、明治42年ごろから大正13年ごろに集中しています。私よりほぼ一世代上の方たちです。美術学校を繰り上げ卒業し、戦場に送られ、そして戦没されたのです。 画業を続けられなかった無念さが、一人ひとりの戦没画学生のキャプションで紹介されていましたが、本当に残酷な現実に耐えた人々の叫びが聞こえてくるようでした。私自身、感動して、画を落ち着いて観ることができませんでした。 会場には予想をはるかに上まわる数の人たちが観に来ておられました。大勢の人がいながら、不気味に静まり返っている様子は、そこだけ外とはまったく違う空間となっていました。 ここへ来る前に上野の国立博物館(踊るサチュロス・中宮寺菩薩)と西洋美術館(ジョルジュ・ド・ラトゥール)を周ってきたのですが、ここほど張りつめた展覧会はありませんでした。 図録を買って帰る勇気はありませんでした。後でうなされるのではないかと思ったからです。図録はなくてもこの展覧会の雰囲気は一生忘れることはないでしょう。(2005.3a)
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若林利重先生から案内状を頂いて、都合が付かない主人に代わって観て来ました。先生は、主人の大先輩で絵を趣味としていらしたのですが、いまや大画伯となっていらっしゃいます。右の絵画がその方の絵。5,6年ほど前にも個展を開かれました。だいぶのお年の方ですが、絵には年齢は関係ないことを知らされるほど素敵な絵でした。 左は私の好きな池田清明氏の絵画。和服姿の女性の絵はとっても素敵でした。題は「和み」。本当に観ているだけでうっとりする感じの絵でした。この方はご家族をモデルにして描かれた絵が多いです。 (2005.3t)
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浜松で仕事があったので、途中下車して熱海のMOA美術館に行ってきた。熱海は本当に暖かく、東京とは別世界である。タクシーで山登りしていくとすぐに着いてしまった。9:30開館というのでちょっと待つ。でもこんな朝から待っている人が何人もいた。 山をくり抜いた美術館で、エスカレーターを6つ?ぐらい乗り継いでやっと着いたところは海を見渡す広いロビー、能舞台、秀吉の黄金茶室などもある。今回の展示の中の国宝は、光琳の「紅白梅図屏風」、野々村仁清の「色絵藤花文茶壷」、手鑑「翰墨城」の三点だけだが、重文も多く、とてもすごい品揃えであった。 中国のものも多かったが、時間がなくなってきて、駆け足になってしまった。モネのポプラと睡蓮、レンブランドの肖像がさびしそうに並んでいたので、その前の椅子に座ってじっくり眺めてきた。早起き三文の徳で、それほど空いていた(2005.2a) 【付記】 「NHK「美の饗宴:紅白梅図の謎」 2011年12月19日 「紅白梅図屏風」の技法の謎を探るため行われた大規模な科学調査の結果、金箔か金泥かの議論が行われてきた背景は金箔であり、また水流は銀箔が黒化した可能性が高いという新事実が分かってきた。
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平山郁夫といえば、仏教伝来をテーマにずっと描いていたが、近年は我国の文化の宝庫である京都をテーマに描いているという。一昨年・昨年と院展に出品された「平成の洛中洛外」2点の大作が対となって展示されていた。 とにかく大きい画だ。四曲一双の屏風になっているのを、それぞれ額縁に入れてある。一つは御所を、もう一つは二条城の洛中洛外だ。洛外には高層ビルが たなびく金の雲間から見える。洛中は昔そのまま、洛外は現代と、今と昔が同一画面に存在しているような、そしてなんとも静かな不思議な感じがした。茶色と緑色と金色が基調になっている。 この大作のほかに、京都のいろいろな有名寺院、街中の路地、祇園祭などの絵画があり、平山ワールドを堪能してきた。(2005.1t)
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本年も宜しくお願いいたします。(2005.1a) |