日本美術散歩 04 (海外美術は別ページ)
東山魁夷展 04.1 | 香月泰男展 04.1 | 福岡市美術館 04.2 | 岸田夏子展 04.3 |
小磯良平展 04.3 | 空海と高野山 04.5 | 永青文庫 04.5 | 山下新太郎展 04.6 |
札幌西高校前庭 04.6 | 札幌彫刻美術館 04.6 | !清川泰次展 04.8 | 宮本三郎展 04.8 |
向井潤吉展 04.8 | 琳派展・前期 04.8 | 眞鍋博展 04.8 | 興福寺国宝展 04.9 |
琳派展・後期 04.10 | 琳派展(三越) 04.10 | 札幌彫刻美術館 04.10 | 北海道立近代美術館 04.10 |
川越市立美術館 04.11 | 吉野・熊野・高野展 04.12 | 国芳・暁斎展04.12 | さようなら赤坂見附 04.12 |
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浮世絵師の歌川国芳と、暁斎のコラボレーション展で、”なんでもこいっ展だイ!”と添え書きがしてある。入ると妖怪のような役者を描いた横長の引き幕にギョッとする。 とにかく国芳も暁斎も相当変わった画家で、二人の接点は奇想天外、エネルギーあふれた画、細かく書き込みカラフルな色彩・・・というところだ。 あまり細かく見るととても疲れる絵だが、影絵や、猫の画は面白い。暁斎のユーモラスな骸骨がたくさん描かれている絵は西洋画のボッスを思い出した。(2004.12t) 「国芳・暁斎ーなんでもこいッ展だィ」も今日が最終日、万難を排して東京駅に行ってきた。大体二人を比較するのは・・・と思っていましたが、画題の似たものをうまく配置していて、素晴らしいハーモニーをかもし出していた。また今年の大河ドラマの義経と弁慶がやたらと多かった。(2005.1a)
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12月とはいえ、暖かい絶好の外出日和となったので、世田谷美術館に出かけた。 2004年7月、修験道の舞台「吉野・大峯」、神仏習合の聖地「熊野三山」、真言密教の根本道場「高野山」、そしてこの三つの霊場を結ぶ参詣道が、「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録された。
金剛峯寺の国宝「金銀字一切経」などは、2000年の国宝展にも出品されていたが、つい最近の高野山展と重複しているものはほとんどなく、同じものを見せられるのではないかという考えは杞憂に過ぎなかった。 今回揃って展示されるのは、初めてとなる熊野速玉大社の日本最古・最大級の神像3体は、仏像と違う独特の味わいがあった。 高さ4.5メートルを越える迫力ある木造・蔵王権現立像は、あまり大きすぎて世田谷美術館の窓のガラスをはずしてやっと中に入れたものだという。金峯山寺外での展示は、今回が最初で最後の公開となるのであろう。
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戦後美術「俊英の煌めき」展: 川越美術館 |
川越市は小江戸として古い文化を伝える情緒豊かな町である。川越城の本丸が残っており、蔵の町としても有名である。「時の鐘」も残っており、今でも1日4回鐘の音を響かせている。 しかし昨日、思い立って川越市立美術館を訪れたのは、北海道の中札内の相原求一朗美術館へ行きそこなった埋め合わせに、ここの相原記念室を訪れたくなったからである。 ちょうど大好きな「山」シリーズで、十分に堪能してきた。@早春恵庭岳、A雲動く、B早暁十勝岳、C春雪の尾根、D帰巣、E春日遅々、F雪嶺早暁、G夜明けの早暁、H朝陽フラノ岳、I山巓雪霞、J春愁山麓、K緑萌え初む、L藻琴山残雪の13点であり、十分に満喫してきた。Aは磐梯山であるが、雲の動きがダイナミックでよかった。後は北海道の山が多かったが、Dの鳥が巣に帰る所は面白かった。 常設展には、川越にゆかりのある橋本雅邦の作品がかなり陳列されていた。城下町には芸術家が集まるので、そのようなアート遺伝子が受け継がれていくのであろう。 企画展として、文化庁買い上げ優秀美術作品展が観られた。「平山郁夫、山口長男から千住 博、絹谷幸二まで」という副題もついているが、約40点の洋画・日本画が並んでいて、結構楽しめた。いまや洋画と日本画の境はきわめて不明瞭となり、「日本絵画」あるいは「日本人画」とでも称すべき時代となっていることが、よく分かった。 平山郁夫の「建立金剛心図」は襲い来る悪魔をものともせずに坐っている釈迦の姿が金色に浮き上がっている幻想的な画であった。 千住博はバイオリニスト、作曲家とともに芸術三兄弟姉妹の一人であるが、「ウォーターフォール」は白と黒の対比が素晴らしい感性豊かな作品であった。(2004.11a)
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ちょっと時間があったので、札幌で近代美術館を覗いてみた。 三岸節子の「摩周湖」の深い青は非常に印象的であり、片岡球子の「羊蹄山の秋色」はいつものことながら迫力のあるものであった。 岩橋英遠の「道産子追憶之巻」は、冬から春、夏、秋、そしてまた冬の五画面で構成されているもので、それぞれに懐かしい場面がつながっている。絵巻物はわが国の伝統美術であるが、これはまさしく新しい感覚の絵巻物で感動した。
今回の札幌旅行では、なんとか帯広に抜け出して、相原求一朗美術館のある中札内美術村へ行きたいと思っていたのだが、仕事の都合で結局いけなかった。ただ、この展覧会の中に、相原求一朗の「網走厳冬」と「早春の漁村」が出品されており、白と灰色との美しいハーモニーを楽しんだ。(2004.10a)
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主人が6月に行ってよかったというので連れて行ってもらった。ここは本郷新記念館で、今回は「躍動する人体の魅力」と副題が付いていて男性像が多かった。老人の像は顔も頬がこけて、やせた裸身もリアルだ。彫刻を作る前にモデルをいろいろな角度からデッサンするようでその画も一緒に展示されている。本郷新という彫刻家をあまり知らなかったが、全国的にいろいろな場所に置かれており、我家のある世田谷区にも二つほどあることを知った。 美術館の前庭にもいくつか像があり、そこから木々に囲まれた「宮の森緑地遊歩道を」歩くとまたいくつかの像がある。紅葉も楽しみながらゆっくり芸術の秋を楽しんだ。 通りに出て、ファミリーレストランで昼食をとった後、北海道神社まで歩いた。おりしも七五三の時期で着物姿の子供とその家族連れに会った。とても広くまた紅葉を楽しみながら散策した。(2004.10t)
(BBSより再録) 美術愛好家の皆さん!!! 札幌の本郷新記念「札幌彫刻美術館」に、また行ってきました。6月にも一人で行ったのですが、今回は同行の家内がどうしてもというわけで・・・。
ちょっと気付きませんが、東京にも沢山あります。「母と子」は世田谷区役所に、「奏でる乙女」は六本木交差点に、「花束」は上野公園に、代表作の「わだつみのこえ」は世田谷美術館に、「蒼穹」は中央大学にといった具合です。 東京から何度も観に来る私を見つけて、館長さんから、お茶を頂き、お願いをされました。
私自身はNHKの担当者を知らないので、皆さんのお力をお借りして、これに関するサポーターを増やせればと思っています。 彼の代表作の「わだつみのこえ」は、戦没学生の手記「聞けわだつみの声」を具象化したものですが、この第1作は当初、東京大学構内に設置される構想だったのですが、当局に拒絶され、立命館大学に引き取られ、第2作も北海道大学に拒否されて、今は本郷新記念札幌彫刻美術館の前庭に立っています。 このような戦中・戦後の歴史を本郷新の彫刻から回顧することもきわめて意義のあることと考えています。ご協力いただければ幸いです。 (2004.10a) |
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前期の展覧会が面白かったので、最終日にもう一度観にいった。とても混んでいて、入場制限もあった。 前期に見たものはとばして、後期の16作品だけを観た。 「槙楓図」の美しさ、「燕子花図」軸のまとまり、「竹虎図」のユーモア、「紅葉流水図」団扇のモデルニテの光琳の作品はすばらしいものであった。 宗達の「桜・山吹図」屏風、「舞楽図屏風」、「犬図」、抱一の「夏秋草図」屏風はいずれも天下一品というべきものであった。 最近のものでは、菱田春草の「落葉」や「黒き猫」が圧巻であった。猫のフサフサとした毛、目、髭、そして樹や葉の上品な「落とし込み」などなんともいえない。家内が収集している美術切手シリーズにもちゃんと入っている。 すでにカタログや絵はがきが売れ切れのフィーバー振りは、なんなのであろうか。琳派ジャポニズム装飾美術が日本人の劣等感の裏返しでなければよいのだが・・・ (2004.10t)
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菊の香や、奈良には古き仏たち。芭蕉。 鎌倉彫刻は、康慶・定慶・運慶・湛慶・快慶の慶派(12-3世紀)によって代表される。とくに運慶の人体表現は群をぬいている。今回の興福寺国宝展の目玉はなんといっても運慶の無著菩薩立像である。 無著はインドの高僧で、弥勒菩薩より大乗仏教の教えを受けた僧であるが、この立像は日本人として表現されている。一種の諦念を含んだ穏やかな表情がなんともいえず、わが国の彫刻の代表作であると思う。 身体的な細かい表現に優れており、手甲の静脈などもはっきりと表現されている。この展覧会にはたくさんの仏像が展示されているが、よく見ると首や手の血管がはっきりと表現されているものが多い。西洋ではこのような表現は15世紀のルネサンス時代に初めて現れてくるものであり、解剖学の基礎に基づいていたのである。わが国のこのようなレアリスム表現は明らかに西洋に先んじている。 それから愉快だったのは、天燈鬼・龍燈鬼のペアの立像である。両方ともいつもは四天王に踏みつけられて小さくなっている「邪鬼」が、立ち上がって重い燈籠を担いでいるのである。 こんなユーモラスな彫刻は、天下広しといえども類例がないのではないか。なお400円切手の天燈鬼が見つかったので貼り付けておく。(2004.9a) 天燈鬼は赤鬼で目が3つあり口は阿形、龍燈鬼は青鬼で目が2つで口は吽形になっている。いずれも運慶の第三子である康弁の作である。(2004.9t) |
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眞鍋博は有名なイラストレーターであり、いろんな本の表紙・挿絵の原画が展示されていた。星新一のミステリー本はほとんど彼の手による。細かく奇想天外なイラストは色がカラフルで美しい。じっくり見るといろいろ楽しい。、やはり通常の美術とは一線を画すものであった。 1969年に描かれた「2001年」という題の未来図には、まだ携帯電話が使われてはいないが、受話器からfaxのようなリボンがでている。また宇宙旅行が実現されている。2000年に亡くなる前に自分の予測より早いスピードで変わったものと変わらなかったものを見ておかしかったと思う。 驚いたのは彼の日記である。超細密な字でびっしり書き込まれたもので、彼の性格を現していると思った。また、鳥の目として、空から眺めた各地の立体地図もただものではない。イラストレーターとはいえ一流の人は違う。 主人が行けなかったので絵葉書を2,3枚お土産に買った。(2004.9.t) |
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今日が初日のRIMPA展に出かけた。天気は良いが風は秋の気配。 この展覧会は、T.尾形光琳、U.俵屋宗達・本阿弥光悦、V.酒井抱一・鈴木其一、W.琳派の近代、X.RIMPAの世界に分かれているが、これらの時間的・空間的に異なる画家の共通項である装飾性に視点を当てたユニークな構成である。 このように日本画と洋画に共通する装飾性を有する絵画への視線は、すでに「ウィーンのジャポニズム展」でしっかりと当てられていたものであるが、今回は日本からこのような装飾性あるいはデザイン性を有する絵画に対してRIMPAという国際用語を使用することを提案しているようである。RIMPAが国際的にどのように受容されていくか興味のあるところである。
ところで久し振りに近代美術館に入ったのであるが、中がすっかりリフォームされ、アメニティが非常に良くなっているのに感心した。 常設展の平福百穂の「荒磯」やオキーフの「タチアオイの白と緑」はRIMPAの範疇に入れても良いと思った。 ちょっと話しは飛ぶが、最近、戦争記録画に興味をもっている。 常設展の藤田嗣治の「アッツ島玉砕」は最近観たものの中でもっとも悲惨なものであった。戦争経験を風化させないためには、あちこちに散らばっている戦争記録画をこの美術館に集めるのも良いのではないかと思った。(2004.8a) |
向井潤吉・「異国の風景」展:世田谷美術館分館 向井潤吉アトリエ館
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アトリエ館は木造の立派な建物で、調度品もすべてクラシックな木製である。蔵も展示室に使われているが、見事な梁はちょっとやそこらで見られるものではない。この蔵は岩手から移築されたものだそうである。 向井潤吉といえば茅葺屋根の民家を題材とした風景画が有名であるが、今回は1959年に巡ったヨーロッパや1966年に中国に取材した作品を中心に構成されている。1959年の「パリの風景」、1962年の大同や1980年の洛陽の石仏の画はなかなかのものである。 若いときにルーブルで模写したルノワール、コロー、アングルも展示されていたが、これらの画家の特徴を良く捉えている。置いてあった画集を見ると、デュ-ラー・ルーベンス・クールベの模写もしているが、これらはイマイチである。 問題なのは、1934年から1945年までの作品が一つも展示されていなことである。彼の年記には、は1937年に天津・北京・大同などに従軍して戦争記録画を描き、翌1938年には小磯良平や宮本三郎などとともに上海に赴いて戦争記録画を制作し、1944年には火野葦平とともにビルマ、インパール戦線に従軍したことが記されている。実際に、ギャラリー2階のガラス棚には、陸軍報道班員・向井潤吉の著した「比島従軍記『南十字星下』(陸軍美術協会、1942年発行」)が陳列されていた。 今日は終戦の日、お昼には戦没者の霊に黙祷した後だけに、向井潤吉・宮本三郎・小磯良平らの戦争記録画家としての行為を黙視することは出来ないと思った。(2004.8a)
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清川泰次”白の世界”へ展・テラコッタ展:世田谷美術館分館 清川泰次記念ギャラリー
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どちらへ行くか決めずに、停留所で待っていたところ、田園調布行きでなく成城学園前行きが先に来たので、清川ギャラリーに行くことになった。駅から歩いてすぐのところに、清川泰次の旧居を改造した記念ギャラリーがあった。入館料は200円(65歳以上は僅か100円)という安さにも驚いたが、内部は3室だけでそのうち1室は区民ギャラリーとして開放されているので、実際の展示室は2室のみである。 したがって展示作品の数は限られているが、今回は清川の到達した「白の抽象表現の世界」が非常に良く分かるように展示されていた。それも彼のアトリエに展示されているので非常に良かった。また障子のある和の雰囲気の中にステンレスの立体作品を展示した部屋も不思議な感じであった。(2004.8a) この画家の名前は初めて聞いた。ほとんど白の画なのに、壁をわざわざ白くして飾ってある。(もともとの壁はコンクリートの打ちっ放し)壁の色が別の色、例えば黒とか木目だったらどうかなと思った(2004・8t)
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本館に入ると女性が出てきて、「芳名録に是非書いてくれ」という。見ると本日二人目の客である。300円を払って入館した。ガイドブックによれば、65歳以上は無料となっていたが、タクシーに3000円払ってきた私としては、とてもそのことは言えない。 本郷の有名な作品は全国にあるがこれらの写真とともに、その基となった素描や拡大した時にバランスを見るためのエスキースはがあったが、これらは小さいながらもまとまった美しいものばかりだった。 向いの本郷新記念館は靴をぬいてあがるようになっており、私が入っていくと男性が慌てて電燈をつけた。ここは本郷のアトリエを保存したものであり、大きな石膏像が所狭しと置いてある。そこから階段を登ると、彼の作ったテラコッタが並んでいた。とくに「土と火の祭り」は素朴な顔面の集合で、不思議な作品であった。庭には「横たわるトルソー」の顔や片足のない彫刻があった。(2004.6a)
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私も、この良い天気、爽やかな空気、美しい花々に誘われて札幌の彫刻や絵画を見て廻ることにした。帰りの飛行機の関係で4時間しかない。タクシーで「札幌彫刻美術館!」と言ってから、「その前に近くの西高校に行ってくれ」と付け加えると、運転手が「何かあるのですか」と聞く。「有名な彫刻があるからちょっと廻ってほしいんだ」と言うと、怪訝な顔をして、「そういう客は初めてだ」という。 この高校の前身は札幌第二中学であり、有名な具象彫刻家が輩出している。本郷新、山内壮夫、佐藤忠良などである。この高校の前庭には、佐藤忠良の「蒼穹」がある。タクシーを待たせて前庭に入っていくと、大きく手を広げた裸婦像が待っていた。澄み渡った青空のもと、題名どおりのすばらしいものであった。校庭の垣根の前には紫の花菖蒲がさきほこり、この裸婦像を見守っていた。いつのまにかタクシーの運転手も車を降りてきて、「これはきれいですね。よいものを見せてもらいました」と感謝された。(2004.6a)
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いつかこの美術館でルノワール展があった時には、道路に行列が出来る賑わいであったが、この「日本のルノワール」の人気は今一つのようで、館内は非常に空いていた。 驚いたのは、この美術館が完全にリモデリングされて、見違えるようになっていたことである。場所も広くなり、常設展の展示数がかなり増えていた。ちょうど小学生とその家族への説明会(親と子で楽しむブリジストン美術館)が行われていたが、建物がきれいになると美術館活動が活性化するという好例であると思われた。(2004.6a) 人物画もとても素敵だが、花の絵もきれい。萩、バラが上手で、デルフトの花瓶が見事。 館内がすっかりきれいに広くなり、部屋ごとに壁の色が赤や黄色になっているのには驚いた。1階には小洒落たカフェまであり素敵な美術館に変身していた。(2004.6t)
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東京目白にある永青文庫へ行き、念願の「木の葉天目」を見てきました。
徳川家に伝来する美術品を管理保存しているこの文庫。大きな木がうっそうとする中にある古い建物で、木枠の窓、木の床の温かみのある懐かしい感じのものでした。となりは文京区の公園になっていますが、ここも元は細川家の屋敷地だったようです。(2004.5t)
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空海と高野山:東京国立博物館
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学生時代から、「最澄・天台宗・延暦寺」、「空海・真言宗・金剛峯寺」と覚えている。いずれも唐から密教を輸入し、わが国の仏教界に革新をもたらした僧である。比叡山延暦寺は織田信長の焼討ちにあったが、高野山金剛峯寺は戦乱を免れたため、わが国の仏教芸術の聖地となっている。天台仏教美術は「三千院の名宝展」で観たが、真言仏教美術は今回はじめて観ることになる。空海が唐へ渡ったのが804年であるから、今年はその1200年記念ということになっている。 博物館の中へ入ってみて驚いた。国宝・重文の行列である。国宝「諸尊仏龕」は小さな折畳式の仏像の集合であるが、空海が唐から持ってきたものという。大きな仏像を当時は運ぶ術がなかったのであるから、このような携帯用の仏像が必要であったのであろう。 仏像には、金色に輝く大日如来をはじめ大きなものが多数展示されていたが、飛鳥時代の「阿しゅく如来立像」のアルカイックスマイルは魅力的であり、鎌倉時代の仏像としては、運慶の「八大童子立像」や快慶の「孔雀明王像」などの有名作品があった。運慶は感情表現が豊かで雄渾な作品であり、快慶はあくまで優美な作品である。これらの作品は当時の西欧美術のレベルをはるかに超えていると思われた。 三筆の1人である空海の若いときの書「聾瞽指帰」は非常にのびやかで、ゆったりとしたものであった。その他にも美しい書、上手な書が沢山出品されており、カリグラフィーが東洋のの誇るべき美術であることが改めて感じられた。 絵画にも、平安時代の国宝「仏涅槃図」などの超有名作品のほかに、保存状態の良いものが多く、鎌倉時代の「大日如来像」や桃山時代の「浅井長政夫人像」は非常にカラフルである。 洋の東西を問わず、宗教と美術の繋がりが密接であることも、イスタンブールから帰って間もない身として実感された。(2004.5a) 入り口すぐのところにある弘法大師坐像は、とても若い像なのでちょっと意外であったが、風格のある立派な顔であった。中国から持ち帰ったという高さほんの23センチほどの、観音開きの「諸尊仏龕」の彫りはすごい。「仏涅槃図」は悲しんでいる諸菩薩らの表情が上手く描かれている。獅子までが仰向けになって悲しんでいる。細字で書かれているお経はまるで印刷の字のようだ。お経の巻物が沢山出ていたが沢山の文字を全く同じ調子で書かれている写経は並みの集中力と根気では無理であろう。とてつもなく大きい曼荼羅には圧倒される。(2004.5t)
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我家では毎年T製薬会社のカレンダーを掛けている。毎年そこには小磯良平の魅力的な婦人像、ときには少女像があり、一年間楽しんでいる。私が小磯良平という画家を知ったのもこのカレンダーがきっかけなのだ。 その小磯良平展があるというので行ってきた。時代順に並んでいて、初期はしっとりといかにも大正時代を思わせる素敵な婦人像が並んでいる。着物の着方も今とは違ってゆったりと着て、ハイカラなソファーに坐っていたりし、これこそ小磯良平の画と思いつつ進んでいくうちに、裸婦像がどんどんでてきた。これでもかこれでもかというくらいたくさんの裸婦の油彩とスケッチ・・・。それから風景、外国女性、労働者、踊り子、室内画と変化していく。本の挿絵もあり、そして晩年はまた初期の婦人像の画に回帰する。 カレンダーから想像していた小磯良平のイメージがちょっと変わったが、この画家のいろいろな面が分かりよかった。(2004.3t)
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三越ギャラリーで岸田夏子の「桜」展みてきました。この方は岸田劉生の孫、つまりあの有名な「麗子像」の麗子のお嬢さんということで、桜の画を得意とされているようです。
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福岡市美術館は私のお気に入り美術館の一つである。大壕公園の中にあり、湖を見ながら、好きな画を観るという贅沢が味わえる。 金印は博物館に、アジアの作品はアジア美術館に移ったようであり、受付の女性は「ここには印象派はないんです」と申し訳なさそうに説明してくれたが、とんでもない。あいにくミロは貸し出し中であったが、ダリ、コラン、フジタの大作品や黒田、岡田、藤島、青木、坂本ら九州ゆかりの画家の名品は何度観ても飽きることがない。 今回は5日間滞在した福岡から帰京するにあたり、飛行機の時間調整のため、家内とここで落ち合うことにしていたのである。というわけで二紀展をやっていたが、時間の関係で常設展だけで失礼した。あまり時間がないのに家内は松永耳庵の茶道具のコレクションを絶対に見たいということで、タクシーで空港に駆けつけ、やっと間に合った。(2004.2a) 私は2002年 東京の根津美術館で、「松永耳庵コレクション」を見たが、折角福岡まで来たのでまた見たくなったのだ。粉引、雨漏り手などの茶碗にまた再会できた。時節柄、志野の筒茶碗もあった。(2004.2t)
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今日も良い天気、昨日よりずっと暖かいので、東京駅に出かけた。駅の中の回転寿司でお昼を摂って、ギャラリーに行った。写真は美術館の入り口のポスターであるが、東京駅と一緒に写っている。 香月泰男は1911年、山口県三隅村に生まれ、 東京美術学校を卒業。美術教師を勤めながら、国画会展や文部省美術展に出品している。今回の展覧会は没後30年記念ということで、この頃の画も出品されている。これらはゴッホやピカソの影響を受けた明るい作品ばかりである。 しかし彼が、1943年に召集され満州へ行き、ハイラルで軍隊生活を送り、45年の敗戦でシベリアの収容所へ送られ、ナホトカから舞鶴に帰国するまでの2年たらずの間で3ヶ所の収容所で飢餓と強制労働、極寒の生活を強いられた。この体験がその後の香月の画風を一変させ、彼の代表作となる「シベリア・シリーズ」に結実した。シベリアで絵の具を作った経験をもとにした炭を混ぜた黒による悲惨な画が多い。これらの画には一つ一つ自分の言葉が添えられており、見るものの心を打つ。 「私の地球シリーズ」は、彼が帰国後、郷里三隅での暮らしを描いたもので、後年彼が穏やかな生活を送ったことを知ることができ、ややほっとする。香月ならではの「黒」は、これらの作品群にも効果的に用いられている。 本展では、戦場から家族へ宛てた絵葉書、おもちゃ、やきものなども紹介されている。(2004.1a) (追記) MariさんのHPに下記を書き込み、Mariさんからも立派なレスポンスを頂いています。別ページに再録することをお許しください。 |
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1月最後の日曜日。寒さは相変わらずですが、良い天気なので横浜美術館に行ってきました。有名な「道」をはじめ良い作品が揃っていました。 ゆったりとした画風は魁夷の人柄そのものなのでしょう。モネと通ずる画題のものも少なくないと感じました。特に感心したのは、唐招提寺の障壁画です。画題は違いますが、オランジュリーの睡蓮と好対照の大作品のような気さえしました。 来月から「みなとみらい線」が開通し、東京から横浜美術館には行きやすくなるようです。これに伴い今月末で東急東横線の横浜ー桜木町間が廃線になるため、大勢の鉄道ファンが写真を撮リまくっていました。私も何枚かお別れの写真を撮ってきました。
今日TVで、夫人の東山すみさんが出ていらっしゃり、いろいろ画伯についてお話されていました。音楽が趣味でモーツアルトが大好きであったということ、画に出てくる白馬は、画伯自身にとっての守護神であったのではということ、唐招提寺の障壁画をひき受けられたときは 本当に覚悟を決め,青森から山口まで巡り、膨大の枚数 日本海をスケッチされたことなどお話になっていました。川崎小虎画伯の娘さんであるすみ夫人は上品で東山魁夷画伯とどこかしら似たお顔をしていらっしゃリ、60年も連れ添うと似た者夫婦になるのでしょう。(2004.1t)
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