世田谷美術館 99.1 | エルミタージュ展 (ルネサンス) 99.3 | ワシントン・ナショナルギャラリー展 99.4 | 20世紀静物画展 99.4 |
ダリ展 99.6 | パリ市立美術館展 99.6 | ハーバード大学展 99.8 | ヴェネチアン・グラス展 99.8 |
オルセー展99.9 | ロー・コレクション展 99.10 | ゴッホ展 99.11 | |
シスレー展 00.3 | ホノルル展 00.4 | イタリア・ルネッサンス展 00.5 | 大原美術館 03.6 |
ラファエル・コラン展 00.6 | ラファエル前派展 00.6 | マティス展 00.7 | メソポタミア文明展 00.8 |
中国文明展 00.9 | ボルドー展 00.9 | インダス文明展 00.9 | エジプト文明展 00.9 |
中国国宝展 00.11 | 風景素描画展 (オランダ・フランドル) 00.11 | フォーゲラー展 00.12 | |
丸紅コレクション 01.1 | ロートレック展 01.1 | ヴェネツィア展 013 | ルノワール展(ブリヂストン) 01.3 |
大塚国際美術館 00.5 | シーガル展 01.6 | マネ展 01.8 | 20世紀イタリア美術展 01.9 |
カラヴァジョ展 01.9 | シエナ展 01.10 | 世界の巨匠10代作品展 01.11 | MOMA展 01.11 |
目 次 ↑
11月8日に出かけた。 ここでのMOMA展も3回目である。新館増設のため常設展示が日本に疎開するのだという。理由は何であれ、良い作品が日本で観られるのだから、文句を言う筋合いではない。 私が良いなと思ったのは、ボナールの「朝食の部屋」−−何時見ても安心できる彩りの鮮やかさ、セザンヌの「モンジュールの曲がり道」−−立体的な感じが安定している、シャガールの「誕生日」−−あまりにも有名なウルトラCのジャンプ・キス、これも有名なダリの「記憶の固執」−−グニャッとした時計(時間のカマンベールと言うのだそうだ)、ゴッホの「オリーブの木」、マチスの「ダンス(第1作)」ーーゆったりとした天国、モジリアニの「アンナ・ズボロウスカ」ーーマイタイプの女性、ピカソの「マンドリンを持つ少女」と「三人の音楽士」−−チャンと分かるキュビスム。 このぐらい観ればMOMAも卒業か。(2001.11a) |
山手線の大崎駅の駅ビルのようなところに「O美術館」があり、一度行ってみたいと思っていたが、ちょうどこの展覧会があったので覗いてみた。 ピカソ14歳の石膏像のデッサンをはじめとし、シーレ、ロートレック、クレーの10代の作品が並んでいた。また日本人画家、例えば土牛、深水、、宮城まり子、平山郁夫、山下新太郎、安井曾太郎などの10代の絵があった。 「栴檀は双葉より芳し」というが、たしかにこれらの画はただものではない。やはり遺伝子のなせる業なのだろう。(2001.11a) |
世界遺産都市のシエナの至宝として、絵画・彫刻・陶器が展示された。これはシエナの有名銀行と音楽アカデミー財団のコレクションで、本邦初公開とのことである。 初期ルネサンスから18世紀までの古い作品で構成されていた。ソドマなど名前を知っている画家は数少なかったが、フィレンツェやローマ以外にもこれほど高いレベルの美術が存在していたのであるから、イタリアの実力はすごい。 お気に入りは、ヴァンニの《聖母子》など。 (2001.10a) |
「カラヴァッジョ生誕430年」と「日本におけるイタリア2001年」を記念しての展覧会。カラヴァッジョは光と影の巨匠として、バロック絵画の先駆者となった画家。確かに背景は真っ黒で、人物に左からまたは右からと光があたっている。光があった所と陰になったところのコントラストがはっきりしていて、明暗法という彼独特の手法だ。人物やその持物などは実にリアリズムに表現している。 「果物を持つ少年」は、ちょっと変だ。肩や腕は筋肉隆々なのに、顔は女性っぽく、果物籠を持つポーズもどこか女性っぽい。彼自身特異な性格があったようでそれが災いして、殺人を犯し、人生の大半は牢獄や逃亡生活だったそうだ。気の毒な人生であったが、作品は400年経った今もしっかりと残り、犯罪人ということを打ち消すほど画家としてのカラヴァッジョの功績は大きかったといえる。(2001.9t) |
これも「日本におけるイタリア2001年」の記念展。 入ると、まずダ・ヴォルペートの「太陽」がまぶしい。地平線から太陽が昇っているところを見事に描いている。思わず目を細めてしまうほどまぶしいのだ。手前に逆光の中畑と東屋があるのだが、それもとても上手い。 ジャコモ・バッラの「狂女」はいかにも尋常でない様子が分かる。デ・キリコは例の無機質の絵。モジリアーニの「クッションの上の裸婦」は主人のお気に入り。モランディの静物画はきれい。 彫刻では、マルティーニとポモドーロがよかった。1959年以降の物は分けのわからないインスタレーションで、いずれゴミになるようなものが多かった。(2001.9t) |
初めて、府中市美術館に行った。府中の森の中にある。 マネの絵画を「マネの源泉」、「ジャポニスム」、「現代生活の画家」の3つのテーマにまとめられている。新古典主義のトマ・クチュールから学んだ。有名な「草上の昼食」、これはオルセー所蔵の小型ヴァージョン。「笛を吹く少年」は背景が何もないところに、少年がが浮き上がっている。目の大きな少年が正面を見据えて笛一生懸命演奏している、頬は紅潮し、音楽隊の服装もパシッときめている。 だんだんジャポニスムになっていき、歌川広重の猫の画をまねして、猫のいろいろなポーズを素描している。 同時代のマネの周辺の画家の絵も展示されていた。 帰りには、府中の森公園を散策した。(2001.8t) |
広島へ行ったとき原爆ドームや、平和公園を観光していたらちょうど「シーガル展」をしていたので中に入った。2000年に亡くなったそうだ。生身の人間から直接型を取るというユニークな手法で作った真っ白い等身大の人物石膏像が、しかも街中を歩いていたり、本物のベンチに坐ったいたり、何人かで話していたり、本当の電車の中だったりというように生活の中の一こまのように像があるのだ。 「妊娠シリーズ;7つの段階」は妊婦のお腹の変化を実際の人からかたを取って作られていてちょっとグロテスク。(2001.6t) |
「風景画ができるまで」という副題がつぃいた展覧会である。 スケッチブックを携えて風景を写し取っている16-17世紀のオランダ・フランドルの有名画家の姿が目に浮ぶようである。けっして派手ではないが、そこそこ彩色もされており、上品な美しさである。 このような素描を蒐集していたイギリスのウィット卿に感謝したい。またもう少し時間ができたら、私もスケッチブックを持って戸外に出て、このような水彩画を描いてみたいと思わせる好作品が並んでいた。家内はこのような地味なものは好きではないということで、今回は単独行であった。(2000.11a) |
ルノワールは若い女性に人気のある画家である。いつもは空いているブリヂストン美術館だが、今日はさすがに混んでいる。横に並んでいるオバサンに聞くと、わざわざ名古屋から観に来たという。よっぽど早起きして来たに違いない。実はこの展覧会は名古屋市美術館でも2ヶ月後には行われるのであるが、それを待ちきれなかったのか・・・あるいは知らなかったのか。 中身は世界中から借用したものであったが、大変充実していた。 美術館を出てから、そばのスターバックにはじめて入ってみた。ベーグルはかたく、コーヒーは苦く、何で若い人にこういう店がもてるのかわからなかった。(2001.3a) |
これも「日本におけるイタリア年」を記念して行われたもので、18世紀のヴェネチア絵画展である。 ティエポロ、ロンギ、カナレット、グアルディらの美しい作品が並んでいた。主人はこのような派手な絵画はあまり・・・というわけで、今回は私の単独行であった。(2001.3t) |
ロートレックは変わった画家です。名家に生まれたが、骨折を繰返し、非常に身長が小さくなってしまい、画家になったのですが、モンマルトルに飛び出していって、芸人や娼婦などの画を好んで描いたと言う放浪の一生でした。 またポスターに秀でており、没後100年を記念するこの展覧会には沢山のポスターも出品されています。 短い生涯の終わりには、やはり自宅に帰って家族に見守られながら旅立ったということですが、家を出て画家として過ごした時期は長い旅行のようなもので、家族もそれを良しとしていたのでしょう。 彼の人生を考える時、彼の生まれつきの病気のことを考えざるを得ません。ひょっとすると先天性骨形成不全症のような病気だったのかもしれません。(2001.1a) |
丸紅は日本を代表する商社である。このような商社がボッチチェリのシモネッタという世界の至宝を手にするに至ったいきさつはあまり知りたくない。商社だけに、ビジネスの世界の話が入っているに違いない。 このような場合は、画自身を鑑賞するだけで十分である。確かに美人である。カールした金髪、真珠の髪飾りや首飾りをつけた若い女性の横顔である。赤い服装も上品な色である。 シモネッタはジュリアーノ・メディチの理想の恋人であったそうであるが、他人の貞節な妻であった彼女を手にいれることは出来なかったそうである。 この展覧会には、わが国の洋画家の作品の良いものが沢山あり、さらに日本の衣装が陳列されていた。(2001.1a) |
また切符をいただいたので行ってきた。今日はオープニングレセプションといって、特別鑑賞会なのだ。一般より早く観られ、主催者の話などあり、ワインと ちょっとしたおつまみがついて 帰りにはカタログをいただけるのだ。 フォーゲラーという名前は初めて知った。ドイツの画家で、明治時代「白樺」の表紙を飾ったのも この画家の作品という事で、日本とも縁があるのだ。ちょっとミューシャを連想させる装飾的な華麗な絵である。絵画だけに止まらず、工芸、デザイン、建築、インテリアなど手がけたそうだ。お皿、コップ、家具、スプーン、ネックレスなどもあり、どれも趣味のよいものばかりで「白樺」のシンボルマークの白樺の絵を依頼したのもうなずける。 なかなかオープニングレセプションに行くチャンスはないので良かった。(2000.12t) |
中国6000年の歴史と文化、しかも国宝級のものがやってきた。 土器にはモダンな幾何学模様があるし、玉器は細かい細工がしてある。青銅時代になると、鼎(てい)とよばれる大きな足付きの容器が出てくる。動物の形をしていたり、しかも背中が蓋になっていたりする。全体に模様がついている。現在でも同じ物を作るとしたら大変な技術が要り容易ではないと思う。 紀元前10世紀ころになると青銅器の色も黒っぽくなり、漢字が彫られたりする。秦が統一する頃は、兵馬俑が出てくる。 以後、仏教文化が花開く。今回の展覧会で一番驚いたのは、菩薩様も、如来様も弥勒様も皆微笑んでいらっしゃるのだ。切れ長のやさしい目、表情は端正で、とても穏や そして口元は微笑んでいらっしゃる。拝みたくなるような存在感のある像だ。(2000.11t) |
紀元前5000年ころ、ナイル川沿いに独自の文明が起こった。スフィンクスや、ピラミッドに代表される。頭は人間で、身体はライオンのスフィンクス像は小さい石で作ったものであり、またバスデト女神小像は猫の像で欲しくなってしまうほど。生活用品でも凝っていてスプーンやくしも人や鳥、動物の形の彫り物があり、色もあって素敵。ミイラを入れる棺も美しい。王の権力を誇示する副葬品がいろいろある。クレオパトラと共にエジプトは終焉を迎える。(2000.9t) |
紀元前3000年ごろ、インダス川流域の起こった文明。誰がこの文明を統一したのか謎なのだそうだ。神官と言われる人の像があり、神官による支配が行われていたのではという説があるモヘンジョ・ダロという整然と作られた計画都市で、大沐浴場、穀物倉、集会場などが整備されていた。印章も使っていたし、サイコロ、チェスのようなゲーム盤もある。10センチ以下の動物土偶もかわいい。(200.9t) |
主人の学会行きに連れ立って福岡に来た。大体の外国の美術館の展覧会は東京で開催されると思っていたが、今回のは福島、大阪、島根と福岡だけである。ちょうど福岡に来れてよかった。ボルドー市と福岡は姉妹都市なのだそうだ。 ドラクロワからピカソまでの絵画が並んでいる。ドラクロワの「泉のライオン」「ライオン狩り」は迫力がある。実際に観察したのだろう。 ブーグローの「死者の日」はお墓の前で悲しんでいる黒衣の女性二人、悲しみが伝わってくる絵だ。ブーグローは上手い。 コローの風景画、ブーダンの海辺の絵、スーラの風景画に続いて、ナビ派というエドガ・マクサンスの「平和の書」と言う絵があった。これはカタログの表紙になっていて、色素の薄い(?)女性が赤い本を持っている。油彩っぽくなく、パステル調。口元がなんとなく微笑んでいて不思議な雰囲気の女性だ。ルドンの絵も何点かあった。 珍しいデュフィーの裸婦像がある。マルケの「ラ・グーレットの窓辺」はとてもきれいで、絵葉書を何枚か買った。アンドレ・ロートというあまり知らなかった画家の絵も沢山あった。ボルドー出身の画家で、ピカソに似た感じの絵だ。なかなか良い絵を沢山見られた。(2000.9t) |
中国と一口に言っても広いので、黄河流域と、長江流域にいろいろな文明が生まれた。気が遠くなるほど昔なのに陶器、銅器などすばらしいものがあり、人間の能力は今も昔もそれほどの差はない・・というより、昔の人のほうが優れていたようにも思えるものが沢山あった。青銅器などはデザインも見事。三星堆と言う文化は顔がまるで、仮面ライダーのようで他とはちょっと違っている。 秦の兵馬俑もほとんど実物大の兵隊と馬が沢山、沢山作られていてすごい!(2000.9t) |
チグリス、ユーフラテスの二つの川に挟まれた豊穣の土地に起こった文明。四方に開けた場所柄、民族の侵入、興亡を繰返す場所であった。人類最初の文明を築いたとされるシュメール人は謎につつまれている。楔形文字を使い始めた文明。この地方は天然資源に恵まれず、あるのは泥とアスファルトぐらい。しかし発掘品からは金属、宝石、金、石、木材など交易でもたらされたものが多い。.282条からなる、ハムラビ法典が刻まれた、玄武岩の石碑も展示されていて驚いた。 ブリューゲルの絵でも有名な「バベルの塔」の新バビロニア王国を最後にこの文明は終焉した。(2000.8t) |
フォービスムの画家として注目されたマティスはその後いろいろと作風を変遷した。今回は繰り返し描いた女性像に焦点を集めている。 人体表現がマティス芸術の重要なテーマなのだ。たったり、坐ったり、腰掛けたり、本を読んだり、楽器を持たせたりモデルにポーズを取らせている。女性の洋服も柄がきれいで、背景の壁紙もマティス独特の華やかな模様。赤いドレスを着た婦人像が2枚あり、マティスは赤が好きのよう。顔のつくりは簡単に黒で目、鼻、口をつけただけ。素描画となると、顔はまるで一筆描きだ。単純な線でためらいもなく描きあげている。稚拙のようだがそうではない。リトグラフになると、細かくしっかりと描かれている。 最後は、切り絵だったが、私はこれは好きでない。(2000.7t) |
泊っていた徳島から大枚をはたいてタクシーに乗って大塚国際美術館に行ったのに、その 日は休館日で、やむなく「渦の道」だけ眺めて帰ってきたのに懲りず、翌日再びタクシーで散財して目的を達し、帰りは経済的事情でバスで○○郵便局前まで行き、そこから歩いて徳島空港に 辿り着いて帰京したという散々な美術館紀行です。 長大なエスカレーター、とてつもなく広いスペース、有名だがこんなに大きい(あるいは小さい)ものであることを初めて知った画の数々、そしてからくり 仕掛けの祭壇画、収蔵品のカタログを買おうかどうか迷って結局買わなかったことなど、世界最大の陶板画美術館だからの印象です。 しかし本当に身体で覚えているのはセルフサービス・レストランで食べた「鳴門」と「和布」入
りの「讃岐饂飩」です。(2000.5a)
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7月2日に出かけた。やはりマンチェスター美術館のものが中心である。 前回のマンチェスター美術館展は1993年だから7年目である。許容範囲かな。今回は、ラファエル前派に絞ってあり、主題ごとに分類して表示されている。 第1は「宗教と神話」で、ハントの「贖罪の山羊」ーー奇妙な画ーーと「死の影」−−影が問題?、モーガンの「死の天使」−−こんな美しい天使なら、ついフラフラと、ワッツの「信仰」−−意味不明だが。 第2は「文学と寓意」。ヒューズの「オフィーリア」−−摂食障害のようなやせた女の子に死相あり、ハントの「シャロットの乙女」−−とても派手で、たかそうな服装、ワッツの「バビロニアとフランチェスか」−−眠りこけてしまった二人、プリンセプの「シンデレラ」−−ちょっと太めのシンデレラ。 第3は「女性と恋」。レイトンの「オダリスク」−−ちょっとのぞいた胸が艶めかしい、ワッツの「メイ」−−祈る少女、ロセッティの「あずまやのある草原」−−表情のない女たち、ミレイの「ステラ」−−理知的な女性、ペルジーニの「読書する娘」−−これも結構太め、ムーアの「牧歌」−−はだしの娘が二人、スラドウィックの「林檎は黄金色にて歌声甘美なれど夏すでに過ぎ」−−まだまだお嫁に生ける二人。 第4は風景画「陸と海、都会と田園」、つまりなんでもあり。有名なミレイの「冬の薪」−−本当に上手な写生。 第5は「水と妖精」。ヌードが多いので男性に人気のある主題。ハッカーの「シュリンクス」はアングルの「泉」ににたポーズ、ウォータハウスの「ヒュラスと水の精」−−前回も見たが、やはり湖に引き込まれそう。 とにかく男性が和んで、日頃の憂さを晴らせる展覧会でした。(2000.5a) |
これはラファエル・コラン生誕150年記念の展覧会であるが、なんとこれが彼の世界最初の回顧展である。フランスでは、まったく忘れ去られた画家なのである。 彼はアカデミー派の作家であったが、外光をふんだんに採り入れた自然の情景や女性像などを描き、日本から留学していた黒田清輝、岡田三郎助,久米桂一郎の師匠として、わが国の近代洋画を導いた先達である。そのため日本ではかなり有名で、わが国の美術館にもかなりの数の作品が収納されている。良い弟子を持つということが、教師という職業の最も良いところであるが、彼の場合はまさにそのことがいえる。 展示された作品の中では、ランス美術館からきた「思春期」がもっとも印象的であった。(2000.5a) |
大原美術館にまた出かけた。本館の有名な絵画をふたたび鑑賞した。これはまさにわが国の至宝である。 今回はちょっと離れたところにある児島虎次郎記念館にも行ってきた。ここには、児島虎次郎の絵画と、彼の収集した西洋絵画の一部、古代エジプト、イスラム美術などが展示されていた。 以前にM先生と一緒に酒を飲ませてもらった酒屋はまだあったが、枡酒はもうやめたということだったので、地ビールを買って出てきた。(2000.6a) |
「日本におけるイタリア2001年」の開会を飾る最も重要な展覧会である。フィレンツェのルネッサンスのすごいものがやってきた。 ラファエロは聖母子像の作家であるといっても過言ではない。この「ヴェールの女」はこれらの聖母子像のいずれにも劣らぬ優れた作品である。ヴェールの柔らかい質感、美しい髪と真珠の髪飾り、愛らしい黒い瞳、瑪瑙のような首飾り、そして金色のテープの縁取りなどすべての人を魅了する美の化身である。
ティツィアーノの「フローラ」は教科書にもでてくる有名な作品である。美しい髪、豊かな身体、そして右手に持った花、すべての人を魅了する花の女神である。 フィリッポ・リッピの「王座の聖母子と天使・諸聖人」は上部を切り取られた小品であるが、力強く人々を描き出している。ギルランダイオの「慈悲の聖母」も大きなフレスコ画である。この壁画は幾世紀にもわたって何度も危機にさらされたのだそうであるが、今では壁からはがされ、支持体の上に移され、そして補強や洗浄を加えて、日本にやってきたのである。慈悲の聖母は大きなマントで人々を覆い、励ましている。人々の信心深さが良く伝わってくる。フランチェスカ、マンテェーニャと続々すごい画家の作品が出てくる。ベッリーニの「受胎告知」も静かに落ち着いてよい。 フラ・アンジェリコの「聖母の結婚」は板絵の小品であるが、美しい衣装に包まれ、それぞれに豊かな表情をたたえている。光背や縫い取りの金の輝きも印象的である。
ボッチチェルリの「受胎告知」は大きな大きなフレスコ画、よくこんな大きいものを持ってきたと驚く。マリアは室内に、ガブリエルは屋外にいる。きっちりと繊細な感情が出ている。 ポライウオーロの「ヘラクレスとヒュドラ」は有名な作品で、しばしば教科書にも載っているものであるが、このような小品であるとは思ってもいなかった。しかしその迫力はすざましく、思わず目を背けたくなるほどである。 マザッチョの「くすぐりの聖母」も小さな板絵だったが、聖母マリアが人差し指と中指で幼児キリストのあごをくすぐっているユーモラスな構図である。聖母マリアの青のマントや金地の背景は、古いキリスト教美術を踏襲しているが、キリストがくすぐったがってあごを引いているところなどは非常に新しい感覚である。
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太平洋に浮かぶ常夏の島。こんな島に文化的な美術館があるとは思わなかった。しかし地元の女性の個人コレクションをもとに創設された美術館だそうだ。 なんとドラクロワ、クールベ、ドガ、ルドンと続く。結構満遍なく近代絵画がそろっている。なかでも、ゴーギャンの「タヒチの浜辺の女たち」はいい。ゴッホの「麦畑」もある。藤田嗣治の「眠る猫」はペン画だがかわいい。 やはり、アメリカ人画家の絵も沢山ある。ジョン・ヘンリー・ヒルの「ナイアガラの滝」は、ハグラファイトというペン画だが感じが良く出ていて、昔旅行した事を思い出させてくれた。ヘンリー・ベーコンの水彩画もきれい。カサットの母子の絵はほのぼのするし、イサム・ノグチの絵ははじめて見た。木炭画の「男性裸体坐像」だが、後ろ向きである。地元ハワイの画家、ロバート・ダンビアの「カメハメハ3世」の絵もあった。(2000.4t) |
シスレーと言うと、風景画だが、今回の展覧会もほとんどが風景画であった。私は、ピサロとシスレーの風景画が見分けにくい。主人いわく「空の面積が多いほうがシスレー」と。確かにそうかも知れない。木の描き方が印象派で風や光を感じさせるもので、時々、主人とドライブをしていて 周りの景色を思わず「シスレーの景色だ!」と叫びあうことがある。美術鑑賞が二人の共通の趣味なので、感情を共有できるのだ。 この展覧会のカタログは、字が読みやすい大きさで各画の説明も分かり易く、短くとてもよかった。カタログによっては、各画の説明が翻訳であったりするが、わけのわからない翻訳を読む事ほどつまらない事はない。(2000.3t) |
クレラーミューラー美術は主人とオランダに行った時、電車とバスを乗り、広い広い国立公園の中を 親切な標識も無く舗装もされていない道をなんと50分も歩いてやっとたどり着いた美術館。しかし日帰りだったので、2時間くらいしか見る時間が無く、必死で観て廻ったのを覚えている。クレラ・ミューラー婦人のコレクションである。そこからのものが今回東京まで来たのでワクワクしながら出かけた。 ミレーが好きだったゴッホは初期には農民の絵を描いていた。今回は黒チョークやペンで描かれた農民のいろいろな姿の絵がある。油彩の「日没」という題の絵は暗い景色の中、沈んでいく太陽の赤がとてもきれい。 パリに出てからは、明るい静物画 自画像 風景画になる。「レストランの内部」は部分的に点描で描かれていてすばらしいし,各テーブルに置かれた花もゴージャスで美しい。アルルで描かれたミレーの影響を受けた「種まく人」は黄色の太陽を背に農夫が種をまいている。まくそばから、カラスが何羽か飛んできているのがゴッホらしい。「郵便配達ルーラン」の絵は背景に花がちりばめられていて髭面のルーランにちょっと合わないがそこがまたゴッホらしい。 サンレミ時代は、波打つ感じの線描画となる。オーヴェール時代の「医師ガッシェ」はエッチングで描かれパイプをくわえている姿だ。昔観たのを覚えている絵もあったが、ほとんどは初めてみるものが多かった。クレラーミューラー美術館は主人と私にとって大変思い出深いものである。(1999.11t) |
スイスには個人コレクションが多いのですが、医師のグスタフ・ロー博士はザイールに病院を作ったり、飢えに苦しむ人に食料を無償で提供したりした人格者ですが、一方美術愛好家でもあり、素晴らしいコレクションを形成している。 その蒐集は、フラアンジェリコの「バーリの聖ニクラウス」にはじまるイタリア絵画、沢山のフランドル・オランダ絵画、クラナハの「3連祭壇が」や「ユーディット」などのドイツ絵画、フランス・ロココ絵画、そしてエルグレコの「祈る聖ドミニクス」やリベーラの「聖ヒエロニムス」などのスペイン絵画、ゲインズバラ・レイノルズの英国絵画のほかに、多くの印象派、ポスト印象派、ナビ派、象徴派にいたるまで西洋絵画史のほとんどすべてを網羅するコレクションとなっている。 いろいろな展覧会で個人蔵として観た覚えのある作品も少なくないようであった。 カサットの「子供に授乳するルイーズ」、ルノワールの「ばらを飾る少女」、スレフォークトの「貞奴と日本人の子供の肖像」など和む画も少なくない。とくに最後の画には、川上貞奴の達筆のサインがしてあるのが面白かった。(1999.10a) |
久しぶりにオルセーの名品に接した。1997年に実際にオルセーに行った時には、慌しくて、一品ずつ鑑賞する余裕はなかったので、このように選ばれたものを東京で観られるのは本当に有り難い。 アングル、ジェローム、ドローネー、ミレー、クールベ(傷ついた男)、マネ(給仕する女)、バジール、モネ(庭の女たち)、ルノワール(習作・若い女性のトルソ・陽の効果))、ドガ(カフェの中で)、カイユボット、セザンヌ(水浴の男たち)、ゴッホ(星降る夜・アルル)ゴーガン(アレアレア)、ロートレック(赤毛の女)、ボナール(化粧)、ヴイヤール、ホイッスラー、ドニ、ルドン(目を閉じて)、ベックリン、クリムト、ムンク、ホドラー、バーンズ・ジョーンズ、ミュシャ、シャヴァンヌ、、ルソー(戦争)、フレデリック、モンドリアンなどの有名作家の画のほか、ロダン、クリンガー、ブールデルらの彫刻、さらに写真など盛りだくさんであった。(1999.9a) |
「水の都の炎の芸術」というヴェネチアン・グラスの展覧会。4000年以上の歴史を持つガラスの展覧会は、米国のコーニング・ガラス美術館で観たことがあるが、大分前のことであまり覚えていない。 この展覧会は、謎の多いヴェネチアン・グラスの華麗な世界を、その成り立ちと、広がり、系譜等歴史的側面に言及しながらベルギー、リェージュ市立クルティウス美術館所蔵の約200点の作品で系統的に紹介したものである。 出口にはちゃっかりとヴェネチアン・グラスの即売会をやっていた。そこで家内は茶道の茶碗の形をしたもので、色石がはまっているように見えるガラス茶碗を買った。包装紙で包みながら、「熱いお湯はダメですよ」といわれ家内はがっかいりしたらしい。(1999.8a) |
ハーバード大学のフォッグ美術館から来た近代絵画である。日本の大学ではこんなに沢山のヨーロッパ絵画を持っているところはないであろう。やはりアメリカの底力か。 バジール、モネ、マネ、セザンヌ、ルノワール、ゴーギャン、ムンク、ピカソ、マチスも展示されていた。 しかしどちらかというとそれ以降の作品が中心で、現代美術に連なる作品が沢山陳列されていたが。こういった新しいものはなかなか解りにくい。(1999.8a) |
ピカソの有名な「招魂」は、失恋のため自殺した親友カサヘマスへのオマージュであり、青の時代の幕開けの作品である。 ヴァラドンの「画架の前のユトリロ」が上手なのに驚いた。流石に母親のまなざしである。 ドンゲン、レジェ、ブラック、マチス、デュフィ、モジリアニ、ユトリロ、キスリング、シャガール、ボナールなど好作品が並んでいた。(1999.6a) |
ダリは天才である。シュールレアリスムの鬼才である。今回の展覧会は米国フロリダにあるサルバドール・ダリ美術館からのものを中心にしたものである。 「キリスト教万国公会議」や「新しい人間の誕生を観察する政治地理学的な子供」、「ミレーの晩鐘の考古学的回顧」、「春の初めのころ」「ポルトリガトの聖母」などの有名作品が観られた。 素晴らしい展覧会であった。(1999.6a) |
静物画というジャンルで、20世紀にどう変化していったかが分かる展覧会である。19世紀までのアカデミックなものから、20世紀になるとモダニズムとなる。アメリカのフィリップス・コレクションの所蔵品からのものである。 ボナールの「いちご」アルベール・アンドレの「レモンとタンジェリン」は色もきれいで落着いたもの。ルオーの「花束」はやはり額縁つきの黒く縁取りされたルオーらしい花。 アメリカの作家の静物画もはじめて見た。マックス・ウェーバーの「植民地時代風の高坏」、ポール・ドーアテイーの「青いボウルとカーネーション」は好きだ。以後、キュビスムの、ピカソ、ブラック、グリス、だ。アメリカのキュビスム作家としては、ミルトン・エイヴリー、カール・ナナス、ジャン・ネグレスコと言う画家を初めて知った。その後、リアリズムとなり、モランディ、タマヨがでてくる。(1999.4t) |
主人がアメリカの留学中に、私もこのワシントンギャラリーに行ったはずなのだが、よく覚えていない。もっとも、当時は絵画鑑賞に目ざめていなかったからなのであろう。今あらためて もったいない事をしたものだと思う。 バルビゾン派の画家では、私はトロワイヨンがお気に入りなのだが、今回の「迫り来る嵐」は緊張感が伝わってきた。マネの「スパルニエル犬」が可愛かった。ドガの「バレーの前」もきれい。ルノワールの「ポン・ヌフ、パリ」はルノワールとしてはしっかりと細かく描かれている。モネの「日傘の女性、モネ夫人と息子」、これに似た絵は何枚かあるらしいが婦人の顔もしっかり描かれていて光と風を感じる絵であった。ピサロのきれいな絵も沢山あった。ゴッホの「アルルの農園」も良い、ボナールの「庭のテーブルセット」は、木陰にテーブルクロスのかかったテーブルがあり、その上に果物や、ワインなどのっている。このようなところで食べたり、飲んだりしたらどんなに美味しいだろうなと思わせる絵であった。 今回は印象派を中心とするものの展覧会であったが、さすが、秀逸なものばかりであった。(1999.4t) この展覧会では、最後にオールドマスターズのコーナーがあり、何といっても素晴らしいのは、フェルメールの「手紙を書く女性」が日本にきた事である。優しい目つき、黄色の洋服や毛皮の質感、真珠のネックレスなど今でもいきているような画である。(1999.4a) |
再び、エルミタージュからイタリア・ルネサンスの作品が来た。前回の展覧会は1993年に東武美術館に来たものであったが、今回のほうがはるかに大がかりである。以前にきたものに再びお目にかかることができたものもある。例えば、私の好きなジョルジョーネの「風景の中の聖母子」がそれである。このような作品は何回観ても良い。こういうのが本当の名画なのであろう。 その他に好きな作品を列挙すると、ペルジーノの「若い男の肖像」、ギルランダイオの「聖フランチェスコと聖ヒエロニムスのいる幼児キリスト礼拝」、ラファエロの「聖家族」(左上図)、バッキアーカの「アダムとエヴァ、子供たち」、ヴェロネーゼの「聖会話」(右上図)、「聖女カタリナの神秘の結婚」、ティツィアーノの「教皇パウルス3世の肖像」、「改悛するマグダラのマリア」、「十字架を背負うキリスト](左下図)、ボルドーネの「聖家族と聖カタリナ」、ポントルモの「聖ヨセフと洗礼者ヨハネのいる聖母子」(右下図)、ベッカフーミの「聖女カタリナの神秘の結婚」、ブロンジーノの「コジモ一世の肖像」、ティントレットの「洗礼者聖ヨハネの誕生」(右上図)などである。 カタログを買ってきたが、だんだんと大部になり、辞書のようになってきた。とくに前のほうに長い説明や解説がいくつも並んでいるのには閉口する。売れない美術評論家の論文の抱き合わせ商法といわれても仕方あるまい。このような大きなものになると、高齢者には持って帰るのも大変である。それを見越して、ちゃっかりと宅急便がデスクを出している。これも西洋美術館のタイアップ商法かもしれない。何せ独立行政法人ともなれば、今までのように国民の税金を使っているだけでは、倒産の可能性も出てきているからである。それほど世の中の変化のスピードは速い。(1999.3a) |
世田谷の砧公園は、こども達が小さい時に良く遊ばせに行ったところである。かなり立派な企画展をやるため、何回か足を踏み入れたが、常設展を観たことがなかったので、はいってみた。ほとんど見る人がいなく、これではとても採算がとれないと思った。世田谷区の小学生の展示などもあり、これも地方自治体の役割かなと思ったが、高い区民税を払っているものとしてはなんとも割り切れなかった。これがいわゆるハコモノ行政なのであろう。
肝心な常設展の中では、大きな素朴派の作品が2つ並んでいたのが印象的であった。そして一度入ってみたいと思っていた洒落たレストランで食事した。(1999.1a) |