海外美術散歩 07-3 (日本美術は別ページ)

 

ムンク展 07.10 フィラデルフィア美術館展 07.10 吉野石膏コレクション展 (三越) 07.10 木版画東西対決 07.11
宋元仏画 07.11 ティツィアーノ DNP3 07.11 アンカー展 07.12 田園賛歌 07.12
上海ー近代の美術(前期) 07.12 SPACE FOR YOUR FUTURE 07.12 上海ー近代の美術(中期) 07.12  

目 次 ↑


上海ー近代の美術(中期):松涛美術館

 

 前期に続いて中期を見てきた。呉昌碩の書と画が他を圧している。彼は「最後の文人」と呼ばれ、篆刻→書→画と何でもこなした。日本人にファンが多っかたとのことである。以下は、室内にパネル展示されていた「絵画に見る吉祥」

牡丹
富貴花  
水仙
長寿花
薔薇
長春花、長寿薬(?瑰ーばいかいーとも呼ばれる)
婚姻・夫婦和合・子孫繁栄(「恋・憐」と音通。別名の「荷」も「合」と音通)
芍薬
宰相花、出世
石榴
多子(多くの実)
枇杷
富(黄金色の実)
不老長寿(常緑)
祝賀(「祝」と音通)
長寿(「寿石」ともいう)
長寿(重陽の日に菊酒を飲む)
君子の象徴・子孫繁栄の象徴(寒中にいち早く咲く)
萱草
男子出産(かんそう、勿忘草のこと)
芙蓉
栄華(「蓉」が「栄」と音通)
長寿(「寿桃」・「仙木」・「仙果」と呼ばれ邪気をはらう)
葡萄
子孫繁栄(実や房が多い)
子孫繁栄(種が多く、蔓の先に種子をつける)
長寿(常緑、また「百」に音通)
霊芝
長寿薬
豊穣(「余」に音通)また多子(卵を産むので)
一品鳥(一品は官位の最高位)
鹿
「禄」と音通
70歳を意味(「老」と音通)
甲羅を持つことが科挙の合格者の「甲」に通ずる。
金魚
「魚」が「玉」・「栄」と音通。金と玉、また金が余る意。
栄達(「冠」が「官」に音通)
蝙蝠
福にかたむく(「偏福」と音通)
80歳を意味(「耋」ーてつーに音通)

(2007.12a) ブログ


SPACE FOR YOUR FUTURE: 東京都現代美術館

 

 2007年12月18日のNHK「プロフェッシナルー仕事の流儀」で、金沢二十一世紀美術館から東京都現代美術館に引き抜かれたキュレーター長谷川祐子さんの話を聞いた。「アートは人に見られなければ意味がない」、「展覧会では個性豊かな作品ひとつひとつが共鳴しあって、観客に何かを語りかけ、観客の心に印象を残す」などの言葉があった。その実践の展覧会、「SPACE FOR YOUR FUTURE―アートとデザインの遺伝子を組み替える」を観にいってきた。

【3階】
■AMID* アーキテクチャー (cero9):ユートピア的な発想の建物、バラで囲まれた発電所など4点。価格まで書いてあるのがおかしい。

■エリサベッタ・ディマッジョ:手作業で薄紙を切り抜いた繊細な作品。これは過去の日本人の感覚に近い。

■マイケル・リン: 花の画の部屋。三面が鉛筆、正面が彩色絵画とその周囲の鉛筆画。色彩と淡彩が一体になった部屋は落ち着く。

■エルネスト・ネト《フィトヒュマノイド》:草色の人形椅子。試してみたが気持ちが良い。将来ならずとも現在でもただちに実用可。

■SANAA《フラワーハウス》:庭木に囲まれた2分の1サイズの花びら型の個人住宅。部屋と庭が一体化しているのは、古来よりの日本邸宅の原則だったが・・・。

【1階】
■デマーカスファン《レース・フェンス》:通常のフェンスの一部がくもの巣状に形成されている。同じ作者の《シンデレラテーブル》もあらゆる様式の混合作品。いずれも意表をつく。

■オラファー・エリアソン《4連のサンクッカー・ランプ》:人間の顔が蒼く見えるような光源。こういった光源で将来は人間の精神が誘導されるかもしれない。

■東泉一郎《MIRAI》:エスカレーターのアニメ。未来へ誘われていくような気になる。

■石上純也《四角い風船》:アトリウムに1トンの四角いアルミ風船が浮かんでいる。ヘリウムを使用したもので、ふわふわ浮いている。今回の見世物。

■バーバラ・フィッセル《変容の家U》:人や動物が動くにしたがって家が作られていくアニメーション。今回一番面白かった。

■アピチャッポン・ウィーラセタクン《エメラルド》:ホテルの部屋に人間の魂が白い雪片のように浮いて漂う。アジア的な霊魂の世界。

■蜷川実花《my room》:ぼやけた金魚と花の赤を浴びる。中の人間は精神的にハイになる。

【地下1階】
■アシューム・ヴィヴィッド・アストロ・フォーカス(avaf)《anatato vuivui attoteki fukusayo》:「プロフェッショナル」に出ていた廃材で作ったボロ小屋。二階へ上がるとみしみしと音がする。三階へ上らせる許可がでなかったのは尤も。中へ入るとカラフルな世界。

■フセイン・チャラヤン《レーザードレス》:ドレス内から発せられたレーザー光がクリスタルを通り、ドレスが発光しているように見える。ビデオの《111コレクション》は、自動的に変化するドレスをスワロフスキーが作り、発表会で変化しすぎてヌードとなってしまうというコメディ。

■トビアス・レーベルガー《母型81%》:不思議な家。中に住む人間もおかしくなっているだろう。

■タナカノリユキ《100 ERIKAS》:江尻エリカの百枚の写真。新しい浮世絵か?

(2007.12a) ブログ

【付記】 ポップ道 @東京都現代美術館 常設展

1.ポップ百出 Multiplicity of POP
 リキテンスタイン《ヘアリボンの少女》、ウェッセルマン《浴槽コラージュ》、ウォーホル《モンロー》などのアメリカ作品。大量消費・複製されるものたちが対象。


2.ポップ共振 Resonance of POP
 上記に反応した日本の画家。清水晃《色盲検査表》は数字よりも消費されるものの写真のほうが目立つ。タイガー立石《アラモのスフィンクス》はアメリカの傘を享受している60年代の日本人。小島信明《ボディー》もアメリカ国旗をかぶっている。


3.ポップ反転 Reversal of POP

 横尾忠則《花嫁》や篠原有司男《花魁》は、日本的なものを平面的に描き、外国人から注目される。柳幸典《ヒノマル・コンテナー》には、¥の光があり、外見は前方後円墳に似せてあり、エコノミックアニマルと天皇制というものが象徴されている。彼の《トウキョウ・ダイアグラム》の地下鉄路線図の中央の皇居も天皇制を意識している。
 大竹伸郎の《ぬりどき日本列島》は、線からはみ出さない日本人の考え方と一致している。会田誠の《戦争画RETURNS》は戦争への賛美や非難ではなく、彼の想像による戦争である。


4.ポップ偏在Ubiquity of POP
 ポップの日常化ということである。小沢剛の《地蔵建立シリーズ》には、あちこちに地蔵が書き込まれている。奈良美智の《White Night》や《サヨン》はもとは自分を書いたものであるが、そのニセモノが登場するなど、彼の作品がPOPのイコンとなってしまった。森村泰昌の《批評その愛人A》は、セザンヌの製作過程に入り込み、自分もその中に入るという複製である。

(2007.12a) ブログ


上海ー近代の美術(前期):松涛美術館

 

任薫(じんくん) 「花鳥図」  松涛美術館の主任学芸員「味岡義人」氏のギャラリー・トークが結構面白かった。

■ アヘン戦争や太平天国の乱で疲弊した南京・蘇州・揚州から、英米仏の租界が形成され安全が保証されていた上海に、富裕層が移動した。

■ 「海上派」というのは、そういった顧客を追って上海に来て創作活動を行った画家の総称ということ。「海上」とは「上海」をひっくり返しただけ。もちろんその活動は中華人民共和国成立で終る。

■ この間の日中画家の相互訪問による交流や三井財閥の中国進出に伴う藝術愛好家の物語がある。

■ 上海に集まった画や書の買い手は風雅の人士ではなく、分かりやすい作品であることが要求された。花鳥画でいえば、吉祥の画題、人物画でいえば誰でも知っている故事・詩文に題材をとったもの、山水画も昔の有名画家の款書が入っていれば良かったのである。

■ 吉祥の内容は、植物や動物で決まっている。字の音通によるものも多い。

■ 「子孫繁栄」や「多産」というのは墓を守っていく男子だけ。最近の一人っ子政策は田舎では深刻な問題を起こしている。

■ 日本では罪は憎んで人は憎まずという考えがあり、死んでしまった人は仏になるが、中国では死んでも徹底的に憎まれる。

■ 張善子はピカソの再来といわれた張大千の兄。庭に虎の子を飼っており、虎痴と呼ばれていた。それだけに《虎図》の緑は素晴らしい。

■ 亀は妻を寝取られた男のことも意味するので要注意。

■ 今回、お礼として中国人に時計を贈ろうという考えがあったが、これにも葬式というよくない意味があるので止めてもらった。

■ 政治家の書が出ていたが、中国で政治家になる条件は、@見目がよいこと、A標準語を話すこと、B字が巧いこと、C判断力がよいこと。だから政治家は書が巧い。

■ 台北の故宮美術館には蒋介石が大陸から持っていったものが多い。これを日本に持ってくると、中国から返還要求がでてくるので、日本の美術館には今回はじめて出展された。今回の作品が、その後に寄贈されたものだからである。米国やフランスでは中国からの返還要求を断る法律ができているので、何度の故宮美術展が開かれている。

(2007.12a) ブログ


田園賛歌ー近代絵画に見る自然と人間:埼玉県立近代美術館

 

ミレーとモネ 「開館25周年記念展」である。ポスターから分かるように、山梨県立美術館のミレー《落穂拾い、夏》と埼玉近代美術館の《ジヴェルニーの積みわら、夕日》を核とした展覧会、いわば「積みわら」がキーワード。

第1章 豊穣の大地と敬虔な農民たち―ミレー《落ち穂拾い》とその周辺

 いきなり出てきたのが和田英作の《落穂拾いの模写》。これは流石である。ミレーの《落穂拾い、夏》は何回か見ているはずだが、こんなに小さな画であるということを再認識した。レルミットの《収穫》は、広々とした麦畑で女たちが麦を刈り、男が束ねている。休憩用のお茶などもしっかり準備されている。 ジュリアン・デュプレの(1851-1910)《牧草の取り入れ》は空の青さが印象的であった。

第2章 近代都市パリを離れて−印象派・ポスト印象派の田園風景

 ご当地モネのバラ色の《ジヴェルニーの積みわら、夕日》は圧倒的である。ピサロの作品が沢山出ていたが、《ポントワーズ、ライ麦とマチュランの丘》がよかった。曲線を使った構図が不思議な安定感を与える。シスレーの《森のはずれ、6月》はめずらしく森の木立の間から空が覗いているだけ。いつものように空の面積が多いほうが良い。ゴーガンの《水飼い場》は安定した構図で、とても良かった。ゴッホの画が2点出ていた。いずれも初期のもので働く《紡ぎ車を繰る女》と逆光の《窓辺の農夫》である。このようなゴッホがわが国にあることを初めて知った。セザンヌの《大きな松の木と赤い大地》は画面を大きな木が分割する浮世絵風。カリエールの《羊飼いと羊の群れ》は神秘的なタッチでひきつけるものがある。彫刻家マイヨールの《山羊飼いの娘》も良かったが、木版画《ウェルギリウスの農耕詩》には驚いた。

第3章 日本の原風景を求めて−近代絵画に見る田園風景

 浅井忠の作品がいくつか出ていたが、その中では《農夫とカラス》が面白かった。本多錦吉郎の《景色》や久米桂一郎の《秋景》も好感が持てた。ベルギー印象派のクラウスに学んだ太田喜二郎の《田植》と《麦秋》が並んでいたが、素晴らしい点描である。岸田劉生の《麦二三寸》には小さく麗子が描き込まれていた。須田国太郎の《信楽》は圧倒的な迫力である。小磯良平の《麦刈り》が非常に良かった。パルテノンフリーズに出てくるギリシャ女性のような服装である。小野竹喬、土田麦僊、村上華岳らの日本画や、萬鉄五郎の洋画と日本画も楽しめた。

第4章 何処から、そして何処へ―ポスター、写真に見る田園風景

 本章では19世紀に登場したポスター、写真という二つのメディア・アートを軸に、田園と農耕のイメージをめぐる展示がなされていた。最後に出ていた藤田洋三の《藁塚放浪記》、ロキテンシュタインの《積みわら》、ダリの《マルドロールの歌》、ベン・シャーンの《至福》が印象に残った。 

(2007.12a) ブログ


アンカー展:Bunkamura

 

アンカー:少女と2匹の猫 スイスのアルベール・アンカー(Albert Anker 1831-1910)という画家の名前は初めて聞いた。しかしスイスでは国民的画家として有名だとのことである。彼は生涯にわたって子供を描きつづけた画家で、その対象の多くは生まれ故郷であるインス村の子供たち、とくに少女である。

 あちこちに貼られているポスターの《少女と2匹の猫》がとてもかわいい。そこでこの展覧会の前売券を買っておいて、初日の午前中に二人の孫娘を連れて行くことにした。

 《おじいさんと2人の孫》という画が出ていた。年齢はちょっと違うが、組み合わせはそっくり。

 《髪を編む少女》という美しい作品があった。まるでフェルメールの画のように光のニュアンスが表現されている。ゴッホもこのようなアンカーの少し古いが丁寧に描かれ画を高く評価していたとのことである。

 シャルダンのような静物画は静謐でとても巧い。また愛情溢れる画家の家族の画もとても良かった。死の床にある幼い息子に花束を持たせて描かれたた画は心を打つ。いろいろなゲームで遊んでいる子供たちの姿も印象的だった。

(2007.12a) ブログ


ティツィアーノ《うさぎの聖母》:ルーブル-DNPミュージアムラボ

 

 「ルーブル-DNPミュージアムラボ」の第3回展。第1回のジェリコー《竜輝兵》は見にいったが、第2回の《ギリシャ小彫刻タナグラ》はパス。今回はテイツィアーノの日本初公開作だけに見逃せない。例によって「イヤホーン付き携帯端末」を首にかける。そこには「ICタグチケット」も載せてある。確か前回のICタグチケットは「接触型」で、各ディスプレイの側の感知器(タッチパネル)に持っていって触れていたのだが、今回は「非接触型」の感知システムに進化しているらしい。「ICタグチケット」の他に、黒い布袋に包まれた円形の「センサー」のようなものも付いている。

 「16世紀のヴェネツィアの中で」にいくつかの映像が流れている。ひとつはヴェネツィアの古地図、あとの二つはヴェネツィア派絵画の一部。この部屋に入ると、前述の非接触型感知システムが作動して、イヤホーンから説明が聞こえだす。そこまではいいのだが、この説明と壁に投射されている映像が無関係なので、イライラする。電気工学的には進歩しているが、人間工学的には明らかな失敗。

ティツィアーノ:うさぎの聖母 二番目の部屋は展示室。テイツィアーノの「うさぎの聖母」が待っている。中くらいのサイズの素晴らしい作品。ほとんど独占状態でかなりの時間観ることができた。聖母マリアは白兎を左手で押さえ、幼子イエスに視線を向けている。イエスは白兎を見つめ、幼子を抱くアレキサンドリアの聖カタリナの視線はマリアに向けられている。マリアの前の籠にはリンゴとブドウ、その足元にはイチゴとキリスト教の象徴が揃っている。ちょっと離れて画の左には羊飼い、そしてその後には大きな樹、遠くには教会の塔、さらに向こうには青みがかった山、そしてバックには夕焼けの空と奥行きが広がっている。うさぎや幼子を支える布の「白」、マリアのマントの「青」、衣服の「赤」、そして木や草の「緑」、山の「青」と空の「橙」など色彩豊かな典型的なヴェネツィア派絵画である。

 シアターで、「ラボの中で」、すなわちこの画の洗浄修復に関するムゼー・ド・フランスにおける「科学分析調査の過程」を見ることができた。説明の音声は非接触型システムによって自然に始まる。@直接光、A紫外線(ニスの状態)、B赤外線(素描)、CX線(白・光のハイライトを描くミネラル質)の順序での調査だが、今回X線検査によりいろいろな変更が加えられていることが分かったとのことである。1.聖母の視線:羊→イエス、2.聖母の手:膝→兎、3.兎の数:複数→単数(画面右下隅にもう1羽いるようにみえるが、これはどうなどうなろうか)などである。また両端に欠損があるが、パルマ流のカテリナ様式で聖カタリナは半分しか描かれておらず、画の内容が枠の外まで広がっていっている、画の上下は釘か鋲のようなもので固定されていたなどということも分かったとのことである。

 画の奥行きを実感できる部屋「作品の構成の中で」はとても良くできていた。画が奥行きごとのレイヤーとなっており、部屋の奥に入ると背景のレイヤー画像だけになり、そこで左右に動くとその画像も左右に動き、部屋の手前に戻ってくると、画の中景のレイヤーが背景のレイヤーに重なってくる。さらに手前に戻ると少し前のレイヤー、入口近くに立つと前景のレイヤーが重なって、もとの画として観られる。このように自分が画の中に入っていって、そこから戻ってくるという感覚を得られる。

 「自然の中で」では、ヴェネツィア派絵画の説明のビデオパネルが置いてあったが、これは観客の待ち時間調整のためなのだろうか。内容的にはつまらない。

 「テイツィアーノの人生の中で」では、この画家の生涯を一冊のデジタル・ブックとして見せていたが、これも面白かった。そのページの説明が終わると、光点が本の左下隅に出てくるので、ページをめくると次のページの説明が始まり、説明中の画に光が当たってくるシステムである。

 「絵画の中で」は、《うさぎの聖母》の細部を部分拡大画像で使って詳細に説明する自動プレゼンテーションシスムがある。内容はとても良かった。兎は原罪を免れたイエスの象徴であるとのことである。終わったところで「指さし」マウスで部分拡大・照度変更・色彩分析が出きるようになっていたが、これは単なるオアソビ。

 最後に「視線をめぐって」のシステムの前に来た。混んでいたのでここは最後にしたのである。自分の他に並んでいる方が年配の人だったので、「お先に」とお譲りした。このシステムは「画のどの部位をどの程度長くみているか」ということを2回チェックするもので、いろいろな学習後、画の見方がどの程度進歩したかを検証すること目的としている。自分の番に来てやってみるとどうもおかしい。前のオバアサンのデータがわたしの初回データとして登録されてしまったらしい。非接触システムの誤認である。係りの方お願いして新しいICシステムと交換してやってみると、正確に作動した。初回は顔全体が動いたためかヘンナ結果となっていたが、二回目は顔を動かさず視線だけ動かしたのでそれなりの結果が出た。学習効果は、画の見方ではなく、この視線チェックシステムへの慣れであった。

 係りの人の話では、第1回展の接触型ICタグチケットは、感知器に一回触れるだけのもので、ON機構は良かったのだが、OFF機能に問題があった。そこで第2回展では、同じ接触型だが感知器に使用中は固定することとした。今回はフランス側の要望で非接触型にしてみたのだが・・。ということだった。いずれにしても実験中、発展中のシステムであるということを実感することができた。 第1回展のときと同じく、ICタグチケットの番号でネットから今回の自分の履歴や聞きのがした説明を聞きなおすことができた。第1回展の履歴も残っていた。

(2007.10a) ブログ


開館40周年記念特別展 宋元絵画:神奈川県立歴史博物館

 

開館40周年記念特別展 宋元絵画 鎌倉時代に中国から渡来した仏画の展覧会。

  入ってすぐに展示されているのは《菩薩半跏像》。リラックスした遊戯像で、瞑想にふける広隆寺や中宮寺の思惟像とはあきらかに違う。驚くべきことは、その胎内には五臓六腑が納められていたという。陳列されているものを見ると、布製の長い管状の腸、赤い模様のある心臓、肝臓あるいは肺と思われる白く大きな臓器、脾臓のかけらかなと思われる黒い布片などであった。

 《釈迦三尊像》、《十王図》(元の陸仲淵筆)、《六道絵》は見慣れているので、なんとか判別できるが、図録に載っているような明るい高精度写真をもう少し沢山展示してもらうと良かった。

 《十六羅漢図》がいくつも出ていたので、これを中心に見ることにした。解説によると、十六羅漢図には下記の3タイプがある。

 @「禅月様」:禅月大師貫休が夢で感得した奇怪な風貌として描く。

 A「張玄羅漢」(わが国では「李龍眠様」):奇怪さを誇張しない僧形で描く。

 B「蔡山様」:インドや西域に実在する人物のように生々しく描く。

 伝貫休筆の《十六羅漢図》と《羅漢図》はいずれも異常に長い眉などおどろおどろしい風貌の尊者であり、文字通り「禅月様」である。

 987年「然請来の国宝《京都清涼寺の十六羅漢図》は北宋時代の古いものであるが、比較的穏やかな風貌の尊者であり、南宋の金大受筆の《十六羅漢図》、元代の趙?筆の《十六羅漢図屏風》、南北朝時代の良詮筆や今回修復成ったこの博物館の《十六羅漢図》はいずれも「張玄羅漢」である。

 《東海庵の十六羅漢図》は元代のものであるが、首の皺、長い眉など変わった風貌の尊者が並んでいる。作者は不明であるが「蔡山様」の典型例である。またこのような仏画の由来に関する文書が沢山神奈川県に残っているようで、かなりの数が出陳されていた。

 暗くて見にくいし、説明もイマイチで、ちょっと難しい展覧会だったが、この時代の中国画家の絵が結構のびのびとした個性豊なものであることだけは分かった。しかしこれらの画は寧波辺りから来たもので、中国美術史のなかにはほとんど登場していないということも不思議な気がする。

(2007.11a) ブログ


木版画東西対決展−仏教絵画から現代まで:町田市立國際版画美術館

 

木版画東西対決展 今回が初訪問の町田市立國際版画美術館。美しい公園の中にあり、とても良い雰囲気である。「開館20周年記念」という冠がついている。国内の多数の美術館から借用したものを含め、世界の木版画の歴史を振り返ることができた。リストが用意されていなかったので、お気に入りを下記に列挙する。


プロローグ 日本の木版画、西洋の木版画
(日本)
■無垢淨光陀羅尼:772年(奈良時代)の経典。寺院の塔のような金属器がそばにおいてあったので、その中に入っていたのだと思われる。説明なし。
■毘沙門天立像印仏:右手に剣、左手に宝塔をもち、火焔光背を有する毘沙門天が4体。古いものなのに良くできている。もちろん墨一色で平面的。
■十二天図:日天と日天が出ていたが、前者のほうが迫力に勝る。
■北斎の《富嶽三十六景》と《百人一首姥がゑとき》、広重の《東海道五十三次》はそれぞれ2点ずつでていたが、ここのところあちこちで見ているので食傷ぎみ。
(西洋)
■マリオラーノ《改悛する聖ヒエロニムス》:1637年の作。光と影が強調されたキアロスクーロ(明暗法)。したがって、こちらは立体的。
■デューラー《黙示録》よりの「子羊の前の選ばれし者たち」は生贄の子羊の心臓からほとばしり出る血液をグラスに受けている。同じく「4人の騎者」は結構の迫力。
■アルトドルファーの《人類の堕落と救済》よりは4点の小品「ヨアヒムへのお告げ」、「黄金門のお告げ」、「マリアの奉献」、「お告げ」。単眼鏡で見るとなかなか細かく彫られている。

第1ラウンド モノトーン対決
(西洋)

■ベルナール《十字架》:シンプルな構図だが、深い精神性を感じる。
■ヴァロットン《街頭デモ》:ポスターのように平面的な構図だが、なかなか良い。
■ウィリアム・ニコルソン《アルファベットより》:ベン・ニコルソンの父親。千葉市美術館の「都市の仏蘭西、自然のイギリス展」でも見たが、ジャポニスム的である。
■マルク《眠る羊飼いの女》:女よりも羊が巧い。美術館入口の柱広告に使われていた。

■ヘッケル《少女の頭部》:ブリュッケの版画を始めてみた。腋毛がどぎつい。
■キルヒナー《脱穀する人》:これもブリュッケ。結構の力作である。
■ペヒシュタイン《ある村》よりの「朝」・「村の通り」、《われらの父より》の「われらに日々の糧を与えたまえ」・「われらの負債を免じたまえ」はいずれも印象深い。
■ファイニンガー《市庁舎》と《海辺の別荘》:いずれも情緒的な作品である。広島県立美術館で見た《海辺の夕暮れ》を思い出した。バルラッハ《神の変容》よりの「第1日」はとても力強い。彼の彫刻を髣髴とさせる。
■コルヴィッツ《戦争より》の「未亡人」には心打たれる。

(日本)
■山本鼎《漁夫》:捜索版画の創始者といわれる山本の代表作。非常に力強い作品である。
■笹島喜平《蔵王権現D》:拓摺の木版。浮き上がってくる。
■棟方志功《二菩薩釈迦十大弟子より》2点出ていたが、これも良く見ている。

第2ラウンド 多色刷り対決
(西洋)

■ゴーギャン《マナオ・トゥペパウ》:有名な作品だが、黒が多すぎて分かりにくい。
■ムンク《桟橋の女たち》:これも有名な作品だが、油彩と左右逆になるのでちょっとヘンな感じがする。
■カンディンスキー《鏡》:しっかりとした作品。鏡に映るものは何なのだろうか。
■ベーレンス《接吻する二つの頭部》:とても印象的なカップル。

(日本)
■山村耕花《七世松本幸四郎の助六》:本当にノッペリとした良い男に仕上がっている。
■吉田博《帆船》の「朝日」と「夕日」。国立近代美術館で4枚揃いを見ているが、良いものは何回見ても良い。この叙情性は広重の伝統か。
■伊東深水《新美人十二姿》の炬燵。後ろ向きの姿。顔は見えないほうがどんな美人だろうと考える。前期は「口紅」が出ていた由。
■川瀬巴水《大根河岸の朝》:これはわたしの好きな絵。前期は「馬込の月」。
■恩地幸四郎《葉っぱと雲》:捜索版画だが、もはや抽象版画の範疇に入ってきている。
■関野準一郎《楽屋の文五郎》:力強い。板の木目が巧く使われている。
■戸張孤雁《玉のり》:浅草の芸人だろうか。とても味わいがある。千葉市美術館の絵はがき90円也。
■小泉癸巳男《昭和大東京図鑑》より「関口・大瀧」。スッキリとした近代版画。
■川上澄生《南蛮船図》:おなじみ。
■古川龍生《野路》:懐かしい感じがする。
■畦地梅太郎《老スキーヤー》:ちょっとおどけたキュビスム的感覚。これも今回の展覧会の目玉。
■品川工《舞曲No5》:黄色と赤の色彩が踊っている。
■小野忠清《広島の川》:ご存知、原爆ドーム。題材が良い。

第3ラウンド 木口木版対決
(西洋)

■ドレの《ダンテ地獄編》より「ファリナータ」と《天国編》より「至高天」は何ともいえない。特に後者は今回の展覧会のナンバー・ワン。
■クリューガー《パレ》よりの「ベックリンの自画像と死」は見慣れた画の版画化。
(日本)
■城所祥《青い陶器とプルーン》は色が良い。傑作。
■柄澤齊《異説西遊記》の2点は、ちょっと落ち着かない。もっと良い作品を出してほしかった。
■小林敬生《饒舌な風景−終章・そして序章B》:大作。そして複雑な画面構成。

第4ラウンド 現代版画対決―新しい表現へ
(日本)

■内間安?《FORREST BYOBU》:安心できる。
■田中陽子《とれたFlag》:ホール↓に大きな幟がかかっていた。これも木版画。

(西洋)
■キーファー《ブルンシュヒルデ・グラーネ》

(追 加) 常設展: 年間を4期に分けて展示しているそうだが、質の高い作品ばかりで感心した。デューラーの《ネメシス(大運命神)》と《銅版受難伝》より8点、レンブラントの3点、ムンクの有名な《病める子》、マチスの《眠るオダリスク》、ルオーの《秋》、ピカソの大作の黒い《鳩》と第1回世界平和会議ポスターの派手な色彩の《ランプの下の静物》、マン・レイの《回転扉》の10点などが良かった。 

(2007.11a) ブログ


印象派とエコール・ド・パリ展:日本橋三越

 

 これは山形美術館に寄託されている吉野石膏コレクションの展覧会である。いわゆるコーポレートコレクションで、他の展覧会に出品されたいくつかの作品は既に観ているが、このようにまとまった形で鑑賞するのは初めてである。12日間という短い展示期間なので、フィラデルフィア美術館展を見た後、上野‐神田‐三越前と移動して、この展覧会を見た。偶然であるが、二つの展覧会は似ている。こちらは「モネ、ルノワール、シャガールを中心に」という副題がついている。むこうは「ルノワール、モネ、ゴッホ、マティス、ピカソ・・・」となっていたが、これらは両者で展示されていた。ということで、二つの展覧会を比較しながら見ることとなった。

 T.印象派以前
■ コロー:2点、似たような銀灰色の作品。
■ ミレー:2点、いずれも見たことのあるような懐かしい作品。
■ クールベ:《ジョーの肖像、美しいアイルランド女性》・・・ジョーはホイッスラーの愛人。彼の《白のシンフォニー No1 白衣の少女》のモデルである。クールベが描いたジョーとホイッスラーの描いたジョーはその対極にあるような感じがする。その後ジョーはクールベの愛人となり、プティ・バレにある《眠り》のモデルを務め、さらにオルセーにある《世界の起源》の局部もジョーのものらしいとの説明があった。
■ ブーダン:《アヴィル近くのソンム川》・・・雲間の太陽からの光が川に差し込む画で、晴れた海岸の画を見慣れているので、ちょっと暗い気がする。

U.印象派とその後継者たち
セザンヌ:サン=タンリ村から見たマルセイユ■ ピサロ:5点、そのうち《モンフーコーの冬(雪景色)》が良かった。《キューガオデンの大温室前》も面白い。
■ ドガ:《踊り子たち、ピンクと緑》・・・とても美しい色のスナップショット。
■ シスレー:3点。
■ セザンヌ:《サン=タンリ村から見たマルセイユ》・・・セザンヌの青は素晴らしい。

■ モネ:7点と多い。お気に入りは、《睡蓮》、《サンジェルマンの森の中で》、《ヴェルノン教会の眺め》、《日傘をさす夫人の素描》。
■ ルノワール:8点。お気に入りは、《庭で犬を膝に抱いている少女》。《シュザン・アダンの肖像》はブリジストン美術館蔵の習作の完成作。

■ カサット:《マリー・ルイーズ・ヂュラン・リュエルの肖像》
■ ゴッホ:《雪原で薪を集める人々》・・・1884年の作品。画中の4人の人物など暗い画題のものだが、雪の明るさに救われている。地平線に沈んで行く真赤な太陽。これにもゴッホ特有な派手な光線はない。
■ ボナール:1点

V.20世紀の多彩な表現者たち ■ アンリ・ルソー:《工場のある町》
■ マティス:2点、このうち《白と緑のストライプを着た読書する女性》はなかなかよい。
■ ルオー:3点。この中では、《バラの髪飾りの女》。フィラデルフィア美術館でも似たような画があった。あるいは混線しているかも。
■ マルケ:2点ともに例のくすんだ所がなく、気持ちが良い明るい画である。題は《ロルボアーズの風景》と《コンフラン・サント・オノリールの船》。
■ ブラマンク:5点中花が2点、風景が3点。ちょっと苦手な画家だが、《川辺の舟》には文句がつけられない。
■ ピカソ:2点あったが、両者ともきれいな画である。《マリー・テレーズの肖像》が美しいのは当然として、ドラ・マールを描いた《帽子をかぶった婦人》も良かった。いつもひどく変形された顔として描かれていたドラ・マールの実像を見た。ピカソの心の中で捻じ曲がった虚像は嫌いだ。
■ ドンゲン:《坐る少年》・・・存在感のある画。
■ ミロ:1917年作の《シウラナ村》はミロの初期の作品。これは美術史の上では貴重な画であるが特に好きにはなれない。
■ ブラック:1点。
■ カンディンスキー2点。《ゆるやかな変奏曲》はなかなか。

W.エコール・ド・パリ
■ ユトリロ:2点。
■ シャガール:14点もあり、今回の白眉である。お気に入り多数。《夢》、《逆さの世界のヴァイオリン弾き》、《バラ色の肘掛け椅子》、《天使と恋人たち》、《サンド・シャペル》などなど。
■ キスリング:《背中を向けた裸婦》はアングル的でこの会場ではちょっと異物感がある。
■ ビュッフェ:1点

 吉野石膏コレクションは全体に柔らかな作品が多く、一種の統一感があった。いかにも一人の日本人が選んで購入した作品群である。フィラデルフィア美術館展にはいくつかの名品が含まれていたが、それを除けば前者に追いつかない作品も少なくなかった。

(2007.10a) ブログ


フィラデルフィア美術館展:東京都美術館

 

 ずいぶん昔のことになるが、滞米中クルマでフィラデルフィアに行ったことがある。有名な独立記念堂で『自由の鐘』をみてから、フィラデルフィア美術館に行った。
 上野の公園口を降りると、美術展の立て看板が並んでいる。東京都美術館に着くまでに4個の立て看板があったが、いつもと違っている。画と宣伝文句がそれぞれ違っているのである。オキーフ:ピンクの地の上の2本のカラ・リリー

 1.ルノワール《大きな欲女》・・・ルノワール「裸婦」最高傑作。日本初公開。

 2.オキーフ《ピンクの地の上の2本のカラ・リリー》・・・アメリカン・トレジャー!建国の都が誇る、世界屈指のコレクション。

 3.マチス《青いドレスの女》・・・ルノワール、マネ、モネ、ゴッホ、ピカソ・・・あの「バーンズ展」の感動がよみがえる。

 4.ピカソ《自画像》・・・美のオールスター47作家、奇跡の饗宴!

 以下章立てにしたがって感想を書く。

第1章 写実主義と近代市民生活
 コローが2点。《泉のそばのジプシー女》は珍しく肖像画。《テルニの山羊飼い》は、ありふれた銀灰色の画で、赤い帽子が目立つ。クールベの《スペインの女》はコレラに罹った画家を看病したとのことであるが、マイ・タイプではない。クールベのもう一点《海辺に横たわる裸婦》は奇麗な海とヌードとがミスマッチであるが、当時はこの画が官能的であると非難されたとのこと。
 ブーダンの《トゥルーヴィルの眺め》は雲が主役で、「空の王様」と呼ばれたこの画家の面目躍如。この画家の《エトルタの浜辺》は有名なアヴィルの崖を描いたものであるが、人物のいない海岸の画はブーダンにしては珍しい。
 マネの《キアサージ号とアラバマ号の海戦》は大作である。北軍のアラバマ号がが沈没しようとするところ。劇的なシーンで、ロマン主義絵画のようである。これはこの部屋のお気に入り。マネの《カルメンに扮したエミリー・アンプル》は北アフリカ出身のモデルでカルメンの感じが出ている。黒い扇が印象的である。

第2章 印象派とポスト印象派ー光から造形へ
 ドガが2点。このうち《14歳の小さな踊り子》は、ブロンズであるが、胴着や靴は革製、スカートは毛糸製ではないかと思われた。親しみやすいポーズである。もう一つの《室内》は、それとすぐ分かる二人なのに、会場の説明が的外れ。アサヒグラフ別冊「美術特集 ドガ」では、しばしばこの画は《強姦》と呼ばれたり、ゾラの「テレーズ・ラカン」と関連づけて、テレーズとその愛人ローランがテレーズの夫を殺害してから2年後の婚礼の夜を描いたとの説があることを紹介している。

 ピサロの《ラクロア島、ルーアン(霧の印象)》が良かった。白の点描がなんともいえない。その他2点のピサロが出ていたが平凡。 モネは5点出ていたが、《マヌポルト、エトルタ》、《アンティープの朝》、《ポプラ並木》などはモネ好きの日本人には受けそうである。
 ルノワールが4点。《大きな欲女》は麦藁帽子と衣服が描きこまれているが、よくみる浴女で、これがどうして最高傑作なのか分からない。いったい誰が「最高」と判定するのだろうか。大体、ウィーン美術史美術館に類似の作品がある。《レース編みをする少女》は良かった。金髪、白い模様の洋服、背景の青緑の取り合わせが絶妙である。《ルグラン嬢の肖像》は、ブリジストン美術館の「ルノワール展」の図録の表紙になった人気作品。久し振りで再会した。

 ゴッホの《オーギュスティーヌ・ルーラン夫人と乳児マルセル」では、マルセルのつぶらな瞳がかわいらしい。ルーラン夫人のほうは目をつむっているが、青で縁どられた緑と白の服装と背景の黄色の対比がよい。ゴーギャンの《聖なる山(パラヒ・テ・マラエ)》には、イースター島の偶像、垣根のドクロなど不思議な画である。 セザンヌの画が2点。そのうちの《セザンヌ夫人》は出色のでき。斜めを向いた顔、葡萄のつるや壁など屋外であることを示す背景など印象深かった。ロダンの彫刻が2点。ソローリャの《幼い両生類たち》の水辺の子供に当たる光の反射がまぶしかった。アンリ・ルソーの《陽気な道化たち》はまあまあ。

第3章 キュビスムとエコール・ド・パリ 有名なピカソの彫刻《道化師》や油彩画《三人の道化師》を観られて良かった。後者は、ピカソ=ヴァイオリンを持つアルルカン、アポリネール=縦笛を持つピエロ、マックス・ジャコブ=アコーディオンを持つ修道士の取り合わせが面白い。平面的なキュビスムの傑作である。しかし、同じ画をMOMA展でも見ている。そのほかにキュビスムの作品がたくさん出ていたが、ちょっと飽きる。
 カンディンスキーの《円の中の円》などは見ていて気持ちが良い。
 マティスでは《青いドレスの女》。意外と大きくない作品であるが、美しい。 ルオーの《薔薇を持つピエロ》の花と唇の赤が宝石のように美しい。黒い輪郭線はいつものようだが、なんとなくかわいいピエロである。
 デュシャンの《画家の父の肖像》というまともな画が出ていて驚いた。黒と淡青色だが日本画の「たらしこみ」のように絵具の滲みを使っているところが面白い。クレーの《魚の魔術》やシャガールの《自画像》も良かった。

第4章 シュルレアリスムと夢ー不可視の風景: お気に入りは、ミロの《月にほえる犬》、マグリットの《六大元素》・・・炎・裸婦・森・建物・雲・鈴というお得意のものたち。

第5章 アメリカ美術ー大衆と個のイメージ: サージェントの《リュクサンブール公園にて》、カサットの《母の抱擁》は優しい画である。シーラーの《ヨットとヨットレースについて》も面白かった。オキーフの《ピンクの地の上の上の2本のカラ・リリー》のピンクと緑がかった白が美しい。画家は、黄色のおしべに性的な意味をもたせることはなかったとのことである。ワイエスの《競売》はそこそこ。本場の美術館だけにもう少し静謐なワイエスを観たかった。

 総括すると、この展覧会は西洋近代絵画の教科書である。いささか総花的であるということである。反面、肩の凝らない展覧会であるともいえる。

(2007.10a) ブログ


ムンク展:国立西洋美術館

 

 ムンクは何度も観ている。1.ムンク展 画家とモデルたち Edward Munch and his Models (伊勢丹美術館 1992年)、 2.ムンク展 愛と死 The Frieze of Life (出光美術館 1993年)、 3.ムンク展 EDWARD MUNCH (世田谷美術館 1997年)、 4.ティールスカ・ギャレリー ムンク室 (ストックホルム 2006年)、 5.ムンクからニューマンまで (ベルリン 新ナショナル・ギャラリー 2007年)。しかし今回も初日に観にいってしまった。それだけ惹かれるものがあるのだろう。

第1章 生命のフリーズ:装飾への道
 今回は《叫び》は出ていないが、会場に入ってすぐに、《不安》、《絶望》などこのフリーズに属する有名作品が展示されていた。途中に「1925 エーケーリーのアトリエでの展示の再現」というビデオが放映されていた。ムンクは生命のフリーズの作品が出揃った頃、これを一つの部屋に飾ってみたいと考え、いろいろな飾り方を試したとのことである。事実、《装飾のための下絵》という1925年の作品も出ていた。次の会場には、おおよそその下絵に従った展示がなされていた。
 その部屋への入口は門のようになっており、その正面最上段は《宙空での出会い》が飾られ、その下には「叫び・不安・絶望」がパネル展示され、その左右にも下絵に従った展示がなされていた。 その部屋の対面は、《赤と白》に続いて、↓のように《女性。スフィンクス灰》、《メタボリズム》、《生命のダンス》、《声・夏の夜》となっていた。 門に向かって左の壁には、《赤い蔦》、《別離》、《灰》、《吸血鬼》などが、右の壁には《サクラメント》などが飾られていたように思う。

ムンク:人魚(部分)第2章 人魚:アクセル・ハイベルグ邸の装飾
 これはオスロの実業家の家の階段の踊り場の装飾として依頼されたもので、現物はフィらデルフィア美術館にあるが、今回の展覧会にはそれと良く似た水彩が出展されていた。女性が人魚から人間女性へと変容する姿とも思われ、ここにも男性の象徴としての月柱が描きこまれている。

第3章 リンデ・フリーズ:マックス・リンデ邸の装飾
 これは眼科医リンデ博士に依頼された子供部屋の装飾の画であるが、《公園で愛を交わす男女》などR絵画があったので、結局リンデはこれらを引きとらなかったとのことである。ただ《公園の夜》などは明るく健康的な子供たちの姿が描かれているので、ムンクもある程度は努力したようにも思われる。

第4章 ラインハルト・フリーズ:ベルリン小劇場の装飾
 ベルリンでドイツ劇場を経営していたラインハルトに依頼されてその劇場ロビーの装飾パネルを作った。全部で12点で夏の夜の「男女の姿」を描いたものだった。今回出品されているのは、そのうちの3点の習作だけであるが、わたし自身、今年3月に、ベルリンの新ナショナル・ギャラリーの特別展示「ムンクからニューマンまで」でかなりのものを観た。これもフリーズとして展示してあった。

第5章 オーラ:オスロ大学講堂の壁面
 有名なオスロ大学講堂の壁画はビデオで示されていた。《太陽(習作)》、《歴史》、《アルマ・マーテル(リトグラフ)》が出ていたので、その感じをつかむことができた。

第6章 フレイア・フリーズ:フレイア・チョコレート工場の装飾 
 当時は男女別の社員食堂で、女性用の部屋の装飾パネル12枚だけが完成しているが、ビデオによるとこの食堂はキャフェテリアとして現在も使われている。なんと贅沢な食堂である。今回はこの女性用食堂のパネルと完成されなかった男性用パネルの下絵が展示されていた。男性用のものは労働者を描いたもので、その後第7章の構想に利用されている。

第7章 労働者フリーズ:オスロ市庁舎のための壁画プロジェクト
 国立西洋美術館の《雪の中の労働者たち》、ムンク美術館の《疾駆する馬》、《雪かきをする男たち》などの油彩画が何枚も展示されていた。しかし本格的に工事が始まった頃にはムンクの視力が低下したため、この計画が実現することはなかった。

 このように今回の展覧会は、フリーズ装飾藝術家としてのムンクに焦点を当てており、そしてそれは成功していた。ムンクが自分の作品を飾って真ん中に置かれた椅子に座って得意そうにしている写真が出ていたが、昨年訪れたストックホルムのティールスカ・ギャレリーのムンク室も、フリーズとしてムンクの作品が飾られており、その真ん中のソファに自分自身座って、至福の時を過ごしたことを思い出した。

(2007.10a) ブログ